ANMELDEN映画館が近づいてくる。休日の人混み。大きなポスター。チケットカウンターの前に並ぶ人。館内へ入った瞬間、空気が変わった。外より少し冷たい。私は思わず肩をすくめた。その時だった。翔太が自然にパーカーを脱いだ。何も言わずに、一度自分の腕にかける。それから私の方を見る。「寒いでしょ」当たり前みたいに言って、肩にかけてくる。反射的に受け取ってしまった。少し大きい。柔軟剤の匂い。少しだけ残る香水。なんとなく落ち着く匂い。妙に心臓がうるさい。「いや、いいよ」返そうとすると、翔太は私の手首の近くで軽く布を押さえた。触れたのはほんの一瞬だった。でも、その一瞬だけで、距離が近い。「いいから」低い声。強くはない。でも、拒ませない温度。「映画館、冷えるし」視線が合う。その目が、少しだけ真面目だった。優しさを冗談にしない時の顔。私は何も言えなくなって、パーカーを肩にかけたまま小さく頷く。「……ありがとう」翔太の目元が、ほんの少し緩む。「どういたしまして」楓が普通に言う。「翔太、いい身体してるよね」一瞬で空気が壊れた。「楓」「いや、褒めてる」「黙って」「肩とか腕とか、結構鍛えてるよね」「見なくていい」「愛子も見てたじゃん」「見てない」即答した。でも、見てしまっていた。パーカーを脱いだ翔太は、黒のTシャツ一枚になっている。肩。腕。首元。ラフな服の下にあった身体のラインが、思っていたより男っぽい。細いわけじゃない。無駄に大きく見せる感じでもない。ちゃんと鍛えている人の身体。その自然さが、また困る。周りの視線も少しだけ集まっている。翔太はたぶん、それに気づいている。でも興味がない。キャップのつばを少し触り、楓の言葉を軽く流す。「ジム行ってるだけですよ」「やっぱり」楓が納得した顔をする。「俺も東京いる間、どっか行きたい」「近くにありますよ」「まじ?」「まじ」二人がまた普通に話し始める。私はその横で、肩にかかったパーカーの重みを意識していた。翔太は楓と話しながらも、ふとこちらを見る。「寒くない?」自然に聞いてくる。その温度だけ、少し違う。楓へ向ける顔とは違う。人懐っこく笑っているのに、私を見る時だけ、目が少し静かになる。近い。なんか今日、ちょっと近い。
休日。目が覚めた時には、時計は十一時を少し回っていた。カーテンの隙間から、春の日差しが斜めに差し込んでいる。昨日飲んだハイボールのせいか、少しだけ頭が重い。でも。それ以上に、胸の奥がなんとなく落ち着かなかった。倉庫。正人の腕。抱きしめられた時の熱。見ないで、と誤魔化した声。好き、と少し困ったみたいに笑った顔。昨日だけで、感情が動きすぎた。ぼんやりしたままスマホを見る。通知。翔太。心臓が少しだけ跳ねる。<起きた?><頑張って早めに起きたけど><楓さん何時に来る?>思わず少し笑ってしまう。頑張って早めに起きたって。休日感がすごい。少し前まで仕事帰りで疲れていたくせに。でも、なんだかんだちゃんと起きてくるところが翔太らしい。私はベッドの上で少し考えてから返信する。<楓、もう近くまで歩いてきてるらしい><コーヒー買って公園少し歩いてから行こ>数秒で既読。<了解>相変わらず短い。必要なことだけ。でも、それが妙に落ち着く。準備をしながら、鏡を見る。今日はラフでいい。映画だし。楓もいる。ただそれだけ。なのに。なぜか少しだけ、服を迷った。白の薄手ニット。黒のパンツ。スニーカー。張り切りすぎていない。でも、ちゃんと外に出られる格好。鏡の前で髪を整えながら、昨日のエレベーターを思い出す。疲れた顔。少し低い声。自然と近い距離。見透かすみたいな視線。――なんかあった?あの感じが、まだ頭に残っている。考えるのをやめる。違う。今日は普通に遊ぶだけ。翔太と。楓と。それだけ。待ち合わせは、マンション近くの公園前だった。休日の昼。犬の散歩をする人。ベンチで本を読む人。小さい子どもがシャボン玉を追いかけている。少し風が強い。でも、春っぽい空気だった。先に見えたのは楓だった。キャップ。サングラス。無駄に目立つ。高身長。タトゥーの入った腕。芸能人か海外アーティストみたいな空気なのに、やっていることはただのシスコン。「おっせー」「十分早い」「日本って待ち合わせ厳しくない?」「楓が適当すぎるだけ」「愛子、朝から厳しい」「昼です」そんなやり取りをしていると、後ろから声がした。「おはようございます」振り向く。少しだけ、止まる。翔太だった。ラフだった。
楓は本当にしつこい。そして、見ている。人を。空気を。私の反応を。あの軽さの奥に、妙に鋭いところがある。『観察しなくていい』そう返す。すぐに返事。『家族代表なので』『代表権ない』『ある』『ない』『じゃあ弟権限』『もっとない』楓から、笑っているスタンプが返ってきた。私はスマホを伏せた。その瞬間。また震える。今度は翔太だった。心臓が、ほんの少しだけ違う動きをした。画面を開く。『明日、昼過ぎでいいですか』『映画、候補いくつか送りますね。着いたら決めてもいいけど』少し間があいて、もう一通。『あと、楓くんからすでに催促来てます』思わず笑ってしまった。本当に送っている。あの弟、しつこい。私は返信する。『ごめん、楓がうるさくて』翔太からすぐ返る。『面白いですよ』『愛子の弟って感じする』手が止まる。愛子の弟って感じ。それは褒めているのか。けなしているのか。いや、たぶん両方だ。『あんなにうるさくない』『方向性は違うけど、距離の詰め方はちょっと似てる』私は画面を睨んだ。『似てない』『そうですかね』その短い返事に、翔太の少し笑った顔が浮かぶ。疲れた目元。掠れた声。でも、こちらを見る時だけ少し柔らかくなる視線。エレベーターで言われた言葉が戻ってくる。今日、なんか違う。なんで分かるの。そこまで思って、少しだけ胸がざわついた。翔太は、私が話す前に気づいてしまう。今夜の正人のことを知っているわけではない。倉庫のことも、抱きしめられたことも知らない。なのに。何かあったことだけは、見抜いてしまう。そういう勘の鋭さは、昔から変わっていない。嫌ではない。でも、怖い。自分がまだ言葉にしていない感情を、先に触られる感じがする。私は少し迷ってから返した。『明日は普通に行くよ』『楓がうるさいから昼過ぎで』翔太からの返事は少し遅れた。その数秒が、妙に気になる。やがて、画面に文字が出る。『了解』『でも無理なら言ってください』その一文に、指が止まる。軽いようで、ちゃんと見ている。正人とは違う見方。正人は、無理しないでと余白を作る。翔太は、無理しているかどうかを先に見抜こうとする。どちらも優しい。でも、触れ方が違う。私は返事に困って、少しだけグラスを持った。氷が溶けて
――疲れてるだけ。エレベーターの中で、自分がそう言った声を思い出した。部屋のドアを閉める。鍵をかける。静かになった部屋で、ふうっと息を吐いた。疲れてるだけ。そう言ったのに。本当にそうだっただろうか。翔太は昔から、こういうところが妙に鋭い。空気。違和感。言葉にする前の気持ち。そういうものを、なんとなく当ててくる。付き合っていた頃だってそうだった。仕事の飲み会帰り。隣の部署の男の子が近くにいた日。少しだけ違う香水の匂いが服に移っていた時。翔太は、何気ない顔で聞いてきた。「……なんか匂い違くない?」別に怒っているわけじゃない。責めてもいない。ただ、分かっている人の顔をする。あの、少し野生的な感じ。観察しているみたいな目。昔から。あの視線だけは少し苦手だった。というより、少しだけ緊張した。今夜もそうだった。疲れているはずなのに。見透かすみたいに、静かにこちらを見てくる。「今日、なんか違う」そう言われた時。思わず視線を逸らしてしまった。本当に疲れていただけなら。あんなふうにはならなかった気がする。明日会うのに。なんで、あんな感じなんだろう。でも。今日は正人のことで頭がいっぱいだった。倉庫。抱きしめられたこと。あんな顔。寂しそうにこぼれた本音。衝動的に、ちゃんと理解してほしいと思った。あの顔を、誤解されたくなかった。そう思ったのは、親友だからなのか。それ以上なのか。まだ、自分でもよく分からない。けれど、ひとつだけは分かっていた。翔太のことを考える余白は。少なくとも今夜の心の中には、ほとんど存在していなかった。冷蔵庫を開ける。グラスに氷を入れる。からん、と軽い音がした。ハイボールを作る。炭酸の泡が、静かに弾ける。つまみも少し出した。チーズ。生ハム。お好み焼きは食べたはずなのに、途中から少し気まずくなってしまって、ちゃんと食べた感覚があまりなかった。だから、今くらいがちょうどいい。ソファに腰掛ける。ひと口。冷たい炭酸が喉を通る。その瞬間、スマホが震えた。正人だった。少しだけ、指が止まる。画面を開く。『今日は遅くまでありがとう』続けて、すぐに届く。『ご飯だけでも来週』『お好み焼きは俺が気まずくしちゃったから、リベンジさせて』『火曜とか商談の
「愛子も」少し掠れた声。あ。これ、本当に疲れてる。自然に眉を寄せていた。「なんか本当に疲れてそうだね」翔太が少し肩をすくめる。「まあ、今週ちょい修羅場で」いつもより言葉が少ない。でも、私を見る時だけ、少し目が柔らかい。自然に。何気なく。視線が止まる。見られている。そう思う。でも、嫌じゃない。エレベーターを待つ。静かなロビー。翔太の目が、ふと袋へ落ちる。ハイボール。チーズ。生ハム。それから、また私の顔。少しだけ止まる。「……なんかあった?」心臓が、小さく跳ねた。「え?」「いや」翔太は少し首を傾げる。目元には疲れがあるのに、その視線だけ妙に鋭い。「今日、なんか違う」責めるでもなく。探るでもなく。ただ、感覚で見ている。なんで分かるの。正人に抱きしめられたこと。少し心が動いたこと。整理しきれていない感情。全部、なんとなく見透かされている気がして落ち着かない。正人は、私が言うのを待ってくれる。翔太は、私が言う前に気づいてしまう。その違いが、急に目の前で形になった気がした。エレベーターが着く。二人で乗り込む。深夜。誰もいない。狭い空間。翔太が壁にもたれる。少しだけ俯く。本当に疲れているらしい。けれど、私を見る時だけ、視線が戻る。身長差のせいで、自然と少し上から。近い。距離感が。たまに、本当に自然に近い。疲れている時ほど、それが無防備に出る。私は少しだけ落ち着かなくなる。近いんだよな、たまに。あと、鋭い。本当に。しばらく沈黙が落ちた。エレベーターの数字だけが、静かに上がっていく。そのあと、翔太がぽつりと言った。「……明日」少しだけ笑う。「何個か時間候補あるし」それから、本当に当たり前みたいに。「適当に行きましょ」思わず小さく笑ってしまった。本当に、そのままなんだ。お好み焼き屋で、楓に慌てて説明した。あの人、当日決めるし。多分、適当に連絡してくると思う。本当にその通りになる。妙に翔太らしい。妙に自然。生活の中に馴染んでいる感じが、少しくすぐったかった。「適当すぎない?」私が言うと、翔太が少し笑う。「いいじゃん。楓くんいるし」「楓がいるから適当でいいってこと?」「楓くん、たぶんどこでも楽しめるでしょ」「それはそう」「あ
倉庫を出る頃には、夜風が少し冷たくなっていた。湾岸沿いの空気は、都心より少し重い。潮っぽい匂い。遠くを走るトラックの音。湿った風が、少しだけ髪を揺らす。さっきまでいた倉庫の灯りが、背後で小さくなっていく。正人は、倉庫を出てからしばらく何も言わなかった。でも、気まずい沈黙ではなかった。何かを大事に抱えている人の静けさだった。私も、無理に話そうとはしなかった。見せたもの。言葉にしたこと。抱きしめられた感触。腕の熱。近くで感じた、タバコとミントみたいな香り。全部がまだ、身体のどこかに残っている。車に戻る。正人が自然に助手席のドアを開けた。「足元、気をつけて」いつも通り。でも、ほんの少しだけ静かだった。私は小さく頷いて、車に乗り込んだ。ドアが閉まる。さっきまでの倉庫の冷えた空気が、少しだけ遠ざかる。車が走り出した。湾岸の夜景が窓の外を流れる。橋の灯り。倉庫街。遠くの高層ビル。少し映画みたいな夜だった。しばらくして、正人がふっと笑う。「正直」少し間があく。「一瞬、殺されるかと思った」思わず吹き出した。「なんで」「湾岸、倉庫、夜」ハンドルを握ったまま、少し肩をすくめる。「ドラマだったら普通に消されるやつ」「そんなわけないでしょ」「いや、ちょっと覚悟した」その真面目な顔が可笑しくて、また笑ってしまった。空気が、少し戻る。正人って、こういう時にちゃんと冗談を言う。空気を壊さない。でも、軽くもしない。そのバランスが心地よかった。さっき、倉庫の中で抱きしめられた時。好きだと、少し苦しそうに言われた時。胸が痛かった。痛いのに、嫌ではなかった。むしろ、正人の腕の中で、少しだけ安心してしまった。その事実を、まだ自分でもうまく扱えない。でも今、隣で冗談を言う正人を見ると、少しだけ息がしやすくなる。正人は、私が受け止めきれないものを、重いまま押しつけてこない。ちゃんと置いたあとで、少し笑える余白を作ってくれる。その優しさが、また胸に残った。少しして、正人が倉庫で見た絵の話をした。「あの青い絵、好きだった」「青?」「入口近くにあったやつ」少し考える。「ああ」大学二年の頃の作品。海みたいな色の、大きなキャンバス。教授にはかなり怒られた。「まとまりないって言われたやつ」







