تسجيل الدخول「なっ……」
誰だ、何だ、何の用だ、と言葉にしたいが口が動かない。
「ウォォォ――――ッン」
空に向かってそう吠えた男の声に、ラヴェルは驚きビクッと身を固くする。
ラヴェルはその異様に体躯の大きな男を前に、身動ぎ一つ出来なくなっていた。
ただ怖い物から視線を逸らせない。
その意志だけが、ラヴェルに残っていた。
「み、つけた……」
男の大きな手がこちらへと伸びて来て、ラヴェルは座り込んだ木の根を這いずるようにして逃げる。
だが、疲弊し力尽きているラヴェルは、軽々と担がれてしまう。
「やっ……! ヤメロッ! 離せッ!」
ラヴェルは残った力を振り絞って、ジタバタと暴れて男から逃れようと藻掻く。
だが、その大きな腕はビクリとも動かず、聞く耳も持たないと言った風だ。
到着したのは一度来た事のあるアズユリカの街。 眩しい程に晴れた今日は、白い壁と風に揺れる花達が煌めいている。 この美しい景色の中にあっても、自分の状況を思うと呼吸さえ浅くなりそうだった。「こちらです、ベル嬢」 先導するセルジオの背中を追って、大きな迎賓館へと入って行く。 こんな所にいる人物―― やんごとなき人だと言っていたセルジオの言葉を思い出して、ごくりと息を飲んだ。 ベル・デルメールには上級貴族という鎧もなければ、後ろ盾という大きな武器もない。 ただしっかりと足元を踏みしめるようにしてラヴェルはとある部屋の前まで来た。 セルジオはリゼルに対し「君はここで」と制す。「……かしこまりました」 セルジオがノックし、中から一人の軍人が出て来た。 フォルツ少佐だ。「お待ちしておりました」「主は?」 セルジオに敬意を払うフォルツを見て、セルジオがもうただの放蕩息子ではない事が分かる。「奥でお待ちです」「さぁ、ベル嬢。中へどうぞ」 促されて入ったその部屋は、内装も白く調度品も一級品ばかりだ。 壁一面が大きな窓になっており、煌めく海の光が反射して眩しく、ラヴェルは瞼を伏せた。 アーチ形に抜かれた壁の向こうにある奥の部屋に、彼らの主はいるらしい。「よく来てくれた、レディ・ベル」 そう声をかけられて、姿を認めた瞬間。 ラヴェルは驚き、言葉を詰まらせる。 ファルマ・ヴェルモナ――現王のたった一人の息子であり、唯一の王位継承権を持つ男だ。「……お会い出来て、光栄です。殿下」
翌朝、支度の際にリゼルが用意したのはジェイドがくれたあのネックレスだった。 夜境石の黒いネックレスは、アズユリカに出かけた時以来付けていない。「本日はこれをお召しになって下さい」「どうして?」「旦那様が……ベル様を守って下さると仰っていました」 あぁ、確かに。 そんな事を言っていたような気がする。 ラヴェルは大人しくリゼルが付けてくれるのを待った。 初めて着る碧いドレスを身に纏い、伸びた髪も今日は全て上げて貰う。 鏡越しにリゼルのモノ言いたそうな顔を見て、ラヴェルは「何?」と問いかけた。「……あの、セルジオと言う男をバロー領で見た事があります」 そう切り出したリゼルは、これから行く所が何処かは見当もつかない、と言いたげだった。「そう……」 もし、セルジオが王家側の人間なら、会わせたい人間と言うのがヴェルモナ王だとしてもおかしくない。 そう一瞬過って、ラヴェルは詰まる喉に無理やり言葉を押し込める。 行くと決めたのは自分で、ジェイドを救えるかも知れないとあの男は言った。 突然敵地のど真ん中、と言うこともあり得る。 支度が済んだ頃、リゼルは徐にポケットから小さな小瓶を取り出した。「何……?」「濃縮した“海賊の薔薇”です。蓋を抜いて中身をかければどんな体躯の者でも数秒で失神します」「……持っていろと言っているの?」「何があるか分かりません。もし、私の目の届かない所で何かあった場合、躊躇わずにお使いください」 差し出されたそれをラヴェルは受け取り、もう一度リゼルへと視線を戻した。「私はベル様を命に代えてもお守りする覚悟です。ですが、侍女の私ではついていけない場所があります」「分かったわ。ありがとう」「今回、セルジオを呼び込んだのは私で
「殿下」「何だ? 何か他に要求があるなら……」「いいえ、そんなものはありません。ベルを渡す気もありません」 一瞬、皇太子が言葉を選ぶような間があった。「……ほぅ。それはどう言う意味だ? 男爵」 にこやかに話していた皇太子の声が、低く床を這う。「私が密輸や日記の事で動揺するとお思いでしたか?」「実際、その件で責められて立場が悪くなるのは明白。領地没収どころか、君は極刑に値する」「ならば、王政が何をしているか。国民が知ったらどうなるとお思いですか?」「なんっ……だと?」「人を人とも思わぬ所業。バロー領で何が行われているのか、知る者は未だ少ない」「だからこそ、父上の政策を止めようとしている。その上で、ラヴェル・ローゼンが野放しである事は危険だと言っているッ!!」「王家は民によって成り立っている。なら、その民が暴動を起こし、内乱となり、貴方の座る椅子が壊れれば……」 そこで言葉を切ったジェイドは、皇太子を射るように睨んだ。「デルメール男爵! 殿下に何と言う事をッ!」 隣で大人しく立っていたフォルツ少佐がそう声を上げる。「いい、フォルツ」「しかし、殿下ッ!」「立場がお分かりになった様ですね」 ジェイドはただ暗い瞳を皇太子に向ける。「そこまでして、貴殿は何がしたい? 王家に恨みがあるのか?」「ははっ、そんなものありはしません」「なら、何故……」「全ては一つの宝石を手に入れる為の代償に過ぎない」 ジェイドがそう言い放つと、皇太子は困惑した子供のような顔をして見せた。「その上で殿下、こちらからご提案があります」◇◇◇
連行される馬車の中でジェイドは人知れずニヤリと口角を上げた。 ここまでは計算通り。 ラヴェルに“偽装結婚”と言う形ではあるが、婚約まで持ち掛けさせることが出来た。 事件がこちらの自作自演だと知って、日記の中身を知って、ラヴェルがどう判断するのか。 ただ見守るだけの時間は果てしなく長かった。 だが、ジェイドは彼が自分を選ぶように、じっくり、ゆっくり、逃げ道を塞いで来たのだ。 そして今日、調査隊が来たのも掌の上――。「降りて下さい、デルメール男爵」 屋敷に来ていたフォルツ少佐がそう言って馬車の扉を開ける。 彼が来たと言うことは、調査隊を率いているのはあの男だ。 こちらが用意した宿の中でも、一等客室を使っているのが彼らの主人である。「お連れしました」 海の見えるアズユリカの丘の上。 昔、貿易が盛んだった頃、異国からのゲストを泊める為に作られた迎賓館があった。 その最上階にある、上位貴族がバカンスで好んで泊まる宿屋。「ご苦労」 若く有能と聞こえの良い皇太子――ファルマ・ヴェルモナ 窓際に立ち振り返ったファルマは、まだあどけなくも見える。 確かラヴェルより少し若い。 ジェイドはその若き皇子に、粛々と首を垂れた。「久しぶりだね、デルメール男爵」「ご無沙汰しております、ファルマ皇太子」「昔、君のお父上がまだ王都で仕事をしていた頃に、一度会ったね」「忘れずにいて下さり、恐縮です」 ジェイドがそう告げると「一度会った者は忘れない」とにこやかに笑う。 拘束もせず、こんな賓客の前に連れて来ると言うことは、何らかの意図があるのだろう。「楽にして。そこに座って」 応接セットの向かい側を促され、ジェイドは
玄関先へ出たリゼルが戻り「情報屋が来ています」と短く告げる。 あの男がこのタイミングで来る。 それが、少しラヴェルを警戒させた。 迷い、躊躇って、ラヴェルは「分かったわ」と食堂を出る。「ベル嬢、お久しぶりです」 セルジオの相変わらず飄々としたその姿は、何も読み取らせてはくれない。「何の御用かしら?」「いえね、もう一度ベル嬢にお会いしたくて。そちらの侍女殿に頼んであったのです」「……リゼルに?」 ラヴェルは、一瞬リゼルを見遣る。 こちらも相変わらず表情は変わらないが、視線は合わなかった。 ジェイドは今、連行されていない。 このタイミングなのは偶然なのか――? そんな疑問がラヴェルの中で沸き上がる。「ベル嬢、少し散歩でもいかがです?」「今、行って来たところなの」「おや、そうでしたか。なら、お庭でまた……」「私、今、忙しくてお帰り……」「男爵は戻りませんよ?」 食い気味にそう言われて、ラヴェルはジッとセルジオを睨んだ。 やはり、この男も何か知っているのだ。 知りたいような、帰って欲しいような。 そんな焦燥がラヴェルの脳内を巡る。 玄関の扉に手をかけているセルジオのせいで、突き飛ばしでもしなければ扉を閉める事も出来ない。「貴方はジェイドが連行される事を知っていたのね」「あぁ、男爵には“港で酔っぱらった海賊が暴れてますよ”と伝えたのに、何の対策もしないんだもの。調査隊が来るって言うのも、教えたのに」 ラヴェルはそれを聞いて、ジェイドが何故“海賊の薔薇”を規制しなかったのか? とまた不安になる。 彼らが自分をここに攫ったと知った時、ジェイドは何の言い訳もしなかった。 逃げて迷惑をかけた時、日記を手渡された
取り残されたラヴェルは国軍の馬車が見えなくなるまで玄関先に佇んだ。 何も出来ない自分が玄関先で呆然と立っている。 これからどうすれば――?「ベル様、中へ入りましょう」「……そう、ね」 前を歩くリゼルはいつも通り動揺していないように見える。「リゼル、今回の密輸の件、貴女は何の事か分かっているの?」 ラヴェルは足を止めてリゼルの背中に問いかけた。 ゆっくりとこちらを振り返ったリゼルは言葉を選ぶような間を見せた。「何か知っているなら話して。このまま待っているわけには行かないわ」「承知しました。知っている事をお話します」 食堂へと連れていかれ、そこにはネロとレヴィンも姿を見せる。 長いテーブルの先でネロに椅子を引かれ、ラヴェルは静かにそこに腰を下ろした。「ベル様、少し前に情報屋が来た時、港で問題が起こっていると言っていたのを覚えていらっしゃいますか?」 リゼルにそう問われて、セルジオと庭で話していた時のことを思い出した。 確かに彼はそれをジェイドに伝えに来た、と言っていた。「それが密輸だったと言う事?」「厳密にいえば密輸ではないのですが……」「どう言う意味? 分かるように話して」 リゼルの回りくどい説明にラヴェルは少し語気を強めた。「今、港では“海賊の薔薇”と言う薬が出回っています。ある花を、強い酒に漬けて出来る中毒性のある代物です」「海賊の薔薇……?」「その酒は見た目も美しく、不安をやわらげ、飲めば気持ち良く眠れる。濃度さえ間違えなければ……」「濃度……?」「ベル様はその匂いを知っているはずです」 リゼルにそう言われて、一瞬、言葉を飲んだ。 酒のような芳香――あの連れ
「生まれ変わる?」 起き上がれる様になり、初めて食堂で一緒に晩餐をとった夜。 ラヴェルはジェイドにそう聞き返した。「えぇ、そうです」「ど、どう言う意味だ……?」「ラヴェル・ローゼンとしての全てを捨てて、別人としての人生を歩むのですよ」「別……人……。しかしっ……」「では、他に方法が?」 そう言われてラヴェルは唇を噛む。 ローゼン家の嫡男として追われている自分が、怪しまれずに外へ出るには、それしかない
ジェイドは出先から帰って来てリゼルとラヴェルの会話を扉越しに聞く。 巷では公爵家の嫡男が王家の秘密を持って逃走した――と派手に吹聴されていた。 「さて、どうするか……」 ジェイドが幼い頃はまだデルメール家が貿易の拠点として栄えていた。 王家御用達の宝石商として栄華を誇るローゼン家と、輸出入を担うデルメール家は懇意にしており、二つ年下のラヴェルとは幼馴染として過ごした時間もある。 だがデルメール家は十年ほど前にとある事情で、衰退の一途を辿る事になった。 静かに、沈殿するよう
ジェイドは白シャツにサスペンダーと言う軽装で、貴族の外出着とは言えない装いだった。「お加減はいかがですか? ラヴィ様」「あ、あぁ……大分良い」「貸して下さい。私が拭きましょう」「いや……それは……」 下位の貴族とは言え“旦那様”と呼ばれているという事は、デルメール家を継いでいるという事だ。 ヴェルモナ王国の南の辺境であるデルメール領。 小さな領地ではあるが、その昔は港を有した貿易の拠点として栄華を誇った土地でもある。 今は国境を
「ぐえっ――! げほっ、げほっ――!!!」 ラヴェルは必死に目を開け、直後に海水を激しく吐き出した。 肺が引き裂かれたように痛む。 呼吸の一つ一つが拷問だった。 「ゔっ……」 「ラヴィ様っ! お







