潮崎市、センター病院。
「子宮外妊娠です。卵管破裂は命にかかわります!こんな大手術なのに、どうして一人で来たんですか?主人は?早く呼んでサインをもらってください!」
朝霧静奈(あさぎりしずな)は、腹部を引き裂かれるような激痛に耐えながら、電話をかけた。
呼び出し音は長く続いた。
受話器の向こうから、冷たい声が聞こえる。
「何?」
「彰人、今、忙しい?お腹がすごく痛くて、少しだけ……」
「暇じゃない」
彼女が言い終わる前に、不機嫌な声が冷たく言葉を遮った。
「腹が痛いなら医者に行け。こっちは忙しい」
「彰人さん、誰から?」
電話の向こうから、甘い女の声が聞こえる。
「どうでもいい相手だ」
彼の声が、急に優しくなった。
「どれがいい?好きな方を言え。競り落としてプレゼントしてやる」
耳元で、ツーツーという無機質な音が鳴り響く。
静奈の心は、まるでナイフでじわじわと切り刻まれるようだった。
彼女の顔色が真っ白になり、呼吸が浅くなっているのに気づき、医師が叫んだ。
「急げ!すぐに手術室を押さえろ!患者の手術を始める!」
静奈が次に目を覚ましたのは、病室のベッドの上だった。
「目が覚めましたか?昨日は本当に危険な状態だったんですよ。処置が早かったから助かったものの、もう少し遅かったら危なかったんですから!」
若い看護師が、点滴をしながら愚痴をこぼした。
「それにしても、あなたの主人、ひどいじゃないですか!こんなに大きな手術をしたのに、一度も顔を見せないなんて!本当に無責任ですよ!
はい、これ、介護士センターの番号です。必要なら、介護士を呼んでくださいね」
「ありがとうございます」
静奈は看護師から名刺を受け取った。
携帯を取り出し、介護士センターに電話をかけようとした、その時。
突然、ニュース速報がポップアップで表示された。
【潮崎市一の富豪、長谷川グループ社長・長谷川彰人氏、二十八億円のマダム・デュヴィエのダイヤモンドネックレスを落札!恋人の笑顔のため、衝撃のプレゼントか!】
目に突き刺さるような見出しに、静奈の瞳孔が大きく開いた。
写真に写っているこの上なく端正な顔立ちは、まさしく自分の夫、長谷川彰人(はせがわあきと)だった。
だが、自分は彼にとって決して公開できない妻。
結婚して四年。
彼はいつも、氷のように冷たく無慈悲だった。
てっきり、それが彼の持って生まれた性格なのだとそう思っていた。
彼の心を動かすため、自分は従順で物分かりの良い「長谷川夫人」を必死に演じてきた。
しかし今、彼が堂々と他の女性を腕に抱き、世間に愛情を見せつけている姿を見て、ようやく悟った。
彼は本当に少しも自分を愛してなどいなかったのだ。
胸が締め付けられるように痛む。
静奈の目には、みるみるうちに涙が滲んだ。
もう、諦めなければ。
四年も続いたこの茶番を、終わらせる時が来たのだ。
静奈は予定より二日早く、退院手続きを済ませた。
医師は心配そうな顔で言った。
「体はまだかなり衰弱していますよ。もう少し入院していた方が……」
「家の用事がありまして」
「しばらくは絶対に安静にしてください。激しい運動は禁止、それから性行為は絶対に駄目ですよ。一週間後にまた検査に来てください」
「ええ、わかりました。ありがとうございます、先生」
静奈は汐見台という住宅街にある一軒家の邸宅に戻った。
家政婦の田所敦子(たどころ あつこ)は、あからさまに不機嫌な顔で彼女を責め立てた。
「若奥様、近頃はますます目に余りますね!何日も家を空けるなんて!若様がお知りになったら、お怒りになりますよ!」
敦子は長谷川家の家政婦という立場だが、その振る舞いは姑同然だった。
彼女は彰人のめのとであり、自分は特別な存在だと自負している。
彰人から寵愛を受けていない静奈のことなど、端から見下していた。
静奈は分かっていた。
敦子が自分に対してこのような態度を取るのは、彰人の指示ではないにしても、彼の黙認があるからだ。
でなければ、これほどまで傲慢になれるはずがない。
これまでは、彰人に気に入られようと、静奈は彼の周りの人間すべてに媚びへつらってきた。
敦子にいじめられ、見下されても、いつも腹の底に怒りを押し殺してきた。
しかし、もう我慢する必要はない。
静奈は敦子の頬を思い切り平手で打った。
その声は侮蔑に満ちていた。
「出過ぎた真似を!ただの雇われの分際で、誰に向かってそんな口を利いている!」
「なっ!」
敦子は顔を覆い、愕然とした表情で目を見開いた。まさか静奈が手を出すとは思ってもみなかったのだろう。
「私を叩いた……」
「叩かれて当然よ!何?まさか、やり返すつもり?」
静奈の冷え切った一言が、敦子を凍り付かせた。
いくら若様に疎まれていようと、彼女は長谷川家の大奥様が直々に選んだ人なのだ。
敦子は、込み上げる怒りを無理やり飲み込むしかなかった。
静奈は背を向け、二階へと上がっていく。
背後から、敦子の小声での悪態が聞こえてきた。
「顔が綺麗なだけで、何の役にも立たないくせに。どうせ若様からは見向きもされないんだわ。この家の若奥様の席なんて、すぐに他の人のものになるんだから!」
棘のある言葉が、ナイフのように静奈の胸に突き刺さる。
彼女は深呼吸をした。
もう、どうでもいい。
今日を限り、彰人に関するすべては、もうどうでもよくなるのだ。
自室に戻った静奈は、私物をすべてスーツケースに詰めた。
彼女の物は驚くほど少なく、スーツケース一つで十分だった。
スーツケースを持ち上げた瞬間、傷口が引きつれた。
腹部に激しい痛みが走り、冷や汗が雨のように流れ落ちる。
静奈は痛み止めを数錠飲んで、ようやく少し落ち着いた。
薬が効いてきたのか、彼女はベッドに横たわると、いつの間にか眠りに落ちていた。
深夜。
部屋に、大きな人影が入ってきた。
バスルームからシャワーの音が聞こえ、二十分ほどして、彰人が腰にバスタオルを巻いた姿で出てきた。
彼は彫刻のように整った顔立ちで、広い肩幅に引き締まった腰、そして力強く割れた腹筋のが男性的魅力を放っていた。
水滴が筋肉を伝い、緩く巻かれたタオルの内側へと消えていく。
彼は何も言わなかった。
まるで月に一回の事務的なことをこなすかのように、静奈のネグリジェの裾をめくり上げた。
眠っていた静奈は、痛みに体を震わせた。
「痛い……」
彼女は無意識に彼を押しのけた。
「やめて」
「拒むふりか?静奈、それが新しい手口か?」
低く、嘲るような声が頭上から降ってきた。
彰人は彼女から離れるどころか、報復するように続けた。
「月に一度の夫婦の営みは、お前がおばあさんに頼み込んで実現したことだろう?今更やめたいと?」
傷口が引き裂かれるような痛みに、静奈の目から涙がこぼれ落ちた。
彰人が自分を憎んでいることは分かっている。
数年前。
彰人の祖母である大奥様が、二人の結婚を強引に進めた。
結婚後、彰人が彼女に冷淡な態度を取り続けるのを見かねた大奥様が、月に一度は夫婦として同衾するよう、彼に命じたのだ。
その度に、彼はまるで道具でも扱うかのように、彼女で欲望を処理するだけだった。
四年間にも及ぶ結婚生活を思い返し、静奈の胸は痛みに満たされた。
細心の注意を払い、自分を殺して尽くしてきたというのに、彼の心からの愛情はひとかけらも手に入らなかった。
それならば、これ以上執着する必要がどこにあるだろう?
「彰人、離婚よ……」
静奈が言い終わる前に、けたたましく携帯の着信音が鳴り響いた。
彰人は、夜中に電話がかかってくることを非常に嫌う。
しかし、その電話には驚くほど優しく応じた。
「どうした?」
「彰人さん、一人だと怖いの。会いに来てくれない?」
受話器から、甘えたような女の声が聞こえる。
「わかった」
彼は一瞬のためらいもなく承諾した。
その声には、静奈が一度も聞いたことのない優しさが滲んでいた。
「すぐに行くから、二十分だけ待ってて」
電話が切れる。
彰人は、ためらうことなく彼女の上から体をどけた。
そして、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。
数分後、階下から車が走り去る音が聞こえた。
涙が枕を濡らす。
静奈は、白くなった指でシーツを固く握りしめた。
愛すると、愛さないとでは、これほどまでに違うのだ。
翌朝。
静奈は離婚協議書をテーブルの上に残し、スーツケースを引いて家を出た。
その瞬間、腹部に骨の髄まで染み込むような痛みが走り、体の下から暖かい何かが流れ出る感覚があった。
太ももを伝って、足元へと落ちていく。
ふと下を見る。
そこには、衝撃的なほどの血だまりが広がっていた。