ログイン辺境の冬は、容赦を知らない暴君だった。空から絶え間なく降り注ぐ雪は、世界の輪郭を白く塗りつぶし、人々のささやかな希望さえも凍らせていく。飢えと寒さは死の同義語であり、昨日まで言葉を交わした者が、翌朝には冷たい骸となって発見されることも珍しくなかった。
だが、そんな灰色の絶望が支配する町の一角で、ほんの小さな、しかし確かな変化が生まれていた。 セレスティナが寝床とする廃屋。その場所は、いつしか「診療所」のような役割を担うようになっていた。彼女の元には、体調を崩した者やその家族が、途切れることなく助けを求めにやってくる。「お嬢様、どうか私の息子を…! 熱が下がらなくて…」
ぼろ布をまとった母親が、ぐったりとした幼い息子を抱いて駆け込んできた。セレスティナは、その青白い顔を一瞥すると、冷静に、しかし迅速に行動を始める。 「こちらへ。とにかく体を温めないと」 彼女は、廃屋の風が一番当たらない隅に、追放者たちが持ち寄ってくれたなけなしの藁を厚く敷き、そこに子供を寝かせた。彼女自身のぼろぼろになった囚人服の上着を脱ぎ、子供の体にかけてやる。 「ありがとうございます、ありがとうございます…」 母親は涙ながらに感謝を繰り返す。セレスティナはそれに構わず、石で砕いた解熱作用のある植物の根を、ぬるま湯に溶かして子供の口に含ませた。それは薬と呼ぶにはあまりに粗末なものだったが、彼女の真摯な眼差しと優しい手つきは、それ以上の効果を持っているようだった。 セレスティナの周りには、いつしか数人の女性たちが集まり、彼女の手伝いを申し出るようになっていた。ある者は、雪の下から薬草を探し出すのを手伝い、ある者は、乏しい燃料を分け与えて、病人のための湯を沸かす。 かつては互いに無関心で、自分のことで精一杯だった人々が、セレスティナという存在を核にして、再び失われた絆を取り戻し始めていた。それは、この極寒の地で生き延びるための、小さな共同体の誕生だった。セレスティナは、人々から「お嬢様」と呼ばれ、いつしかその呼び名は畏敬と親しみを込めたものに変わっていた。「人形令嬢」と囁かれていた頃の、気味悪げな視線を向ける者はもういない。彼女は、この絶望の淵に現れた、最後の希望の象徴だった。
だが、セレスティナ自身に、その自覚はなかった。彼女はただ、母との約束を果たすため、生きるために必死だった。そして、目の前で苦しんでいる人を見過ごすことができなかっただけだ。父ならば、きっとそうしただろう。民の痛みに寄り添い、決して見捨てはしない。その教えが、彼女の骨の髄まで染み込んでいた。 彼女のすみれ色の瞳は、かつての輝きを取り戻しつつあった。それは幸福の光ではない。この理不尽な現実と対峙し、乗り越えようとする、強い意志の光だった。しかし、その小さな希望の灯を、快く思わない者たちがいた。
中央から派遣された役人たちである。 その日、町の監督役である肥え太った役人が、数人の私兵を連れて、セレスティナのいる廃屋に姿を現した。彼は、病人に寄り添うセレスティナと、その周りに集まる人々の様子を、不快そうに一瞥した。 「おい、貴様。何をしている」 役人の横柄な声に、廃屋の中の空気が一瞬で凍りつく。母親たちは怯えたように身を寄せ合い、病人の子供は不安げにセレスティナの服の裾を握った。 セレスティナはゆっくりと立ち上がると、役人に真っ直ぐ向き直った。その瞳には、もはや怯えの色はない。 「ご覧の通りです。病気の方の手当てを」 「手当てだと? 罪人の分際で、医者の真似事か。おこがましいにも程があるぞ」 役人は、鼻で笑った。 「貴様のような者が勝手な振る舞いをすると、町の秩序が乱れる。第一、その怪しげな草木で、病が悪化したらどう責任を取るのだ」 「責任は私が取ります。ですが、何もしなければ、この方たちは確実に命を落とすでしょう。あなた方は、これまで何人の方が亡くなっても、何一つ手を差し伸べてはくださいませんでした」 セレスティナの静かな、しかし芯の通った反論に、役人は一瞬言葉を失った。そして、その顔が怒りで赤黒く染まる。 「口答えをするか、この女! 俺たちに逆らうというのか!」 役人は、腰の剣の柄に手をかけた。その威圧に、周囲の女たちが悲鳴を上げる。 だが、セレスティナは動じなかった。彼女は、役人の目をじっと見据え、続けた。 「逆らうつもりはありません。ただ、事実を申し上げたまで。ここにいる者たちは、労働力としてあなた方の管理下にあるはず。彼らが死ねば、あなた方の利益も損なわれるのではありませんか」 その言葉は、役人の一番痛いところを突いていた。彼らは、追放者たちを人間としてではなく、ただの労働力、搾取の対象としてしか見ていない。その労働力が失われることは、彼らの怠惰な生活を脅かすことに直結する。 「…面白いことを言う」 役人は、にやりと歪んだ笑みを浮かべた。 「なるほどな。元公爵令嬢様は、頭の出来が違うらしい。よかろう、その減らず口、いつまで叩けるか見ものだな」 役人は、それだけ言うと、私兵たちに顎をしゃくった。 「こいつが集めたガラクタを、すべて押収しろ。町の衛生管理のためだ。得体の知れない草木が、新たな病の原因にならんとも限らんからな」 「そ、そんな!」 手伝いの女たちが、悲痛な声を上げる。 私兵たちは、げらげらと笑いながら、セレスティナたちが苦労して集めた薬草の束や、植物の根を収めた布袋を、次々と踏みつけ、蹴散らしていった。それは、人々が生きるための、最後の希望の綱だった。 セレスティナは、その光景を、唇を強く噛みしめながら見つめていた。抵抗しても無駄なことは分かっている。今は、耐えるしかない。 やがて、嵐のように廃屋を荒らし回った役人たちは、満足げに引き上げていった。 後に残されたのは、無残に散らばった薬草の残骸と、呆然と立ち尽くす人々、そして重い沈黙だけだった。 「ひどい…あんまりだわ…」 誰かが、嗚咽を漏らした。その声に引きずられるように、あちこちで絶望のすすり泣きが始まる。せっかく灯りかけた希望の光が、再び踏み消されようとしていた。だが、セレスティナは泣かなかった。
彼女は、膝をつくと、泥の中に散らばった薬草の欠片を、一つ一つ拾い始めた。その指先は震えていたが、その瞳の光は少しも揺らいでいなかった。 「やめてはいけません」 彼女は、泣きじゃくる人々に向かって、静かに、しかし力強く言った。 「奪われたのなら、また集めればいい。踏みつけられたのなら、もっと強い根を持つ草を探せばいい。諦めたら、それこそ彼らの思う壺です」 その言葉に、人々ははっと顔を上げた。 「でも、また奪われるかもしれない…」 誰かが不安げに言う。 「ええ、そうかもしれません。だから、知恵を使うのです。彼らに見つからない場所に隠す方法を考えましょう。乾燥させて、保存する方法も。もっと効率よく、多くの薬草を集めるにはどうすればいいか。皆で考えれば、きっと道は開けるはずです」 セレスティナの声は、不思議な力を持っていた。それは、ただ人々を慰めるだけの優しい言葉ではない。困難な現実を直視し、具体的な解決策を示し、共に行動することを促す、リーダーの言葉だった。 絶望の淵にいた人々は、彼女のその気高い姿に、再び立ち上がる勇気を与えられた。彼らは涙を拭うと、セレスティナに倣い、泥の中から薬草を拾い始めた。 セレスティナは、その様子を静かに見守っていた。彼女の心の中では、役人たちへの怒りが、冷たい炎のように燃え盛っていた。だが、それ以上に、彼女は確かな手応えを感じていた。 私は、一人ではない。 この人々となら、きっとこの冬を乗り越えられる。 彼女は、この灰色の町で、初めて「仲間」と呼べる存在を得たのかもしれない。それは、かつて王都の夜会で交わした、上辺だけの友情とは全く違う、共に生きるための、血の通った絆だった。Side: ライナス
辺境伯の執務室に、側近であるギデオンの切迫した声が響いた。
「閣下! 中央の役人どもが、アルトマイヤー嬢の活動を妨害し始めました。集めた薬草を、不当に没収したとのことです」 暖炉の前に立ち、窓の外の吹雪を眺めていたライナスは、ゆっくりと振り返った。その顔はいつもと変わらず無表情だったが、切れ長の金色の瞳の奥に、地獄の業火を思わせる、危険な光が宿っていた。 「…そうか」 ライナスの低い声は、静かだった。だが、その静けさこそが、彼の激しい怒りを示していることを、ギデオンは知っていた。 「奴ら、俺の獲物に手を出したか」 「閣下…?」 ギデオンが聞き返すと、ライナスは自嘲するようにフッと息を漏らした。 「いや、独り言だ。それで、彼女はどうしている」 「それが…少しも動じることなく、再び薬草を集め始めている、と。むしろ、その一件で追放者たちの結束はさらに強まった模様です」 「だろうな」 ライナスは、満足げに頷いた。 あの女は、その程度のことで折れるような、か弱い花ではない。むしろ、逆境を糧にして、さらに強く、気高く咲き誇る。それを、彼は最初から見抜いていた。 だが、見抜いていたことと、許せるかどうかは別の話だ。 ライナスは、ギデオンに向き直った。 「潮時、と言ったな。あれは取り消す」 「と、申されますと?」 「今すぐだ。計画を実行に移す」 その言葉に、ギデオンは息を呑んだ。彼の主が、これほど感情を露わにして、決断を早めることは極めて稀だった。 「しかし閣下、準備がまだ完全に整っておりませんが…」 「構わん。多少強引でも、やり遂げろ。あのハイエナどもに、これ以上彼女を好きにさせておくつもりはない」 ライナスの声には、絶対的な意志が込められていた。それはもはや、辺境伯としての合理的な判断ではない。一人の男としての、剥き出しの独占欲と庇護欲だった。 彼は、セレスティナ・アルトマイヤーという存在を、自分の領域にいる、特別な獲物だと認識していた。傷つけ、追い詰めるのは自分だけでいい。他の誰にも、指一本触れさせるつもりはなかった。 特に、ヴァインベルクの息がかかった、腐臭を放つハイエナどもには。 「ギデオン。鉄狼団の精鋭を集めろ。今夜、狼狩りだ」 「はっ! 御意!」 ギデオンは、主の瞳に燃える激しい光を見て、武人としての血が沸き立つを感じた。彼は力強く頷くと、足早に部屋を出て行った。 一人残されたライナスは、再び窓の外に視線を戻す。彼の視線は、町の最も貧しい一角にある、小さな廃屋に注がれていた。 (もう少しの辛抱だ、セレスティナ) 彼の心の中で、その名を呼ぶ。 (お前を、俺の巣に連れ帰る時が来た) 金色の瞳が、獲物を狩る直前の狼のように、鋭く細められた。 辺境の長い夜が、終わろうとしていた。三方を険しい崖に囲まれた鷲ノ巣谷は、天然の墓場だった。 空は狭く、切り立った岩肌が威圧するように迫ってくる。モーリス准将率いる騎士団は、辺境伯ライナスというたった一人の獲物を追い、何の疑いもなくその墓場へと足を踏み入れた。「逃がすな! あと一息だ!」 モーリスの怒声が、谷壁に反響する。彼の目には、前方を逃げるライナスの背中しか映っていなかった。その背中が、谷の最奥、行き止まりと思しき場所でようやく止まった。「もはや袋の鼠よ、反逆者め!」 モーリスは勝ち誇った。功績を独り占めする自身の輝かしい未来が、目の前にちらついた。 だが、振り返ったライナスの口元には、嘲笑が浮かんでいた。それは、罠にかかった愚かな獣を見下す、狩人の笑みだった。「鼠は、どちらかな」 ライナスが静かに呟き、右手を高く掲げた、その瞬間。 世界が、轟音と絶叫に包まれた。「な、なんだ!? 何が起きた!」 モーリスが空を仰ぐと、信じがたい光景が広がっていた。崖の上から、巨大な岩石や丸太が、雨あられと降り注いでくる。それは、地響きを伴う死の豪雨だった。「うわあああっ!」「伏せろ! 崖に張り付け!」 騎士たちの悲鳴が、岩の砕ける音にかき消されていく。密集していた騎士団は、格好の的だった。屈強な軍馬は頭を砕かれて嘶き、誇り高き騎士たちは、その白銀の甲冑ごと、巨大な質量によって無慈悲に圧し潰されていった。 後方からは、退路を断つように、火矢が降り注ぐ。あらかじめ用意されていたのだろう、油を染み込ませた枯れ木や獣脂に火がつき、谷は一瞬にして炎と黒煙に満ちた阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。「罠だ…! 罠にはまったのだ!」 モーリスは、ようやく自らの愚行を悟り、恐怖に顔を引きつらせた。前後を岩と炎で塞がれ、上からは死が降り注ぐ。もはや逃げ場はどこにもなかった。 パニックに陥った兵士たちが、同士を押し退け、わずかな隙間を求めて殺到する。統率を失った軍隊ほど、脆いものはない。モーリスの騎士団は、敵と刃を交えることなく、自滅に近い形で崩壊していった。 その惨状を、ライナス
辺境の空は、王都のそれよりも低く、重く垂れ込めているように感じられた。 鬱蒼と生い茂る木々は昼なお暗い影を落とし、岩がちな土壌は屈強な軍馬の蹄さえもてこずらせる。グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の進軍速度は、王都を出立した頃の勢いが嘘のように、目に見えて落ちていた。「忌々しい土地だ。まるで獣の巣だな」 副官であるモーリス准将が、鞍の上で顔をしかめて吐き捨てた。彼の白銀の甲冑も、数日間の野営と悪路のせいで、もはや輝きを失い泥に汚れている。そのいら立ちは、彼だけのものではなかった。兵士たちの間にも、疲労と、そして姿を見せぬ敵への苛立ちがじわじわと広がっている。「斥候からの報告はまだか」 ベルガーは、険しい表情を崩さぬまま、低く問うた。彼の百戦錬磨の経験が、この不気味な静けさの中に潜む危険を警告していた。だが、その警告は、辺境の狼とやらに対する侮りによって、わずかに鈍らされていた。「はっ。先ほど戻った者の報告によれば、この先の谷筋に、敵が防御陣地を築いた痕跡があったとのこと。ですが、すでに放棄されており、もぬけの殻だったと」 モーリスの報告に、ベルガーは眉をひそめる。「またか。これで三度目だぞ」 ここ数日、討伐軍は何度も同じような状況に遭遇していた。敵が潜んでいそうな隘路や森に差し掛かるたび、斥候が簡素なバリケードや焚き火の跡といった、敵の存在を示す痕跡を発見する。だが、いざ軍を進めてみると、そこに敵の姿はなく、まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥るのだ。「奴ら、我らの進軍に恐れをなして、後退を繰り返しているのでしょう。さすがの蛮族も、一万の軍勢を前にしては、戦う前から腰が引けているのです」 モーリスは、自信満々に言い切った。彼の目には、ライナス軍が恐怖のあまり逃げ惑っている姿が、ありありと映っているようだった。「だと良いがな」 ベルガーは短く応じたが、その心には一抹の疑念が渦巻いていた。 ライナス。戦場で功を立てただけの、平民上がりの男。その戦い方は、奇襲やゲリラ戦を得意とする、いわば野盗のそれに近いものだと聞いている。そのような男が、正面からの決戦を避けて逃げ回るのは、ある意味
王都を発った討伐軍の進軍は、壮麗な絵巻物のようであった。 先頭を行くのは、王国最強と謳われるベルガー元帥麾下の重装騎士団。磨き上げられた白銀の甲冑は春の陽光を浴びてまばゆい光を放ち、馬蹄の響きは大地を規則正しく揺るがした。兵士たちの顔には一点の曇りもない。彼らにとってこの戦は、王家に弓引く不届きな成り上がり者を討つだけの、単なる武勲稼ぎの遠足に過ぎなかった。「元帥閣下。実に壮観ですな」 副官であるモーリス准将が、馬を寄せて得意げに言った。彼の若々しい顔には、貴族特有の傲慢さと、これから始まる戦への期待が浮かんでいる。「これほどの軍勢を前にして、辺境の狼とやらも震え上がって城に籠もることしかできますまい」「フン、城に籠もるだけの知恵があれば、の話だがな」 総指揮官であるグスタフ・フォン・ベルガー元帥は、鼻を鳴らした。彼は、歴戦の武人らしい厳格な貌を少しも崩さない。その瞳は、眼前に広がる平坦な街道の、さらにその先にある辺境の山々を侮蔑の色を込めて見据えていた。「所詮は戦場で運を拾っただけの平民だ。正式な軍学も知らぬまま、己の力を過信しているにすぎん。あるいは我らの威容に恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ出すやもしれんぞ」「ははは、それはあり得ますな。そうなれば追撃も一苦労でございます」 モーリスは楽しそうに笑った。周囲の騎士たちからも、同調するような笑い声が漏れる。彼らの頭の中には、ライナスという男が率いる軍勢の姿など、もはや存在していなかった。あるのは、手柄を立てて王都に凱旋する、輝かしい自分たちの姿だけだ。 ベルガーは、内心でこの楽観的な空気を苦々しく思いつつも、それをあえて咎めはしなかった。兵の士気が高いのは良いことだ。それに、彼自身もまた、この戦が短期決戦で終わると確信していた。 ライナスという男の経歴は調べさせてある。平民の出で、傭兵として各地を転々とし、先の戦争で偶然にも大きな戦功を挙げた。その手腕は確かに認めよう。だが、それはあくまで小競り合いや奇襲といった、ゲリラ戦の範疇を出ないものだ。 正規の軍隊同士がぶつかり合う、本当の戦争というものを、あの男は知らない。 兵法、陣形、兵站。それら全てが複
その報せは、冬の終わりの冷たい風に乗って、辺境の地に吹き付けた。 王都の地下に潜伏していた密使ザイファルトの部下の一人が、瀕死の状態で城に帰還したのは、凍てつくような風が吹く日の夕刻だった。男は馬の鞍の上で意識を失う寸前だった。その背中には、ヴァインベルクのスパイであることを示す蛇の紋章が刻まれた矢が深々と突き刺さっている。 男がもたらした、たった一枚の羊皮紙。そこに記された短い言葉が、城の作戦司令室の空気を絶対零度まで凍てつかせた。『辺境伯ライナス、反逆者に認定さる。討伐軍、総兵力一万、王都を出立せり』 絶望的な内容だった。 部屋にはライナスとセレスティナ、そして側近のギデオンをはじめとする鉄狼団の主要な幹部たちが集まっている。彼らは、いつかこの日が来ることを覚悟してはいた。だが、敵の動きは、そしてその規模は、彼らの想像を遥かに超えていた。「一万…ですと…?」 ギデオンの声が、怒りと信じられないという響きで震えていた。「我が鉄狼団の総兵力は、民兵を合わせても二千がやっと。五倍の兵力差…これでは、もはや…」 それはまともに戦えば勝ち目のない数字だった。 辺境の民がどれだけ団結しようと、地の利を活かそうと、正規の訓練を受けた中央軍の大軍勢の前では、風の前の塵に同じ。 重い、絶望的な沈黙が部屋を支配した。 だが、その沈黙を破ったのは、当のライナス自身の、楽しげでさえある声だった。「面白い。実に、面白いではないか」 彼は玉座に深く腰掛けたまま、不敵な笑みを浮かべていた。その金色の瞳には絶望の色は微塵もない。むしろ、絶体絶命の窮地を前にして、初めて己の全力を振るえることに歓喜する、本物の戦士の目がそこにあった。「あの老獪な狐めが、ようやくその重い腰を上げ、自ら戦場に出てくるというのだ。ならばこちらも、それに相応しい歓迎をしてやらねば、礼を失するというものだろう」「か、閣下…!正気ですか!」 ギデオンが、信じられないという顔で叫んだ。「ああ、正気だとも」 ライナスはゆっくりと立ち上がった
王城の奥深く、国王の私室は、昼間だというのに薄暗い沈黙に支配されていた。 壁にかけられた壮麗なタペストリーも、磨き上げられた黒檀の調度品も、その主の心に宿る深い絶望の前では、色褪せたガラクタに過ぎなかった。老王は、窓辺の椅子に深く身を沈め、自らの手の甲に浮かんだ、枯れ木のような染みをただ見つめていた。 昨日の、あの玉座の間での出来事が、悪夢のように脳裏に蘇る。 宰相ヴァインベルクの、巧みで、そして毒に満ちた讒言。それに同調する貴族たちの、媚びを含んだ視線。そして、目の前に突きつけられた、辺境伯ライナスが反逆者であるという「動かぬ証拠」。 国王は、それが偽りであると、心のどこかで分かっていた。 あの密書は、あまりに都合が良すぎる。あのライナスという男が、これほど稚拙で、分かりやすい証拠を残すとは思えなかった。彼は、戦場で功を立てただけの蛮族ではない。その報告書から窺える統治の手腕は、むしろ王都のどの貴族よりも、怜悧で、理性的ですらあった。 だが、老王には、それに異を唱えるだけの力が、もはや残されていなかった。 ヴァインベルクは、この国の政治、軍事、そして経済の全てを、その蜘蛛の巣のような権力網で、完全に掌握している。彼に逆らうことは、この王国そのものを、内側から崩壊させる危険を孕んでいた。 そして何より、老王自身の心は、過去の過ちによって、深く蝕まれていたのだ。 アルトマイヤー公爵。 あの、誰よりも誠実だった忠臣を、自分は、この同じ男の讒言を信じて、見殺しにした。あの時の、公爵の最後の絶望に満ちた瞳を、忘れた日は一日たりともない。 今また、同じ過ちを繰り返すのか。 自問する声が、胸の内で虚しく響く。だが、答えはすでに出ていた。彼は、もう一度、己の魂を裏切るしかないのだ。王として、この国の安寧という大義名分のために。「陛下」 背後から、侍従長の、感情を殺した声がした。「宰相閣下が、勅命の署名を、お待ちでございます」 国王は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がると、震える足で、部屋の中央に置かれた執務机へと向かった。 机の上には、一枚の上質な羊皮紙が広げら
王都は、偽りの平穏を謳歌していた。 大理石で舗装された中央広場を、着飾った貴族たちの豪奢な馬車がひっきりなしに行き交う。その窓から漏れ聞こえるのは、芸術や詩について語らう洗練された笑い声。辺境で起きた血生臭い事件や、その背後で蠢く巨大な陰謀など、この都の華やかさの前では、まるで存在しないかのようだった。 だが、その輝かしい光の裏側には、深く、そして濃い影が落ちている。 宰相ゲルハルト・ヴァインベルク公爵の執務室。そこは、王国の政治の中枢であり、同時に、あらゆる陰謀が渦巻く巨大な蜘蛛の巣の中心でもあった。 その巣の主は今、珍しくその完璧な平静を失っていた。「…と、いう次第でございます。シラー伯爵は、我々の再三の出兵要請にも、『領内の治安維持を優先する』との一点張りで、応じる気配を見せませぬ。それどころか、先日より、辺境との国境警備を名目に、兵を増強しているとの報せも…」 腹心の部下からの報告を聞きながら、ヴァインベルクは窓の外に広がる王都の景色に背を向け、黙って立っていた。その手には、高価な水晶の杯が握られている。「さらに、王都の商人ギルドの一部が、辺境との独自交易を模索する動きを見せております。『辺境伯ライナスは、公正な取引相手である』などという、馬鹿げた噂を信じ込んでいるようでして…」 シラー伯爵の離反。そして、経済界の動揺。 セレスティナという小娘が放った、見えざる矢。それは、ヴァインベルクが数十年かけて築き上げてきた、盤石のはずだった支配体制の、まさに心臓部へと、静かに、しかし確実に突き刺さっていた。 彼は、自分が放った刺客たちが、ことごとく失敗に終わったことよりも、この静かなる内部崩壊の方に、より大きな屈辱と、そして得体の知れない恐怖を感じていた。 あの女は、戦い方を知っている。 自分たち貴族が、何を最も恐れ、何を最も重んじるかを、骨の髄まで知り尽くしている。そして、その知識を武器に、最も痛い場所を、最も効果的なやり方で攻撃してくる。「…下がれ」 ヴァインベルクは、低い声で命じた。部下が、安堵とも恐怖ともつかない表情で一礼し、