流産の日、夫は愛人の元へ

流産の日、夫は愛人の元へ

By:  雨の若君Updated just now
Language: Japanese
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結婚して五年、江原素羽(えばら そわ)は須藤家の嫁として、慎ましくも誠実に役目を果たしてきた。だが、その努力は人前で一度も認められたことはない。 それなのに、須藤司野(すどう つかや)の初恋の女は、ただ少し甘えただけで、すべての「須藤夫人」の特権と優しさを当然のように受け取っていた。 あの日の交通事故で、彼は迷わずその女を救い、素羽を置き去りにした。 命さえ顧みられなかったあの瞬間、素羽の心は完全に凍りついた。 偽装死に成功し、ついに須藤夫人の座を降りることにした。 そして再び顔を合わせた時、あのいつも冷静で完璧主義だった司野が、まるで捨てられた子供のように不安げで、震える声を押し殺し、赤い目で縋りつく。 「素羽、俺と一緒に帰ろう、な?」

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Chapter 1

第1話

子宮外妊娠の診断書を手にして、江原素羽(えばら そわ)は顔色を失いながらも、法的な夫である須藤司野(すどう つかや)に電話をかけた。

電話が数回鳴ったあと、ようやく繋がったが、彼の声はいつも通り冷淡だった。「何の用だ?」

診断書を握る手が震え、喉が詰まりそうになる。「病院に来てくれる?」

彼が返事をする前に、電話の向こうから女の喜びに満ちた声が聞こえてきた。「司野、これ、私への誕生日プレゼントなの?」

それ以上何も聞かず、彼は急いでこう言った。「こっちは忙しいから、岩治に連絡しろ」

電話が切れる直前、彼が優しく囁くのが聞こえた。「気に入った?」

「司……」

自分が何か言う前に、耳元には無情なツーツー音だけが残った。診断書を握る手がさらに白くなる。

女の声の主はすぐに分かった。司野の初恋の人、翁坂美宜(おきさか みのり)だ。

「ご家族の方は来られましたか?」

一人で戻ってきた素羽に、医者が尋ねる。

素羽の顔色はまだ血が戻らない。「自分でサインします」

経験豊富な医者は驚きもしなかった。

手術台に横たわり、素羽はぼんやりと天井を見つめる。冷たい医療器具が体内に入っていく。一筋の涙が頬を伝い、髪に濡れて消えた。

自嘲するしかない。自分なんて、縁起直しの花嫁として須藤家に入っただけの存在。彼の本命には、到底かなわない。

素羽と司野の結婚は、そもそも古い迷信に基づいたものだった。

五年前、司野は交通事故に遭い、医者からは「もう長くは持たない」と宣告された。須藤家の人々は、若くして死なせるのは忍びなく、せめて人生を全うさせたいと願った。

ただ素羽の生年月日の運勢が司野と相性抜群だった。それだけで縁起直しの花嫁として彼女は選ばれた。本来なら、彼女の身分では須藤家に嫁ぐことなど叶わなかったはずだ。

だが、不思議なことに、結婚してわずか一ヶ月で司野は奇跡的に回復し始めた。

医学が救えなかった命を、運命が救った。その恩で、素羽は須藤家の奥様としての地位をしっかり掴んだ。

「福を呼ぶ嫁」と言われたのも、このためだった。

実は、美宜が帰国する前は、司野は素羽に悪くなかった。愛はなかったが、互いに礼儀正しく過ごしていた。

だが、美宜が帰国してから、すべてが変わった。

平穏だった湖面に石が投げ込まれたように、静かな日々がかき乱されていった。

手術台を降り、素羽は真っ白な顔で病院を後にした。

「奥様」

突然現れたのは、司野の秘書である戸田岩治(とだ いわじ)だ。素羽は一瞬だけ目を輝かせて黒塗りの車を見た。

岩治は淡々と言った。「須藤社長は、手が離せません」

その一言で、素羽の瞳から光が消え、力なく微笑む。自分は、まだ期待していたのだろうか。

帰りの車中、素羽のスマホに一件のメッセージが届く。

送信者は美宜の自撮り写真。これが初めてではない。削除すべき連絡先なのに、自分は消せずにいた。

彼女の誇らしげな笑顔よりも、素羽が目を止めたのは彼女の首元に輝くネックレスだった。

【どう?似合ってるでしょ?司野がくれたの】

そのダイヤのネックレスは一ヶ月前、素羽が司野と一緒にオークションで落札した品だった。

あれは、結婚五周年の記念日プレゼントだと思っていた。まさか、自分の思い違いだったのだ。

景苑(けいえん)別荘にて。

家に入ると、すぐに家政婦の森山(もりやま)が駆け寄ってきた。「奥様、食材はすべて準備できております」

素羽はその言葉に少しだけ足を止めた。「もういい。必要ないから」

今日は、本来なら自分と司野の結婚五周年の記念日だった。彼と一緒にお祝いしようと、豪華な晩ご飯を作るつもりだったのだ。

けれど、記念日よりも、彼の想い人の誕生日の方が、司野にとっては大切な日だった。

森山は素羽の顔色が悪いことに気づき、何か声をかけようとしたが、彼女はすでに階段を上がってしまった。

部屋に入る前、素羽は振り返って言った。「私の晩ご飯は用意しなくていい」

白い月が夜空に輝くころ、司野は家に帰ってきた。

玄関で森山が彼のコートを受け取る。

いつもなら迎えに来るはずの人影が見えず、司野は「彼女は?」と尋ねた。

「奥様はもうお休みになっています」

主寝室。

素羽はベッドの上に横になっていた。もともと眠りが浅い彼女は、車のエンジンが止まる音で目が覚めていた。今夜は帰ってこないと思っていたのに。

部屋の扉が開き、ベッドが沈む。すぐそばに、慣れ親しんだ香りと、熱い吐息が首筋にかかる。

何年も同じベッドで眠ってきたのだから、彼の意図くらい分かっている。

素羽はその手を押さえ、はっきりと拒否した。

司野は意外そうに眉を上げる。普段なら彼女はいつも積極的だったのに。

「どうした?」

素羽は静かに答えた。「生理中なの」

「今日は排卵日じゃなかったか?」

その言葉に、素羽の瞳には皮肉が浮かぶ。以前なら、彼の「気遣い」を自分への想いだと勘違いして、都合よく受け止めていた。

でも、もう目を覚ますべきだ。

実際、彼が日付を覚えているのは、須藤家が子どもを望んでいるからに過ぎない。彼はそのチャンスを無駄にしたくなかっただけ。

だから毎月、この時期になると、彼はまるで発情した雄牛のように精を尽くす。

だが、数時間前に彼は父親になるチャンスを失ってしまったことを、まだ知らない。

素羽はそっとお腹に手を当てる。縁のなかった子どもを思い出し、心臓がぎゅっと掴まれるようで、息が苦しくなる。

妊娠を知ってから、子宮外妊娠だと告げられるまで、たった三十分。けれど、その時間は天国から地獄への転落だった。

絶望と苦痛の中で、夫は自分を置き去りにし、昔の恋人と甘い時を過ごしていた。

喉がつまって、鼻の奥がまたツンと痛む。

司野は、彼女の青白い顔を見てようやく尋ねた。「病院で何してた?どこか調子悪いのか?」

その遅すぎる気遣いは、彼女の心を少しも温めなかった。むしろ、胸が冷えきるばかり。

十年間。五年間の片思い、五年間の結婚生活。自分の人生の半分は、彼のために費やしてきた。

「離婚しよう」

もう、これ以上待つのは、やめよう。

司野の表情は変わらない。無表情のまま、彼女の額に手を当てる。「熱でもあるのか?」

素羽はその手を払いのけ、決意を込めて言う。「もう、あなたの恋の邪魔はしたくない。離婚して、美宜と堂々と付き合えばいい。もう隠れる必要もない」

その言葉に、司野はほんの少しだけ眉をひそめた。「美宜に嫉妬してるのか?」

嫉妬?自分にそんな資格があるのか?

美宜の言葉を思い出す。愛されない者こそが「恋の三角関係の第三者」だと。自分のような「第三者」に、何の資格がある?

「俺と美宜は何もない。ただの友達だ」

友達?ベッドを共にする友達?

素羽は心の痛みを押し殺しながら、淡々と言った。「明日、弁護士に離婚協議書を作ってもらう。離婚は私から言い出すけど、悪いのはあなた。補償はちゃんと請求するから」

彼女は聖女ではない。何もかも丸ごと差し出すつもりはなかった。

愛は手に入らなかった。せめて、お金くらいは失いたくない。

離婚後の暮らしが、須藤家にいる今より苦しくなるのは分かっている。だからこそ、お金まで手放すつもりはない。

その時、無表情だった司野の顔に、ついに波紋が走った。彼女の理不尽に苛立ったようだ。

「急に何を怒ってる?俺が病院に付き添えなかったからか?岩治を迎えに行かせただろ?前は、そんな小さいことで怒る女じゃなかったな」

その言葉に、素羽の胸がきつく締めつけられる。まるで、秘書に迎えに来させたことが大きな恩であるかのような言い方。

「今日が何の日か、覚えてる?」

司野の目に、一瞬困惑の色が浮かぶ。その様子を見て、素羽はさらに冷たい笑みを浮かべた。

「お前の誕生日か?」

素羽は珍しく、棘のある声で言い放つ。「須藤社長、心の中で誰のこと考えてるの?」
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第1話
子宮外妊娠の診断書を手にして、江原素羽(えばら そわ)は顔色を失いながらも、法的な夫である須藤司野(すどう つかや)に電話をかけた。電話が数回鳴ったあと、ようやく繋がったが、彼の声はいつも通り冷淡だった。「何の用だ?」診断書を握る手が震え、喉が詰まりそうになる。「病院に来てくれる?」彼が返事をする前に、電話の向こうから女の喜びに満ちた声が聞こえてきた。「司野、これ、私への誕生日プレゼントなの?」それ以上何も聞かず、彼は急いでこう言った。「こっちは忙しいから、岩治に連絡しろ」電話が切れる直前、彼が優しく囁くのが聞こえた。「気に入った?」「司……」自分が何か言う前に、耳元には無情なツーツー音だけが残った。診断書を握る手がさらに白くなる。女の声の主はすぐに分かった。司野の初恋の人、翁坂美宜(おきさか みのり)だ。「ご家族の方は来られましたか?」一人で戻ってきた素羽に、医者が尋ねる。素羽の顔色はまだ血が戻らない。「自分でサインします」経験豊富な医者は驚きもしなかった。手術台に横たわり、素羽はぼんやりと天井を見つめる。冷たい医療器具が体内に入っていく。一筋の涙が頬を伝い、髪に濡れて消えた。自嘲するしかない。自分なんて、縁起直しの花嫁として須藤家に入っただけの存在。彼の本命には、到底かなわない。素羽と司野の結婚は、そもそも古い迷信に基づいたものだった。五年前、司野は交通事故に遭い、医者からは「もう長くは持たない」と宣告された。須藤家の人々は、若くして死なせるのは忍びなく、せめて人生を全うさせたいと願った。ただ素羽の生年月日の運勢が司野と相性抜群だった。それだけで縁起直しの花嫁として彼女は選ばれた。本来なら、彼女の身分では須藤家に嫁ぐことなど叶わなかったはずだ。だが、不思議なことに、結婚してわずか一ヶ月で司野は奇跡的に回復し始めた。医学が救えなかった命を、運命が救った。その恩で、素羽は須藤家の奥様としての地位をしっかり掴んだ。「福を呼ぶ嫁」と言われたのも、このためだった。実は、美宜が帰国する前は、司野は素羽に悪くなかった。愛はなかったが、互いに礼儀正しく過ごしていた。だが、美宜が帰国してから、すべてが変わった。平穏だった湖面に石が投げ込まれたように、静かな日々がかき乱されていった。手術
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第2話
司野は、素羽の従順さに慣れていたし、それを気に入ってもいた。そんな彼女が、突然反抗的な態度を見せたことで、彼の気分はすっかり曇った。素羽は、自分で自分の首を締めていると分かっていた。答えが分かりきっていることを、わざわざ聞いては、自分で傷ついていたのだ。人は弱っているときほど、些細なことで胸が詰まるものだ。今まで我慢してきたことが、もう限界に達しそうだった。素羽はじっと司野を見つめて言った。「今日は、私たちの結婚記念日、五周年なの」その言葉に、司野は一瞬呆けた。本当に、すっかり忘れていたらしい。その顔を見れば、もう何も言えなかった。思い出せないのも無理はない。だって、あの日、結婚式で誓い合った相手は、形だけの夫婦だったのだから。司野は少し落ち着いた声で言った。「後で埋め合わせするよ」その一言が、素羽の心をさらに冷やした。今更、もう彼と言い争う気にもなれず、素羽は自ら話を終わらせた。「明日、離婚の手続きをしに行こう」また離婚の話を持ち出した彼女に、司野の眉間に皺が寄る。「いい加減にしろ。その話はもう聞きたくない」普段なら、彼が不機嫌になれば、素羽はすぐに折れていた。だが今日は違った。「冗談じゃない。本気よ」その瞬間、部屋の空気が急に重くなり、二人の間に息苦しさが広がった。そのとき、司野のスマホが鳴った。静かな部屋に、美宜の泣きそうな声が響いた。「司野さん、バスルームで転んじゃって……足を捻ったみたい……」司野はすぐさま答えた。「今すぐ行く」電話を切ると、すぐにベッドから起き上がった。素羽に一瞥もくれず、今夜の彼女の態度に不満を感じているのが明らかだった。彼が部屋を出ていこうとしたとき、素羽は思わず引き止めそうになったが、手を伸ばしかけて、結局こらえた。階下から車のエンジン音が聞こえ、彼は去っていった。素羽は、体を丸めて、顔を布団の中へ沈めていった。……翌朝七時半、素羽の体内時計が目を覚ます。いつものように司野の朝食を準備しようとしたが、ふと手が止まる。もう五年も続けた習慣を、変えなきゃいけないのだ、と痛感した。スーツケースを引っ張り出し、貴重品をすべて詰め込む。ジュエリーも、全部司野からの贈り物だった。五年の結婚生活、愛はなかったが、物質的には困ることはなかった。美宜が現れなければ
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第3話
司野は岩治が選んだネックレスを手に、家へ帰ってきた。しかし、家に入ると素羽の姿はなく、彼女が出張に出ていると聞かされた。普段から素羽は出張に慣れているため、特に気にせず、一人でダイニングで晩ご飯を済ませる。食事を終え、いつものように誰かがハンカチを持ってきてくれるのを待ってしまい――ああ、今日は素羽はいないのだと気づき、自分でハンカチを取りに行く羽目になった。「彼女は、いつ帰るって言ってた?」司野が訊ねると、家政婦の森山は「奥様はおっしゃってませんでした」と答える。以前なら、素羽は必ず司野にスケジュールを伝えてから出張に行っていた。今回に限って何も言わずに出かけたことが、司野の眉間にささやかな不機嫌を刻む。その頃の素羽はというと、一人で夕食を済ませ、家のゴミを片付け、風呂を済ませてベッドに横たわる。新しいベッドも新しい部屋も、特に違和感なく、夢も見ずに眠りについた。翌朝。素羽は会社には行かず、芳枝のお見舞いに病院へ向かった。芳枝は珍しい病気を患っており、完治は難しく、毎日高価な薬で命を繋いでいる。親戚の間では「お金持ちの病」などと冗談めかして呼ばれることもある。素羽のお見舞いに、芳枝はとても喜び、しばらくすると「素羽は痩せたんじゃない?須藤家で辛い目にあってない?」と心配する。素羽は笑顔で「そんなことないよ。お義母さんたち、よくしてくれてる」と答える。「辛かったら、何でもおばあちゃんに言いなさい。一人で抱え込むんじゃないよ」と芳枝は言う。素羽が、何でも心に溜め込む子だと、彼女はよく知っていた。本当は、江原家が素羽に申し訳ないことをしたのだ。あの時、司野のために「縁起直しの花嫁」として嫁がせたこと――芳枝は何度思い出しても胸が詰まる。自分にもっと発言力があれば、止められたかもしれないのに。けれど、素羽は運がよくて、死地から司野を救ってみせた。未亡人にならずに済んだのは、彼女の強さゆえだった。「おばあちゃん、素羽は辛くないよ」あの時、司野に嫁いだことも、素羽には少しも後悔はない。あれが、彼と結ばれる唯一の機会だと知っていたから。今、離婚しようとしていることも、素羽は自分の意思で決めたことだ。すべては自分で選んだ道。だから、辛くなんてない。病院を出る前に、司野から電話がかかってきた。彼が何の用
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第4話
素羽は琴子が孫の顔を見たいがために、どれほど執念深くなれるかをよく知っていた。だからこそ、自分の寝ているところまで見張られるなんて絶対にごめんだった。「お義母さん、ここは会社から遠いし、毎日早起きしなきゃいけません。そうなると、司野の睡眠時間にも影響が出ちゃいますよ」今や息子は琴子の命そのもの。素羽はその点を上手く利用して、自分の自由を守ろうとする。案の定、琴子は少し躊躇した。司野は横目で素羽を睨む。その瞳にはわずかな陰りがあり、自分を盾に利用されていることを見抜いているのだろう。しかし素羽はその視線を感じ取っていたものの、あえて無視した。まるでさっきの司野の振る舞いを真似るかのように。結局、屋敷に住む話はそれで流れたが、琴子は簡単には引き下がらない。今度は本家の家政婦である梅田(うめた)を送り込んできたのだ。素羽はもう一度やんわり断ろうとしたが、琴子の態度は頑なで、話し合いの余地もなく決定された。「梅田、お腹空いたわ。ご飯はまだ?」そう声が響いた瞬間、すらりとした美少女が現れた。司野の妹――須藤美玲(すどう みれい)だ。彼女は素直に挨拶した。「お兄ちゃん、お義姉さん」司野は軽く頷く。「おかえり」素羽も微笑みを返す。美玲は今年十六歳で、康平の晩年に生まれた子だ。須藤家の本家で一番下のお嬢様だから、家族から溺愛されている。琴子はすぐに食卓の準備を指示する。食卓で、美玲は無垢な笑顔を浮かべて言う。「お義姉さん、今度の金曜日、学校の保護者会があるんだけど、代わりに来てくれない?」その声を聞いて、素羽の手がわずかに止まる。美玲と司野はあまり似ていない。美玲は母親似で、司野は父親似。でも二人とも康平の特徴的な目を受け継いでいる。司野の目は冷たくて温度を感じさせないが、美玲の目はいつも笑っていて、自然と親しみを感じさせる。けれど素羽は知っている。それは全部、彼女の作った仮面に過ぎないと。素羽はやんわりと断った。「金曜日は仕事があるから、お義母さんに行ってもらったらどう?」美玲はそれでも諦めず、今度は司野に甘えた声で頼んだ。「お兄ちゃん、一日だけお義姉さん貸してよ。いい?」素羽は心の中で司野が断ってくれることを期待したが、その願いはあっさり打ち砕かれる。司野が口を開く前に、琴子が代わり
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第5話
そんな理不尽な言葉が飛んできても、素羽は驚かなかった。いじめっ子に筋を通せなんて、それこそ絵空事だ。「助けて……」湖に落ちた男子は泳げないらしく、必死にもがいていた。だが、岸辺の令嬢や御曹司たちは誰一人として助けに行こうとしない。それどころか、誰かが偉そうに命令した。「さっさと助けに行きなさいよ。あんたが突き落としたの、私たちみんな見てたんだから。寛(ひろし)に何かあったら、神崎(かんざき)家が絶対に許さないから!」素羽は水中でもがいている男子を見やって、ついに動き出した。最後の一言が心に刺さった。この少年に万が一のことがあれば、彼らの証言ひとつで自分は未成年殺人未遂の犯人に仕立て上げられる。この無法者どもなら、それくらい簡単にやってのけるだろう。もし本当にそうなったら、事なかれ主義でも自己保身でも謝罪でも、結局最後に切り捨てられるのは自分に決まっている。だって、司野は「殺人犯」なんて妻に欲しがるはずもない。素羽には彼らの背後にある権力をどうこうできる力はなかった。周りを見渡すと、美玲は面白そうにこちらを眺めていて、まるで素羽がいじめられるのを楽しむかのようだった。素羽はバッグを岸辺に置き、靴を脱いで湖に入る。だが、この子たちの悪質さを甘く見ていた。助けを待っていたはずの男子が、まるで鰻のように素早く動き、逆に彼女を水中に押し込んできたのだ。不意を突かれ、素羽は思い切り水を飲み込んだ。「げほっ、げほっ……」男子の顔には、露骨な卑劣な笑みが浮かんでいた。岸に上がっていく男子を見て、素羽は内心自嘲した。なんで本当に泳げないと思ってしまったのだろう。責任がどうとか言う前に、本当に事故が起きれば、この子たちだって無傷では済まないはずなのに。素羽が岸に上がろうとすると、まだ遊び足りないのか、誰かが地面の石を拾って彼女のほうへ投げつけてきた。水しぶきが目に入り、なかなか岸に上がれない。「美玲、この家政婦、まさかエルメスのバッグ持ってるの?それって盗んだんじゃないの?」美玲の美しい顔が嫌悪で歪み、素羽が置いたバッグを蹴飛ばして湖に落とした。本当は盗みであって欲しい。そうすれば警察に突き出せる。だが美玲が分かっている。それはお兄ちゃんのお金で買ったものだ。この家に寄生する名ばかりの義
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第6話
学校の門を出た瞬間、素羽の背筋はやっと力を抜いた。さっきまでどれだけ気を張っていたか、今は心臓がドクドクうるさいほどだ。養女という立場だからこそ、素羽は子供の頃から我慢に慣れていた。性格もどちらかと言えば大人しい方だ。だけど、彼女も完全な土下座女ではない。さっきのあれで、美玲を十分に刺激できて、離婚がうまく進んでくれれば――そんな淡い期待だけが心に残っていた。ふと、こめかみに走る鋭い痛みが、数分前の出来事を否応なく思い出させる。素羽は近くの病院へと足を向けた。病院を出たばかりの素羽のスマホが鳴る。発信者は養父の江原松信(えばら まつのぶ)だった。電話に出たくない、でも無視もできない。骨の髄まで沁みついた恐怖心が、素羽を縛っている。深く息を吐き、通話ボタンに指を滑らせる。案の定、松信の命令口調が耳に突き刺さる。「明日、司野を連れて帰ってこい。夕飯だ」素羽は視線を落とし、指先をいじる。家族団らんなんて綺麗ごと、松信にとってはただの新しい事業提携の話だ。「事業提携」と言えば聞こえはいいが、実際はまた搾り取られるだけ。返事がない素羽に、松信は容赦なく声を荒げる。「聞こえてないのか?口がきけなくなったのか?」素羽は下を向いたまま、封じられた口を開く。「分かりました。お父さん」言い終えるか終えないかで、電話は一方的に切られた。力の抜けた手から、スマホがぶらりと下がる。司野が自分のことを好きになれないのも無理はない。こんな搾取ばかりの義父なんて、自分だって嫌気が差す。静かな場所で少し休みたい、そう思ったが、現実は意地悪だ。今度は仕事の上司からの電話。夜の会食に出ろという指示だった。こういう会食、たいていは広報部の部員たちが前線に立ち、相手方に気を使い倒すだけだ。素羽の性格はこういうのに向いてない。だけど、どうしても上手くなりたかった。司野がか弱い女を嫌うと知っていたから、どうにかして強くなりたかった。でも……つい先日流産したばかりの体に無理はきつい。素羽は控えめに断る。「課長、今日はもう私用で休みをいただいています」だが相手は容赦ない。「上からの指示だ」素羽は悟る。この「上」は司野を指している。彼が休みを許可したはずなのに、なぜ戻ってこいと?「もう退職手続きを進めていますが……」「
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第7話
自分が黙っていたことが、司野にとっては「暗黙の了承」と映ったらしい。ここ数日、素羽は美宜のことで司野と揉めてばかりいた。今夜も、美宜を火の中に突き落とすような言葉を吐いた素羽に、司野は強い不満を覚えていた。美宜は泣きじゃくり、司野の胸にすがりついて今にも倒れそうだった。その姿はまるで、この世で一番の悲劇を背負ったかのようだ。「司野さん、もう家に帰りたい……」司野は冷たい目で素羽を一瞥しただけで、何も言わずに美宜を車に乗せて先に帰ってしまった。その一瞥だけで、素羽の胸は締めつけられるように苦しくなった。離れゆく高級車を見つめていると、広報部の同僚が慌てて駆け寄ってきた。「素羽さん、社長が社長夫人のことでもう私たち全員クビにしたりしないよね?」「社長夫人」――その言葉がまた胸に突き刺さる。この期に及んで、司野は美宜のことをただの妹だと言う。だが、どんな妹が妻よりも大事にされるものだろうか。「さあ、どうでしょう」と、素羽は淡々と答えた。いずれにせよ、自分はもうすぐ退職する身だ。クビになろうがなるまいが、もはやどうでもよかった。レストランの前で同僚たちと別れ、素羽は車で景苑別荘へ帰った。玄関をくぐると、家政婦の森山と梅田が迎えてくれた。酒の匂いを嗅ぎつけた森山はすぐに酔い覚ましのお茶を淹れに行き、梅田は呆れ顔で言った。「奥様、どうしてそんなにお酒を飲んだんです?ご存知でしょう、妊活中はお酒は厳禁なんですよ?そんなに自分を粗末にして、いつになったらに大奥様はお孫さんを抱けるんです?本家の跡継ぎはどうなるんですか?」梅田のこの態度も、もう慣れっこだ。彼女は琴子の言葉を盾にしているのだから、誰も逆らえない。素羽は頭痛に耐えながら、余計な言い争いを避けようとした。「もう、これからは飲まない」そう言って、素羽は階段を上がろうとした。「奥様、台所に温めてある薬膳スープ、飲んでからお休みくださいね」もし飲まなかったら、すぐさま琴子に電話されるだろう。仕方なく一杯飲み干すと、胃が張って苦しくなる。今夜は酒もスープもたっぷりで、お腹はもう水浸しだ。ようやく解放されて、素羽は階段を上がった。静まり返った寝室に入ると、美宜と司野が抱き合っていた光景が脳裏に浮かび、胸が締めつけられる。胃が逆流するような感覚
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第8話
素羽は、司野を実家に連れて帰るよう松信から言われていたが、そのことは彼には話していなかった。車を走らせて素羽が実家に戻ると、玄関のドアを開けたのは妹の江原祐佳(えばら ゆうか)だった。祐佳は、松信が再婚してから生まれた娘で、素羽より四つ年下だ。いつもは笑顔を絶やさない祐佳だったが、今回素羽ひとりだけの姿を見るなり顔をしかめた。「なんだ、一人だけ?」「司野くん、おかえり」奥から松信の声が聞こえてきた。素羽を見て、父娘そろって同じ表情。「司野は?」「仕事だって。来られないって」松信はその言葉に残念そうな顔をしたが、祐佳は口をとがらせて言った。「どうせお姉さん、お義兄さんに何も言ってないんでしょ?」その言葉に、松信の目が一瞬鋭くなった。身なりを丁寧に整えた祐佳を見て、素羽は彼女が自ら玄関先に出てきた理由を悟った。妹は、姉の夫に気があるのだ。素羽が縁起直しの花嫁をすることになった時、祐佳は何度も嘲笑っていた。だが未亡人にもならず、かえって幸せそうにしているのを見ては、今度は嫉妬の色を隠さなかった。何しろ、須藤家の家柄はあまりにも高い。祐佳が姉の夫を奪おうと画策しているのは、もはや昨日今日の話ではない。松信は渋い顔で言った。「お前はどこから嫁いだと思ってるんだ?江原家がうまくやってくれるこそ、お前の立場が守られるんだぞ」こうした道徳的な押し付けは、素羽にとって初めてのことではなかった。素羽はおとなしくうなずいた。「お父さん、私はそんなことしません」素直な態度に、松信も険しい目つきを収めた。確かに、この養女は決して大胆なことはしない子だった。ただ、主役が不在となれば、もう食事の意味もなくなる。松信は企画書を素羽に手渡し、上司が部下に命じるように言った。「できるだけ早く、司野に承諾させてくれ」そう言うと、手を振って帰るよう促した。素羽はその場に立ち尽くし、手にした企画書を握りしめる。テーブルでは、三人家族が和やかに夕食を囲んでいる。自分は、完全なる部外者だった。この光景は、松信が再婚してからというもの、何度も見てきた。幼いころは、こうした排除に泣き、苦しみ、問いかけたこともある。だが返ってきたのは、祐佳母娘からのいじめと侮蔑、松信の無関心だけだった。小さな素羽はすぐに現実を知り
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第9話
美宜の一見庇うような言葉も、素羽にとっては単なる挑発にしか聞こえなかった。まるで自分がどれだけ寛大で、思いやりがあるかを見せつけているようだ。当事者である素羽が何も言わないうちに、代わりに楓華がその言い回しにうんざりしていた。「ちょっと……」と口を開きかけたが、素羽に袖を引かれた。「翁坂さん、人に気を使う前に、もう少し自分のことを考えた方がいいんじゃない?」素羽の言葉に美宜はぽかんとした顔で返す。「それってどういう意味ですか?」「自分の立場をちゃんと分かっていないと、後で困るのは自分だよ」その言葉の裏に含まれた冷ややかな皮肉に、周囲はすぐに気づいた。美宜はわざとらしく困った顔を作る。「素羽さん、私に何か不満でもあるんですか?」素羽は逆に問い返す。「私があなたに不満を持つ理由なんてある?」美宜は答えず、代わりに司野に視線を向ける。「司野さん、素羽さん、私のこと誤解してるみたい……」司野は眉間にシワを寄せて、「素羽、いい加減にしろよ」と冷たく言い放つ。おかしいわね。実は、彼が自分の名前を呼ぶのが好きだった。彼の口から出た「素羽」の二文字には、特別な愛おしさを感じていたのに、今はもう、ただの威圧としか響かない。自分だけが思い上がっていた。彼の優しさも、今思えば自分の都合のいい幻想だったのだ。司野の警告の眼差しに、素羽はどうしようもない無力感を覚えた。皮肉を言ったところで、結局は虚勢にしかならず、美宜に笑いものにされるだけだ。胸の痛みを隠して、素羽は話題を変えた。「大事な話があるから、今夜は早く帰ってきて」今の自分には、もう彼を引き止める力なんてない。これ以上、みじめな姿を見せたくもない。そう言い残し、素羽は楓華の腕を取ってその場を離れた。立ち去る素羽の背中を見送りながら、美宜の目にはほのかな勝ち誇りが浮かぶ。そして、またもや弱々しい女の仮面。「司野さん、素羽さんが大事な話があるみたいだから、先に帰ってあげて。私は一人で姉の所に行けるし」「姉」という言葉に司野が少し反応し、目を瞬かせてから、「一緒に行く」と口にする。その言葉に、美宜はこっそり口元を歪めた。 病院を出て、楓華の車に乗り込む。道中ずっと我慢していた楓華が、ついに爆発した。「ったく、あの女、見てるだけでイライラする
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第10話
翌日、素羽が目を覚ますと、瞼は腫れ上がっていた。隣の布団はきちんと畳まれており、ぬくもりも感じられない。またしても、司野は夜遅くまで帰ってこなかったのだ。素羽は起き出すと、冷たいタオルで目元を冷やす。今日は日曜日だから、外に出る理由もなく、彼女は自宅でじっとしている。昼頃、琴子から電話がかかってきた。「ちょっと用があるから、屋敷に帰ってきなさい」と、どこか不機嫌な声だった。素羽は余計なことは聞かず、すぐに車で屋敷へ向かった。家につくと、美玲もいた。いや、それだけではない。見知らぬ二人の女性まで居間に座っている。素羽は一人も顔を知らなかった。「お義母さん」と、素羽は丁寧に挨拶した。琴子は顔をしかめると、いきなり問い詰めてきた。「先日の保護者会の日、あなた、誰かに手を出したって本当?」その言葉に、素羽は美玲の方をちらりと見る。美玲は目を細め、まるで面白がっているかのようにニヤリとしていた。そして、見知らぬ二人のうちの一人――若い女の子を見て、素羽はすぐに思い出した。自分に怪我をさせたあの生徒――佳弥だった。「はい」と素羽は答えた。否定するつもりはなかった。「でも、私にも理由が……」と言いかけたところで、佳弥の隣に座っていた女性が割り込んできた。「理由なんてどうでもいいわよ。未成年の子どもに手を出すなんて、大人としてありえないでしょ!」その女性は、美玲が「恐ろしく気性の荒い」と言っていた例の母親――吉永由紀子(よしなが ゆきこ)だった。「うちの娘はまだ十五歳なのよ?そんな子が、あなたに何をしたって言うの?大人なら我慢するのが普通でしょ?それを、湖に突き落として溺れさせるなんて、殺人未遂じゃないの!」そう言い切ると、由紀子は琴子に顔を向けた。「須藤夫人、うちにはこの子一人だけなの。私も主人も大事に育ててきたんです。それが、学校で真面目に授業を受けているはずの娘が、お嫁さんに殺されかけるなんて、こんな理不尽なことありますか?」よく言われることだが、いわゆるモンスターペアレントの子どもが手に負えないのは、親がそれ以上に手に負えないからだ、というのは本当らしい。「先に手を出したのは、あの子のほうです」と、素羽は静かに前髪をかきあげ、髪の下に隠れていた傷跡を見せた。だが、そんな罪悪感や良心の呵責など、この母
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