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26.怒っても、拗ねても

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-01-26 16:33:27

夕食を終えた食卓には、空の皿が静かに並んでいた。箸はきちんと箸置きに戻され、湯気の消えた味噌汁の椀だけが、まだ食事の記憶を留めている。

晴臣が椅子を引いて立ち上がると、岡田もそれに続いた。

「片づけ、手伝おか」

岡田がそう言ったのは、何日ぶりだっただろうか。

「じゃあ、お願いしてもいいですか」

晴臣が素直に受け入れると、岡田は少しだけ頬を緩めた。リビングのソファに身体を沈めていた沈黙の時間とは打って変わり、ふたりは台所で肩を並べる。

キッチンシンクの蛇口をひねると、水音が立ち上がり、ステンレスの中で反響した。スポンジの泡立つ音、湯気を含んだ食器がカチャリと鳴る音。テレビの音は小さく、遠くの部屋から漏れてくるだけで、今この台所を支配しているのは生活の音だけだった。

「…洗剤、減ってきたかもな」

岡田がぽつりと呟いた。

「今度買ってきます。メモしときますね」

晴臣の声も、いつもより自然だった。

こうして会話が交わされる

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  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   33.明かりを消す、その手前で

    玄関のドアが開く音がした。夜の空気をまとった風が、わずかにリビングへ流れ込む。「ただいま」低く掠れた声が、部屋の静けさを優しく破った。晴臣はソファから立ち上がり、振り返る。「おかえりなさい」岡田は黒いコートを脱ぎながら、ゆっくりと息を吐いた。肩に積もった粉雪が、玄関の明かりの中で小さく光る。鞄を床に置くと、ほっとしたように眉を緩めた。「寒かったですか」「めっちゃ寒い。あっち、雪ひどかったで」声に疲労の色はあったが、どこか安心した響きも混じっていた。晴臣は玄関へ歩み寄り、岡田の手からコートを受け取る。冷え切った生地が掌に触れた瞬間、身体の奥にまで冬の冷たさが入り込んでくるようだった。「お風呂、湧いてます」「おお、助かるわ。やっぱり家が一番やな」岡田は笑って靴を脱ぎ、スリッパに足を入れた。その音が、暮らしの音に戻っていく。湯気と光の混ざった浴室の扉が閉まると、晴臣はキッチンに残るコップを片付けた。お湯を出して洗う手元に、静かな水音が響く。外ではまだ雪が降っているらしく、窓の向こうは淡く白い。やがて、風呂場から水の音が止んだ。岡田が上がり、髪を拭きながら廊下を歩いてくる。パジャマに着替えた彼の顔は、湯上がりでほんのり赤い。「お前も風呂、入っとけよ」「はい。すぐ行きます」晴臣は短く答え、洗面所へ向かった。洗面台の上には、歯ブラシが二本並んでいる。白と青。柄の部分がわずかに触れ合って立っていた。鏡に映る自分の顔を見て、晴臣は小さく息を吐く。湯気で曇る鏡を手でぬぐうと、背後の扉が開く音がした。「一緒に磨こか」岡田の声。振り向くと、彼がタオルで髪を押さえながら立っていた。「課長、もう磨いたんじゃ」「まだや。お前が来るの待っとった」そう言って岡田は、洗面台の横に並んだ。ふたりの肩が

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   32.不在のなかのぬくもり

    外の風が細かく鳴っていた。窓ガラスの向こうで、粉のような雪が斜めに降り、街灯の光を受けてゆっくりと舞っている。冬の夜は、音を吸い込むように静かだった。晴臣は、ソファの端に腰を下ろしていた。テレビはつけていない。時計の針の音が、部屋の奥から一定の間隔で響いている。テーブルの上には、岡田のマグカップがひとつ置かれていた。白地に、青い線が一本入っただけのシンプルなカップ。岡田がコンビニの景品でもらってきたものだ。昼間、岡田は出張に出た。「明日の夜には帰る」と言って、鞄を肩にかけて出ていった。駅まで送ろうとしたが、「ええよ、寒いし」と断られた。その言葉に頷きながらも、晴臣の中にはわずかな空洞が残った。午後までは平気だった。洗濯をして、掃除をして、スーパーで食材を買い足した。いつもと同じことをしているはずなのに、部屋の空気がどこか違っていた。いつもなら、洗濯機が止まる頃に岡田の声がする。「干しとくでー」と言いながら、勝手にベランダに出ていく音。そんな音が、今日はない。晴臣はハンガーに白いシャツをかけながら、無意識にその音を探していた。空気が動かない。風も、声も、温度も。ただ、シャツの布が指に擦れる音だけが、静寂の中に滲んでいく。ベランダに出ると、外の空気は鋭く冷たかった。干した洗濯物の隙間から見える夜空には、灰色の雲が漂っている。雪は降っているのか止んでいるのか、わからないほど静かだ。遠くで電車の通る音がかすかに響き、やがて消える。「……寒いな」誰に言うでもなく呟く。その声が自分の耳に届くまでの間に、やけに時間がかかったように思えた。部屋に戻り、湯を沸かす。ケトルの中で泡が立ち始める音が、やけに大きく感じる。湯気が立ちのぼり、鼻先をかすめる。いつもなら、この湯で岡田のコーヒーを淹れる。カップを二つ出して、ひとつはミルクを少し多めにして。けれど

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   31.息をするように、好きだと思う

    箸の先から、湯気が細くのぼっていた。照明の光を受けて、まるで空気の中に線を描くように揺れる。白い湯気と、醤油の香り、煮物の温かい匂いが部屋の中に満ちていた。岡田は、テーブルの端に肘をつきながら、ゆっくりとご飯を噛んでいた。晴臣は向かい側で、味噌汁をすくいながら静かに箸を動かす。テレビは消してあった。小さな時計の秒針の音だけが、部屋の奥で一定のリズムを刻んでいる。どちらも、あまり多くを話さない夕食だった。だが、それは気まずさではなく、心地の良い沈黙だった。二人の間に漂う空気は、やわらかく、温度を持っていた。「今日のこれ、出汁変えたやろ」岡田が箸を止め、煮物の皿を見下ろした。晴臣は少し顔を上げる。「はい。昆布の量を少し減らして、代わりに鰹を多めにしました」「やっぱりな。いつもより香りが軽い思たわ」岡田の声は、湯気と一緒に緩やかに溶けていく。彼は茶碗を手に取り、ゆっくりと白米を口に運んだ。ご飯の粒が箸に残り、それを親指で落とす動作が妙に丁寧だった。「課長」「ん?」「このあと、風呂、先にどうぞ」「ええわ。お前先に入れ」「じゃあ、あとで」短いやりとりのあと、再び静けさが戻る。聞こえるのは、箸が皿に触れる小さな音だけ。冬の夜の静かな空気が、窓の外から流れ込んでくる。晴臣は箸を置き、水を口に含んだ。グラスの表面についた水滴が、指先にひやりと伝わる。その冷たさが、なぜか心地よかった。岡田がゆっくりと、背もたれに体を預ける。その動作とともに、空気が少しだけ動いた。ふと、彼の目が晴臣の手元を見ているのに気づく。「……お前と暮らして、俺、変わったな思うわ」その言葉は、食卓の上にぽとりと落ちた。晴臣は思わず箸を止め、顔を上げた。「え?」岡田はすぐに続けなかった。

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   30.小さなすれ違いの午後

    外はもう暗く、窓の外を流れる車のヘッドライトが、壁に淡い光の帯を描いていた。電子レンジの静かな唸りが止まり、部屋に沈黙が戻る。晴臣は菜箸を持ったまま、時計を見上げた。秒針の音がひときわ大きく響く。七時半を過ぎていた。岡田からのメッセージは、さっき届いた一行だけだった。「あと30分で帰る」その文字を何度も見返しても、やはりそれ以上の言葉はなかった。たった一行。それだけで十分だと、頭ではわかっている。だが、心の奥ではなにか小さな波紋が広がっていた。テーブルには夕食の準備が整っている。煮魚、味噌汁、ほうれん草のお浸し、そして小鉢の冷奴。湯気がゆっくり立ち上り、照明の光に混ざって揺れている。料理は温かいのに、部屋の空気はどこか冷えていた。晴臣は箸を置き、椅子に腰を下ろす。テレビはつけていない。時計の音と、外の遠い車の走行音だけが響く。いつの間にか、こうして“待つ”時間に慣れていた。高校時代も、大学の頃も、誰かを待つのが苦手だった。待っている間に心がざわつく。「遅い」という苛立ちと、「来ないかもしれない」という不安が同じ形で押し寄せてくる。けれど今は、待つという行為がどこか穏やかなものに変わっていた。岡田は必ず帰ってくる。遅くなっても、疲れていても、ちゃんとこの部屋に戻ってくる。その確信があるからこそ、時計を見つめながら過ごす時間も、どこか柔らかい。しかし、その柔らかさの裏側で、言葉にならない小さな痛みが動いていた。食卓に並んだ二人分の茶碗。湯気が少しずつ薄くなっていくのを見ていると、誰かの分を待ち続けることの“静かな寂しさ”が胸の奥で鳴った。レンジをもう一度使うか迷いながら、晴臣は箸をそっと持ち上げた。少し冷めた味噌汁の表面に、光が淡く反射する。一口だけ飲み、舌の上に残る塩気と出汁の味を感じながら、ため息をひとつ落とした。玄関の鍵が回る音が

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   29.輪郭のやわらぎ

    冬の朝の空気は、まるで透明な膜のように張りつめていた。吐く息が白く曇り、頬にあたる風は細い針のように冷たい。駅のホームに立つ人々の肩が、同じ方向に少しずつ傾いている。どこかのビルの屋上から、鳩が数羽、低く円を描いて飛んだ。晴臣は手袋を外し、スマートフォンの画面で時間を確認した。八時十二分。いつもと変わらない時間。変わらない電車。変わらない通勤。けれど、彼の中では、ほんの少しだけ何かが違っていた。電車が到着し、ドアが開く。暖かい空気が流れ込み、車内の人いきれと混ざり合う。晴臣は鞄を持ち直し、奥のほうに進んだ。吊り革をつかみ、窓際に立つ。ガラスに薄く映る自分の顔が、外の景色と重なって揺れた。列車が動き出す。ゆるやかな振動が足元から伝わる。窓の外には、白い吐息のような曇り空が広がり、ビルの間を縫うように朝日が差し込んでいる。車内の照明が淡く光り、背後で新聞をめくる音と、イヤホンから漏れる小さな音楽が交じり合う。昨日と同じ朝だ。しかし、彼の思考の奥では、どこか柔らかい波が静かに広がっていた。毎朝、岡田より少し早く起きる。コーヒーを淹れていると、寝室のドアが軋んで、あの掠れた声が聞こえる。「もう朝?」寝癖の髪をかき上げながら、半分だけボタンを留めたシャツで、ぼんやりと立っている姿。初めて見たときは、その無防備さに少し戸惑った。だが今では、それも朝の一部になっていた。岡田の癖は数えきれない。靴下を片方だけしか洗濯機に入れない。食後に必ず「ふー」とため息をつく。読みかけの新聞は折らずにテーブルに置く。そのひとつひとつを、以前の自分ならきっと気にしただろう。だらしない、整理ができていない、そう感じていたはずだ。けれど今は違う。その小さな“欠け”が、この部屋に、暮らしに、どこか温度を与えている。電車がトンネルに入る。一瞬、光が途切れ、ガラスに自分の顔がくっきり映る。その顔は、どこか穏やかだった。眉間にあった皺が消えている。頬の力も抜けている。岡田と暮ら

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   28.寄り添う音、重なる朝

    カーテンの隙間から差し込む冬の光が、白い壁を静かに照らしていた。目覚ましが鳴る前に、晴臣はゆっくりと目を開けた。外の空気は張りつめていて、窓の外には細い雲が流れている。部屋の奥で寝息を立てる岡田の気配が、微かに聞こえた。一定のリズムを刻むその呼吸が、冬の朝の静寂にとけ込んでいる。布団から抜け出すと、床の冷たさが足の裏に伝わる。キッチンのスイッチを入れ、湯を沸かす。コンロの青い火が揺れ、その前で晴臣は背筋を伸ばした。窓際に置かれた観葉植物の葉に、淡い光が反射する。外では誰かの掃き掃除の音が遠くに響いていた。ケトルの中で湯が鳴り始めると、コーヒーの粉に湯を落とす。ふわりと立ちのぼる香りが、部屋の冷気をやわらげた。湯気の向こう、ベランダのドアの向こうに干しかけの白いシャツが揺れている。まだ湿り気を帯びたそれが、光を受けてやわらかく透けて見えた。晴臣はそのままキッチンの壁にもたれ、マグカップを両手で包む。静かだ。時計の秒針と、洗濯機の回転音だけが響いていた。どこかで小鳥の声もする。休日の朝は、時間が遅く流れているようだった。後ろで寝室のドアが軋んだ。「…もうコーヒー?」掠れた声に振り向くと、岡田が寝癖のまま、シャツのボタンを半分だけ留めて立っていた。髪は右側に跳ね、目元はまだ眠そうだ。「淹れました。飲みます?」晴臣がそう言うと、岡田は小さくあくびをして、首を回した。「飲む…ありがと。昨日、夜更かししすぎたわ」声に少し笑みが混じる。晴臣は黙ってカップを差し出した。岡田はそれを受け取り、ソファに腰を下ろした。湯気の向こうで、彼の横顔が曖昧に霞む。「洗濯、回してくれたんか」「はい。昨日出してたやつ、溜まってたので」「助かるわ。お前、ほんまに主婦みたいやな」からかうような調子だったが、晴臣は反応せず、窓際に視線を戻した。ベランダのシャツが風に揺れる。「課長、今日寒いですね」「せやな。冬やからな。…でも日差しはええ感じや」岡田がマグカップを傾け、熱そうに口を

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   45.距離という言い訳

    朝の空気には、まだ夜の名残があった。ビルの谷間に薄曇りの光が沈み込み、東京の街は無音のまま動き出している。秋口の冷たい風が、首元に差し込んでくる。東都商事本社の外壁には、昨日の雨の名残がまだ黒く染みていた。牧野晴臣は、いつもの時間より少し早く出社していた。オフィスフロアの明かりは半分ほどしか灯っておらず、まだ誰の気配もない静寂に包まれている。彼はコートを脱ぎながら、自分のデスクに視線を滑らせた。モニターは真っ暗で、昨夜仕上げた資料の束が置かれている。手にしたタンブラーからは、ミントのようなハーブの香りが微かに立ちのぼる。その香りにさえ、どこ

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   42.雨が止んでも、濡れていた

    オフィスビルの自動ドアが開いた瞬間、外気が足元を這うように入り込んできた。湿った空気と、わずかに残る雨の匂い。午後の雨はすでに止んでいたが、空にはまだ雲が重たく漂っていた。舗道の上には、細かな水たまりが不規則に並び、車道を走る車のタイヤが水飛沫をあげている。晴臣は、ビルのエントランスに立ち尽くしていた。視線の先には、ひとり、傘も差さずに歩いていく日高の背中がある。スーツの肩口はすでにじんわりと濡れており、髪の先が首筋に貼りついていた。それでも彼は気にする様子もなく、歩幅を一定に保ったまま、背筋をまっすぐに伸ば

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   38.初めまして。でも、僕は知ってる

    晴臣は応接室のドアに手をかける前、一瞬だけ後ろを振り返った。廊下の奥に立つ岡田の姿が視界の隅に映る。その隣には、先ほどロビーで出会った男――日高蓮が並んでいた。廊下には静かな冷気が漂っている。建物全体がひんやりしているせいか、手に持っていた資料の角が微かに湿っているように思えた。岡田は視線を落とし、日高はそれを斜め上から覗き込むように立っていた。ふたりの間には言葉がなかったが、沈黙すら会話に見えるほどの空気があった。晴臣がもう一度ドアノブを握り直したとき、軽い足音が背後から近づいてきた。「牧野さん」その声は、

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   33.肩先に、重さが落ちた

    店を出ると、湿った夜気が頬に張りついた。雨は止んでいたが、地面にはまだ水が残っていて、街灯が水面に滲んで映っていた。晴臣は何気なく時計を見た。22時を少し過ぎたところ。店内のアルコールの匂いがまだ鼻腔に残っている。さっき飲み干したハイボールの炭酸が喉の奥でまだじくじくと残っていて、言葉を発するタイミングを遅らせた。「タクシー、拾いましょうか」振り返ると、岡田がふらりと首を傾けていた。ネクタイを緩めたまま、上着を片手で肩に引っかけ、手にはスマートフォンを握っている。「いらんいらん。歩く」「けっこう距離ありますよ

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