Share

第14話 凍てつく心 - 4

last update Last Updated: 2025-08-15 20:52:25

 役人たちによる理不尽な略奪は、追放者たちの心に再び絶望の影を落とした。だが、その影は以前のものとは少し質が違っていた。かつてはただ無力感に打ちひしがれるだけだった彼らの心に、セレスティナという存在が灯した小さな灯火は、まだ完全には消えていなかったのだ。

「諦めたら、それこそ彼らの思う壺です」

 泥の中から薬草の欠片を拾いながら放たれた彼女の言葉は、人々の心に深く刻み込まれていた。それは、この灰色の町で初めて耳にした、希望を諦めないという意志の表明だった。

 翌日から、彼らのささやかな抵抗が始まった。

 それは、武器を取るような大仰なものではない。もっと静かで、知恵を使った、弱者のための戦術だった。

 セレスティナの提案で、彼らは薬草や乏しい食料の隠し場所を分散させた。崩れた壁の隙間、瓦礫の山の奥深く、誰も近寄らない廃屋の床下。子供たちが見張りに立ち、役人や私兵の姿が見えれば、鳥の鳴き真似で仲間たちに知らせる。集めた薬草はすぐに乾燥させ、小さく砕いて布袋に入れ、いつでも持ち運べるようにした。

 セレスティナは、その中心にいた。彼女はもはや、ただ看病をするだけの「聖女」ではなかった。その聡明な頭脳は、この極限状況を生き抜くための司令塔として機能し始めていた。どの場所に何を隠せば見つかりにくいか、誰に何を集めさせれば効率的か、病人の症状に応じて、どの薬草を優先的に確保すべきか。彼女は冷静に判断し、人々に的確な指示を与えた。

 人々は、自然と彼女に従った。彼女のすみれ色の瞳には、この絶望的な状況を何とかしようとする、真摯な光が宿っていたからだ。かつて「人形令嬢」と囁いた者たちも、今では全幅の信頼を寄せていた。彼女の言葉は、この町の唯一の法であり、希望だった。

 だが、その希望はあまりにも脆く、いつまた踏み潰されるか分からない、か細い光でしかなかった。彼らは常に、役人たちの気まぐれな暴力と、辺境伯という得体の知れない「狼」の影に怯えながら、息を潜めて生きていた。

 その夜、辺境の町は深い闇と静寂に包まれていた。

 冷たい風が、廃屋の隙間をひゅうと鳴らしながら吹き抜ける。人々はそれぞれの塒で、なけなしの布にくるまり、つかの間の休息を取っていた。セレスティナもまた、壁際に身を寄せ、寒さに耐えながら浅い眠りの中にいた。

 変化は、前触れもなく訪れた。

 町の静寂を破ったのは、人の叫び声ではなかった。音もなく、影が動いた。

 城の方角から現れた黒い集団が、まるで闇に溶け込むように、町の通りを疾走していく。その動きには一切の無駄がなく、足音さえほとんど立てない。彼らこそ、辺境伯ライナスが率いる精鋭、「鉄狼団」だった。

 彼らは瞬く間に、目標である中央の役人たちが宿舎として使っている、この町では比較的大きな建物と、私兵たちの詰所を完全に包囲した。その動きは、狩りの訓練を積んだ狼の群れそのものだった。

 中にいた役人や私兵たちは、何が起きたのかを理解する間もなかっただろう。

 扉が内側から乱暴に開けられる音、甲高い悲鳴、そして金属がぶつかり合う鈍い音。それらの騒ぎは、しかし、ごく短時間でぴたりと止んだ。まるで、最初から何もなかったかのように、町は再び深い静寂に包まれた。ただ、建物の窓から漏れる明かりだけが、中で凄惨な何かが行われたことを物語っていた。

 多くの住民は、そのかすかな物音に気づきさえしなかった。気づいた者も、いつもの私兵たちの狼藉か何かだろうと、布団を頭から被ってやり過ごすだけだった。

 セレスティナは、遠くで聞こえた微かな騒音に、一瞬だけ目を覚ました。だが、すぐにそれは風の音に掻き消され、彼女の意識は再び疲労の底へと沈んでいった。

 彼女はまだ知らない。この夜、この町で何が起こったのか。そして、その出来事が、自分の運命を根底から揺るがすことになるということを。

 辺境の夜は、静かに、そして暴力的に、一つの時代の終わりを告げていた。

 翌朝。

 いつものように、追放者たちを叩き起こす怒声が響いた。だが、その声の主は、いつもの中央の役人たちではなかった。黒鉄の鎧をまとった、鉄狼団の兵士だった。

「全員、広場へ集まれ。今すぐだ。辺境伯閣下からの命令である」

 その声は感情を一切含まず、ただ命令を伝達するためだけの、硬質な響きを持っていた。

 人々は何が起きたのか分からぬまま、恐怖と困惑の入り混じった表情で、ぞろぞろと広場へと向かった。そこには、すでに町の住民のほとんどが集められていた。そして、その広場の中心で、誰もが息を呑む光景が広がっていた。

 これまで威張り散らしていた中央の役人たちと、その手先となって暴力を振るっていた私兵たちが、全員縄で縛り上げられ、無様に地面に跪かされていたのだ。ある者は恐怖に顔面を蒼白にし、ある者は怒りに顔を歪めているが、もはや何の威勢も残ってはいなかった。

 そして、その罪人たちの前に、一人の男が立っていた。

 セレスティナは、その男の姿を初めて見た。

 日に焼けた肌に、無造作な黒髪。体格は屈強で、身にまとった黒基調の軍服の上からでも、鍛え上げられた肉体の厚みが分かる。顔や首筋には、傭兵時代についたであろう無数の傷跡が走り、それが彼の存在に凄まじい圧を与えていた。

 そして何より、その瞳。

 切れ長で、鋭い光を宿した金色の瞳。それは、猛禽類のように、広場にいる全ての人間を値踏みし、その魂の奥底まで見透かしているかのようだった。

 彼こそが、この辺境の支配者。血も涙もないと噂される、「狼」。

 辺境伯ライナス。

 セレスティナは、その圧倒的な存在感を前に、呼吸をすることさえ忘れそうになった。恐怖。それは確かにある。だが、それだけではない。彼の全身から放たれるのは、これまで彼女が出会ったどの貴族とも違う、絶対的な強者のオーラだった。それは、血筋や権威によって得たものではない。彼自身の力だけで、幾多の死線を乗り越えてきた者だけが纏える、本物の覇気だった。

 ライナスは、集まった人々を一瞥すると、手にした羊皮紙を広げた。その声は、彼の風貌に似合わず、低く、落ち着いていた。だが、その静けさこそが、聞く者の背筋を凍らせるほどの威圧感を伴っていた。

「中央より派遣されし監督官、ヨハン・ベルガー。及び、その配下の者たち」

 ライナスは、跪く役人の名を一人一人読み上げていく。

「貴様らの罪状を申し渡す。第一に、辺境復興のために中央より送られた備蓄物資の横流し。第二に、その横流しによって得た利益の着服。第三に、町の住民に対し、不当な重労働を課し、暴行、搾取を繰り返したこと」

 彼は淡々と、しかし明瞭な口調で罪状を並べ立てた。広場に集まった人々から、どよめきが起こる。誰もが薄々感づいてはいたが、こうして公の場で断罪されるのを見るのは初めてだった。

「そ、それは事実無根だ! 我々は、宰相閣下のご命令に従い、この町の秩序を…」

 肥え太った役人が、必死に反論しようとする。だが、ライナスは冷たい視線を彼に向けただけで、その言葉を遮った。

「黙れ、ハイエナ。貴様らの悪行は、全て裏が取れている」

 ライナスが合図をすると、彼の側近であるギデオンと呼ばれた男が、何冊もの帳簿と、数人の証人を前へと引き出した。

「これは、貴様らが横流し業者と交わした取引の記録だ。そしてここにいる者たちは、貴様らに脅され、不当な取引に加担させられた商人たちだ。全て、証言は揃っている」

 動かぬ証拠を突きつけられ、役人たちは顔面から血の気を失った。

 ライナスは、再び広場の住民たちへと視線を向けた。

「この辺境は、法の及ばぬ無法地帯ではない。この地には、この地の法がある。そして、その法はただ一つ」

 彼は、そこで一度言葉を切った。その金色の瞳が、ゆっくりとセレスティナのいる方角を向いた気がした。いや、それは彼女の思い過ごしだろう。だが、その視線に射抜かれたように、彼女は身を固くした。

「俺だ」

 ライナスは、静かに、しかし絶対的な響きをもって言った。

「この辺境伯ライナスの言葉だけが、この地の法だ。そして俺の法は、弱き者から不当に奪うことを許さない。自らの力を恃み、他者を虐げるハイエナは、一匹たりともこの地に存在することを許さん」

 それは、演説と呼ぶにはあまりに簡潔で、飾り気のない言葉だった。だが、その言葉には、どんな美辞麗句よりも重い、真実の響きがあった。

 セレスティナは、衝撃に打たれたように立ち尽くしていた。

 狼。蛮族。血も涙もない男。噂に聞いていた姿と、目の前の男の姿が、まるで結びつかない。

 彼は、父を陥れたヴァインベルクのように、法を捻じ曲げて私腹を肥やすのではない。彼は、アランのように、保身のために正義を捨てるのでもない。

 彼は、彼自身の力で、彼自身の正義を、この絶望の地に打ち立てようとしている。そのやり方は、あまりに暴力的で、独裁的かもしれない。だが、その根底にあるのは、腐敗を許さぬという、鋼のような公正さだった。

 それは、かつて父が目指した理想とは、全く違う形をしていた。だが、その向かう先は、あるいは同じ場所なのかもしれない。

 理不尽を許さず、弱き者を守る。

 その思いが、この男の行動の根源にあるのだとしたら。

 セレスティナの心に、激しい混乱と、そして今まで感じたことのない、かすかな光が差し込んでいた。それは、希望と呼ぶにはまだあまりに弱く、恐怖と混じり合った、複雑な色をしていた。

「この者たちの処遇を言い渡す」

 ライナスの声が、セレスティナを思考の海から引き戻した。

「首謀者である役人どもは、全ての財産を没収の上、これまで住民たちに課してきたものと同じ、瓦礫撤去の苦役に処す。食事も、お前たちが住民に与えていたものと同じものをくれてやる。死ぬまで働け」

 その判決に、人々は息を呑んだ。処刑するよりも、ある意味では残酷な罰だった。

「そして、その手先となって暴力の限りを尽くした私兵ども。お前たちは、鉄狼団の兵士たちが自らの手で裁く。この辺境で、狼の群れに手を出せばどうなるか、その体で思い知れ」

 その言葉が終わるや否や、鉄狼団の兵士たちが、罪人たちに襲いかかった。それは、もはや戦闘ではなく、一方的な蹂躙だった。私兵たちは、悲鳴を上げる間もなく、骨を砕かれ、地に叩きつけられていく。その光景はあまりに暴力的で、目を背ける者も多かった。

 だが、誰も彼らを止めようとはしない。むしろ、これまで虐げられてきた住民たちの中には、その光景に快哉を叫ぶ者さえいた。

 セレスティナは、目を背けなかった。彼女は、その暴力の嵐の中心に立つ、ライナスの姿をじっと見つめていた。彼は、その凄惨な光景を、表情一つ変えずに見届けている。その金色の瞳は、まるで嵐の目の中のように、静まり返っていた。

 やがて、嵐は過ぎ去った。

 広場には、新しい秩序が生まれていた。腐敗した権力は一掃され、暴力は、より強く、より統制された暴力によって支配された。

 その日の午後から、町の空気は明らかに変わった。追放者たちの労働内容は変わらないが、彼らを監視する兵士はすべて鉄狼団に代わり、理不尽な暴力や罵声はなくなった。食事の配給も、わずかではあったが質が改善された。濁った水は真水になり、黒パンには、薄いが温かいスープが添えられるようになった。

 人々はまだ、新しい支配者に怯えてはいたが、その顔には、これまでなかった安堵の色が浮かんでいた。

 その夜。

 セレスティナは、廃屋の壁際に座り、配給された温かいスープを、ゆっくりと味わっていた。それは、この辺境に来て初めて口にする、まともな食事だった。温かい液体が、冷え切った体を内側からじんわりと温めていく。

 彼女の頭の中では、今日一日のできごとが、何度も繰り返されていた。

 ライナスの、あの金色の瞳。

 「俺が法だ」と告げた、あの静かな声。

 恐怖。畏怖。そして、ほんの少しの…期待。

 様々な感情が渦巻き、彼女はひどく混乱していた。

 その時、廃屋の扉が、とん、とん、と静かに叩かれた。

 セレスティナは驚いて、身を固くする。こんな時間に、一体誰が。

 扉は、返事を待たずにゆっくりと開かれた。そこに立っていたのは、黒鉄の鎧をまとった、鉄狼団の兵士だった。それは、先日、幼い兄妹に自分の食料を分け与えていた、あの強面の男だった。

 男は、セレスティナを一瞥すると、何も言わずに中へ入ってきた。そして、持っていた荷物を、彼女の足元に無造作に置く。

 それは、厚手で上質な毛布の束と、まだ湯気の立つスープが入った器、そして焼きたてらしい柔らかなパンが数個入った袋だった。

 セレスティナは、何が起きたのか理解できず、ただ呆然と男を見上げる。

 男は、セレスティナの視線を受けると、少し気まずそうに視線を逸らした。そして、ぼそり、と呟く。

「…辺境伯閣下からだ」

 それだけ言うと、彼はすぐに踵を返し、扉を開けた。去り際に、もう一言だけ、ぶっきらぼうに付け加える。

「風邪など引くな、とのことだ。明日からの作業に、支障が出る」

 そう言うと、男は今度こそ闇の中へと姿を消し、扉は静かに閉められた。

 廃屋に、セレスティナは一人取り残された。

 目の前には、上質な毛布と、栄養のありそうな温かい食事。そして、耳の奥には、兵士が残した言葉が響いている。

 辺境伯閣下からだ。

 ライナスから。

 なぜ?

 彼女は、目の前のスープから立ち上る湯気を、ただじっと見つめていた。その温かさが、まるで彼の計り知れない意志そのものであるかのように思えた。

 冷え切っていたはずの彼女の心に、その湯気と同じ、確かな温もりが、じんわりと広がり始めていた。それは、この灰色の町に来てから初めて感じる、戸惑いを伴った、しかし心地よい温かさだった。

 すみれ色の瞳が、久しぶりに潤む。だが、それは絶望の涙ではなかった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第120話 辺境の狼は、愛する白百合を永遠に

     春。 辺境の地に、生命が芽吹く季節が訪れた。 長く厳しい冬を乗り越えた大地は、雪解け水で潤い、柔らかな陽光を浴びて一斉に緑の衣をまとう。城壁の向こうに連なる山々の頂にはまだ残雪の白が見えるが、麓の森では鳥たちが愛の歌を競い合い、麓の村々では新しい命の誕生を祝う声が響いていた。 十数年前、この地が中央から見捨てられた絶望の流刑地だったことなど、もはや若い世代の者たちは知らない。彼らにとって辺境とは、王国で最も豊かで、平和で、そして希望に満ちた故郷だった。 その春たけなわのある日、ライナス・アルトマイヤーの一家は、城の南に広がる広大な植物園を散策していた。 ここは、かつてセレスティナが、生きるために、そして人々を救うために、たった一人で始めた小さな薬草園だった場所だ。今では、彼女の知識と領民たちの愛情によって、王都の王立庭園さえも凌ぐほどの、見事な植物の楽園へと姿を変えていた。薬効のあるハーブの区画、色とりどりの花が咲き乱れる花壇、そして遠い国から取り寄せた珍しい果樹が並ぶ果樹園。その全てが完璧に手入れされ、領民たちの憩いの場として、広く開放されている。「お母様、見て! このお花、すみれ色だわ!」 小さな手が、足元に健気に咲く一輪のパンジーを指さした。 その声の主は、エレナ・アルトマイヤー。今年で三つになる、ライナスとセレスティナの長女だ。父親譲りの黒髪は、光に当たると母親の銀髪のようにきらきらと輝き、大きな瞳の色は、父親の金色と母親のすみれ色が混じり合ったような、不思議なヘーゼル色をしていた。 セレスティナは、娘の前に優しく屈み込むと、その柔らかな髪を撫でた。「本当ね、エレナ。とても綺麗。あなたのお兄様が生まれた年に、お母様が初めて植えたお花よ」「へええ」 エレナは、感心したようにその小さな花をじっと見つめている。 少し先では、ライナスと長男のリアムが、何やら真剣な顔で話し込んでいた。 リアムは、今年で八つになった。背はぐんと伸び、顔つきも幼さが抜けて、少年らしい精悍さが備わり始めている。その姿は、若い頃のライナスを彷彿とさせたが、時折見せる思慮深い表情は、母親から受け継いだものだった。

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第119話 私たちの協奏曲

     辺境の地に、収穫を祝う季節が巡ってきた。 黄金色に実った麦は刈り取られ、ずっしりと重い果実は籠に満ち、人々の一年の労苦が豊かな恵みとなって結実する。この時期、辺境全土は一年で最も陽気な祝祭の空気に包まれた。 城下町の広場には、巨大な焚き火がいくつも焚かれ、その周りでは老いも若きも関係なく、手を取り合ってダンスの輪が広がっている。楽師たちが奏でる笛や太鼓の軽快なリズム、香ばしい肉の焼ける匂い、そして何よりも、人々の屈託のない笑い声。その全てが混じり合い、生命力に満ちた一つの大きな音楽となって、秋空へと響き渡っていた。 ライナスとセレスティナ、そして息子のリアムもまた、その祝祭の輪の中にいた。 辺境伯夫妻は、もはや民衆にとって遠い存在ではない。ライナスは、鉄狼団の古参兵たちと豪快にエールを酌み交わし、セレスティナは、村の女たちが持ち寄った焼き菓子を「美味しい」と微笑みながら頬張る。「奥方様! このパイは、うちの畑で採れたカボチャなんですよ!」「まあ、素晴らしい。甘くて、太陽の味がしますわね」 そんな気さくなやり取りが、ごく自然に交わされる。 リアムは今年で五つになった。父親譲りの運動神経で、同じ年頃の子供たちと広場を駆け回り、頰をリンゴのように赤く染めている。時折、母親の元へ駆け寄っては、得意げに戦利品の木の実を見せに来た。 その光景は、数年前には誰も想像できなかった、平和そのものの縮図だった。この豊かさと笑顔こそが、ライナスとセレスティナが長い戦いの果てに手に入れた、何よりも尊い宝物だった。 やがて、太陽が西の山脈へと傾き始め、空が燃えるような茜色に染まる頃、祭りの喧騒も少しずつ穏やかになっていった。 ライナスは、人々の輪から少し離れた場所で、妻と息子の姿を静かに見つめていた。その金色の瞳は、いつになく穏やかで、深い思索の色を湛えている。 彼は、セレスティナの元へ歩み寄ると、その耳元で静かに囁いた。「セレスティナ。少し、付き合ってくれないか」「あなた? どこかへ?」「ああ。リアムも一緒に。とっておきの場所がある」 その悪戯っぽい笑みに、セレスティナはすぐに察しがつ

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第118話 陽だまりの家族

     王都での激務を終え、辺境に戻ってから、さらに三年という歳月が流れた。 ライナス・アルトマイヤーの名は、今や王国全土に轟いている。若き国王の最も信頼篤い臣下として国政の中枢に関わりながら、彼は決して辺境の主であることを忘れなかった。王都での改革が軌道に乗ると、その後の実務は信頼できる者たちに任せ、自身は愛する妻と民が待つこの土地へと帰還した。 彼の不在中も、辺境はセレスティナとギデオンによって見事に治められ、その豊かさは留まるところを知らなかった。王国に新しい秩序が生まれ、辺境がその礎として確固たる地位を築いた今、かつてのような戦乱の日は遠い昔の物語のように感じられた。 そして、その穏やかな日々の中に、新しい光が一つ、灯っていた。 その日の午後、城の書庫は静かな陽光で満たされていた。 セレスティナは、大きな机に領内の村から届いた陳情書の束を広げ、一本一本丁寧に目を通していた。その横顔は、母親となったことで、かつての凛とした美しさに、さらに深い慈愛と柔和さが加わっている。 ふと、ペンを置いた彼女は、窓の外へと視線を向けた。書庫の窓からは、手入れの行き届いた中庭が一望できる。初夏の風が木々の葉を揺らし、色とりどりの花が陽光を浴びて咲き誇っていた。 その、絵画のように美しい庭の一角に、彼女の愛する二人の姿があった。 夫であるライナスと、彼らの息子。 セレスティナは、思わず笑みを浮かべた。その光景は、彼女がこの世で最も尊いと感じる、陽だまりのような時間の結晶だった。 中庭の芝生の上で、ライナスは屈強な体を小さくかがめ、目の前に立つ小さな男の子と向き合っていた。 男の子の名は、リアム・アルトマイヤー。 今年で四つになる、辺境伯夫妻の待望の長子だ。父親譲りの癖のない黒髪と、母親から受け継いだ澄んだすみれ色の瞳を持っている。その小さな手には、彼のために作られた短い木剣が、少し頼りなげに握られていた。「リアム。剣はそうやって振り回すものではない」 ライナスの声は、軍を指揮する時と同じように低く、厳しい。だが、その声色には、隠しようもない愛情が滲んでいた。「足を開け。腰を落とす。そうだ、もっと

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第117話 王国の礎

     辺境の朝は、いつも変わらぬ静けさと共に訪れる。 城壁の向こうに広がる山脈の稜線が、暁の淡い光を浴びて紫水晶のように輝き始める頃、ライナス・アルトマイヤーはすでに馬上の人となっていた。彼の愛馬である漆黒の軍馬は、主の意を汲んでか、土を踏む蹄の音も静かだ。 冷たく澄んだ空気が肺を満たす。この感覚こそが、彼に生きていることを実感させた。 セレスティナと結ばれて五年。辺境は劇的な変化を遂げた。かつて絶望の色に染まっていた大地は、今や王国で最も豊かな土地の一つとして知られている。その変革の中心にいたのは、間違いなくこの二人だった。ライナスの揺るぎない統率力と、セレスティナの深い知識と慈愛。二つの力が完璧に融合した時、奇跡は必然としてこの地に起きたのだ。 日の出前の薄闇の中、ライナスは馬を駆り、広大な麦畑を見下ろす丘の上で足を止めた。眼下に広がるのは、収穫を間近に控えた黄金色の海。風が渡るたびに、さざ波のように穂が揺れる。五年前には、痩せた土地と荒れ果てた村々が広がっていた場所だ。「…見事なものだ」 誰に言うともなく、ライナスは呟いた。その金色の瞳には、戦場で敵を射抜く鋭さとは違う、穏やかで深い満足の色が浮かんでいる。 背後から、もう一頭の馬が静かに近づいてきた。鉄狼団の副長であり、今や辺境の内政を実質的に取り仕切るギデオンだ。「旦那様。そろそろお戻りになりませんと、奥方様がご心配なさいます」「ああ、分かっている」 ライナスは頷き、手綱を返した。彼が辺境の狼と呼ばれた男から、一人の夫、そして父へと変わったことを、ギデオンは誰よりも強く感じていた。 城へ戻ると、セレスティナが玄関ホールで彼を迎えた。彼女はもう、華奢なだけの令嬢ではない。辺境の女主としての気品と落ち着きが、その全身から滲み出ている。「おかえりなさい、あなた。今朝も早かったのですね」「ああ。畑の様子を見てきた。今年の収穫は期待できそうだ」 ライナスは馬から降りると、ごく自然に彼女の腰を抱き寄せ、その額に口づけを落とした。彼らの間では、もう日常となった光景だ。「それより、王都からの急使が参着しております。旦那

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第116話 豊穣の大地

     湖畔の樫の木の下で永遠の愛を誓い合ってから、五年という歳月が流れた。  辺境の地は、まるで長い眠りから覚めたかのように、その姿を劇的に変えていた。  かつて、中央から見捨てられた罪人たちの流刑地であり、灰色の絶望が支配していた町は、もうどこにもない。街道は整備され、石畳の道には活気ある人々の声と、荷馬車の車輪の音が陽気に響いている。家々の壁は白く塗り直され、窓辺には色とりどりの花が飾られていた。町の中心を流れる川には、頑丈で美しい石橋が架けられ、子供たちの笑い声が水面に弾ける。  それは、ただ町並みが綺麗になったというだけの変化ではなかった。人々の顔つきそのものが、変わったのだ。誰もがその背筋を伸ばし、自分の仕事に誇りを持ち、明日という日を信じて生きている。その瞳には、かつての諦観の色はなく、自分たちの手で未来を築くのだという、力強い光が宿っていた。  この奇跡のような変化をもたらしたのが、彼らが心から敬愛する辺境伯夫妻、ライナス・アルトマイヤーとセレスティナ・アルトマイヤーであることは、この地に住まう者ならば誰もが知っていた。 その日の午後、セレスティナは簡素な作りの馬車に揺られ、領内の視察に出かけていた。  五年という月日は、彼女にも穏やかな変化をもたらしていた。かつての儚げな少女の面影は薄れ、今は辺境の女主人としての落ち着きと、慈愛に満ちた柔らかな風格が備わっている。銀糸の髪は、今は実務的な三つ編みにまとめられていることが多かったが、その気高さは少しも損なわれてはいない。  最初に訪れたのは、町の東地区に建てられた、領内最大規模の診療所だった。 「奥方様、ようこそお越しくださいました」  白衣をまとった初老の医師が、深々と頭を下げて彼女を迎えた。彼は、セレスティナの呼びかけに応じて、王都からこの辺境の地へやってきた、数少ない良心的な知識人の一人だった。 「変わりはありませんか、先生」 「はい。おかげさまで、皆、健やかに過ごしております。これもひとえに、奥方様がこの地に衛生という概念と、薬草学の知識を広めてくださったおかげです」  診療所の中は、清潔な木の匂いと、薬草を煎じる穏やかな香りで満ちていた。かつて、

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第115話 初夜

     夜空を彩っていた祝祭の篝火が、一つ、また一つと静かに消えていく。 あれほど賑やかだった城の広場も、今はもう祭りの後の心地よい静けさに包まれていた。名残惜しそうに帰っていく最後の民を見送り、ライナスとセレスティナは、あの夜誓いを交わした見張り台を後にした。 宴の熱気と喧騒が嘘のように静まり返った城の中を、二人は侍女頭のマルタに導かれて歩いていく。磨き上げられた石の床に、三人の足音だけが規則正しく響いていた。壁に灯された松明の炎が、影を長く揺らめかせる。 セレスティナは、隣を歩くライナスの大きな手を、知らず識らずのうちに強く握りしめていた。ライナスもまた、その小さな震えに気づいているのか、黙って力強く握り返してくれる。その温もりが、高鳴る心臓を少しだけ落ち着かせてくれた。 今日一日は、まるで疾風怒濤のようだった。 湖畔での誓いの儀、民衆からの万雷の祝福、そして身分の隔てなく酌み交わした祝宴の酒。その一つ一つが、セレスティナの胸に温かい光となって降り積もっている。かつて王都で経験した、虚飾と政略に満ちた夜会とは全く違う、魂が震えるような本物の喜びに満ちた一日だった。 だが、この長い一日の終わりには、まだ最後の、そして最も大切な儀式が残されている。 復讐でもなく、政略でもない。ただ、愛し合う男と女として、心も体も、完全に一つになる夜。 そう思うだけで、顔に熱が集まるのを感じた。嬉しい。心の底から、この日を迎えられたことが嬉しいのだ。けれど同時に、未知への不安と恥じらいが、彼女の足をほんの少しだけ重くしていた。 やがてマルタは、城の最上階に近い、最も静かな一室の前で足を止めた。重厚な樫の木で作られた扉は、この日のために新しく誂えられたものだろう。「旦那様、奥方様。こちらがお部屋でございます」 マルタは、いつもと変わらぬ厳格な表情で言ったが、その声には隠しきれない温かみが滲んでいた。彼女は、扉の横に控えていた若い侍女たちに目配せすると、セレスティナに向き直り、深く、深く頭を下げた。「…奥方様。どうか、末永く、お幸せに。我ら一同、心よりお祈り申し上げております」 その言葉は、主従の関係を超えた、ま

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status