ヒューゴと知り合って1年が過ぎ、また夏がやってきた。
週末のお泊り会(そう言うとヒューゴは爆笑していたが)は、今までのところキャンセル日も頓挫することもなく、毎週続いている。
いよいよ気温が30度を越えてくると、サイクリングの頻度も激減してくる。
その日も真夏日で、おれたちはエアコンの効いた部屋で、氷をたっぷりいれたハイボールを飲みながらだらりと快適な映画鑑賞だ。作品は脚本賞を獲ったらしいクライムサスペンスで、たしかに良く練られたプロットだったがテンポが少々だるく、ソファの対角にいるヒューゴの横顔もついでに鑑賞する余裕があった。
後ろでギリギリ結べるくらいの長さの髪を下ろしたままで、時折顔にかかる前髪を耳にかけなおしている。
とても似合うけれど——たとえば、この1年でどんどん鍛えられていく身体や、意外にラフな行動を知った以上、少し違和感を感じるんだよな。長めのブロンドって繊細そうで。ヒューゴは物腰柔らかだけれど、繊細ではない気がする。「髪、伸ばしてるの?」
「いや」
ヒューゴは髪をかきあげる。いちいちかっこいいね。
「切ってないだけ。でも結ぶと楽だよ。飲食店だし」
「確かに清潔感はある」でも、と俺は続ける。「もう少し短かい方がヒューゴらしさが出そう」
「そう?透がそう言うなら、切ろうか」
ヒューゴはすぐ立ち上がって寝室の方へ行ってしまう。
「もしかして今から行くの?」
追いかけると、「土曜だし。ちょうどいい。前から切らせろってうるさかったんだ」と答えて脱いだTシャツをベッドに放り投げる。
クローゼットの中は几帳面に整えているくせに、そういうちょっと雑な動作をするギャップが面白い。それにしても走っているだけでそんなに鍛えられるなんて、やはり体質の違いだろうか。ヒューゴは着替えを済ますと「すぐ戻る」と車のキーを掴んだ。素直なヤツ。動きたくなさそうにダラダラしてたのに。
でもどこへ切りに行ったんだろう。予約もせず。一時停止していた映画はそのままにし、おれ
毎週金曜日は、透が夕飯を食べに来る日だ。喜んでくれそうなメニューを考えるのが楽しくて、コストパフォーマンスは度外視。そのせいで、金曜日はランチの材料も豪華で凝ったものになる。ちゃっかり気付いているお客さんもいて、金曜は固定のランチ客が多い。普段のランチ営業はアルバイトに任せているが、金曜だけは、夕飯の下ごしらえのついでに調理は僕が担当する。今週はシュヴァインブラーテン&クロース。ドイツ人の祖母から教わった、僕の得意料理の一つだ。——ドイツ料理は、最初に透が店に来てくれた日を思い起こさせてくれる。あの日は涼しい風が良く通って、まるでヨーロッパの夏の森のような爽やかな日だった。苔の青い香りと野鳥の声を思い出していると、どうしてもドイツ料理が食べたくなって、昼下がりのカフェ営業のさなか、こっそり調理していたんだ。いつもはサンドウィッチなんかで簡単に済ますから、自分用に温かい料理を作ることは滅多にあることじゃない。コロン、とベルの小気味よい音と共にドアが開いた瞬間。まるで凛と澄んだ湖に飛び込んだような、眩しいくらい白い光を感じて。何事かと驚いて振り向いたら、そこに遠慮がちに、でもしっかりと「あの時のキミ」が立っていて。何度でも、思い出す度に言葉にできないほどの幸運に胸が一杯になる。クロース用に乾燥させていたパンをちぎり、オニオンを刻む。ソテーしたポークは昨夜からスープに漬けてあるから、ナイフがいらないほどジューシーに仕上がっているはずだ。食べてくれる相手のことを想像しながらの料理の時間ほど、楽しいものはない。透は僕が作った食事をなんでも美味しいと言ってくれるが、特にヨーロッパの料理が口に合うようで、なかなか良い食べっぷりを見せてくれる。元が陸上選手だけあって代謝がいいのか、太る心配も無さそうで、食べさせ甲斐がある。それに、お腹を空かして店に来る透は、とてもかわいい。金曜の夜はたくさん飲むから、悪酔いしないようにしっかり食べさせないと。ランチタイムが捌けて、バータイムまでのんびりと店で過ごす。
週末が明けて月曜、いつも通りに出社してメールアプリを起動すると、Urgentと書かれた件名が目に飛び込んできた。 差出人は現在開発を任せているインドのベンダーだ。 念の為読み直して、速水君に転送する。メールの内容は悲惨なもので、先方の従業員の大半がボイコットを始めたとのことだった。あちらのプロジェクトマネージャーから、コアエンジニアたちをどうにか説得しに来られないか、という懇願だった。 炎上した原因は他社案件らしいが、ボイコットしているエンジニアたちは弊社のプロジェクトにもアサインされているため、こっちは完全にとばっちりだ。「高屋さーん、俺行けるよ!」そう言いながら速水君は開いている打ち合わせスペースを指さした。 今日は一日2人で籠もり、航空券の予約やらスケジュールの調整だ。とにかく早く行って早く帰るをモットーに、明日出発のコルカタ行きを予約した。帰りは終わり次第すぐに帰れるよう、オープンチケットだ。 インドの方には直近の作業のためにこちらから開発担当者1名を連れていくと返信した。もちろんボイコット組の説得役はおれだ。こっちは納期重視の日本社会だ。うちの案件だけでもやってもらわないととんでもない被害になる。おそらく先方のマネージャーはそれを見透かしていて、おれに連絡してきたのだろう。 それにしても、他社は何をやらかしたんだろう。経験上、インドの会社は大抵のことでは怒らないはずだ。 翌朝5時。成田空港でカツサンドを食べながらコーヒーを飲んでいると、速水君に「マジ面倒でしょ」と同情される。「うん。でも『呼んだけど来なかったから納品できませんでした』ってこっちの落ち度にしかねないからね、彼ら」「あるある過ぎ。だから海外に仕事頼むのしんどいんだよなあ」 速水君は伸びて大あくびする。本当にその通りだ。「日本に頼める先があればいいんだけど、技術力がね。速水君レベルのエンジニアはレアだもん」「あ。褒めてくれるんだ。窓際座る?」「おれ通路側派」飛行中、おれたちはエコノミーの狭い座席で足腰を強張
ヒューゴと知り合って1年が過ぎ、また夏がやってきた。週末のお泊り会(そう言うとヒューゴは爆笑していたが)は、今までのところキャンセル日も頓挫することもなく、毎週続いている。いよいよ気温が30度を越えてくると、サイクリングの頻度も激減してくる。その日も真夏日で、おれたちはエアコンの効いた部屋で、氷をたっぷりいれたハイボールを飲みながらだらりと快適な映画鑑賞だ。作品は脚本賞を獲ったらしいクライムサスペンスで、たしかに良く練られたプロットだったがテンポが少々だるく、ソファの対角にいるヒューゴの横顔もついでに鑑賞する余裕があった。後ろでギリギリ結べるくらいの長さの髪を下ろしたままで、時折顔にかかる前髪を耳にかけなおしている。とても似合うけれど——たとえば、この1年でどんどん鍛えられていく身体や、意外にラフな行動を知った以上、少し違和感を感じるんだよな。長めのブロンドって繊細そうで。ヒューゴは物腰柔らかだけれど、繊細ではない気がする。「髪、伸ばしてるの?」「いや」ヒューゴは髪をかきあげる。いちいちかっこいいね。「切ってないだけ。でも結ぶと楽だよ。飲食店だし」「確かに清潔感はある」でも、と俺は続ける。「もう少し短かい方がヒューゴらしさが出そう」「そう?透がそう言うなら、切ろうか」ヒューゴはすぐ立ち上がって寝室の方へ行ってしまう。「もしかして今から行くの?」追いかけると、「土曜だし。ちょうどいい。前から切らせろってうるさかったんだ」と答えて脱いだTシャツをベッドに放り投げる。クローゼットの中は几帳面に整えているくせに、そういうちょっと雑な動作をするギャップが面白い。それにしても走っているだけでそんなに鍛えられるなんて、やはり体質の違いだろうか。ヒューゴは着替えを済ますと「すぐ戻る」と車のキーを掴んだ。素直なヤツ。動きたくなさそうにダラダラしてたのに。でもどこへ切りに行ったんだろう。予約もせず。一時停止していた映画はそのままにし、おれ
実際のところ、忠告は半分冗談半分本気だ。想像に難くなかったとはいえ、ヒューゴは客から人気がある。バイトに入るようになり、今までとは違う目線から見ると、それは羨ましいなんて生ぬるいものではなく、気苦労でしかないようだった。相手がお客さんである以上は無下にもできず、しかしホイホイと付き合うわけにもいかず。とにかく波風を立てないように穏便に、をモットーにしているようだ。以前、諒子さんのことを奥さんだと思われても否定しない、と話していた意図は十分理解できた。ヒューゴの接客は間違いなく丁寧だが、おれがアンドロイドだとからかうように、やはりどこか機械じみているのは人間関係で問題を起こさないためだろう。そんなだから、商売をしている以上、ナンパだとか、後々面倒くさいことになるようなリスクは負わないはずだ。ま、小林さんとのやりとりを見る限り、このお誘いはいつもの冗談なんだろう。おれたちは小林さんに別れを告げると、近くにある適当なイタリアンレストランで遅めのランチをしてから少し海辺を流した。それにしても、『適当な店』というやつは大抵イタリアンになりがちだ。店を出て車に向かうと、ヒューゴがまた助手席のドアを開けてくれる。楽なんだけど……。このランチにしても、ヒューゴが時々作ってくれる賄いパスタの方がずっと美味しいと感じてしまった。いろいろ慣れつつある自分がちょっと怖い。ヒューゴの運転は快適でどこまでも乗り続けてしまいそうだったが、おれは仕事が残っていることを思い出してしまい、ドライブは2時間ほどで切り上げることになった。ようやく夕方になろうかという健全な時間にマンションに到着し、着替えが入ったバッグを寝室のクローゼット付近に置く。『本当に毎週来るけどいいのか』と、おれは心の中だけで問いかけて、発言はしなかった。口に出さなければ否定的な答えも返って来ないし。PCを小脇に抱えてリビングに戻ると、ソファに座りタブレットを操作しているヒューゴの隣に滑り込んであぐらを組み、そのまま資料作成に取り掛かった。「映画観てていいよ。気にならないから」実
家主が帰ってくるまで特にすることもなく、おれはソファにだらりと寛ぎ、ストリーミングサービスのタイトル一覧を眺めたり、スマホを触ったりして過ごした。初めて来た他人の家だというのに、自室のようにリラックスできてしまう。店の延長線上にあるような慣れからくる感覚なのかと思ったが、もしかすれば『場所』という入れ物より、ヒューゴの傍にいることに慣れているからか。さて、今日は土曜日だ。このまま家でのんびりするのもいいし、遅くまでどこかに遊びに出るのもいい。今日も泊まっていけと言うのが本音ならば。誰かと週末まるごとを過ごすなんて久しぶりだ。そういえば、と独りつぶやき、あらためてスマホを取り出してMAPアプリを確認する。店からタクシーで10分も掛かっていないようだったから、家からそう遠くないはずだ。マンションから現在地までを経路検索してみると、予想通りで自転車で20分少々と表示された。次は自転車で来よう。ジョギングに付きあって、あの美麗な完全体がヘトヘトになった姿を観てみたい。どちらかと言えば一人でも楽しめるタイプであまり孤独を感じたことはないけれど、今ではもう、ヒューゴに会う前の自分が金曜の夜に何をして過ごしていたか思い出せないほどだ。カチャリ、と鍵を開ける音がし、もう走り終えたのかと若干驚きつつも急いでドア前まで行く。開くと同時に「おかえり」と出迎える。「えっ?」しかしドア越しに聞こえてきたのは女性の戸惑った声だった。一瞬、嫌な考えが頭をよぎる。勘弁してくれ。早速かよ……「あっ!」ドアを開けたのは、驚愕した顔の諒子さんだった。「透くん!?」諒子さんは玄関に突っ立ったまま呆然として、「うそ……すごい」とつぶやく。すごいって何だ。「あ……お邪魔してマス……」おれは見知らぬ人でなかったことに心底安堵する。ヒューゴとの週末がなくなるんじゃ
タクシーの中でヒューゴの名字を聞いた。何度聞いてもうまく発音できないおれを「僕もね、実は英語の方が楽なんだ」と慰めてくれたが、おれは英語もいまいちだ。「諒子さんとはスウェーデン語だよね?」ヒューゴは簡潔に事情を説明してくれた。日本で育ったヒューゴを突然スウェーデンの小学校へ転入させるのは辛いだろうと、ご両親は英語で学べるインターナショナルスクールを選んだという。以来、現地の学校へは一度も行かないままイギリスの大学に進学したそうだ。諒子さんは移住当時まだ小さかったため、そのまま母国語がスウェーデン語となったということだった。「だから僕らは見た目と中身が逆でね。家では、諒子が僕のスウェーデン語の先生だったな」ヒューゴは少し茶化し気味に言う。「日本語は、二人でたくさん練習したんだ。僕は絶対に日本に『帰る』つもりだったし。諒子はもちろんルーツが日本にあるからね」タクシーの窓ガラスに、すこしだけ悲しげなヒューゴの顔が反射していた。いつもの笑顔に混ざった悲しみは一瞬だけで、ヒューゴはおれがそれを見ていたことに気づいていないだろう。見た目から期待される中身が、それぞれ異なる兄妹。ふたりとも容姿には恵まれているけれど、スウェーデンでも日本でも、楽しいことばかりじゃないんだろうな。なにか力になれることがあるだろうか。さっきのような、悲しい顔を一瞬でもさせないように。ほどなくして、タクシーは白いマンションの前に停車した。部屋は最上階にあたる5階の角部屋だった。ヒューゴは「ミカサ スカサ」と言っておれをソファへ座るよう促してくれる。ぐるりと見回すと、広めのL字型の1LDKのようだ。家具は、ソファとテレビの間にカフェテーブルがあるだけで、まるで生活感のカケラもない。リビングと、その向こうを分けている間仕切りが木の枝そのままをいくつも並べてできていて、白い壁と調和してあたたかみがある。「スッキリした部屋だね」オブラートに包んだ感想を述べると、「ほとんど店にいるから」と。たしか店の上階に部屋があると言っていた覚えがあ