役人たちによる理不尽な略奪は、追放者たちの心に再び絶望の影を落とした。だが、その影は以前のものとは少し質が違っていた。かつてはただ無力感に打ちひしがれるだけだった彼らの心に、セレスティナという存在が灯した小さな灯火は、まだ完全には消えていなかったのだ。
「諦めたら、それこそ彼らの思う壺です」 泥の中から薬草の欠片を拾いながら放たれた彼女の言葉は、人々の心に深く刻み込まれていた。それは、この灰色の町で初めて耳にした、希望を諦めないという意志の表明だった。翌日から、彼らのささやかな抵抗が始まった。
それは、武器を取るような大仰なものではない。もっと静かで、知恵を使った、弱者のための戦術だった。 セレスティナの提案で、彼らは薬草や乏しい食料の隠し場所を分散させた。崩れた壁の隙間、瓦礫の山の奥深く、誰も近寄らない廃屋の床下。子供たちが見張りに立ち、役人や私兵の姿が見えれば、鳥の鳴き真似で仲間たちに知らせる。集めた薬草はすぐに乾燥させ、小さく砕いて布袋に入れ、いつでも持ち運べるようにした。 セレスティナは、その中心にいた。彼女はもはや、ただ看病をするだけの「聖女」ではなかった。その聡明な頭脳は、この極限状況を生き抜くための司令塔として機能し始めていた。どの場所に何を隠せば見つかりにくいか、誰に何を集めさせれば効率的か、病人の症状に応じて、どの薬草を優先的に確保すべきか。彼女は冷静に判断し、人々に的確な指示を与えた。 人々は、自然と彼女に従った。彼女のすみれ色の瞳には、この絶望的な状況を何とかしようとする、真摯な光が宿っていたからだ。かつて「人形令嬢」と囁いた者たちも、今では全幅の信頼を寄せていた。彼女の言葉は、この町の唯一の法であり、希望だった。 だが、その希望はあまりにも脆く、いつまた踏み潰されるか分からない、か細い光でしかなかった。彼らは常に、役人たちの気まぐれな暴力と、辺境伯という得体の知れない「狼」の影に怯えながら、息を潜めて生きていた。その夜、辺境の町は深い闇と静寂に包まれていた。
冷たい風が、廃屋の隙間をひゅうと鳴らしながら吹き抜ける。人々はそれぞれの塒で、なけなしの布にくるまり、つかの間の休息を取っていた。セレスティナもまた、壁際に身を寄せ、寒さに耐えながら浅い眠りの中にいた。 変化は、前触れもなく訪れた。 町の静寂を破ったのは、人の叫び声ではなかった。音もなく、影が動いた。 城の方角から現れた黒い集団が、まるで闇に溶け込むように、町の通りを疾走していく。その動きには一切の無駄がなく、足音さえほとんど立てない。彼らこそ、辺境伯ライナスが率いる精鋭、「鉄狼団」だった。 彼らは瞬く間に、目標である中央の役人たちが宿舎として使っている、この町では比較的大きな建物と、私兵たちの詰所を完全に包囲した。その動きは、狩りの訓練を積んだ狼の群れそのものだった。 中にいた役人や私兵たちは、何が起きたのかを理解する間もなかっただろう。 扉が内側から乱暴に開けられる音、甲高い悲鳴、そして金属がぶつかり合う鈍い音。それらの騒ぎは、しかし、ごく短時間でぴたりと止んだ。まるで、最初から何もなかったかのように、町は再び深い静寂に包まれた。ただ、建物の窓から漏れる明かりだけが、中で凄惨な何かが行われたことを物語っていた。 多くの住民は、そのかすかな物音に気づきさえしなかった。気づいた者も、いつもの私兵たちの狼藉か何かだろうと、布団を頭から被ってやり過ごすだけだった。 セレスティナは、遠くで聞こえた微かな騒音に、一瞬だけ目を覚ました。だが、すぐにそれは風の音に掻き消され、彼女の意識は再び疲労の底へと沈んでいった。 彼女はまだ知らない。この夜、この町で何が起こったのか。そして、その出来事が、自分の運命を根底から揺るがすことになるということを。 辺境の夜は、静かに、そして暴力的に、一つの時代の終わりを告げていた。翌朝。
いつものように、追放者たちを叩き起こす怒声が響いた。だが、その声の主は、いつもの中央の役人たちではなかった。黒鉄の鎧をまとった、鉄狼団の兵士だった。 「全員、広場へ集まれ。今すぐだ。辺境伯閣下からの命令である」 その声は感情を一切含まず、ただ命令を伝達するためだけの、硬質な響きを持っていた。 人々は何が起きたのか分からぬまま、恐怖と困惑の入り混じった表情で、ぞろぞろと広場へと向かった。そこには、すでに町の住民のほとんどが集められていた。そして、その広場の中心で、誰もが息を呑む光景が広がっていた。 これまで威張り散らしていた中央の役人たちと、その手先となって暴力を振るっていた私兵たちが、全員縄で縛り上げられ、無様に地面に跪かされていたのだ。ある者は恐怖に顔面を蒼白にし、ある者は怒りに顔を歪めているが、もはや何の威勢も残ってはいなかった。 そして、その罪人たちの前に、一人の男が立っていた。 セレスティナは、その男の姿を初めて見た。 日に焼けた肌に、無造作な黒髪。体格は屈強で、身にまとった黒基調の軍服の上からでも、鍛え上げられた肉体の厚みが分かる。顔や首筋には、傭兵時代についたであろう無数の傷跡が走り、それが彼の存在に凄まじい圧を与えていた。 そして何より、その瞳。 切れ長で、鋭い光を宿した金色の瞳。それは、猛禽類のように、広場にいる全ての人間を値踏みし、その魂の奥底まで見透かしているかのようだった。 彼こそが、この辺境の支配者。血も涙もないと噂される、「狼」。 辺境伯ライナス。 セレスティナは、その圧倒的な存在感を前に、呼吸をすることさえ忘れそうになった。恐怖。それは確かにある。だが、それだけではない。彼の全身から放たれるのは、これまで彼女が出会ったどの貴族とも違う、絶対的な強者のオーラだった。それは、血筋や権威によって得たものではない。彼自身の力だけで、幾多の死線を乗り越えてきた者だけが纏える、本物の覇気だった。ライナスは、集まった人々を一瞥すると、手にした羊皮紙を広げた。その声は、彼の風貌に似合わず、低く、落ち着いていた。だが、その静けさこそが、聞く者の背筋を凍らせるほどの威圧感を伴っていた。
「中央より派遣されし監督官、ヨハン・ベルガー。及び、その配下の者たち」 ライナスは、跪く役人の名を一人一人読み上げていく。 「貴様らの罪状を申し渡す。第一に、辺境復興のために中央より送られた備蓄物資の横流し。第二に、その横流しによって得た利益の着服。第三に、町の住民に対し、不当な重労働を課し、暴行、搾取を繰り返したこと」 彼は淡々と、しかし明瞭な口調で罪状を並べ立てた。広場に集まった人々から、どよめきが起こる。誰もが薄々感づいてはいたが、こうして公の場で断罪されるのを見るのは初めてだった。 「そ、それは事実無根だ! 我々は、宰相閣下のご命令に従い、この町の秩序を…」 肥え太った役人が、必死に反論しようとする。だが、ライナスは冷たい視線を彼に向けただけで、その言葉を遮った。 「黙れ、ハイエナ。貴様らの悪行は、全て裏が取れている」 ライナスが合図をすると、彼の側近であるギデオンと呼ばれた男が、何冊もの帳簿と、数人の証人を前へと引き出した。 「これは、貴様らが横流し業者と交わした取引の記録だ。そしてここにいる者たちは、貴様らに脅され、不当な取引に加担させられた商人たちだ。全て、証言は揃っている」 動かぬ証拠を突きつけられ、役人たちは顔面から血の気を失った。 ライナスは、再び広場の住民たちへと視線を向けた。 「この辺境は、法の及ばぬ無法地帯ではない。この地には、この地の法がある。そして、その法はただ一つ」 彼は、そこで一度言葉を切った。その金色の瞳が、ゆっくりとセレスティナのいる方角を向いた気がした。いや、それは彼女の思い過ごしだろう。だが、その視線に射抜かれたように、彼女は身を固くした。 「俺だ」 ライナスは、静かに、しかし絶対的な響きをもって言った。 「この辺境伯ライナスの言葉だけが、この地の法だ。そして俺の法は、弱き者から不当に奪うことを許さない。自らの力を恃み、他者を虐げるハイエナは、一匹たりともこの地に存在することを許さん」 それは、演説と呼ぶにはあまりに簡潔で、飾り気のない言葉だった。だが、その言葉には、どんな美辞麗句よりも重い、真実の響きがあった。 セレスティナは、衝撃に打たれたように立ち尽くしていた。 狼。蛮族。血も涙もない男。噂に聞いていた姿と、目の前の男の姿が、まるで結びつかない。 彼は、父を陥れたヴァインベルクのように、法を捻じ曲げて私腹を肥やすのではない。彼は、アランのように、保身のために正義を捨てるのでもない。 彼は、彼自身の力で、彼自身の正義を、この絶望の地に打ち立てようとしている。そのやり方は、あまりに暴力的で、独裁的かもしれない。だが、その根底にあるのは、腐敗を許さぬという、鋼のような公正さだった。 それは、かつて父が目指した理想とは、全く違う形をしていた。だが、その向かう先は、あるいは同じ場所なのかもしれない。 理不尽を許さず、弱き者を守る。 その思いが、この男の行動の根源にあるのだとしたら。 セレスティナの心に、激しい混乱と、そして今まで感じたことのない、かすかな光が差し込んでいた。それは、希望と呼ぶにはまだあまりに弱く、恐怖と混じり合った、複雑な色をしていた。「この者たちの処遇を言い渡す」
ライナスの声が、セレスティナを思考の海から引き戻した。 「首謀者である役人どもは、全ての財産を没収の上、これまで住民たちに課してきたものと同じ、瓦礫撤去の苦役に処す。食事も、お前たちが住民に与えていたものと同じものをくれてやる。死ぬまで働け」 その判決に、人々は息を呑んだ。処刑するよりも、ある意味では残酷な罰だった。 「そして、その手先となって暴力の限りを尽くした私兵ども。お前たちは、鉄狼団の兵士たちが自らの手で裁く。この辺境で、狼の群れに手を出せばどうなるか、その体で思い知れ」 その言葉が終わるや否や、鉄狼団の兵士たちが、罪人たちに襲いかかった。それは、もはや戦闘ではなく、一方的な蹂躙だった。私兵たちは、悲鳴を上げる間もなく、骨を砕かれ、地に叩きつけられていく。その光景はあまりに暴力的で、目を背ける者も多かった。 だが、誰も彼らを止めようとはしない。むしろ、これまで虐げられてきた住民たちの中には、その光景に快哉を叫ぶ者さえいた。 セレスティナは、目を背けなかった。彼女は、その暴力の嵐の中心に立つ、ライナスの姿をじっと見つめていた。彼は、その凄惨な光景を、表情一つ変えずに見届けている。その金色の瞳は、まるで嵐の目の中のように、静まり返っていた。やがて、嵐は過ぎ去った。
広場には、新しい秩序が生まれていた。腐敗した権力は一掃され、暴力は、より強く、より統制された暴力によって支配された。 その日の午後から、町の空気は明らかに変わった。追放者たちの労働内容は変わらないが、彼らを監視する兵士はすべて鉄狼団に代わり、理不尽な暴力や罵声はなくなった。食事の配給も、わずかではあったが質が改善された。濁った水は真水になり、黒パンには、薄いが温かいスープが添えられるようになった。 人々はまだ、新しい支配者に怯えてはいたが、その顔には、これまでなかった安堵の色が浮かんでいた。その夜。
セレスティナは、廃屋の壁際に座り、配給された温かいスープを、ゆっくりと味わっていた。それは、この辺境に来て初めて口にする、まともな食事だった。温かい液体が、冷え切った体を内側からじんわりと温めていく。 彼女の頭の中では、今日一日のできごとが、何度も繰り返されていた。 ライナスの、あの金色の瞳。 「俺が法だ」と告げた、あの静かな声。 恐怖。畏怖。そして、ほんの少しの…期待。 様々な感情が渦巻き、彼女はひどく混乱していた。 その時、廃屋の扉が、とん、とん、と静かに叩かれた。 セレスティナは驚いて、身を固くする。こんな時間に、一体誰が。 扉は、返事を待たずにゆっくりと開かれた。そこに立っていたのは、黒鉄の鎧をまとった、鉄狼団の兵士だった。それは、先日、幼い兄妹に自分の食料を分け与えていた、あの強面の男だった。 男は、セレスティナを一瞥すると、何も言わずに中へ入ってきた。そして、持っていた荷物を、彼女の足元に無造作に置く。 それは、厚手で上質な毛布の束と、まだ湯気の立つスープが入った器、そして焼きたてらしい柔らかなパンが数個入った袋だった。 セレスティナは、何が起きたのか理解できず、ただ呆然と男を見上げる。 男は、セレスティナの視線を受けると、少し気まずそうに視線を逸らした。そして、ぼそり、と呟く。 「…辺境伯閣下からだ」 それだけ言うと、彼はすぐに踵を返し、扉を開けた。去り際に、もう一言だけ、ぶっきらぼうに付け加える。 「風邪など引くな、とのことだ。明日からの作業に、支障が出る」 そう言うと、男は今度こそ闇の中へと姿を消し、扉は静かに閉められた。 廃屋に、セレスティナは一人取り残された。 目の前には、上質な毛布と、栄養のありそうな温かい食事。そして、耳の奥には、兵士が残した言葉が響いている。 辺境伯閣下からだ。 ライナスから。 なぜ? 彼女は、目の前のスープから立ち上る湯気を、ただじっと見つめていた。その温かさが、まるで彼の計り知れない意志そのものであるかのように思えた。 冷え切っていたはずの彼女の心に、その湯気と同じ、確かな温もりが、じんわりと広がり始めていた。それは、この灰色の町に来てから初めて感じる、戸惑いを伴った、しかし心地よい温かさだった。 すみれ色の瞳が、久しぶりに潤む。だが、それは絶望の涙ではなかった。役人たちによる理不尽な略奪は、追放者たちの心に再び絶望の影を落とした。だが、その影は以前のものとは少し質が違っていた。かつてはただ無力感に打ちひしがれるだけだった彼らの心に、セレスティナという存在が灯した小さな灯火は、まだ完全には消えていなかったのだ。「諦めたら、それこそ彼らの思う壺です」 泥の中から薬草の欠片を拾いながら放たれた彼女の言葉は、人々の心に深く刻み込まれていた。それは、この灰色の町で初めて耳にした、希望を諦めないという意志の表明だった。 翌日から、彼らのささやかな抵抗が始まった。 それは、武器を取るような大仰なものではない。もっと静かで、知恵を使った、弱者のための戦術だった。 セレスティナの提案で、彼らは薬草や乏しい食料の隠し場所を分散させた。崩れた壁の隙間、瓦礫の山の奥深く、誰も近寄らない廃屋の床下。子供たちが見張りに立ち、役人や私兵の姿が見えれば、鳥の鳴き真似で仲間たちに知らせる。集めた薬草はすぐに乾燥させ、小さく砕いて布袋に入れ、いつでも持ち運べるようにした。 セレスティナは、その中心にいた。彼女はもはや、ただ看病をするだけの「聖女」ではなかった。その聡明な頭脳は、この極限状況を生き抜くための司令塔として機能し始めていた。どの場所に何を隠せば見つかりにくいか、誰に何を集めさせれば効率的か、病人の症状に応じて、どの薬草を優先的に確保すべきか。彼女は冷静に判断し、人々に的確な指示を与えた。 人々は、自然と彼女に従った。彼女のすみれ色の瞳には、この絶望的な状況を何とかしようとする、真摯な光が宿っていたからだ。かつて「人形令嬢」と囁いた者たちも、今では全幅の信頼を寄せていた。彼女の言葉は、この町の唯一の法であり、希望だった。 だが、その希望はあまりにも脆く、いつまた踏み潰されるか分からない、か細い光でしかなかった。彼らは常に、役人たちの気まぐれな暴力と、辺境伯という得体の知れない「狼」の影に怯えながら、息を潜めて生きていた。 その夜、辺境の町は深い闇と静寂に包まれていた。 冷たい風が、廃屋の隙間をひゅうと鳴らしながら吹き抜ける。人々はそれぞれの塒で、なけなしの布にくるまり、つかの間の休息を取っていた。セレスティナもまた、
辺境の冬は、容赦を知らない暴君だった。空から絶え間なく降り注ぐ雪は、世界の輪郭を白く塗りつぶし、人々のささやかな希望さえも凍らせていく。飢えと寒さは死の同義語であり、昨日まで言葉を交わした者が、翌朝には冷たい骸となって発見されることも珍しくなかった。 だが、そんな灰色の絶望が支配する町の一角で、ほんの小さな、しかし確かな変化が生まれていた。 セレスティナが寝床とする廃屋。その場所は、いつしか「診療所」のような役割を担うようになっていた。彼女の元には、体調を崩した者やその家族が、途切れることなく助けを求めにやってくる。「お嬢様、どうか私の息子を…! 熱が下がらなくて…」 ぼろ布をまとった母親が、ぐったりとした幼い息子を抱いて駆け込んできた。セレスティナは、その青白い顔を一瞥すると、冷静に、しかし迅速に行動を始める。「こちらへ。とにかく体を温めないと」 彼女は、廃屋の風が一番当たらない隅に、追放者たちが持ち寄ってくれたなけなしの藁を厚く敷き、そこに子供を寝かせた。彼女自身のぼろぼろになった囚人服の上着を脱ぎ、子供の体にかけてやる。「ありがとうございます、ありがとうございます…」 母親は涙ながらに感謝を繰り返す。セレスティナはそれに構わず、石で砕いた解熱作用のある植物の根を、ぬるま湯に溶かして子供の口に含ませた。それは薬と呼ぶにはあまりに粗末なものだったが、彼女の真摯な眼差しと優しい手つきは、それ以上の効果を持っているようだった。 セレスティナの周りには、いつしか数人の女性たちが集まり、彼女の手伝いを申し出るようになっていた。ある者は、雪の下から薬草を探し出すのを手伝い、ある者は、乏しい燃料を分け与えて、病人のための湯を沸かす。 かつては互いに無関心で、自分のことで精一杯だった人々が、セレスティナという存在を核にして、再び失われた絆を取り戻し始めていた。それは、この極寒の地で生き延びるための、小さな共同体の誕生だった。 セレスティナは、人々から「お嬢様」と呼ばれ、いつしかその呼び名は畏敬と親しみを込めたものに変わっていた。「人形令嬢」と囁かれていた頃の、気味悪げな視線を向ける者はもうい
生きる。 母との約束を胸に、セレスティナの中でその決意が確かな形を結んでから、彼女の世界を見る目は変わった。辺境の冬は依然として猛威を振るい、飢えと寒さが絶えず命を脅かす。だが、彼女はもはや、それをただ受け入れるだけの無力な人形ではなかった。その瞳には、かつて書物を読み解いていた時と同じ、鋭い観察力と分析の光が戻っていた。 彼女の視線は、この極限の環境下で生きる人々の、些細な知恵や工夫を拾い集める。どの家の壁が風を防ぎ、どの道の窪みに雪解け水が溜まるのか。誰が一番丈夫な体力を持ち、誰が咳をこじらせ始めているのか。すべてを記憶し、分析する。それは、この過酷な現実という名の書物を、必死に読み解く作業に他ならなかった。 そんなある日の午後、作業の合間のわずかな休息時間だった。 追放者たちは、雪に覆われた瓦礫の山に身を寄せ合い、冷たい風から少しでも身を守ろうとしていた。あちこちから、乾いた咳の音が聞こえてくる。それは、この冬を越せずに命を落としていく者たちの、不吉な前奏曲のようだった。 セレスティナの隣に座っていたのは、まだ若い娘だった。彼女は数日前からひどい咳に悩まされており、その顔色は青白く、呼吸も浅い。娘は、激しく咳き込んだ後、ぜいぜいと苦しげな息をつきながら、地面の雪を掴んで口に含んだ。「やめなさい」 不意に、隣から静かだが、凛とした声がした。 娘が驚いて顔を上げると、そこにいたのは「人形令嬢」と呼ばれていたセレスティナだった。彼女が言葉を発するのを、この町の誰もが初めて聞いた。 セレスティナは、娘の行動を制止しながら続けた。「体を冷やすだけです。それに、その雪には何が含まれているか分からない」 その声には、不思議な説得力があった。娘は、言われるがままに、口に含んだ雪を吐き出す。 セレスティナは、自分のなけなしの配給である、錆びた器に入った白湯を娘に差し出した。「これを少しずつ飲みなさい。気休めにしかなりませんが、雪よりはいい」「あ、あんた…」 娘は戸惑いながらも、その白湯を受け取った。温かいとは言えない液体が喉を通ると、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
辺境の地に、冬が来た。 それは、じわじわと忍び寄る死のように、静かに、しかし確実に町を侵食していった。まず、空の色が変わった。これまで町を覆っていた鉛色の雲は、さらに重く、白く濁った色合いを帯び始める。太陽は日に日にその力を失い、昼間でも地上に届く光は弱々しく、何の暖かさももたらさなかった。 次に、風が変わった。乾いた砂埃を巻き上げていた風は、湿り気と、刃物のような鋭い冷たさを含むようになる。それは壁の隙間や屋根の穴から容赦なく吹き込み、人々の体温を根こそぎ奪っていった。 そしてある朝、セレスティナが目を覚ますと、世界は音を失っていた。 彼女が廃屋の扉を押し開けると、そこに広がっていたのは、一面の白だった。夜の間に降った雪が、町の汚れた地面も、崩れた瓦礫の山も、すべてを等しく覆い隠している。それは一見すると美しくさえあったが、この町に住む者にとって、雪は死刑執行を告げる白い布告書に他ならなかった。 その日から、追放者たちの労働は、地獄の様相を呈し始めた。 これまでの瓦礫撤去作業に加え、雪かきという新たな苦役が課せられたのだ。粗末な木の板を渡され、凍てつく風雪の中で、積もった雪を道脇へと押しやる。手袋などない。手枷の冷たい鉄が、かじかんだ手首の皮膚に食い込み、感覚を麻痺させていく。指先はすぐに紫に変色し、ひび割れて血が滲んだ。 セレスティナは、他の者たちと同じように、ただ黙々と作業を続けた。彼女の心は、あの鉄狼団の兵士の姿を見て以来、不可解な疑問と混乱のさなかにあった。だが、この圧倒的な自然の猛威と、肉体を苛む苦痛の前では、そんな思考さえも贅沢なものに思えた。今はただ、生きるか死ぬか。その単純な現実だけが、彼女のすべてを支配していた。 食事の配給は、さらに劣悪になった。 水で薄められたスープは、もはやお湯と変わらない。硬い黒パンは、凍てついてさらに硬度を増し、噛み砕くことさえ困難だった。人々はそれを、凍える手で必死に温めながら、少しずつ削るようにして食べた。 飢えと寒さは、着実に人々の体力を奪っていく。 最初に倒れたのは、足の悪い老人だった。彼は雪かき作業の最中、突然その場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。監督役の役人
広場で老人が私兵に虐げられていた光景は、セレスティナの心に深く、冷たい楔を打ち込んだ。それはもはや、漠然とした恐怖や悲しみではなかった。より明確で、輪郭のはっきりとした絶望。この国そのものが、根底から腐敗しているという、揺るぎない認識だった。 父が守ろうとした正義も、母が信じた慈愛も、そしてアランが囁いた愛さえも、すべてはこの巨大な腐敗の前では、儚い砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。 その日を境に、セレスティナの纏う空気はさらに変わった。彼女の中から、最後の人間的な揺らぎさえも消え失せたように見えた。恐怖に震えることもなく、ただ静かに、冷徹な観察者のように、この灰色の町で繰り返される日常を見つめる。 彼女はもはや、ただの「人形令嬢」ではなかった。その人形の硝子の目には、この世界の醜悪な真実が、焼き付くように映り込んでいた。 相変わらず、追放者たちの朝は早い。 乱暴な怒声に叩き起こされ、広場へと引きずり出される。そして、その日の労働現場へと、家畜の群れのように追い立てられていく。セレスティナもその無言の行列の中にいた。埃にまみれた銀髪が、鉛色の空の下で鈍い光を放っている。 その日の作業場所は、町の北側、城壁に近い地区だった。ここは他の地区に比べて、瓦礫の撤去がいくらか進んでいるように見えた。崩れた建物の残骸が整然と積み上げられ、再利用可能な木材や石材が分別されている。 そして、その作業を指揮しているのは、これまでセレスティナが見てきた中央の役人やその私兵たちではなかった。 屈強な体つきに、統一された黒鉄の鎧をまとった兵士の一団。彼らこそが、噂に聞く辺境伯直属の兵団、「鉄狼団」だった。 セレスティナは、初めて彼らを間近で見た。 その姿は、中央の私兵たちとはあらゆる点で対照的だった。私兵たちがだらしなく着崩した、けばけばしい装飾の鎧とは違い、鉄狼団の鎧は実用性のみを追求した、無駄のないデザインをしている。磨き上げられてはいるが、そこかしこに歴戦の傷跡が刻まれており、彼らが本物の戦場を生き抜いてきた者たちであることを物語っていた。 彼らは作業中、ほとんど私語を交わさない。指揮官の簡潔な命令一下、まるで一つの生き物のように統率の取れた
狼の遠吠えが響いた夜から、セレスティナの世界は微かにその質を変えていた。 相変わらず朝は絶望的な冷気と共に訪れ、彼女は心を持たない人形のように瓦礫を運び続ける。だが、その無感動な日常の底に、一つの感情が澱のように溜まり始めていた。恐怖。それは、この辺境を支配するという「狼」、ライナスという名の男に向けられた、原始的で得体の知れない感情だった。 風の音に、あの遠吠えの幻聴を聞く。兵士たちの足音に、獣の忍び寄る気配を感じる。彼女はそれに怯えながらも、その感情を表に出す術を持たなかった。恐怖はただ、内へ内へと向かい、彼女の凍てついた心を内側から静かに蝕んでいく。 その日の作業中、彼女は監督役人たちの会話を、意図せず耳にした。彼らは中央から派遣された役人であり、この町の追放者や労働者を管理する立場にある。彼らは、新しい辺境伯であるライナスを明らかに快く思っていなかった。「ちっ、あの成り上がり者め。今日も朝から、城の周りで兵士どもに訳の分からん訓練をさせていやがった」 肥え太った役人が、地面に唾を吐きながら言う。彼の顔には、辺境での退屈な日々と、自分より上位の者がいることへの不満が滲み出ていた。「まあまあ、そういきりなさんな。どうせあんな平民上がりに、本物の統治なんざ出来やしませんよ。我々がしっかり手綱を握っていればいいだけの話です」 痩せて狐のような顔をした同僚が、彼をなだめるように言った。「手綱、だと? あいつは我々の忠告も聞かず、勝手なことばかりしているではないか。まるで、この町が自分の王国だとでも言いたげに。いずれ、ヴァインベルク宰相閣下にご注進せねばなるまい。辺境伯ライナスは、分を弁えぬ危険な男です、と」「それも良いでしょうな。ですが、それまでは上手くやりましょう。あちらはあちら、我々は我々。互いに干渉せぬのが、この辺境での賢い生き方というものです」 役人たちは、意味ありげに笑い合った。 セレスティナは、その会話からこの町の歪んだ力関係を漠然と悟った。この町には、二つの権力があるのだ。一つは、城にいるという「狼」、辺境伯ライナス。そしてもう一つが、中央から来たこれらの役人たち。そして、彼らは互いに牽制し合い、決して一枚岩では