ANMELDEN*
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四階のエレベーター前のラウンジは深夜ということもあり、人の姿はなかった。
和彦は窓際のソファに身を預け、顔を強張らせたままずっと考え込んでいる。突然訪れた事態を、賢吾に相談したくて仕方なかったが、守光から、少なくとも明後日までは本部に滞在するだけでなく、長嶺組への口止めも言い渡されていた。 和彦が俊哉と会うことは、総和会の中でもごく限られた人間にしか知らされていないのだという。長嶺組は一切関わらせないとも、守光は断言した。 そのことに和彦は、不安である反面、安堵している。混乱ゆえに暴走して、賢吾に泣きついて長嶺組に迷惑をかける恐れもある中、守光の発言はある意味、和彦の行動の抑止力となる。今も、賢吾に電話をかけたい気持ちを、何度も押し殺して耐えていた。 いつかは訪れる現実から目を背けてきた報いとして、長嶺組に警察の手が及ぶ事態になるぐらいなら、守光にすべてを委ねたほうがいい。 これまでも、そうだったではないか――。 自虐的に心の中で呟いたとき、エレベーターの到着を告げる音がカツンと靴音を響かせて、俊哉が歩き始める。和彦は慌ててあとを追いかけ、近くのベンチに並んで腰掛けた。このときさりげなく周囲の様子を観察したが、離れた場所からこちらをうかがう人の姿が数人ほどいた気がする。「まずは、お前の気持ちを聞いておこう。――今一緒にいる連中のもとから離れる気はあるのか?」 いきなり核心を突く問いかけに、和彦は体を強張らせる。異常な口中の渇きを自覚しながら、懸命に言葉を紡ぐ。「今は、ない。向こうから、もう必要ないと言われて切り捨てられる日がくるだろうけど、少なくともそれまでは、このままでいさせてほしい……。佐伯の家に迷惑をかけているとわかっている。だから、姓を変えろというなら、ぼくは受け入れる」「殊勝なことを言っているが、ずいぶんお前にとって都合のいい申し出だな」 俊哉は語気を荒らげることもせず、表情もにこやかだ。「どう思っているか知らないが、お前は佐伯家にとって……、いや、わたしにとってかけがえのない存在だ。何も知らない他人は、わたしとお前との間に確執があると勘繰っているようだ。綾香や英俊ですら、父親であるわたしも、お前を疎んじていると思っている。だから簡単に、お前を和泉の家に養子に出せと言う」 この瞬間、初めて俊哉の顔からにこやかさが消える。代わって浮かんだのは、心底不快そうな表情だった。その表情はゾッとするほど冷ややかだ。 綾香というのは、英俊と和彦の母親の名だ。自身も仕事で多忙ながら、夫である俊哉を支え、人の出入りの多い佐伯家を取り仕切り、母親や妻という役割を完璧に務めてきた。ただ和彦は昔から、母親と会話というものを交わした記憶はほとんどない。いつでも、一方的に用件を告げてくるだけだった。 今顔を合わせても、その態度は変わらないだろう。 ちなみに和泉は、母親の旧姓だ。「誰がなんと言おうが、わたしはお前を手放す気はない。――お前は、わたしが唯一、自分の人生を犠牲にする覚悟で手に入れた〈もの〉だ。身内ですら、わたしにとってのお前の存在を安易に考えている。つまりそれほど、わたしは薄情な人間だと思われているということか?」
冷たい空気が頬に触れて、一気に鳥肌が立つ。肌寒さもあるが、それ以上に、これから起こることに対しての底知れない恐れが体の反応として表れたようだ。 和彦はゆっくりと息を吐き出しながら、慎重に辺りを見回す。駐車場のスペースの半分は、車で埋まっている。ホールを出入りする人たちの姿はちらほらあり、何かイベントが催されているようだ。てっきり自分も建物に入るのだと思ったが、物陰に立つスーツ姿の男と目が合うと、こちらに来るよう促され、和彦はふらふらとついていく。 ホールの側にレンガ敷きの歩道があり、キャラクターの描かれた看板が立っていた。どうやらまっすぐ進んだ先には広場があるらしい。歩いていけばわかるとだけ言って、男はすぐに来た道を引き返し、和彦は一人で進むことになる。 すぐ傍らを小川が流れている。歩道は街灯で明るく照らされ、散歩やジョギングをしている人の姿もあって、心細くはなかった。 ここを、父子の久々の対面場所に選んだのは誰なのだろうかと、歩きながらぼんやりと和彦は考える。人目につくことを何よりも避けそうなものだが、一方で、人目があるからこそ迂闊に手出しできないことを計算に入れた可能性もあった。 二人の権力の化け物の考えることはわからないと、そっと嘆息した和彦は、何げなく視線を先に向け、ドキリとする。小川に沿うように設けられた柵の前に人が佇んでいるのだが、その立ち姿に嫌というほど見覚えがあった。背の高さも体つきも、鏡で見る和彦自身によく似ている。 心臓の鼓動が急に速くなり、呼吸が荒くなる。じわりと手足の先から冷たくなってきた。できることなら引き返したいが、体は和彦の意に反して、まるで機械のように歩みを続ける。 佇む人物との距離があっという間になくなる。足を止めた和彦は、父さん、と心の中で呼びかけ、向けられた横顔をじっと見つめた。 佐伯俊哉という人物は、とっくに六十代という年齢に突入していながら、非常に若々しい外見を保っている。髪は染めているにせよ黒々としており、それが不自然に思えないほどに肌はキメが整い、皺もほとんどない。 怜悧狡猾な気質を巧みに覆い隠すように、常ににこやかな表情を浮かべる顔は、一言で表現するなら〈美男子〉が最適だろう。老いを、深みという言葉に変え
「……どうかな。いっそのこと、完全に関わりを絶ったほうが――」『それはダメだっ』 思いがけず里見の激しい反応に、和彦は目を丸くする。「里見さん……」『家族ともう二度と会わないつもりか? おれとも……』 そもそも里見とは、高校を卒業してから十三年ほど顔を合わせるどころか、連絡も取り合っていなかった。長嶺の男たちと知り合うことがなければ、そのままの状態が続いていたはずだ。里見は佐伯家の厄介な問題に巻き込まれることなく、和彦とのことも、単なる思い出になっていただろう。 だからこそ、里見の物言いが気になった。しかし指摘してはいけないように思え、和彦はあえて違うことを口にする。「――今、〈おれ〉って言った」 数秒ほど、戸惑ったように沈黙した里見が、ああ、と吐息のような声を洩らした。『仕事でもそれ以外でも、ずっと〈わたし〉で通しているから、馴染んだつもりだったけど……。君が相手だとダメだな』「ぼくにとっては、そっちのほうが里見さんらしい」『何があったのか話してくれたら、昔の言い方に戻すよ。和彦くんだけに』 口ぶりは冗談めかしているが、電話の向こうで里見は真剣な顔をしているのであろうと想像できた。「……ズルいな、その言い方」『前に会ったとき、おれは言ったよ。大人は、ズルいんだと。きっと、大人になった君でも想像できないぐらい』 自嘲気味に洩らした里見が、大きく息を吐き出したあと、囁きかけるような声で言った。『また、会いたいな。君に』 里見の声音に記憶を揺さぶられる。蘇ったのは、和彦が高校生の頃、体を重ねたあとに里見から惜しみなく与えられた、甘い睦言の数々だった。 そんな場合ではないと頭ではわかっていながらも、顔が熱くなって冷静ではいられなくなる。里見にはまだ聞きたいことがあり、なんとか言葉を紡ごうとした和彦の耳に、電話の向こうから微かな物音が届いた。続いて、里見が発した鋭い息遣いが。明らかに里見は動揺していた。『悪
**** 明日の今頃、自分は俊哉と会っているのだと、ベッドに腰掛けた和彦はぼんやりと考える。 久しぶりの父親との対面だというのに、湧き起こるのは困惑と恐れという感情だけだ。自分勝手な行動の果て、実家に迷惑をかけていることに対する申し訳なさは、自分でも不思議なほど感じなかった。 かつて、英俊と会うことになったとき、和彦はひたすら警戒し、委縮していた。自分の背後にあるものの存在を悟られてはいけないと、そのことだけに神経を費やしていたかもしれない。あのとき、同じ状況の相手が俊哉になったら、と考えないわけではなかったが、現実は和彦の想定を超えてしまった。 俊哉は、何もかも知っている。鷹津が把握している範囲のことを。 守光から、俊哉に会うよう告げられたあと、胸にじわじわと広がっていったのは、諦観だ。もし俊哉から、実家に戻るよう宣告された場合、和彦は抗う術がない。英俊にはかろうじて虚勢を張れたが、俊哉が相手では――。 和彦はブルッと身を震わせると、ベッドを下り、落ち着きなく室内を歩き回る。 ここは、総和会本部四階の宿泊室が並ぶ一角の、和彦のために準備されたワンルームだ。人の気配を気にせず過ごすには申し分ないスペースだが、窓の外の景色を見ることも叶わず、なんとなく自分が檻に閉じ込められた動物のような感覚に陥る。 総和会の都合で本部に留まるのは、よくあることだ。そのこと自体に誰も――、賢吾が不審に感じることはないだろう。まさか、和彦と総和会が父子対面の準備をしているとは、考えもしないはずだ。そうでないと困る。 賢吾を裏切っているという罪悪感に心が痛まないわけではないが、自分たちの事情に巻き込みたくなかった。 俊哉にぶつけるのは、総和会であり、長嶺守光でなければならない。 ひっそりと心の中で呟いたとき、ナイトテーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。反射的に駆け寄り、携帯電話の一台を取り上げる。里見との連絡用に持っているもので、今晩話せないか、事前にメールを入れておいたのだ。『――今、平気かな。和彦くん』 里見の穏やかな声で呼びかけられると、和彦の感覚は高校生までの自分に戻る。
鷹津は清廉潔白という言葉とは対極にある存在だ。ヤクザを取り締まる職業に就きながら、そのヤクザから金品を受け取り、見返りに便宜を図っていたと悪びれることなく話していた。南郷が今言ったことを、あの男ならやりかねないと、正直、和彦は思う。 しかし鷹津は、危険を冒してまで和彦と関係を持とうとした。あの行動力は、打算だけで生まれるものではない。最後に会ったとき、鷹津は言ったのだ。 惚れた相手を、性質の悪い連中のもとから連れて逃げたいと。自分一人では無理だから、俊哉と手を組むことにしたとも。 あの言葉を信じるなら、鷹津の行動には明確な目的があるはずだ。 そう、和彦は信じたかった。「うちが金を出さないとわかると、鷹津は本当に行動を起こすだろう。あんたがやめろと言ったところで、暴走が治まるとも思えない。だからオヤジさんは行動を起こした。あの男があることないことを吹き込む前に、あんたの父親に連絡したんだ」「それでぼくが、父に会うことになったんですね」「交渉は、あんたが父親と会うところからスタートする。あんたの後ろ盾は総和会となるが、結局のところ、長嶺と佐伯の家同士の話し合いだ。オヤジさんは、あんたを返すつもりはない。いざとなれば、どんな手を使ってでも養子にするつもりだ。――あんたの父親は、どう出るだろうな?」 そこまで言って南郷は立ち上がる。「オヤジさんから聞いただろうが、あんたは何日か、長嶺組の人間との接触は避けてくれ。事を大きくしたくない。あんたにしても、長嶺組長やその跡目に、心配はかけたくないだろう」「……わかっています」「けっこう。あんたが予想外の行動を取らないなら、こっちも余計な手間をかけなくて済む。急なことだから、あんたら父子につける監視と護衛の人員を、急いで手配しないといけないが、前回と違って、こちらの正体を一切隠さなくていいというのは、ずいぶん楽だ」 英俊と会ったときのことを言っているのだ。その後、自分がどこに連れて行かれ、何をされたのかを思い出した和彦は、きつい眼差しを南郷に向ける。すると、こちらの神経を逆撫でるようなことを言われた。「今回は、あんな〈お楽しみ〉はなしだ」
** 四階のエレベーター前のラウンジは深夜ということもあり、人の姿はなかった。 和彦は窓際のソファに身を預け、顔を強張らせたままずっと考え込んでいる。突然訪れた事態を、賢吾に相談したくて仕方なかったが、守光から、少なくとも明後日までは本部に滞在するだけでなく、長嶺組への口止めも言い渡されていた。 和彦が俊哉と会うことは、総和会の中でもごく限られた人間にしか知らされていないのだという。長嶺組は一切関わらせないとも、守光は断言した。 そのことに和彦は、不安である反面、安堵している。混乱ゆえに暴走して、賢吾に泣きついて長嶺組に迷惑をかける恐れもある中、守光の発言はある意味、和彦の行動の抑止力となる。今も、賢吾に電話をかけたい気持ちを、何度も押し殺して耐えていた。 いつかは訪れる現実から目を背けてきた報いとして、長嶺組に警察の手が及ぶ事態になるぐらいなら、守光にすべてを委ねたほうがいい。 これまでも、そうだったではないか――。 自虐的に心の中で呟いたとき、エレベーターの到着を告げる音が響いた。正面の窓ガラスに、エレベーターから降りた南郷の姿が反射して映る。 守光の住居スペースのほうに行きかけた南郷だが、和彦に気づくと、迷うことなく歩み寄ってくる。いつもなら露骨に避けるところだが、今の和彦はひどく体がだるく、何より、南郷に聞きたいことがあった。「何もかもに絶望したような顔をしてるな、先生」 隣に腰掛けた南郷は、こんな状況でも揶揄するような言葉をかけてくる。本当に嫌な男だと思った和彦だが、窓ガラスに映る自分の顔は確かにひどい。「南郷さんは、知っているんですよね。会長が、ぼくの父と――……」「オヤジさんを恨むのは、筋違いだ。全部、鷹津のせいだ」 心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、和彦はビクリと体を震わせていた。過剰な反応を南郷に気づかれたのではないかと警戒し、横目で反応をうかがう。案の定、南郷はじっと和彦を見ていた。「その様子だと、まだ鷹津を想っているようだな、先生」「……何を、言って……」
** 別れ際、玄関で秦に抱き締められてから、和彦は部屋をあとにした。 エレベーターの中で、もう二度と秦と会わないということはおそらく不可能だろうなと、ぼんやりと考える。秘密を共有してしまったということもあるが、秦との間に確かな結びつきができたことを実感していたのだ。 賢吾や千尋、三田村との間で生まれた結びつき――縁と、同種だ。肉欲と切っても切れない縁で、それはすぐに、情へと変化する。さすがに和彦も、それぐらいは学習していた。 複雑になった事態と人間関係を、自分はどうするつもりなのか、考えたくなかった。体も心も、秦から与え
「――先生」 呼ばれて、おずおずと振り返ると、そこに真剣な賢吾の顔がある。何か言われたわけでもないのに、和彦は小さく喘いでから賢吾の唇にそっと自分の唇を重ねた。すると、賢吾のもう片方の手に、和彦の柔らかな膨らみは包み込まれる。 「ひっ、あぁっ」 泡で滑る手に柔らかく揉みしだかれ、たまらず和彦は、ビクッ、ビクッと腰を震わせ、背をしならせる。下肢が、甘く溶けてしまいそうだった。 「あとでたっぷり、ここを揉んで悦ばせてやる。最近、弄られるのがよくなってきたみたいだからな。今は、洗うだけだ」 賢吾の的確に動く指は貪欲に、和彦の官能を刺激する
さすがの賢吾も、和彦の心を煩わせるものすべてを見通すことは不可能らしい。「……最初にぼくを狙って、あんなことをした人間が、どんな顔をして、そんなことを言うんだ」「俺はいい。俺は、許されるんだ」 さすがに図々しい発言だと思って和彦が顔を上げると、待っていたようなタイミングで唇を軽く吸われた。「先生を狙って自分のものにして――見事に、骨抜きにされたんだ。そんな哀れなヤクザを、愛情深い先生なら、たっぷり甘やかしてくれるだろ?」 本当に図々しいと思いながらも、和彦はつい笑みをこぼしてしまう。 自
「不愉快どころか、やけに楽しそうでしたよ、秦さん。いい店を先生に紹介しないと、と張り切ってもいましたし」「ならいいんだ。あの人、職業柄なのか知らないけど、よく気をつかってくれるから。ぼくみたいな人間につき合って、迷惑をかけても悪いしな」 和彦が、長嶺父子のオンナであることは、すでに知られている事実だ。いまさら千尋と甘い会話とキスを交わしていたからといって、他人に喜んで報告するような悪趣味なまねを、秦がする必要もない。 和彦が心配していたのは、そんなことではなく、純粋に今言った通りのことだった。 大きく息を吐き出しながら、中島がマシンをゆっく







