LOGINギシリ、と金属が鳴った。
私が格子に手をかけた瞬間、思わず音を立ててしまったのだ。〝眠り男〟は廊下の中央でピタリと動きを止める。そして、くるりとこちらを向き、じっと私を見下ろしてきた。——いや、見てはいない。
〝眠り男〟の目は、きつく閉じられている。しかしなぜか、心の奥まで見透かされているような気分になった。「夢は
淡々とした〝眠り男〟の声が、静まり返った廊下に響く。
他の房の患者たちが起き出す気配はなかった。
熟睡しているのか、それとも彼らにとっては、これも見慣れた夜の風景なのか。暗闇の中に静かに立つ〝眠り男〟は、〝笑い犬〟が言っていたような木訥な印象とはかけ離れ、まるで予言者のような、浮世離れした雰囲気をまとっていた。
「
※「〝人形〟さん」軽やかな声が響く。「お兄様が言付けをしてきたの。この薬を飲んで、あなたが仮死状態になっている間に、逃げ道を確保するって」ベッドに座った私の前で、樒が錠剤の瓶を差し出した。その眉はきつく顰められ、いかにも私たちを案じているようだった。瓶を握る手も、小刻みに震えている。しかし、私は気づいていた。彼女の言葉は矛盾だらけだ。穴だらけで風が通り抜けるような内容を、古典文学めいた大仰な枕詞で包み込んでいるだけに過ぎない。(しかし……)私は自分の手のひらにのった錠剤の瓶を見やった。元々は自室だった一号室。今の私は、そこに軟禁されている。脱出計画が〝先生〟にばれ、〝王様〟とは隔離された。私が〝王様〟を電気治療にかけなければ、ここからは出られない。そして〝王様〟も、私から電気治療を受けない限り、『外』には出られない。残された道は──もう、一つしかなかった。(でも、これなら……)白い錠剤。瓶に印字された英字。この薬が開発された際の治験報告が、頭に甦る。──過剰摂取による、精神の乖離。もし私が〝王様〟への想い──恋心というのだろうか?──を失ってしまえば、〝先生〟はもう彼に執着しなくなるかもしれない。そして、〝王様〟も私を気にかけることなく、一人でここを出ていけるかもしれない。(いや、もしかして──)そこで、考えるのをやめた。すでに離人症を患っている私が、この薬を飲んでどうなるかはわからない。可能性は未知数だ。それでも、今はこれに賭けるしかなかった。道は、すでに閉ざされているのだから。どうせ歩むのなら、この白い檻よりも、黒く先の見えない道を選びたい。ふっと、うな垂れた白バラの姿が、一滴の雫のように脳裏へ落ちた。(あの花は、どうなっ
てっきり脱出に使える情報──〝先生〟の目の届かない逃げ道でも見つけたのだと思っていた。私たちは今、脱出経路を確保するため、それぞれが空いた時間を見つけては院内を探り歩いている。 もちろん、〝先生〟に気付かれぬよう、そっと。──二人で一緒に、『外』に行くこと。その思いだけが、私たちを突き動かしていた。〝王様〟の治療──という名の実験を通して、私は『外』の世界に興味を抱くようになった。街、電車、行き交う人々、学校、広がる畑、大きな空。 〝王様〟の口から語られる光景は、なぜかすべてが輝いて見えた。今までどんな本を読んでも、そんな気持ちにはならなかったのに。 彼の言葉を通して見る『外』の世界は──光に満ちていた。だからこそ、私は『外』へ行きたかった。 『外』は、本当にそれほどまでに輝かしいものなのか。それとも、私にとって輝かしいのは──別のものなのか。「〝王様〟。こんな無駄なことを報告する暇があったら──」私の不満を嗅ぎ取ったのか、〝王様〟が「そう、怒るな」となだめてくる。「……怒ってない。そんな感情は、私にはない」きっぱりと言うと、〝王様〟はふっとバラへ顔を向けた。「いずれ——お前にも、わかるよ。きっと……」遠い目をしながら、〝王様〟は白い花弁を見やる。「こんなところでも、綺麗なものは咲くんだな……」──綺麗なもの?私は、〝王様〟の指に挟まれた花弁を見つめた。 その指の間で、喉を鳴らす猫のように揺れるバラの花弁。なぜか、胸の奥にちりっとした苛立ちが走った。「どうせ、そのうち枯れる。こんな日の当たらない場所では」花を横目に見やり、私は平坦な声で言った。「そんなにそれが好きなら、持っていけばいい。枯れる前に鑑賞してやるのが、花の用途だろう?」〝王様〟は反論もせず、静かに頷いた。「でも、今はこうして生きている。こんな中でも。……このまま咲かせてやろう」
——舞台は、私が目覚める数ヶ月前——春先の庭園。 まだ肌寒さの残る風が、わずかに膨らんだバラの蕾をやわらかく揺らしている。「こっちだ」庭園の一角。 有刺鉄線を覆い隠す梢のそばで、〝王様〟が手を差し伸べてきた。 私は、ためらいなくその手を取った。〝王様〟の口元が、ゆるやかに弧を描く。 これは、人が嬉しいときに浮かべる「笑顔」というものらしい。——そんなことを実感したのは、彼と会ってから初めてだった。この閉鎖病棟の患者は、日中なら病棟内を自由に出歩ける。 〝王様〟も最近は『実験』に協力的で、問題行動もないため、他の患者と同じ扱いを受けていた。〝先生〟の目を盗んで、こうして庭園を連れ立って歩くこともできる。「お前に、見せたいものがあるんだ」案内されたのは、病棟の裏手にある古びた温室の前だった。 鍵は壊れていて、誰も管理していない。「ここは……」私はつぶやいた。温室の存在自体は知っていたが、特に興味も用事もなかったため、これまで入ったことはなかった。「逃げ道を探しているときに、偶然見つけたんだ。昔は誰かが手入れをしていたのかもしれない」〝王様〟は私の手を引き、補強用のベニア板のすき間から身を滑り込ませた。砂の積もった床。割れたガラス壁。 朽ち果て、無造作に転がった鉢植えの植物たち──「これだ」〝王様〟は奥の一角にある花鉢を指さした。 そこにあったのは、一株の白いバラだった。茎は乾燥しきって茶色く退色し、葉もすべて落ちている。 しかし、その中で一枝だけが——花を咲かせていた。「変だろ? まだバラの季節でもないのに」〝王様〟は鉢の前に屈み込み、柔らかに咲いた花弁に指先で触れた。「狂い咲き、って言うんだっけか? こういうのを」 「……いや」私は首を振る。「それはオールドローズ——古来種の系統だから、この時期に咲いて
「ただいま」相手の肩にそっと触れると、〝王様〟は数秒してから、ゆっくりと顔を上げた。 長い睫毛の奥で瞬いた目が私を見つめ、こくんと頷く。彼の症状は、少しずつ──だが確実に、良くなってきている。病院を抜け出してから、はじめは、言葉どころかこちらを見ることさえなかった。それが今では、わずかに視線を交わし、時おりではあるが、自分の意思を伝えようとする素振りも見せる。ふと、私は〝王様〟の膝に置かれたバラに目を留めた。 花びらがまだ開き切っていない、五分咲き。「それ、どこから取ってきたんだ?」私が尋ねると、彼は庭の一角を指さした。そこには、小さなバラの茂みがある。 私が休日に世話をしている、ワイルドローズなどの素朴で強い品種だ。一ヶ月前はこぼれるほどの花を咲かせていた。 けれどもう花の時期は過ぎ、茎は剪定してある。「……落ちて、いた」思わず、〝王様〟の方に目を向ける。 彼の口から自然な言葉が出たのは、久しぶりだった。普段は何も喋らず、こうして一日中、海を眺めているだけ。 反応を見せたとしても、私の言葉に頷くか、首を振る程度だ。(どうやら、今日は調子がいいみたいだ)私は彼の隣に腰を下ろし、白いバラへと視線を向ける。 咲ききる前に落ち、花壇の角に紛れていたのだろう。外側の花びらは塩風にさらされ、かさついていた。 けれど中心は、まだ瑞々しい色を残している。──生きているのだ。茎を離れ、地に落ちても。「強いな……その花は」思わず漏れた私の独り言に、〝王様〟がそっと手を動かした。 枯れた外側の花びらを丁寧に剥ぎ取り、残った蕾を私の白衣のポケットに差し込む。「あれ……」一瞬、何かの光景が脳裏をかすめた。 だが、その感覚はすぐに波が引くように消えてしまった。私が横を向くと、〝王様〟はもう正面を向き、海を眺めていた。
あれから半年が経った。海辺の町にある小さな診療所。 その一室で、私は薄曇りの海を眺めていた。「雨が降りそうだねぇ」穏やかな声が聞こえて振り返ると、院長が資料室から出てきた。 白髪の頭をポリポリと掻きながら、ぼんやりとつぶやく。「本田さんのカルテが見つからないんだ。どこにやったっけ?」 「それなら、デスクの上に出してありますよ」診察台の横にあるデスクを指さすと、院長は声を上げた。「そうだった、そうだった。僕が用意しておいてって言ったんだった」院長はパタパタとつっかけの音を鳴らし、カルテを手に取った。 私は苦笑する。今、私はこの小さな医院のアシスタントとして働いている。 診療所の院長は気さくな老医師で、〝先生〟の名前を使った偽装の紹介文だけで、私を信用してくれた。週に数日、受付や記録の整理、時には簡単な診察補助も任されている。毎朝決まった時間に始まる静かな仕事。 人の少ない、小さな町。——穏やかな時間。私は最近ようやく、それを実感できるようになった。全てが、以前とは大違いだ。その時、手入れの行き届いた診療室の窓から、空を飛ぶカモメの声が届いた。 穏やかだが、絶え間ない波の音。(……彼も、今この音を聞いているだろうか)ふいにその姿が見たくなり、私は外履きのサンダルをつっかけた。「ちょっと、休憩に行ってきます」 「はいはい、そんなに急いで戻ってこなくてもいいからね」デスクに座った老院長が、窓の外を眺めながらぼやく。「天気予報によると、嵐になりそうだから。午後は誰も来ないでしょう」私は微笑んで頷き、正面玄関から外へ出た。医院の横には、雑草の生い茂った小道がある。 背の高い雑草に覆われ、一見すると道があるようには見えない。しかし、その先を進むと──私たちが暮らす借家がある。(……〝私たち〟)
「ふふ、ふはははっ……!」たまらず、笑いがこぼれた。まだ──まだ残っていた。 〝王様〟の中に、かつての欠片が。私は鉄格子を握る拳に額を押しつけ、静かに微笑んだ。(すべて、計画通りだ)あの夜、保護房の中で、私は夜明けまで考え続けた。 考えに考え抜いた。どうすれば〝王様〟と引き離されずに済むか。 〝人形〟のように終わらずに済むか。〝人形〟は感情に呑まれ、我を失い、信じるべきでないものを信じたすえ—— 〝王様〟の手を離してしまった。でも私は違う。 同じ想いを抱いていたとしても、私の頭は残酷なほどに冷静だった。いくら時間がかかってもかまわない。 確実に、逃げ切る方法を──そう考え続けた末に、思いついた。 このシナリオを。忠実なフリをして〝先生〟の信頼を得て、彼が油断したその隙に、すべてを奪う。相手は、あの〝先生〟だ。 人に希望を与え、絶望へ突き落とすことにおいて、彼に勝る者はいない。 だからこそ、徹底的に信じさせなければならなかった。あの時、〝先生〟の手を取り、〝王様〟に電気治療を施したのも──そのためだ。彼は、気づいているだろうか? 私がその機械に、ほんのわずかな細工を施していたことを。おかげで〝王様〟は、完全な廃人にはならなかった。 発作を起こすだけの感情の残滓も、留めることができた。今、彼に与えている薬も同じだ。 ごくわずかに配合を変えて、少しずつ、ほんの少しずつ、彼の心が戻ってくるよう仕向けている。細工をするのは、簡単だった。 なぜなら、あの装置もこの薬も、元々は私が開発したものなのだから。〝先生〟程度の知能では、変わっていることにすら気づかないだろう。(本当に、愚かな男だ)〝先生〟は信じ切っているのだ。 〝王様〟のそばにいられれば、それで私が満足すると。『最後まで冷酷になりきれない』 それが、彼自







