LOGIN役人たちによる理不尽な略奪は、追放者たちの心に再び絶望の影を落とした。だが、その影は以前のものとは少し質が違っていた。かつてはただ無力感に打ちひしがれるだけだった彼らの心に、セレスティナという存在が灯した小さな灯火は、まだ完全には消えていなかったのだ。
「諦めたら、それこそ彼らの思う壺です」 泥の中から薬草の欠片を拾いながら放たれた彼女の言葉は、人々の心に深く刻み込まれていた。それは、この灰色の町で初めて耳にした、希望を諦めないという意志の表明だった。翌日から、彼らのささやかな抵抗が始まった。
それは、武器を取るような大仰なものではない。もっと静かで、知恵を使った、弱者のための戦術だった。 セレスティナの提案で、彼らは薬草や乏しい食料の隠し場所を分散させた。崩れた壁の隙間、瓦礫の山の奥深く、誰も近寄らない廃屋の床下。子供たちが見張りに立ち、役人や私兵の姿が見えれば、鳥の鳴き真似で仲間たちに知らせる。集めた薬草はすぐに乾燥させ、小さく砕いて布袋に入れ、いつでも持ち運べるようにした。 セレスティナは、その中心にいた。彼女はもはや、ただ看病をするだけの「聖女」ではなかった。その聡明な頭脳は、この極限状況を生き抜くための司令塔として機能し始めていた。どの場所に何を隠せば見つかりにくいか、誰に何を集めさせれば効率的か、病人の症状に応じて、どの薬草を優先的に確保すべきか。彼女は冷静に判断し、人々に的確な指示を与えた。 人々は、自然と彼女に従った。彼女のすみれ色の瞳には、この絶望的な状況を何とかしようとする、真摯な光が宿っていたからだ。かつて「人形令嬢」と囁いた者たちも、今では全幅の信頼を寄せていた。彼女の言葉は、この町の唯一の法であり、希望だった。 だが、その希望はあまりにも脆く、いつまた踏み潰されるか分からない、か細い光でしかなかった。彼らは常に、役人たちの気まぐれな暴力と、辺境伯という得体の知れない「狼」の影に怯えながら、息を潜めて生きていた。その夜、辺境の町は深い闇と静寂に包まれていた。
冷たい風が、廃屋の隙間をひゅうと鳴らしながら吹き抜ける。人々はそれぞれの塒で、なけなしの布にくるまり、つかの間の休息を取っていた。セレスティナもまた、壁際に身を寄せ、寒さに耐えながら浅い眠りの中にいた。 変化は、前触れもなく訪れた。 町の静寂を破ったのは、人の叫び声ではなかった。音もなく、影が動いた。 城の方角から現れた黒い集団が、まるで闇に溶け込むように、町の通りを疾走していく。その動きには一切の無駄がなく、足音さえほとんど立てない。彼らこそ、辺境伯ライナスが率いる精鋭、「鉄狼団」だった。 彼らは瞬く間に、目標である中央の役人たちが宿舎として使っている、この町では比較的大きな建物と、私兵たちの詰所を完全に包囲した。その動きは、狩りの訓練を積んだ狼の群れそのものだった。 中にいた役人や私兵たちは、何が起きたのかを理解する間もなかっただろう。 扉が内側から乱暴に開けられる音、甲高い悲鳴、そして金属がぶつかり合う鈍い音。それらの騒ぎは、しかし、ごく短時間でぴたりと止んだ。まるで、最初から何もなかったかのように、町は再び深い静寂に包まれた。ただ、建物の窓から漏れる明かりだけが、中で凄惨な何かが行われたことを物語っていた。 多くの住民は、そのかすかな物音に気づきさえしなかった。気づいた者も、いつもの私兵たちの狼藉か何かだろうと、布団を頭から被ってやり過ごすだけだった。 セレスティナは、遠くで聞こえた微かな騒音に、一瞬だけ目を覚ました。だが、すぐにそれは風の音に掻き消され、彼女の意識は再び疲労の底へと沈んでいった。 彼女はまだ知らない。この夜、この町で何が起こったのか。そして、その出来事が、自分の運命を根底から揺るがすことになるということを。 辺境の夜は、静かに、そして暴力的に、一つの時代の終わりを告げていた。翌朝。
いつものように、追放者たちを叩き起こす怒声が響いた。だが、その声の主は、いつもの中央の役人たちではなかった。黒鉄の鎧をまとった、鉄狼団の兵士だった。 「全員、広場へ集まれ。今すぐだ。辺境伯閣下からの命令である」 その声は感情を一切含まず、ただ命令を伝達するためだけの、硬質な響きを持っていた。 人々は何が起きたのか分からぬまま、恐怖と困惑の入り混じった表情で、ぞろぞろと広場へと向かった。そこには、すでに町の住民のほとんどが集められていた。そして、その広場の中心で、誰もが息を呑む光景が広がっていた。 これまで威張り散らしていた中央の役人たちと、その手先となって暴力を振るっていた私兵たちが、全員縄で縛り上げられ、無様に地面に跪かされていたのだ。ある者は恐怖に顔面を蒼白にし、ある者は怒りに顔を歪めているが、もはや何の威勢も残ってはいなかった。 そして、その罪人たちの前に、一人の男が立っていた。 セレスティナは、その男の姿を初めて見た。 日に焼けた肌に、無造作な黒髪。体格は屈強で、身にまとった黒基調の軍服の上からでも、鍛え上げられた肉体の厚みが分かる。顔や首筋には、傭兵時代についたであろう無数の傷跡が走り、それが彼の存在に凄まじい圧を与えていた。 そして何より、その瞳。 切れ長で、鋭い光を宿した金色の瞳。それは、猛禽類のように、広場にいる全ての人間を値踏みし、その魂の奥底まで見透かしているかのようだった。 彼こそが、この辺境の支配者。血も涙もないと噂される、「狼」。 辺境伯ライナス。 セレスティナは、その圧倒的な存在感を前に、呼吸をすることさえ忘れそうになった。恐怖。それは確かにある。だが、それだけではない。彼の全身から放たれるのは、これまで彼女が出会ったどの貴族とも違う、絶対的な強者のオーラだった。それは、血筋や権威によって得たものではない。彼自身の力だけで、幾多の死線を乗り越えてきた者だけが纏える、本物の覇気だった。ライナスは、集まった人々を一瞥すると、手にした羊皮紙を広げた。その声は、彼の風貌に似合わず、低く、落ち着いていた。だが、その静けさこそが、聞く者の背筋を凍らせるほどの威圧感を伴っていた。
「中央より派遣されし監督官、ヨハン・ベルガー。及び、その配下の者たち」 ライナスは、跪く役人の名を一人一人読み上げていく。 「貴様らの罪状を申し渡す。第一に、辺境復興のために中央より送られた備蓄物資の横流し。第二に、その横流しによって得た利益の着服。第三に、町の住民に対し、不当な重労働を課し、暴行、搾取を繰り返したこと」 彼は淡々と、しかし明瞭な口調で罪状を並べ立てた。広場に集まった人々から、どよめきが起こる。誰もが薄々感づいてはいたが、こうして公の場で断罪されるのを見るのは初めてだった。 「そ、それは事実無根だ! 我々は、宰相閣下のご命令に従い、この町の秩序を…」 肥え太った役人が、必死に反論しようとする。だが、ライナスは冷たい視線を彼に向けただけで、その言葉を遮った。 「黙れ、ハイエナ。貴様らの悪行は、全て裏が取れている」 ライナスが合図をすると、彼の側近であるギデオンと呼ばれた男が、何冊もの帳簿と、数人の証人を前へと引き出した。 「これは、貴様らが横流し業者と交わした取引の記録だ。そしてここにいる者たちは、貴様らに脅され、不当な取引に加担させられた商人たちだ。全て、証言は揃っている」 動かぬ証拠を突きつけられ、役人たちは顔面から血の気を失った。 ライナスは、再び広場の住民たちへと視線を向けた。 「この辺境は、法の及ばぬ無法地帯ではない。この地には、この地の法がある。そして、その法はただ一つ」 彼は、そこで一度言葉を切った。その金色の瞳が、ゆっくりとセレスティナのいる方角を向いた気がした。いや、それは彼女の思い過ごしだろう。だが、その視線に射抜かれたように、彼女は身を固くした。 「俺だ」 ライナスは、静かに、しかし絶対的な響きをもって言った。 「この辺境伯ライナスの言葉だけが、この地の法だ。そして俺の法は、弱き者から不当に奪うことを許さない。自らの力を恃み、他者を虐げるハイエナは、一匹たりともこの地に存在することを許さん」 それは、演説と呼ぶにはあまりに簡潔で、飾り気のない言葉だった。だが、その言葉には、どんな美辞麗句よりも重い、真実の響きがあった。 セレスティナは、衝撃に打たれたように立ち尽くしていた。 狼。蛮族。血も涙もない男。噂に聞いていた姿と、目の前の男の姿が、まるで結びつかない。 彼は、父を陥れたヴァインベルクのように、法を捻じ曲げて私腹を肥やすのではない。彼は、アランのように、保身のために正義を捨てるのでもない。 彼は、彼自身の力で、彼自身の正義を、この絶望の地に打ち立てようとしている。そのやり方は、あまりに暴力的で、独裁的かもしれない。だが、その根底にあるのは、腐敗を許さぬという、鋼のような公正さだった。 それは、かつて父が目指した理想とは、全く違う形をしていた。だが、その向かう先は、あるいは同じ場所なのかもしれない。 理不尽を許さず、弱き者を守る。 その思いが、この男の行動の根源にあるのだとしたら。 セレスティナの心に、激しい混乱と、そして今まで感じたことのない、かすかな光が差し込んでいた。それは、希望と呼ぶにはまだあまりに弱く、恐怖と混じり合った、複雑な色をしていた。「この者たちの処遇を言い渡す」
ライナスの声が、セレスティナを思考の海から引き戻した。 「首謀者である役人どもは、全ての財産を没収の上、これまで住民たちに課してきたものと同じ、瓦礫撤去の苦役に処す。食事も、お前たちが住民に与えていたものと同じものをくれてやる。死ぬまで働け」 その判決に、人々は息を呑んだ。処刑するよりも、ある意味では残酷な罰だった。 「そして、その手先となって暴力の限りを尽くした私兵ども。お前たちは、鉄狼団の兵士たちが自らの手で裁く。この辺境で、狼の群れに手を出せばどうなるか、その体で思い知れ」 その言葉が終わるや否や、鉄狼団の兵士たちが、罪人たちに襲いかかった。それは、もはや戦闘ではなく、一方的な蹂躙だった。私兵たちは、悲鳴を上げる間もなく、骨を砕かれ、地に叩きつけられていく。その光景はあまりに暴力的で、目を背ける者も多かった。 だが、誰も彼らを止めようとはしない。むしろ、これまで虐げられてきた住民たちの中には、その光景に快哉を叫ぶ者さえいた。 セレスティナは、目を背けなかった。彼女は、その暴力の嵐の中心に立つ、ライナスの姿をじっと見つめていた。彼は、その凄惨な光景を、表情一つ変えずに見届けている。その金色の瞳は、まるで嵐の目の中のように、静まり返っていた。やがて、嵐は過ぎ去った。
広場には、新しい秩序が生まれていた。腐敗した権力は一掃され、暴力は、より強く、より統制された暴力によって支配された。 その日の午後から、町の空気は明らかに変わった。追放者たちの労働内容は変わらないが、彼らを監視する兵士はすべて鉄狼団に代わり、理不尽な暴力や罵声はなくなった。食事の配給も、わずかではあったが質が改善された。濁った水は真水になり、黒パンには、薄いが温かいスープが添えられるようになった。 人々はまだ、新しい支配者に怯えてはいたが、その顔には、これまでなかった安堵の色が浮かんでいた。その夜。
セレスティナは、廃屋の壁際に座り、配給された温かいスープを、ゆっくりと味わっていた。それは、この辺境に来て初めて口にする、まともな食事だった。温かい液体が、冷え切った体を内側からじんわりと温めていく。 彼女の頭の中では、今日一日のできごとが、何度も繰り返されていた。 ライナスの、あの金色の瞳。 「俺が法だ」と告げた、あの静かな声。 恐怖。畏怖。そして、ほんの少しの…期待。 様々な感情が渦巻き、彼女はひどく混乱していた。 その時、廃屋の扉が、とん、とん、と静かに叩かれた。 セレスティナは驚いて、身を固くする。こんな時間に、一体誰が。 扉は、返事を待たずにゆっくりと開かれた。そこに立っていたのは、黒鉄の鎧をまとった、鉄狼団の兵士だった。それは、先日、幼い兄妹に自分の食料を分け与えていた、あの強面の男だった。 男は、セレスティナを一瞥すると、何も言わずに中へ入ってきた。そして、持っていた荷物を、彼女の足元に無造作に置く。 それは、厚手で上質な毛布の束と、まだ湯気の立つスープが入った器、そして焼きたてらしい柔らかなパンが数個入った袋だった。 セレスティナは、何が起きたのか理解できず、ただ呆然と男を見上げる。 男は、セレスティナの視線を受けると、少し気まずそうに視線を逸らした。そして、ぼそり、と呟く。 「…辺境伯閣下からだ」 それだけ言うと、彼はすぐに踵を返し、扉を開けた。去り際に、もう一言だけ、ぶっきらぼうに付け加える。 「風邪など引くな、とのことだ。明日からの作業に、支障が出る」 そう言うと、男は今度こそ闇の中へと姿を消し、扉は静かに閉められた。 廃屋に、セレスティナは一人取り残された。 目の前には、上質な毛布と、栄養のありそうな温かい食事。そして、耳の奥には、兵士が残した言葉が響いている。 辺境伯閣下からだ。 ライナスから。 なぜ? 彼女は、目の前のスープから立ち上る湯気を、ただじっと見つめていた。その温かさが、まるで彼の計り知れない意志そのものであるかのように思えた。 冷え切っていたはずの彼女の心に、その湯気と同じ、確かな温もりが、じんわりと広がり始めていた。それは、この灰色の町に来てから初めて感じる、戸惑いを伴った、しかし心地よい温かさだった。 すみれ色の瞳が、久しぶりに潤む。だが、それは絶望の涙ではなかった。森閑としていたはずの森が、突如として牙を剥いた。 木々の間から躍り出た鉄狼団と民兵たちの鬨の声は、混乱の極みにあった討伐軍の兵士たちの心を、いとも容易く砕いた。「な、側面だ! 側面から敵襲!」「陣形を組め! 立て直すんだ!」 将校たちの怒声が飛ぶが、それはもはや空虚な響きでしかなかった。先鋒の壊滅と退路の喪失でパニックに陥っていた兵士たちは、この予期せぬ奇襲に対応できず、ただ右往左往するばかり。そこに、死神の宣告が響き渡る。「そこをどけぇぇっ!」 ライナスが振るう巨大な戦斧が、人馬の壁を紙屑のように吹き飛ばした。彼の進む道には、凄惨な血の轍が刻まれていく。それはもはや戦ではなく、一方的な蹂躙だった。彼の背後から、ギデオン率いる鉄狼団が、まるで主君の切り開いた道を広げるように、的確に敵の陣形を切り崩していく。「怯むな! 敵は少数だ! 数で押しつぶせ!」 ベルガー元帥は、本陣で馬上で吼えた。彼は親衛隊を盾に、必死で崩壊する軍の統率を取り戻そうと試みる。だが、その試みは、森の地の利を最大限に活かした辺境軍の前に、ことごとく阻まれた。 討伐軍の兵士たちは、王都周辺の平原での戦いには慣れている。だが、複雑な地形、木々や岩陰から放たれる矢、どこから現れるか分からない敵兵、という不慣れな戦場では、その数の優位性を全く活かせなかった。「くそっ、これが辺境の戦い方か…!」 ベルガーは歯噛みした。敵兵の中には、明らかに正規の訓練を受けていない、農夫や猟師のような者たちが多数混じっている。だが、彼らの目には、故郷の土地を踏みにじる侵略者への、剥き出しの憎悪と決意が宿っていた。その気迫が、恐怖に駆られた討伐軍の士気を、さらに蝕んでいく。(それにしても…手際が良すぎる…) ベルガーは、自ら剣を抜き、襲い掛かってくる敵兵を斬り伏せながら、戦慄を覚えていた。 隘路への誘導、完璧なタイミングでの罠の発動、退路の破壊、そしてこの側面奇襲。その全てが、まるで一つの組曲のように、淀みなく、完璧に連動している。 ライナスという男は、確かに恐るべき武人だ。だが、この戦全体の構図は、
三方を険しい崖に囲まれた鷲ノ巣谷は、天然の墓場だった。 空は狭く、切り立った岩肌が威圧するように迫ってくる。モーリス准将率いる騎士団は、辺境伯ライナスというたった一人の獲物を追い、何の疑いもなくその墓場へと足を踏み入れた。「逃がすな! あと一息だ!」 モーリスの怒声が、谷壁に反響する。彼の目には、前方を逃げるライナスの背中しか映っていなかった。その背中が、谷の最奥、行き止まりと思しき場所でようやく止まった。「もはや袋の鼠よ、反逆者め!」 モーリスは勝ち誇った。功績を独り占めする自身の輝かしい未来が、目の前にちらついた。 だが、振り返ったライナスの口元には、嘲笑が浮かんでいた。それは、罠にかかった愚かな獣を見下す、狩人の笑みだった。「鼠は、どちらかな」 ライナスが静かに呟き、右手を高く掲げた、その瞬間。 世界が、轟音と絶叫に包まれた。「な、なんだ!? 何が起きた!」 モーリスが空を仰ぐと、信じがたい光景が広がっていた。崖の上から、巨大な岩石や丸太が、雨あられと降り注いでくる。それは、地響きを伴う死の豪雨だった。「うわあああっ!」「伏せろ! 崖に張り付け!」 騎士たちの悲鳴が、岩の砕ける音にかき消されていく。密集していた騎士団は、格好の的だった。屈強な軍馬は頭を砕かれて嘶き、誇り高き騎士たちは、その白銀の甲冑ごと、巨大な質量によって無慈悲に圧し潰されていった。 後方からは、退路を断つように、火矢が降り注ぐ。あらかじめ用意されていたのだろう、油を染み込ませた枯れ木や獣脂に火がつき、谷は一瞬にして炎と黒煙に満ちた阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。「罠だ…! 罠にはまったのだ!」 モーリスは、ようやく自らの愚行を悟り、恐怖に顔を引きつらせた。前後を岩と炎で塞がれ、上からは死が降り注ぐ。もはや逃げ場はどこにもなかった。 パニックに陥った兵士たちが、同士を押し退け、わずかな隙間を求めて殺到する。統率を失った軍隊ほど、脆いものはない。モーリスの騎士団は、敵と刃を交えることなく、自滅に近い形で崩壊していった。 その惨状を、ライナス
辺境の空は、王都のそれよりも低く、重く垂れ込めているように感じられた。 鬱蒼と生い茂る木々は昼なお暗い影を落とし、岩がちな土壌は屈強な軍馬の蹄さえもてこずらせる。グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の進軍速度は、王都を出立した頃の勢いが嘘のように、目に見えて落ちていた。「忌々しい土地だ。まるで獣の巣だな」 副官であるモーリス准将が、鞍の上で顔をしかめて吐き捨てた。彼の白銀の甲冑も、数日間の野営と悪路のせいで、もはや輝きを失い泥に汚れている。そのいら立ちは、彼だけのものではなかった。兵士たちの間にも、疲労と、そして姿を見せぬ敵への苛立ちがじわじわと広がっている。「斥候からの報告はまだか」 ベルガーは、険しい表情を崩さぬまま、低く問うた。彼の百戦錬磨の経験が、この不気味な静けさの中に潜む危険を警告していた。だが、その警告は、辺境の狼とやらに対する侮りによって、わずかに鈍らされていた。「はっ。先ほど戻った者の報告によれば、この先の谷筋に、敵が防御陣地を築いた痕跡があったとのこと。ですが、すでに放棄されており、もぬけの殻だったと」 モーリスの報告に、ベルガーは眉をひそめる。「またか。これで三度目だぞ」 ここ数日、討伐軍は何度も同じような状況に遭遇していた。敵が潜んでいそうな隘路や森に差し掛かるたび、斥候が簡素なバリケードや焚き火の跡といった、敵の存在を示す痕跡を発見する。だが、いざ軍を進めてみると、そこに敵の姿はなく、まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥るのだ。「奴ら、我らの進軍に恐れをなして、後退を繰り返しているのでしょう。さすがの蛮族も、一万の軍勢を前にしては、戦う前から腰が引けているのです」 モーリスは、自信満々に言い切った。彼の目には、ライナス軍が恐怖のあまり逃げ惑っている姿が、ありありと映っているようだった。「だと良いがな」 ベルガーは短く応じたが、その心には一抹の疑念が渦巻いていた。 ライナス。戦場で功を立てただけの、平民上がりの男。その戦い方は、奇襲やゲリラ戦を得意とする、いわば野盗のそれに近いものだと聞いている。そのような男が、正面からの決戦を避けて逃げ回るのは、ある意味
王都を発った討伐軍の進軍は、壮麗な絵巻物のようであった。 先頭を行くのは、王国最強と謳われるベルガー元帥麾下の重装騎士団。磨き上げられた白銀の甲冑は春の陽光を浴びてまばゆい光を放ち、馬蹄の響きは大地を規則正しく揺るがした。兵士たちの顔には一点の曇りもない。彼らにとってこの戦は、王家に弓引く不届きな成り上がり者を討つだけの、単なる武勲稼ぎの遠足に過ぎなかった。「元帥閣下。実に壮観ですな」 副官であるモーリス准将が、馬を寄せて得意げに言った。彼の若々しい顔には、貴族特有の傲慢さと、これから始まる戦への期待が浮かんでいる。「これほどの軍勢を前にして、辺境の狼とやらも震え上がって城に籠もることしかできますまい」「フン、城に籠もるだけの知恵があれば、の話だがな」 総指揮官であるグスタフ・フォン・ベルガー元帥は、鼻を鳴らした。彼は、歴戦の武人らしい厳格な貌を少しも崩さない。その瞳は、眼前に広がる平坦な街道の、さらにその先にある辺境の山々を侮蔑の色を込めて見据えていた。「所詮は戦場で運を拾っただけの平民だ。正式な軍学も知らぬまま、己の力を過信しているにすぎん。あるいは我らの威容に恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ出すやもしれんぞ」「ははは、それはあり得ますな。そうなれば追撃も一苦労でございます」 モーリスは楽しそうに笑った。周囲の騎士たちからも、同調するような笑い声が漏れる。彼らの頭の中には、ライナスという男が率いる軍勢の姿など、もはや存在していなかった。あるのは、手柄を立てて王都に凱旋する、輝かしい自分たちの姿だけだ。 ベルガーは、内心でこの楽観的な空気を苦々しく思いつつも、それをあえて咎めはしなかった。兵の士気が高いのは良いことだ。それに、彼自身もまた、この戦が短期決戦で終わると確信していた。 ライナスという男の経歴は調べさせてある。平民の出で、傭兵として各地を転々とし、先の戦争で偶然にも大きな戦功を挙げた。その手腕は確かに認めよう。だが、それはあくまで小競り合いや奇襲といった、ゲリラ戦の範疇を出ないものだ。 正規の軍隊同士がぶつかり合う、本当の戦争というものを、あの男は知らない。 兵法、陣形、兵站。それら全てが複
その報せは、冬の終わりの冷たい風に乗って、辺境の地に吹き付けた。 王都の地下に潜伏していた密使ザイファルトの部下の一人が、瀕死の状態で城に帰還したのは、凍てつくような風が吹く日の夕刻だった。男は馬の鞍の上で意識を失う寸前だった。その背中には、ヴァインベルクのスパイであることを示す蛇の紋章が刻まれた矢が深々と突き刺さっている。 男がもたらした、たった一枚の羊皮紙。そこに記された短い言葉が、城の作戦司令室の空気を絶対零度まで凍てつかせた。『辺境伯ライナス、反逆者に認定さる。討伐軍、総兵力一万、王都を出立せり』 絶望的な内容だった。 部屋にはライナスとセレスティナ、そして側近のギデオンをはじめとする鉄狼団の主要な幹部たちが集まっている。彼らは、いつかこの日が来ることを覚悟してはいた。だが、敵の動きは、そしてその規模は、彼らの想像を遥かに超えていた。「一万…ですと…?」 ギデオンの声が、怒りと信じられないという響きで震えていた。「我が鉄狼団の総兵力は、民兵を合わせても二千がやっと。五倍の兵力差…これでは、もはや…」 それはまともに戦えば勝ち目のない数字だった。 辺境の民がどれだけ団結しようと、地の利を活かそうと、正規の訓練を受けた中央軍の大軍勢の前では、風の前の塵に同じ。 重い、絶望的な沈黙が部屋を支配した。 だが、その沈黙を破ったのは、当のライナス自身の、楽しげでさえある声だった。「面白い。実に、面白いではないか」 彼は玉座に深く腰掛けたまま、不敵な笑みを浮かべていた。その金色の瞳には絶望の色は微塵もない。むしろ、絶体絶命の窮地を前にして、初めて己の全力を振るえることに歓喜する、本物の戦士の目がそこにあった。「あの老獪な狐めが、ようやくその重い腰を上げ、自ら戦場に出てくるというのだ。ならばこちらも、それに相応しい歓迎をしてやらねば、礼を失するというものだろう」「か、閣下…!正気ですか!」 ギデオンが、信じられないという顔で叫んだ。「ああ、正気だとも」 ライナスはゆっくりと立ち上がった
王城の奥深く、国王の私室は、昼間だというのに薄暗い沈黙に支配されていた。 壁にかけられた壮麗なタペストリーも、磨き上げられた黒檀の調度品も、その主の心に宿る深い絶望の前では、色褪せたガラクタに過ぎなかった。老王は、窓辺の椅子に深く身を沈め、自らの手の甲に浮かんだ、枯れ木のような染みをただ見つめていた。 昨日の、あの玉座の間での出来事が、悪夢のように脳裏に蘇る。 宰相ヴァインベルクの、巧みで、そして毒に満ちた讒言。それに同調する貴族たちの、媚びを含んだ視線。そして、目の前に突きつけられた、辺境伯ライナスが反逆者であるという「動かぬ証拠」。 国王は、それが偽りであると、心のどこかで分かっていた。 あの密書は、あまりに都合が良すぎる。あのライナスという男が、これほど稚拙で、分かりやすい証拠を残すとは思えなかった。彼は、戦場で功を立てただけの蛮族ではない。その報告書から窺える統治の手腕は、むしろ王都のどの貴族よりも、怜悧で、理性的ですらあった。 だが、老王には、それに異を唱えるだけの力が、もはや残されていなかった。 ヴァインベルクは、この国の政治、軍事、そして経済の全てを、その蜘蛛の巣のような権力網で、完全に掌握している。彼に逆らうことは、この王国そのものを、内側から崩壊させる危険を孕んでいた。 そして何より、老王自身の心は、過去の過ちによって、深く蝕まれていたのだ。 アルトマイヤー公爵。 あの、誰よりも誠実だった忠臣を、自分は、この同じ男の讒言を信じて、見殺しにした。あの時の、公爵の最後の絶望に満ちた瞳を、忘れた日は一日たりともない。 今また、同じ過ちを繰り返すのか。 自問する声が、胸の内で虚しく響く。だが、答えはすでに出ていた。彼は、もう一度、己の魂を裏切るしかないのだ。王として、この国の安寧という大義名分のために。「陛下」 背後から、侍従長の、感情を殺した声がした。「宰相閣下が、勅命の署名を、お待ちでございます」 国王は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がると、震える足で、部屋の中央に置かれた執務机へと向かった。 机の上には、一枚の上質な羊皮紙が広げら







