تسجيل الدخول「……えーと。まず聞きたいんだけど……君は、名前は?」
少女を怖がらせないよう。 俺は暗殺者時代に培った、人を安心させる笑顔を作った。 声はなるべく柔らかく。掴みはこれでいいだろう。 そう思っていた。 だが、返ってきたのは、俺の想像の余地すら破壊する無機質な響きだった。 「えーと? まず? んー? なまえ?」 純粋な目で、言葉の音だけをオウムのように繰り返す。 (……ふざけているわけじゃない) 俺は一瞬、どうしていいのか分からなくなりレクスに視線を移した。 だが、レクスはただ黙って視線で促す。続けろ──と。 「君は……《境》の者かな? 憤怒の民、って呼ばれてるけど」 「きみは? じょう? のもの? ふんぬ、の……みん?」 最後の確証を得るために踏み込んで聞いた。 だが、結果は同じ。 意味を持たない「音」だけが、空洞に響くように返ってくる。 「……言葉が、通じてないわけじゃない。発音はできる。けれど、意味を何一つ知らない──」 まるで赤子に向かって話しているような感覚。 彼女は、記憶も、言語も……なにも持っていなかった。 レクスが低くうなりながら言う。 災いを呼ぶという少女に、記憶がない。事情の聞き出しようがない。 普通なら、村人達の動きをどう抑えるか途方に暮れるレベルだ。 「ともあれ、アーコブじいさんに報告だ」 「……俺が行く」 思わず素の言葉遣いが出てしまったが、レクスは気にすることなく頷いた。 「分かった。判断が出るまで、民衆の動きは止めておく」 そう言うと、レクスは足早に部屋を後にした。 部屋に残るのは、俺と少女だけ。 眠っていたはずの記憶が、喉の奥からせり上がってくる。 俺は暗殺者としての仮面を無理やり顔面に縫い付け、最後の抵抗で笑顔を作ろうとしたが……。 すぐに。 パリン、と。 音を立てて、俺のすべてが砕け散った。 「なんだ、これ……」 「ん……?」 少女は、不思議そうに小首をかしげる。 その瞬間、言葉にならない嗚咽が込み上げた。俺は叫んでいた。 「俺だよ……××××だよ。……覚えてないのか? お前は……俺の……俺の……俺の……っ!!」 (俺が『愛した』人だ!!) 最後の言葉はもはや言葉にならない。 どうしていいのか分からない感情達が、俺の心と言う鍋でぐちゃぐちゃにスパイスで味を付けられて、三流以下の料理へと成り下がる。 もはや味付けもクソもない。 ただ、食べた者を不快にさせ、嘔吐させるだけの、廃棄して然るべきのモノだ。 力なく、椅子に座り込む。 ……もう、全てがどうでもよかった。 涙が止まらない。 そう思えるぐらい、俺は泣き叫んだ。 ───────── 扉の向こう側。 「あっ……」 「ん?」 廊下に出たレクスの視線が、扉の隙間に張り付いていたフェルータを捉えた。 フェルータとレクスの視線が交差する。 「……えっと」 言い訳を探そうとするフェルータを前に、レクスは静かに彼女の顔を見つめた。 その瞳の奥に、暗く濁ったものが揺れていることに、歴戦の戦士である彼が気づかないはずがなかった。 「取るなら取る。取らないなら、取らない」 レクスはフェルータにそう言うと目を伏せた。 まるで自らの罪に向き合うのが怖いかのように……。 「とっとと、早く決めな……」 レクスは、ただそれだけを言い捨てた。 「あいつにも、自分にも──辛いだけだぞ。今なら……引き返せるかもしれない」 レクスは目を瞑って険しい顔をすると、それ以上干渉することなく、通り過ぎていった。 フェルータは、扉の向こうで嘆き悲しむ青年を見つめ──心を決めた。 「フェルータは、ソル様を……ソルを」 (この気持ちは……) 「――――私はやっぱり。愛しているの――です……」 (嗚呼、この気持ちだけは絶対に、どんなエゴが働いてても……) この気持ちは、誰の意思でもない。誰かの命令でもない。 彼を想っていることだけは、嘘じゃなかった。 だから、彼を奪う。 自らの欲求に忠実になる。 例え、エゴイストと呼ばれることになっても。 彼女の純粋な祈りは、ついに「彼を縛り付ける呪い」へと完全に変質した。 ▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽ 「ソル様……今日の晩御飯です。どうぞ!」 フェルータが、いつもより鼻につく程の香辛料の効いたスープとパンを運んできた。 「ありがとう。いただくよ」 そう言って、スープに口をつけた──直後。 味ではない。調和がわずかに乱れていることに気づき、俺は彼女を見た。 その瞬間。 フェルータの瞳の奥に、一度見たことのある色が浮かんでいた。 ……それはかつて、同業者に毒を盛られた時に見た、相手の視線の奥にある『真っ黒な泥』。 間一髪で吐き出そうとしたその刹那。 フェルータは俺の鼻と口を強く塞ぎ、全体重をかけて椅子ごと俺の身体を押し倒し、馬乗りになった。 息ができず、わずかにスープを飲み込んでしまう。 もう遅かった。 身体の感覚が、急速に奪われていく。 『フェルータ? 今の音、何かしら?』 祖母の声が廊下から聞こえる。 俺は声を発そうとしたが、舌が痺れて動かない。 口も塞がれ、くぐもった呻き声すらフェルータの声にかき消された。 「ちょっと……ソル様が落とした物を拾おうとして、机にぶつけてしまって……」 『気をつけなさいよ?』 体が鉛のように重く、指一本動かせない。 ある程度の毒に耐性を持っていたはずの俺の体が、瞬時に麻痺するほどの劇薬。 「ごめんなさい……ソル様……いや、ソル。こんなことをしてしまって……」 (何故こんな事を……!!) 目で問いかけると、フェルータは俺の心の内を読んだかのように、静かに答えた。 「……あなたのことが好きなんです。愛してるんです」 その言葉に、意識の奥が揺れる。 (は……?) 「最初は、あなたの瞳が暗く見えただけ。 でもそれが、“死にたがってる目”だって気づいて…… あなたに、生きる理由を渡したくなった。 ずっとあなたの背中を見ているうちに──好きになってた」 ソル自身を見ていた。誰の身代わりでもなく。 「でも、あの子が来てから…… あなたの目が、あの子しか見えなくなっていくのを感じた」 「だから、心を奪われる前に……私があなたの身体ごと、ここに縛り付ける。例え……どんな手段を使ってでも……!!」 フェルータは震える手で、自らの衣を脱ぎかけた。 それは、後戻りできない業を背負う、必死さにも似た決意だった。 だが──俺の瞳からは、涙が零れ落ちていた。 なんで、この街の人は……否、俺を好いてくれているかもしれない人間は……!! (これほどまでに純粋で無垢なんだ……?) これまでの俺の当たり前が崩落していく。 心が、歪んだ祈りで満たされるように。 涙で顔がぐしゃぐしゃになる。 嗚咽《おえつ》を漏らしながら泣き崩れる俺の顔を見て、フェルータは動きを完全に止めた。 彼女は悲しげな表情を浮かべ、衣を着直すことも忘れたかのように、逃げるように食堂を去った。 その瞳から零れた雫が、俺の唇に落ちる。 塩味と共に、温かい液体が口元を濡らした。 『フェルータ!? なにその格好! 待ちなさい!』 怒声と共に遠ざかる祖母とフェルータの足音。 その直後。 アーコブが、食堂の扉を開けて静かに現れた。 まるで、初めからすべてを知っていたかのように。 無言で、酸味のある飴のような薬を俺の口に押し込む。 数秒後、嘘のように痺れと倦怠感が消えていった。 「すまないね、ソル」 ……。 …………。 一瞬、沈黙が支配する。 だが、アーコブは意を決して言葉を続ける。 「でも、フェルータの気持ちも──少しは、分かってあげてほしい」 アーコブの声は、いつになく静かで、深かった。 今まで見た事のない、重苦しい顔。 いや、これがもしかしたらアーコブの本当の顔かもしれない。 『祈る方法』を常に模索し、それでも権力者としての矜恃を保とうとする者の、素顔。 「今の自分に向けられた狂おしいほどの恋心と。過去の影に対する、執着の想い」 (分からない。分からないけど……) 「君は、どちらを優先させる?」 (その正論をどうやって、この汚れた手で答えを出せばいいんだ!?) それだけ残して、アーコブは背中を向けた。 ……いつだって、この人はすべてを見通している。 俺の心の奥すらも、たやすく。 今なら分かる。 あれは、過去の自分と俺を重ね合わせているのだ。 後悔に生きる者としての、残酷な予知だったのだと──。「……えーと。まず聞きたいんだけど……君は、名前は?」 少女を怖がらせないよう。 俺は暗殺者時代に培った、人を安心させる笑顔を作った。 声はなるべく柔らかく。掴みはこれでいいだろう。 そう思っていた。 だが、返ってきたのは、俺の想像の余地すら破壊する無機質な響きだった。 「えーと? まず? んー? なまえ?」 純粋な目で、言葉の音だけをオウムのように繰り返す。 (……ふざけているわけじゃない) 俺は一瞬、どうしていいのか分からなくなりレクスに視線を移した。 だが、レクスはただ黙って視線で促す。続けろ──と。 「君は……《境》の者かな? 憤怒の民、って呼ばれてるけど」 「きみは? じょう? のもの? ふんぬ、の……みん?」 最後の確証を得るために踏み込んで聞いた。 だが、結果は同じ。 意味を持たない「音」だけが、空洞に響くように返ってくる。 「……言葉が、通じてないわけじゃない。発音はできる。けれど、意味を何一つ知らない──」 まるで赤子に向かって話しているような感覚。 彼女は、記憶も、言語も……なにも持っていなかった。 レクスが低くうなりながら言う。 災いを呼ぶという少女に、記憶がない。事情の聞き出しようがない。 普通なら、村人達の動きをどう抑えるか途方に暮れるレベルだ。 「ともあれ、アーコブじいさんに報告だ」 「……俺が行く」 思わず素の言葉遣いが出てしまったが、レクスは気にすることなく頷いた。 「分かった。判断が出るまで、民衆の動きは止めておく」 そう言うと、レクスは足早に部屋を後にした。 部屋に残るのは、俺と少女だけ。 眠っていたはずの記憶が、喉の奥からせり上がってくる。 俺は暗殺者としての仮面を無理やり顔面に縫い付け、最後の抵抗で笑顔を作ろうとしたが……。 すぐに。 パリン、と。 音を立てて、俺のすべてが砕け散った。 「なんだ、これ……」 「ん……?」 少女は、不思議そうに小首をかしげる。 その瞬間、言葉にならない嗚咽が込み上げた。俺は叫んでいた。 「俺だよ……××××だよ。……覚えてないのか? お前は……俺の……俺の……俺の……っ!!」 (俺が『愛した』人だ!!) 最後の言葉はもはや言葉にならない。
「…………」 少女が眠るベッドの横で、俺はじっと彼女を見つめていた。 その寝顔は、昔話に出てくるお姫様のように静謐《せいひつ》だった。 だが、それとは裏腹に、俺の心の内ではとてつもない荒波が吹き荒れていた。 「なんで……お前が…………」 誰にも聞こえないほどの小さな声。 だが、自分の耳にははっきりと残酷に響く。 綿で生殺しにするかのように首を締め付けるような息苦しさを覚えた。 いくら呼吸をしてもこの息苦しさが終着点が見えない。 ……まるで地獄のような時間だった。 心臓が鼓動を打つ度に『あの惨劇』がフラッシュバックする。 そして誓いの言葉を伝える言葉が頭の中で幻聴《こうかい》のように聞こえた。 だから俺は、この出会いの意味から無理やりにでも意識を逸らそうとした。それでも、どうしてもひとつの思考に囚《とら》われてしまう。 「いや、それより──これは偶然なのか?」 ……いや、偶然なはずがあるものか。 ただ“似てる”じゃ済まされない。 これは、誰かの……意志が、絡んでる。 俺の直感がそう警鐘《けいしょう》を鳴らしていた。 何とか動揺を押し殺しながら、俺は少女の顔を見続けた。 傍から見れば、熱心に看病をしている心優しい青年に見えるかもしれない。 ……実際、扉の隙間《すきま》からそう見つめている者がいた。 ―――――――――――― (なんで──急に、そんなふうに……) 他人を前にした時は、常に心の内を隠し、平静を装うはずの青年が……。 今はひとりの少女に対し、ひどく心を乱《みだ》して見つめている。 その様子が、彼女の胸の奥を冷たい刃のようにえぐった。 “問いかけたい” 彼女は、そう思った。 何故? 何故? 何故……? 私があんな状態になったら彼はあのように心配してくれるのだろうか? そうやって彼の気を引こうと思う自分がいる時点で自分自身に自己嫌悪が覚えた。 (醜《きたな》い……けれど、考えてしまう) なぜ、そこまで彼に執着するのか? その理由は、自分自身がずっと胸の奥に抱えていた『孤独』と向き合っていたからだ。 この村で生まれ育ち、主《あるじ》に仕《つか》えて死んでいく。 外の世界を知らず、ただ役目のためだけに生きる。
「おう、全員──気合い入れろ!これより森の調査に向かうぞ!」 レクスの掛け声と共に皆が一斉に声を出す。 『おー!!』 レクス率いる調査隊は、俺を含めて10名。 近接・中距離・遠距離や索敵のバランスが緻密《ちみつ》に整えられ、魔術の構成に一切の無駄がない。 探知・索敵役には五感強化魔術の使い手が配属されており、魔力を感知できるフェルータの家系の男も参加していた。 アーコブとレクスが直々に選んだ隊。 ──まさに精鋭の名にふさわしい布陣だった。 「散開!!」 レクスの号令で、隊が動く。 声が届くギリギリの十メートル間隔で並び、森を横断して進む。 これしきのペースで遅れをとるほど、俺は柔《やわ》な人生を送ってきてはいない。 見た目は貧弱な少年かもしれないが、体力と、いざという時に逃げるための高速歩法には絶対の自信がある。 俺は常《つね》に息一つ乱さず、隊の速度について行った。 数分後──数十メートル先にビッググリズリーが現れた。 それを視認した隊員から掛け声が飛ぶ。 だが、誰も勝手には動かない。
「今日もおつかれさん」 「ありがとうございます……」 交代の衛兵たちが次々とやってきて、軽く労いの言葉をかけてくれる。 ここ、アーコブの村に来てから──もう一ヶ月。衛兵兼討伐者としての任務も、ずいぶんと板についてきた。 今のところ、アーコブが命じてくるのは魔獣の討伐のみであり、“暗殺者”としての役割はまだ与えられていない。 (ただ、たまに執務室から「やはり、あいつは消したほうがいいか……」という物騒《ぶっそう》な呟きが漏れ聞こえることはあったが) その日が来るのも、そう遠くはないだろう。 だが、その『いつもの日常(ひとごろし)』が近づいていることを感じる度に……なぜか、胸の奥が重くなるように痛んだ。 「あら、ソル君じゃない。いつ見てもかっこいいわね。これ、アーコブ様と一緒に食べなさいな」 「……ありがとうございます。伝えておきます」 屋敷への帰り道、村の女から手渡された真っ赤なリンゴ。 俺は歩きながら、自分の手のひらと、そこに乗る果実を交互に見つめた。 何人もの首を掻っ切り、命を奪ってきた薄汚いこの手が、今はナイフではなく、陽の光を浴びた果実を持っている。誰も俺を疑わず、無防備な背中を見せ、笑いかけてくる。
「それじゃあ、今度はあのビッググリズリーに向かって魔術を使ってみろ」 深い草むらに身を潜めながら、レクスはうろつく巨獣を見据えて顎《あご》をしゃくった。 木々の幹に残された真新しい爪痕《マーキング》と、むせ返るような獣臭。以前アーコブと出会った際にも気配を感じていた個体——この森の生態系の上位に君臨する巨大な魔獣だ。 しきりに鼻を鳴らし、こちらの匂いに気づいている素振りは見せるものの、絶対的な強者であるがゆえの慢心か、自らが『狩られる側』であるなどとは思考の片隅にもないらしい。 のっそりと辺りを見回しているが、俺たちの正確な位置を特定するには至っていなかった。 俺は深く息を吐き、先程レクスの体内を巡っていた『魔術の流れ』を意識の奥底でなぞる。 俺自身の回路で再現しようとしても、あの男の力強い奔流を完璧に模倣することは難しく、威力が落ちることは避けられない。 だが、それでもイメージは結ばれる。 ただ一つ。あの熊の太い首を、正確に刎《は》ね飛ばすことだけを。 淀《よど》みない殺意を『祈り』として具現化し、撃ち放つ。
「よし。じゃあまずは──お前の魔術の質を調べるぞ」 街の外に出て、レクスと俺はひたすらに『獲物』を探した。 しかし、レクスは純粋な戦闘者だからか、俺に比べて気配遮断能力……否、相手をただ殺すための下準備の力が、どう見ても及第点を与えられないほどお粗末なものだった。 そのため、俺がレクスから獲物の特徴を聞き出して探すことになった。 まずは獲物の能力。 嗅覚はそこそこあるが、絶対的な捕食者としての自信ゆえか、接近に警戒を抱くほどの鋭い嗅覚は持ち合わせていないらしい。ただ、目は前に付いているため、距離感を測るのは得意だそうだ。 典型的な肉食獣のものだな。 次に戦闘能力。 レクスの言う通りならば、そこら辺の魔術師の魔術はその剛毛を通らず、普通の武具も効かない。 だから、この生物には『ある感情』が強く表れる。 慢心。 自らが襲われるなんていう想像すらしない。 故にそこに付け入る隙がある。 だが、俺たちがそれを狩るには、魔術が使えることが大前提だ。 「その前に聞いていいですか?俺、魔術なんて無縁の世界にいたんですけど……使えるんですか?」 「ああ、人間である限り使える。条件はひとつ。流れさえつかめばな」 「流れ……?」 (気功みたいなものか?) そう思っているとレクスに腕を突きつけられた。 「ソル。俺の腕を、組ん







