تسجيل الدخول押し黙ってしまったラヴェルに、ジェイドは視線を戻す。
苦い物を口に含んだような顔で、大事そうに日記を膝に抱えている。
ジェイドにとって日記を渡した事は、大きな賭けだった。
その日記を読んで彼がここに留まるか否かは、彼自身に決めて欲しかったのだ。
縛りつけ、囲い、留まらせる事は難しくない。
だが、彼自身が選ぶ事には、大きな意味がある。
「彼女に会いたいか?」
ジェイドがそう問うと、ラヴェルは弾かれた様に顔を上げてこちらを見た。
ラヴェルは一瞬戸惑い、迷いながらもコクリと小さく頷く。
「良いよ。だが、会わせるには条件がある」
ジェイドは目の前にいる憔悴したラヴェルを見て、そう答えた。
ふっと顔を上げたラヴェルの前に跪いて、ジェイドは見上げるようにして言葉を続ける。
「湯浴みして、朝食をとるんだ」
「え……?
一方その頃、セルジオは皇太子の私室にいた。「計画通りだな、ナハト」「そうですね。しかしこれからが本番です」 そう言うと、皇太子は「ふん」と鼻で笑う。「ベル嬢が男爵を裏切るとは思えません」「しかし、男爵を質に取れば、彼女も言う事を聞くだろう」「こちらの裏切りがバレたら、一巻の終わりですよ」「あんな南の辺境まで行ったんだ。必ず手に入れてみせるさ」 そう言った皇太子に無言のまま敬礼し、セルジオは部屋を出る。 ジェイド・デルメールは野放しに出来ない。 まだ何かを隠し持っているのではないか? そう思わせる程、用意周到な男でもある。 流れの情報屋のふりをして近づいたが、結局最後まで信頼される事もなかった。 皇太子の私室から軍の詰所へと向かう途中、大きな声が聞こえてセルジオは足を止める。「跪けッ! 動くなッ!」 声の方へと歩いて行くと、下級の兵士がお仕着せを着た小さな侍女を捕まえて声を荒げている。「お前は何処から入った⁉ 何者だッ! 言わんかッ!」 兵士は持っていた警棒で、彼女の大腿部を強く叩いた。 セルジオは見兼ねて声をかける。「おい」「……これは、ナハト大尉! お戻りになっていたのですね」「お前は何をしている?」 兵士は男爵家の侍女リゼルの片腕を、引っ張り上げたままだ。「この怪しい者が場内をうろついておりまして」「いや、俺今、お前に何しているか聞いたよな?」 セルジオは軽い調子の言葉とは裏腹に、しっかりと兵士を見て問い返した。「ふ……不審者に尋問しておりました」「放してやれ」「ですがっ……」「殿下の客人の侍女
翌朝、目が覚めると隣にはもうジェイドはいなかった。 裸のまま半身を起こすと、体中に彼が付けた所有の証が朝陽で良く見える。「……着替えないと」 リゼルを呼びつけ着替えを用意して貰ったが、明らかな事後にリゼルに手伝って貰うのも気が引けた。「自分で出来るわ」「ダメです」 間髪入れず断ったリゼルは無表情のままコルセットを持って待機している。 おずおずと恥ずかし気に寝台を出たラヴェルは、大人しくリゼルの前に立った。 ジェイドはバロー領へと早朝に出発したらしい。 起こしてくれたらよかったのに、と思いながらも、黙って出て行く所がジェイドらしいとも思える。「本日のドレスは旦那様がお選びになりました」 リゼルがそう言って出して来たのは、美しい碧いドレスだ。 まるで人魚の鱗の様にシルクの生地が幾重にも重なって揺れ動く。 首元まで隠れるクラシカルなデザインで、昨夜咲いた花達はしっかり隠せる。 自分の瞳の色を纏わせて、他の男の婚約者を演じさせる所も、彼らしい。 一年前なら困惑していたかもしれない。 でも、今なら分かる。 ジェイドの熱を全身全霊で受けた今、何も疑う余地はない。 昨晩の余韻がドレスの内側に仕舞われる頃――。 部屋の扉がノックされ、リゼルが扉へと向かう。「おはよう、侍女殿」 声の主はセルジオらしい。「レディをお迎えに上がりました。殿下が馬車でお待ちです」「お待たせしてしまっているのね。リゼル、行きましょう」 身を翻し部屋を出たラヴェルたちを待っていたのは、豪奢で大きな馬車だった。 乗り込むと皇太子はもう暇そうに頬杖をついて、車窓の外を眺めている。「おはようござ
そこから先はもう、ただお互いに空いた隙間を埋める。 唇から、掌から、互いの熱を奪い合う。 ジェイドは乱雑にラヴェルのドレスを剥ぎ取り、背中で編み上げられたコルセットを器用に解く。 伸びたラヴェルの髪が絡まないように、ゆっくりと指を滑らせ、撫でた。 その間にラヴェルはお前も脱げ、と言わんばかりに性急にこちらの服を脱がせる。「ジェイド……」 ラヴェルは露になった胸板に甘えた猫のようにすり寄って来る。 きっとこの皇太子の件で自分を売られたと誤解した事だろう。 でもそれでいい。 その不安があったからこその、今なのだから。「ラヴィ……腰が細くなったな」「毎日締めてたらそうなるわ」「でも綺麗だ」 夕日に染まったような美しい髪も、飴色の瞳も、昔から変わらない。 自分が十三で領地を背負い、ローゼン家という大きな後ろ盾を失った暗い時代に、たった一つ瞬いていた星。 社会からの信頼、他者を傷つけない良心、善悪の境界。 ジェイドが色んなものを失う中で、暗い航路を導いていたのがラヴェルだ。「お前だけは絶対に誰にも渡さない」 着衣を全て剥ぎ取ったラヴェルの肢体は、暮れる夕日を浴びて色付く果実のようだった。 首につけた夜境石のネックレスだけが残り、まるで所有の首輪のように見える。 ジェイドも裸体となって白い寝台に彼を押し倒し、彼の膝の間に割って入った。 期待に勃ち上がり始めた彼の欲棒を、優しく指で撫ぜる。 下から恍惚と見上げたラヴェルは、薄らと微笑み返して来た。「あまり見ないで」 そう言ってラヴェルは少し顔を背ける。「何故?」
リゼルが扉を開けた向こうに姿を見せたのはジェイドだった。 言葉もなく部屋に入ったジェイドは、ただこちらを見て様子を窺っている。 ラヴェルは悔しさも相まってジェイドを睨んだ。「怒っているな、ベル」「当たり前でしょ! こんな、急にっ……」 言いたい事はたくさんあるのに、目の前に立たれると言葉が詰まる。 一瞬、皇太子に売られたかと思ったのだ。 あの瞬間の気持ちを思い出して、コルセットで絞められた胸は余計に軋むようだった。「聞いてくれ、ベル」「やめてッ! 触らないでッ!!」 伸びて来たジェイドの手を振り払うと、ジェイドは両手を上げて“降参”の意を示した。「分かった。触れないから、聞いてくれ」 聞かなくても分かっている。 ジェイドが何をしようとしているのか。 だからこそ、あの場で承諾し、明後日には王都へ向かうのだ。 でも、それでも、自分のあずかり知らぬ所で“偽装結婚”を反故にされていた悔しさがラヴェルをかき乱す。「私は、お前を日陰者にはしたくない」 そうポツリと零したジェイドは、窓の外を見遣る。 名残惜しそうに海に沈む夕陽を見て、何かを懐かしむ様に瞼を伏せた。「祖母の様に、匿って過ごさせるのは嫌なんだ」 行方不明のローゼン家公爵家の嫡男がいる限り、現王は諦めたりしないだろうとジェイドは言った。 だからこそ、力を奪い、悪行の根を絶つ必要がある。「わ、分かっているわ! ジェイドがラヴェルをこの世界から消し、ベル・デルメールと言う女にした理由も、貴方が何をしようとしているのかくらいは分かっている! でもっ……」 偽装で良いから結婚して欲しいと言った時、受けると言ってくれたのに――! その言葉が、ラヴェルの喉に
呆れたように息を吐いたセルジオが「まずはご挨拶を」と傍に寄る。 腰かけたこちらに視線を合わせるように彼は跪く。「セルジョアナ・ナハト上級大尉、皇太子殿下の御命令にてデルメール領で情報収集をしておりました」「上級大尉……」 上級大尉とは国軍の中でも数える程しかいない、王家と政治に関与できる地位の持ち主。 この男が? と単純にラヴェルは驚いた。「見えませんか? えぇ、まぁそうでしょうけども」「それでナハト上級大尉、どう言う事ですの? ジェイドからお話が出たと言うのは……」 事の次第を大人しく聞いていたラヴェルは、より一層腹の虫が収まらない。 勝手に決めて、勝手に人を道具のように扱う。「順を追って説明しましょう。まず、私達の目的は大きく言えば“現王の廃位”です」「廃位……」「まぁ、王を挿げ替えれば多くの事が片付けやすくなる。デルメール男爵はそれを手伝う代わりに対価として、デルメール領の自治権と“貴女”を求めていらっしゃいます」「それがどう殿下との婚約に繋がるのでしょう?」「これからデルメール男爵が動くに当たり、我々が保護するのが一つ。そして、貴女を王城に招く事で、我々も監視される事になる」 皇太子の傍に女を置くには婚約者という形が一番自然だ。 セルジオがおどけた様に後頭部に手を当て、眉尻を下げた。「つまり、現王を廃位に追い込み、皇太子殿下が即位なさる」「レディ・ベル、私とデルメール男爵の目的は一致している。王の権威の下、バロー領で行われている非人道的な行為はこの国に必要ない」 それを聞いてラヴェルはハッと気づいた。 ジェイドはこの若き皇太子を使って、現王を排除しようとしている――⁉ 彼が即位すれば、ジェイドの祖母やリゼル達のような不遇な境遇の者達がこれ以上増える事はない。「我々
到着したのは一度来た事のあるアズユリカの街。 眩しい程に晴れた今日は、白い壁と風に揺れる花達が煌めいている。 この美しい景色の中にあっても、自分の状況を思うと呼吸さえ浅くなりそうだった。「こちらです、ベル嬢」 先導するセルジオの背中を追って、大きな迎賓館へと入って行く。 こんな所にいる人物―― やんごとなき人だと言っていたセルジオの言葉を思い出して、ごくりと息を飲んだ。 ベル・デルメールには上級貴族という鎧もなければ、後ろ盾という大きな武器もない。 ただしっかりと足元を踏みしめるようにしてラヴェルはとある部屋の前まで来た。 セルジオはリゼルに対し「君はここで」と制す。「……かしこまりました」 セルジオがノックし、中から一人の軍人が出て来た。 フォルツ少佐だ。「お待ちしておりました」「主は?」 セルジオに敬意を払うフォルツを見て、セルジオがもうただの放蕩息子ではない事が分かる。「奥でお待ちです」「さぁ、ベル嬢。中へどうぞ」 促されて入ったその部屋は、内装も白く調度品も一級品ばかりだ。 壁一面が大きな窓になっており、煌めく海の光が反射して眩しく、ラヴェルは瞼を伏せた。 アーチ形に抜かれた壁の向こうにある奥の部屋に、彼らの主はいるらしい。「よく来てくれた、レディ・ベル」 そう声をかけられて、姿を認めた瞬間。 ラヴェルは驚き、言葉を詰まらせる。 ファルマ・ヴェルモナ――現王のたった一人の息子であり、唯一の王位継承権を持つ男だ。「……お会い出来て、光栄です。殿下」
「生まれ変わる?」 起き上がれる様になり、初めて食堂で一緒に晩餐をとった夜。 ラヴェルはジェイドにそう聞き返した。「えぇ、そうです」「ど、どう言う意味だ……?」「ラヴェル・ローゼンとしての全てを捨てて、別人としての人生を歩むのですよ」「別……人……。しかしっ……」「では、他に方法が?」 そう言われてラヴェルは唇を噛む。 ローゼン家の嫡男として追われている自分が、怪しまれずに外へ出るには、それしかない
ジェイドは出先から帰って来てリゼルとラヴェルの会話を扉越しに聞く。 巷では公爵家の嫡男が王家の秘密を持って逃走した――と派手に吹聴されていた。 「さて、どうするか……」 ジェイドが幼い頃はまだデルメール家が貿易の拠点として栄えていた。 王家御用達の宝石商として栄華を誇るローゼン家と、輸出入を担うデルメール家は懇意にしており、二つ年下のラヴェルとは幼馴染として過ごした時間もある。 だがデルメール家は十年ほど前にとある事情で、衰退の一途を辿る事になった。 静かに、沈殿するよう
ジェイドは白シャツにサスペンダーと言う軽装で、貴族の外出着とは言えない装いだった。「お加減はいかがですか? ラヴィ様」「あ、あぁ……大分良い」「貸して下さい。私が拭きましょう」「いや……それは……」 下位の貴族とは言え“旦那様”と呼ばれているという事は、デルメール家を継いでいるという事だ。 ヴェルモナ王国の南の辺境であるデルメール領。 小さな領地ではあるが、その昔は港を有した貿易の拠点として栄華を誇った土地でもある。 今は国境を
「ぐえっ――! げほっ、げほっ――!!!」 ラヴェルは必死に目を開け、直後に海水を激しく吐き出した。 肺が引き裂かれたように痛む。 呼吸の一つ一つが拷問だった。 「ゔっ……」 「ラヴィ様っ! お







