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第13話 凍てつく心 - 3

last update Date de publication: 2025-08-14 20:48:58

 辺境の冬は、容赦を知らない暴君だった。空から絶え間なく降り注ぐ雪は、世界の輪郭を白く塗りつぶし、人々のささやかな希望さえも凍らせていく。飢えと寒さは死の同義語であり、昨日まで言葉を交わした者が、翌朝には冷たい骸となって発見されることも珍しくなかった。

 だが、そんな灰色の絶望が支配する町の一角で、ほんの小さな、しかし確かな変化が生まれていた。

 セレスティナが寝床とする廃屋。その場所は、いつしか「診療所」のような役割を担うようになっていた。彼女の元には、体調を崩した者やその家族が、途切れることなく助けを求めにやってくる。

「お嬢様、どうか私の息子を…! 熱が下がらなくて…」

 ぼろ布をまとった母親が、ぐったりとした幼い息子を抱いて駆け込んできた。セレスティナは、その青白い顔を一瞥すると、冷静に、しかし迅速に行動を始める。

「こちらへ。とにかく体を温めないと」

 彼女は、廃屋の風が一番当たらない隅に、追放者たちが持ち寄ってくれたなけなしの藁を厚く敷き、そこに子供を寝かせた。彼女自身のぼろぼろになった囚人服の上着を脱ぎ、子供の体にかけてやる。

「ありがとうございます、ありがとうございます…」

 母親は涙ながらに感謝を繰り返す。セレスティナはそれに構わず、石で砕いた解熱作用のある植物の根を、ぬるま湯に溶かして子供の口に含ませた。それは薬と呼ぶにはあまりに粗末なものだったが、彼女の真摯な眼差しと優しい手つきは、それ以上の効果を持っているようだった。

 セレスティナの周りには、いつしか数人の女性たちが集まり、彼女の手伝いを申し出るようになっていた。ある者は、雪の下から薬草を探し出すのを手伝い、ある者は、乏しい燃料を分け与えて、病人のための湯を沸かす。

 かつては互いに無関心で、自分のことで精一杯だった人々が、セレスティナという存在を核にして、再び失われた絆を取り戻し始めていた。それは、この極寒の地で生き延びるための、小さな共同体の誕生だった。

 セレスティナは、人々から「お嬢様」と呼ばれ、いつしかその呼び名は畏敬と親しみを込めたものに変わっていた。「人形令嬢」と囁かれていた頃の、気味悪げな視線を向ける者はもういない。彼女は、この絶望の淵に現れた、最後の希望の象徴だった。

 だが、セレスティナ自身に、その自覚はなかった。彼女はただ、母との約束を果たすため、生きるために必死だった。そして、目の前で苦しんでいる人を見過ごすことができなかっただけだ。父ならば、きっとそうしただろう。民の痛みに寄り添い、決して見捨てはしない。その教えが、彼女の骨の髄まで染み込んでいた。

 彼女のすみれ色の瞳は、かつての輝きを取り戻しつつあった。それは幸福の光ではない。この理不尽な現実と対峙し、乗り越えようとする、強い意志の光だった。

 しかし、その小さな希望の灯を、快く思わない者たちがいた。

 中央から派遣された役人たちである。

 その日、町の監督役である肥え太った役人が、数人の私兵を連れて、セレスティナのいる廃屋に姿を現した。彼は、病人に寄り添うセレスティナと、その周りに集まる人々の様子を、不快そうに一瞥した。

「おい、貴様。何をしている」

 役人の横柄な声に、廃屋の中の空気が一瞬で凍りつく。母親たちは怯えたように身を寄せ合い、病人の子供は不安げにセレスティナの服の裾を握った。

 セレスティナはゆっくりと立ち上がると、役人に真っ直ぐ向き直った。その瞳には、もはや怯えの色はない。

「ご覧の通りです。病気の方の手当てを」

「手当てだと? 罪人の分際で、医者の真似事か。おこがましいにも程があるぞ」

 役人は、鼻で笑った。

「貴様のような者が勝手な振る舞いをすると、町の秩序が乱れる。第一、その怪しげな草木で、病が悪化したらどう責任を取るのだ」

「責任は私が取ります。ですが、何もしなければ、この方たちは確実に命を落とすでしょう。あなた方は、これまで何人の方が亡くなっても、何一つ手を差し伸べてはくださいませんでした」

 セレスティナの静かな、しかし芯の通った反論に、役人は一瞬言葉を失った。そして、その顔が怒りで赤黒く染まる。

「口答えをするか、この女! 俺たちに逆らうというのか!」

 役人は、腰の剣の柄に手をかけた。その威圧に、周囲の女たちが悲鳴を上げる。

 だが、セレスティナは動じなかった。彼女は、役人の目をじっと見据え、続けた。

「逆らうつもりはありません。ただ、事実を申し上げたまで。ここにいる者たちは、労働力としてあなた方の管理下にあるはず。彼らが死ねば、あなた方の利益も損なわれるのではありませんか」

 その言葉は、役人の一番痛いところを突いていた。彼らは、追放者たちを人間としてではなく、ただの労働力、搾取の対象としてしか見ていない。その労働力が失われることは、彼らの怠惰な生活を脅かすことに直結する。

「…面白いことを言う」

 役人は、にやりと歪んだ笑みを浮かべた。

「なるほどな。元公爵令嬢様は、頭の出来が違うらしい。よかろう、その減らず口、いつまで叩けるか見ものだな」

 役人は、それだけ言うと、私兵たちに顎をしゃくった。

「こいつが集めたガラクタを、すべて押収しろ。町の衛生管理のためだ。得体の知れない草木が、新たな病の原因にならんとも限らんからな」

「そ、そんな!」

 手伝いの女たちが、悲痛な声を上げる。

 私兵たちは、げらげらと笑いながら、セレスティナたちが苦労して集めた薬草の束や、植物の根を収めた布袋を、次々と踏みつけ、蹴散らしていった。それは、人々が生きるための、最後の希望の綱だった。

 セレスティナは、その光景を、唇を強く噛みしめながら見つめていた。抵抗しても無駄なことは分かっている。今は、耐えるしかない。

 やがて、嵐のように廃屋を荒らし回った役人たちは、満足げに引き上げていった。

 後に残されたのは、無残に散らばった薬草の残骸と、呆然と立ち尽くす人々、そして重い沈黙だけだった。

「ひどい…あんまりだわ…」

 誰かが、嗚咽を漏らした。その声に引きずられるように、あちこちで絶望のすすり泣きが始まる。せっかく灯りかけた希望の光が、再び踏み消されようとしていた。

 だが、セレスティナは泣かなかった。

 彼女は、膝をつくと、泥の中に散らばった薬草の欠片を、一つ一つ拾い始めた。その指先は震えていたが、その瞳の光は少しも揺らいでいなかった。

「やめてはいけません」

 彼女は、泣きじゃくる人々に向かって、静かに、しかし力強く言った。

「奪われたのなら、また集めればいい。踏みつけられたのなら、もっと強い根を持つ草を探せばいい。諦めたら、それこそ彼らの思う壺です」

 その言葉に、人々ははっと顔を上げた。

「でも、また奪われるかもしれない…」

 誰かが不安げに言う。

「ええ、そうかもしれません。だから、知恵を使うのです。彼らに見つからない場所に隠す方法を考えましょう。乾燥させて、保存する方法も。もっと効率よく、多くの薬草を集めるにはどうすればいいか。皆で考えれば、きっと道は開けるはずです」

 セレスティナの声は、不思議な力を持っていた。それは、ただ人々を慰めるだけの優しい言葉ではない。困難な現実を直視し、具体的な解決策を示し、共に行動することを促す、リーダーの言葉だった。

 絶望の淵にいた人々は、彼女のその気高い姿に、再び立ち上がる勇気を与えられた。彼らは涙を拭うと、セレスティナに倣い、泥の中から薬草を拾い始めた。

 セレスティナは、その様子を静かに見守っていた。彼女の心の中では、役人たちへの怒りが、冷たい炎のように燃え盛っていた。だが、それ以上に、彼女は確かな手応えを感じていた。

 私は、一人ではない。

 この人々となら、きっとこの冬を乗り越えられる。

 彼女は、この灰色の町で、初めて「仲間」と呼べる存在を得たのかもしれない。それは、かつて王都の夜会で交わした、上辺だけの友情とは全く違う、共に生きるための、血の通った絆だった。

Side: ライナス

 辺境伯の執務室に、側近であるギデオンの切迫した声が響いた。

「閣下! 中央の役人どもが、アルトマイヤー嬢の活動を妨害し始めました。集めた薬草を、不当に没収したとのことです」

 暖炉の前に立ち、窓の外の吹雪を眺めていたライナスは、ゆっくりと振り返った。その顔はいつもと変わらず無表情だったが、切れ長の金色の瞳の奥に、地獄の業火を思わせる、危険な光が宿っていた。

「…そうか」

 ライナスの低い声は、静かだった。だが、その静けさこそが、彼の激しい怒りを示していることを、ギデオンは知っていた。

「奴ら、俺の獲物に手を出したか」

「閣下…?」

 ギデオンが聞き返すと、ライナスは自嘲するようにフッと息を漏らした。

「いや、独り言だ。それで、彼女はどうしている」

「それが…少しも動じることなく、再び薬草を集め始めている、と。むしろ、その一件で追放者たちの結束はさらに強まった模様です」

「だろうな」

 ライナスは、満足げに頷いた。

 あの女は、その程度のことで折れるような、か弱い花ではない。むしろ、逆境を糧にして、さらに強く、気高く咲き誇る。それを、彼は最初から見抜いていた。

 だが、見抜いていたことと、許せるかどうかは別の話だ。

 ライナスは、ギデオンに向き直った。

「潮時、と言ったな。あれは取り消す」

「と、申されますと?」

「今すぐだ。計画を実行に移す」

 その言葉に、ギデオンは息を呑んだ。彼の主が、これほど感情を露わにして、決断を早めることは極めて稀だった。

「しかし閣下、準備がまだ完全に整っておりませんが…」

「構わん。多少強引でも、やり遂げろ。あのハイエナどもに、これ以上彼女を好きにさせておくつもりはない」

 ライナスの声には、絶対的な意志が込められていた。それはもはや、辺境伯としての合理的な判断ではない。一人の男としての、剥き出しの独占欲と庇護欲だった。

 彼は、セレスティナ・アルトマイヤーという存在を、自分の領域にいる、特別な獲物だと認識していた。傷つけ、追い詰めるのは自分だけでいい。他の誰にも、指一本触れさせるつもりはなかった。

 特に、ヴァインベルクの息がかかった、腐臭を放つハイエナどもには。

「ギデオン。鉄狼団の精鋭を集めろ。今夜、狼狩りだ」

「はっ! 御意!」

 ギデオンは、主の瞳に燃える激しい光を見て、武人としての血が沸き立つを感じた。彼は力強く頷くと、足早に部屋を出て行った。

 一人残されたライナスは、再び窓の外に視線を戻す。彼の視線は、町の最も貧しい一角にある、小さな廃屋に注がれていた。

 (もう少しの辛抱だ、セレスティナ)

 彼の心の中で、その名を呼ぶ。

 (お前を、俺の巣に連れ帰る時が来た)

 金色の瞳が、獲物を狩る直前の狼のように、鋭く細められた。

 辺境の長い夜が、終わろうとしていた。

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