บททั้งหมดของ 結婚式当日、妹と寝た婚約者を退け、叔父の妻となる: บทที่ 11 - บทที่ 20

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11話「灯、また来る」

 その夜、灯は手ぶらで来た。 革靴はあった。しかし地下書庫へ向かわなかった。鞄もいつもより小さかった。本が入っている鞄の重さを、いつの間にか判別できるようになっていた。今日は入っていなかった。「読むものがなくなったんですか」「そういうわけではないです」 それだけだった。説明はなかった。なぜ来たのかも言わなかった。靴を脱いで、いつものようにリビングへ向かった。 夕食は豚汁と焼き魚だった。 二人分作る方が自然になっていた。それが習慣になったのがいつからなのか、正確には覚えていなかった。灯が来なければ、翌日の朝食に回せばいいだけの話だった。 テーブルについた。食べ始めた。静かだった。 今日は本の話も出なかった。地下書庫の話も出なかった。灯は豚汁を一口飲んで、特に何も言わなかった。瑠衣も特に話題を作らなかった。沈黙が気まずいわけではなかった。ただ静かな食卓だった。 半分ほど食べたところで、灯が口を開いた。「実家には行きましたか」「先週行きました」「どうでしたか」少し考えた。「変わっていなかったです」「そうですか」「帰りたい場所じゃないとわかりました」 灯は頷いた。焼き魚に箸をつけた。 感想も評価もなかった。同情もなかった。ただ聞いて、受け取った。それだけだった。 食事が終わった。灯が皿を重ねた。「いいです、置いておいてください」「そうですか」 本当に置いた。いつもと同じだった。 しばらくソファで本を読んでいたが、今日はいつもより早く帰り支度を始めた。鞄を持って、玄関へ来た。靴を履いた。「ごちそうさまでした」「いえ」 扉が閉まった。 今日、何しに来たのかわからなかった。 本を読みに来たわけでも、探し物があったわけでも、用事があったわけでもなかった。ただ来て、食事をして、少し話して、帰った。 不思議な人だった。 台所を片付けながら、今日の食卓を思い返した。変わっていなかった、と言ったとき、灯は何も言わなかった。帰りたい場所じゃないとわかった、と言ったときも、何も言わなかった。ただ「そうですか」と言った。 それで十分だった。 ソファに戻った。静かだった。 いい夜だと思った。 スマホを手に取った。 画面が光っていた。 真衣からの通知が十七件来ていた。 開いた。写真が大量に送られてきていた。 ホテルのロビー
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12話「翌朝」

 朝、玄関を見た。  革靴がなかった。当たり前だった。灯は昨夜帰っていた。わかっていたのに、一瞬だけ確認してしまった。  台所へ行くと、流しにコップが一つ置いてあった。灯が使ったものだった。洗われていなかった。洗おうとしたのかもしれないし、そのままにしていったのかもしれない。どちらかは分からなかった。  リビングを見た。椅子がきちんと元の位置に戻されていた。灯が座っていた椅子だった。食事のあと、立ち上がる前に押し込んでいった。そういう人だった。  昨夜誰かがここにいた証拠は、流しのコップと、戻された椅子だけだった。  瑠衣はコップを洗って、支度をして、会社へ向かった。 第一営業局は朝から忙しかった。  メールを開くと昨夜のうちに三件来ていた。一件はクライアントからの修正依頼、一件は社内の会議日程の調整、一件は別案件の納期確認だった。順番に返信した。  電話が鳴った。 「江品さん、お世話になっております」 メーカーの担当者だった。先週入稿した素材に差し替えが出たという話だった。 「分かりました。こちらで対応可能な日程をお調べしますのでお待ちください」  すぐにPCの画面を開く。内容を確認して、対応可能な日程を伝えた。 「ありがとうございます。またその日に改めてご連絡させていただきます」  電話が切れた。瑠衣はひとつ息を吐いて、先ほどのやりとりの要点をまとめるためにキーボードに手を置いた。 午前中はそのまま終わった。  昼休みに弁当を食べながら、午後の会議の資料を見直した。修正が必要な箇所が二か所あった。 「お疲れ様です、江品さん」  隣のデスクの男性社員、正木が座って来た。 「今日も弁当ですか」 「はい。確認したいことが多すぎて、外に出る暇がないので」  言葉にしたあと瑠衣はハッとした。正木はランチを終えた後だった。彼は瑠衣の気まずそうに小さく『すみません』と呟いた言葉を聞き逃さなかった。軽く笑った。 「江品さんはきっちりした性格なんですね。俺も自分の仕事の進捗が気にならない訳ではないですけど、外に出てリフレッシュするのも大事かなと思って」  正木は紙の資料を整理を始めた。 「最近、江品さんなんか頑張りすぎのような気がして。無理しないで下さいね。息抜きとかされてます?」 「
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13話 「似合う人」

 仕事帰りの電車の中で、今日の案件を頭の中で整理していた。 クライアントへの確認事項が二点残っていた。明日の午前中に連絡すれば間に合う。企画書の修正は夜にやろうと思っていたが、帰宅してから考えることにした。最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。 門を開けて、玄関の鍵を差した。扉を開けた瞬間、足が止まった。 革靴があった。 揃えて置かれていた。見覚えのある、状態の良い革靴だった。 口元が少し緩みかけた。気づいて、止めた。 鞄を持ち直して、リビングへ向かった。 気配は地下からした。 書庫の扉が開いていた。明かりがついていた。降りると、灯が脚立の上にいた。白いシャツに黒いパンツ。袖を肘までまくって、上段の本を一冊ずつ取り出して並べ替えていた。 脚立の高さは天井近くまであった。「危なくありませんか」 灯が少し首を傾けた。脚立の上で、手は本棚に向けたまま、こちらを見た。「落ちたことはありません」「そういう問題じゃなくて」「ありがとうございます」 それだけ言って、また本棚に向いた。礼だけ受け取って、心配の続きは受け取らなかった。脚立を降りる動作を横から見ていた。 無駄がなかった。ゆっくりでも速くでもなく、必要な動きだけで降りてきた。四十代だとは思っているが、動きに年齢を感じなかった。「整理しているんですか」「順番が気になったので」「どんな順番ですか」「出版年です。著者別にすると探すとき分かりやすいですが、出版年順にすると時代の流れが見えます」「両方あった方が良くないですか」「どちらかを選ぶ必要があります」 そう言って、また脚立を上った。今日は出版年順を選んだらしかった。 出版年順。著者別より不便に思えたが、灯がそう決めたなら理由があるのだろうと思った。この家の本棚の順番を、自分ではなく灯が決めている。そのことを、おかしいとは思わなかった。 夕食は冷蔵庫にあった残り物に、帰りに買ってきたコンビニの惣菜を足した。大した食事ではなかった。 灯は「いただきま
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14話「本を探す人」

 今日の営業部は朝から慌ただしかった。 メーカーから追加修正の依頼が来て、社内でクリエイティブと他の営業が軽い言い合いになっていた。「急ぎで」「それ昨日も聞きました」というやりとりが廊下で起きていた。いつもの光景だった。「忙しいですね」 隣の席の正木がPCの画面から目を逸らさずに零した。「そうですね。大型のクライアント案件で人員が割かれているから」 瑠衣は見積書の確認をして、クライアントへの返信をまとめていた。 電話が鳴った。受話器を取ると馴染みのクライアントの担当者だった。「江品さん、申し訳ないのですが企画書の変更を行いたくて」「またですか」 瑠衣が軽く笑うと相手も苦笑いの声が聞こえた。「すみません。今のままでは詰めが甘いという結論になりました。江品さんのせいではありません。私のアイデアの問題で」「お互い大変ですね。分かりました。変更の部分を聞きましょう」「江品さんは頼りになってありがたいです」 いつものことをいつものようにしているのに、感謝されるのは悪いことではなかった。 仕事をこなして、気づくと外が暗くなっていた。 帰り支度をしながら、ふと足が止まった。 本屋に寄ろうと思った。 理由はよく分からなかった。読みたい本が特にあるわけでもなかった。ただ、駅の反対側にある大型書店の前を通りたい気分だった。 書店に入ると、平日の夜でも人がそれなりにいた。自動ドアをくぐると、紙とインクの混ざった匂いがした。冷房が効いていた。棚が天井近くまである、広い店だった。灯がよく来そうな場所だと思った。なぜそう思ったのか、自分でもよく分からなかった。 入口近くの新刊コーナーを通り過ぎて、文庫の棚へ向かった。歩きながら、灯が以前話していた本のことを思い出した。紙の質が変わった版があると言っていた本だった。 タイトルは覚えていなかった。 著者名も覚えていなかった。外国語のタイトルで、薄い本で、スウェーデンだったか別の国だったか、そのあたりの記憶も曖昧だった。 自分でも苦笑した。これでは探しようがなかった。 
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15話「隠れんぼ」

 休日の昼過ぎ、スーパーから帰ると玄関に革靴があった。 今日来るとは聞いていなかった。灯はいつも予告なく来た。本が読みたい時に来る、という原則は今も変わっていなかった。 気配を辿って地下書庫へ降りると、灯が棚の一角を見つめたまま動いていなかった。「どうしたんですか」「探している本が見当たりません」「また絶版ですか」「いいえ。この家にあるはずなんですが」 数万冊の本が収まった書庫の中に、あるはずの本が見つからない。先週も同じようなことを言っていた気がした。この人は定期的に自分の本を見失うらしかった。 思わず笑った。「一緒に探します」「いいんですか」「手が二つある方が早いです」 灯は少し考えてから「そうですね」と答えて、棚の前を少し横にずれた。 何を探しているかを聞いた。翻訳書で、薄くて、外国語のタイトルで、著者は二十世紀前半の人らしかった。情報量は多いが、数万冊の中では手がかりとして細すぎた。「それだけ分かれば探せますか」「厳しいですが、やってみます」 背表紙を端から確認する作業を始めた。灯は別の列を見ていた。 棚は高さが天井近くまであった。一列に何十冊も並んでいた。それが何列もあった。翻訳書で薄くて外国語のタイトル、という条件で絞れる量ではなかった。 文学の棚を見た。次に思想の棚を見た。どこから手をつければいいか分からなかった。灯はすでに四列目に移っていた。この書庫を知っている人間と、そうでない人間の差がそのまま速度に出ていた。 しばらくして、棚の一部が乱れているのに気づいた。本が斜めになっていたり、前後に重なって押し込まれていたりしていた。「せっかくだから並べ直しましょうか」「手伝わせてしまいますが」「私も住んでいる家ですから」 本を取り出して、床に積んで、棚を拭いてから戻す作業を始めた。灯が上の段を担当して、瑠衣が中段と下段を受け持った。脚立を使う場面では、瑠衣が支えた。特に相談したわけではなかったが、自然にそうなった。 本を受け取って、渡して、どこに戻すかを確認して。
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16話「停電」

 コンビニ弁当を電子レンジに入れてボタンを押した瞬間、家中の明かりが落ちた。 完全な暗闇ではなかった。窓の外に街灯の光があった。しかしそれだけだった。三階建ての豪邸が、一瞬で真っ暗になった。 スマホのライトをつけた。廊下を照らした。広い家がスマホ一本の光で照らせる範囲は限られていた。来た頃は広すぎると思っていた家が、暗くなると別の意味で広かった。 音も変わった気がした。冷蔵庫の低い音が消えて、換気扇の音が消えて、気づいていなかった音が全部なくなっていた。静かなはずなのに、落ち着かなかった。 ブレーカーを確認しに行った。異常はなかった。落ちているスイッチがなかった。家の問題ではないらしかった。 玄関のチャイムが鳴った。 開けると灯が立っていた。「近所も停電していました」 手に小さな懐中電灯を持っていた。「持ってるんですか、そういうの」「念のため」 鞄から出てきたのではなかった。最初から手に持っていた。来る途中で気づいて、どこかで買ってきたのか、それとも常に持ち歩いているのか、判断できなかった。リビングへ戻った。灯が懐中電灯で棚を照らしながら引き出しを確認し始めた。「他に灯りはありますか」「あったと思います」 奥の棚を開けた。引っ越してきたときに整理した引き出しの中に、箱ごと入れてあった。結婚式の準備をしていた頃に予備として届いたもので、一度も使っていなかった。 取り出して、灯に渡した。 灯がテーブルの中央に立てて、ライターで火をつけた。豪邸の広いリビングに、小さな 炎が一つ灯った。 コンビニ弁当はそのまま食べることにした。温められなかったが、今夜はそれでいいと思った。 向かいに座った灯は、キャンドルの光の中でも特に困った様子がなかった。弁当の蓋を開けて、いただきますと言って、箸を取った。暗いことを気にしていなかった。停電が起きていないときと同じ食べ方だった。 静かな食卓だった。 いつもより静かなはずだった。明かりが落ちて、電子機器の音が全部消えていた。しかし騒がしくなかった分、かえって落ち着いた気がした。 灯が普段と変わらなかった。それが大きかった。慌てることも、不便そうにすることもなく、ただそこにいた。その落ち着きに引っ張られるように、瑠衣も少しずつ肩の力が抜けていった。「こういう食事も悪くないですね」「そうですか」
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17話「知らない人」

残業が終わったのは夜の九時を過ぎた頃だった。 営業先から夕方に修正依頼が来て、各方面と調整して、確認を取って、返信して、気づいたら外が完全に暗くなっていた。よくある夜だった。 駅に向かって歩いていると、前から来た人間と目が合った。 雅之だった。 一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに笑顔を作った。 「へぇ、今終わり?」 「そうです」 「相変わらず真面目だねぇ」 相変わらず、という言葉に少しムッとはした。特に返す言葉がなかった。 少し歩いて、信号待ちになった。雅之が隣に立った。 「真衣さ、もう子供の事で頭が一杯で。あれはいい母親になると思う」 「あ、そうですか」 「俺達はいい家族になるから。お前も頑張れよ。二十九歳って崖っぷちだろ。なんなら俺の知り合いで結婚相談所やってる奴するから紹介しようか。希望通りの男性が来るとは限らないけど」 「結構です」 距離を置いて歩こうとしても、雅之は歩幅を詰めて隣を歩こうとしている。早歩きになってきているのに意地でも話したいという圧を感じた。 (こいつ、どういうつもりなの) 「最近大きなプロジェクトを任されてさ。毎日大変だよ。クライアントとの打ち合わせだって夜に食事がてらするのに。なのに真衣の奴、不安がるんだよな。マタニティーブルーってやつ? 帰ったら沢山甘えさせてやるからいいんだけどな」 「あ、そうですか」 瑠衣は表情を作らなかった。ただひたすらに"無"だった。 「それでさ、お前今どこに住んでる訳? 真衣がすごく心配してたぞ。俺はそんなに心配してないけどな。一人でも生きていける奴だもんな。でもどこに住んでるかぐらい教えてやってもいいんじゃないか」 「あなた達にそれを教える必要がどこにあるんですか」 「自分の妻が心配していることがあったら、解決したいと思うのが夫じゃないか」 信号がまだ赤だった。 「だからと言って、私のプライベートに今更踏み込まれても困ります」 反論されるとは思っていない笑い方だった。瑠衣なら従順に答えてくれると思われていた。ずっとそういう人間として扱われてきた。 「お話はそれだけですか。急ぎますので、これで」 「え?」 信号が青になった。 「では」 歩き出した。後ろから雅之の声がした。 「相変わらず愛嬌のない
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18話「頼みごと」

今日も朝から電話が続いた。 メーカーの担当者から素材の差し替え依頼が来て、別の案件でクライアントから追加修正の連絡が入って、午後は社内で営業資料の確認作業をした。気づいたら夕方になっていた。 席を立とうとしたところで、隣の正木が顔を上げた。「江品さん、最近ちょっと顔色よくなりました?」「……そう?」 自分ではまったく気づいていなかった。鏡を最後にちゃんと見たのがいつかも思い出せなかった。「なんか落ち着いた感じがします。前はもう少しピリピリしてたというか」「ピリピリしてましたか、私」「してたとは言ってないです」 正木は書類に視線を戻した。瑠衣は鞄を持って立ち上がった。 駅へ向かう途中、スマホが鳴った。 知らない番号だった。出た。「突然すみません」 灯の声だった。「灯さん?」「はい。番号をお伝えしていなかったので、驚かれたかと思います」 今まで連絡先を知らなかった。灯がこちらに電話をかけてきたのは初めてだった。「もしお時間があれば、一つお願いしてもよろしいでしょうか」「大丈夫です」「地下書庫に来ていただけますか。上の棚が少し見えづらくて」「今から向かいます」 電話が切れた。 灯から頼みごとをされたのは初めてだった。いつも鍵を渡される側、家を使わせてもらう側、食事を食べてもらう側だった。その人間から「お願いしてもよろしいでしょうか」と言われることが、少し新鮮だった。豪邸に着くまでの道を、いつもより速く歩いた。頼みごとをされたことが、何か少し嬉しかった。嬉しいという言葉が正確かどうか分からなかったが、足が速くなる程度には、何かがあった。 豪邸に着くと、地下書庫の明かりがついていた。降りると、灯が脚立の上で天井近くの棚を見上げていた。「来ました」「ありがとうございます」 脚立の高さは上から二段目だった。それでも届かない段があるらしく、灯が背を伸ばして棚の奥を確認しようとしていた。「脚立、押さえます」「助かります」 両手で脚立の側面を持った。灯が一段上がった。手が棚の高い位置に届いた。背表紙を一冊ずつ確認しながら、目当てのものを探していた。 一冊に手がかかった。引き出した瞬間、隣に立てかけてあった本が傾いた。「危ない!」 声が出た。体が先に動いた。脚立から手を離して、傾いた本の束を両手で受け止めた。同時に灯が
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19話「貸してくれた本」

 今日も営業部は慌ただしかった。 午前中に営業先から電話が二件来て、一件は素材の差し替え、もう一件は納期の前倒し依頼だった。昼休みは社内確認のメールをまとめて返信した。午後は別案件の修正作業が続いて、気づいたら外が暗くなっていた。「今日も長いですね」 隣のデスクの正木が苦笑いを浮かべてコートを着ていた。 瑠衣は「お疲れ様です」とだけ返して、デスクの上を片付けた。 退勤の支度をしながらスマホを見ると、SNSの通知が一件来ていた。 真衣だった。 少し迷って開いた。 ハワイのリゾートホテルのロビー写真。ブランドショップの紙袋を持った手元。海の見えるレストランのテーブル。『新婚旅行楽しみ💕』「まーくん優しすぎる✨』というテキストが写真の間に挟まっていた。 画面の下のハートマークには沢山のいいねが付けられていた。その下のコメントも『新作のやつですよね。可愛い~』とか『新婚旅行の写真も待ってますね』などのメッセージがついていた。 コメント欄を少しだけスクロールした。『お幸せに』『新婚旅行どこ行くんですか』『まーくんって呼び方かわいい』。知らない人間が沢山いいねを押していた。真衣が知っている人間も混じっていた。母の名前もあった。画面を閉じた。 鞄を肩にかけて、オフィスを出た。エレベーターを待ちながら、さっきの画面を思い返した。何か感じようとして、何もなかった。怒りでも悲しみでも羨ましさでもなかった。ただ閉じた。それだけだった。 最寄り駅を降りて、いつもの道を歩いた。 スーパーに寄ろうか迷って、今日は帰りを急いでいる自分に気づいた。急ぐ理由を考えた。疲れているから早く帰りたい、という理由は半分本当で、半分違った。 門を開けた。玄関の鍵を差した。扉を開けた。 革靴があった。「あ」と声が出た。口元が少し緩んだ。気づいて、小さく首を振った。 鞄を下ろして、台所に向かおうとしたところで、地下書庫の方から気配がした。扉が開いていた。降りるほどではなかったので、廊下から声をかけた。 返事がなかった。 しばらくして、灯が階段を上がってきた。本を一冊持っていた。「お帰りなさい」「ただいま……じゃなくて、帰りました」 言いかけてから訂正した。灯は少しだけ笑った。声は出なかったが、目元が変わった「夕食、作ります」「ありがとうございます」 今日は冷
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20話「貸出票」

 目が覚めたとき、まだ外が薄暗かった。 時計を見ると六時十分だった。いつもより三十分早かった。二度寝しようかと思ったが、眠気がなかった。起き上がって、台所でコーヒーを淹れた。 テーブルに座った。昨日の続きを読もうと思っていた本が、置いたままになっていた。手に取った。一ページだけ読んで、それから支度しようと思った。 ページを開いた。 時計を見たら六時四十五分だった。 慌てて本を閉じた。三十分以上経っていた。気づかなかった。コーヒーはすっかり冷めていた。 灯の言葉が頭に浮かんだ。本は時間を盗みます、という話だった。かなり悪質です、と即答していた。「本当だった」 声に出てから、誰もいないことを確認した。 急いで支度をして、家を出た。 今日も営業部は動いていた。 出社するとすぐにメーカーから電話が来た。先週入稿した素材に差し替えが出たという話で、対応できる日程を確認して折り返した。午前中はそのままメールと電話が続いて、昼休みは社内の確認作業に充てた。午後は修正依頼が二件重なって、クリエイティブ部門と調整しながら対応した。 気づいたら夕方だった。 忙しかった。忙しい間は他のことを考えなかった。朝の本のことも、昭和六十三年という数字も、まだそこにはなかった。 帰宅して玄関を開けた。 革靴がなかった。 少しだけ足が止まった。そのまま中に入った。 台所で夕食を作った。一人分だった。一人分を作るとき、最近は量が少なく感じるようになっていた。二人分が当たり前になっていた。 食べ終わって、皿を洗った。テーブルを拭いた。 ソファに座って、本を開いた。 昨日の続きから読んだ。翻訳の独特なリズムが最初は読みにくかったが、百ページを過ぎた頃から慣れた。気づくと物語の中に入っていた。主人公が何かを選ぶ場面で、ページをめくる手が止まった。止まったまま次を読んだ。 最後のページに来た。 読み終わった、という感覚が来る前に最後の文章を読んでいた。終わった。静かに終わる話だった。 面白かった。 読み終えたあともしばらく本を閉じられなかった。 最後の場面をもう一度だけ読み返した。 主人公が選んだ答えは、派手ではなかった。それでも、不思議と心に残った。 灯なら、この場面をどう話すだろう。 きっと物語そのものより、作者がなぜこの終わり方を選んだのかを話し
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