تسجيل الدخول「それじゃあ、今度はあのビッググリズリーに向かって魔術を使ってみろ」
深い草むらに身を潜めながら、レクスはうろつく巨獣を見据えて顎《あご》をしゃくった。 木々の幹に残された真新しい爪痕《マーキング》と、むせ返るような獣臭。以前アーコブと出会った際にも気配を感じていた個体——この森の生態系の上位に君臨する巨大な魔獣だ。 しきりに鼻を鳴らし、こちらの匂いに気づいている素振りは見せるものの、絶対的な強者であるがゆえの慢心か、自らが『狩られる側』であるなどとは思考の片隅にもないらしい。 のっそりと辺りを見回しているが、俺たちの正確な位置を特定するには至っていなかった。 俺は深く息を吐き、先程レクスの体内を巡っていた『魔術の流れ』を意識の奥底でなぞる。 俺自身の回路で再現しようとしても、あの男の力強い奔流を完璧に模倣することは難しく、威力が落ちることは避けられない。 だが、それでもイメージは結ばれる。 ただ一つ。あの熊の太い首を、正確に刎《は》ね飛ばすことだけを。 淀《よど》みない殺意を『祈り』として具現化し、撃ち放つ。 「っ…………!!」 ——ヒュンッ。 命を断ち切るためだけに極限まで張り詰めたピアノ線のような、冷たく鋭い風切り音が空気を裂いた。 視線を合わせた直後、分厚い毛皮に覆われた熊の首筋から、鮮烈な血の華が咲き誇る。 「グ、ァ……ッ!?」 苦悶《くもん》の声を上げる間もなく、大量の血飛沫《ちしぶき》を撒き散らしながら巨体が轟音《ごうおん》を立てて崩れ落ちた。 ピクピクと痙攣《けいれん》していたが、数十秒後には完全に沈黙する。 分厚い肉をすり抜け、大動脈《だいどうみゃく》だけを的確に捉《とら》えた、無慈悲な一撃だった。 「両断とまではいかなくても、充分すぎる致命傷だな……。クソガキ……お前、殺しは初めてじゃねぇな?」 レクスが目を細め、横目で俺を見た。 「でも、こいつは狩人の手口じゃない。実際に何度も『人間』を殺したことのある奴のイメージ力だ」 「何人も殺したことありますよ……。それこそ、千を超えているかもしれない」 俺が一切の感情を交えずにそう答えると、レクスはわずかに目を丸くした。 まさか俺のような歳の子供が、それほどの罪を背負っているとは流石に思わなかったのだろう。 だがすぐに、彼は面白そうに鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべた。 「冗談のセンスは欠片も無さそうだが、人殺しのセンスに関してだけ言えば、お前ほどおぞましい才能に愛された魔術師は見たことがねぇよ」 それは、彼なりの皮肉混じりの称賛だった。 俺がどれほど血に塗れた過去を告白しようと、彼がそれに恐れを抱いたり、倫理《ろんり》を振りかざして軽蔑《けいべつ》の眼差しを向けたりすることはなかった。 そうだ。俺はただの、血に塗れた薄汚い暗殺者にすぎない。 なのにこの時……レクスが俺の罪をただの『事実』として受け入れたことに、どうしてこんなにも胸の奥がざわめくのだろうか。 レクスは俺に興味が無いのだろうか?それとも、『生物を殺す』ということは彼にとって日常なのだろうか? ーーーーだとしたら、俺は少しどこか胸の中に穴が空いた様な気がした。 けれども、それを考えた時に少し高揚感が出てくる様な感覚も覚える。 「さてと。今日は熊鍋だな」 レクスが何事もなかったかのように獲物へ向かって歩き出したことで、俺の意識は強引に現実へと引き戻された。 (……どうでもいい。失われた過去は変えられないのだから) 心の中に生まれた奇妙な揺らぎに無理やり蓋をして、俺は逃げるように目を逸らした。 「お前が獲った獲物だ。お前が解体しろ!」 「……わかりましたよ」 てっきり自分で解体するのかと思えば、やはりどこまでいっても人をこき使うことしかしない男らしい。 普段から部下にもこうなのだろうと呆れつつ、俺も草陰から出てナイフを抜いた。 _________________ ーーーー世界を憎む者がいた。 その心根は、まるで光すら凍《い》てつかせる永久凍土《えいきゅうとうど》。 ただそこに存在しているだけで、周囲の空気を『死の冷気』へと変容させる、感情の欠落した虚無《きょむ》。 這《は》い寄るような怖気《おぞけ》を撒《ま》き散らす存在が、確かにそこにいた。 それは、世界への憎悪そのものが受肉したかのような姿だった。 「ふむふむ」 薄暗い森の奥。 巨大な岩の上に座る不気味な男が、目を瞑りながら何かに深く感銘《かんめい》を受けたように頷いていた。 村の人混みに紛れれば、誰の記憶にも残らないような平凡を絵に描いたような風貌。 だが、その男から漂う気配は、明らかにこの世の理《ことわり》から外れていた。 ——冷たい。 ただ存在するだけで気温が急激に下がったと錯覚するほどの、死の寒気《さむけ》。 対峙《たいじ》するだけで己の生命が絶たれるという危機感が、獣たちの頭の中で大音量で警鐘《けいしょう》を鳴らし、魂を凍りつかせる。 ーーーーー生物として、根源的《こんげんてき》な恐怖を抱かせる何か。 その証拠に、男を容易い餌だと見定めて近づいた獣たちは皆、その雰囲気に圧倒され、十メートル手前で見えない線に阻まれたように立ちすくんでいた。 涎《よだれ》を垂らす巨大な獅子《しし》や、凶暴なビッググリズリーでさえも。 何も。 何も。 何も出来ないーーー。 八つ裂きにされてもおかしくない絶望的な状況下で、男は周囲の獣など『路傍の石』程度にしか認識していない様子で、独り言を呟く。 「さすがは……創造主に選ばれしき者!! やはり、このぐらいの実力がなくては面白くない……」 悦楽《えつらく》に浸《ひた》るように両手を広げ、歓喜の声をあげる男。 その狂熱の意味を、獣たちは理解できない。 だが、恐ろしい絶対的な『不条理』が進行しているということだけは、野生の勘《かん》が告げていた。 「しかし、まだ「それじゃあ、今度はあのビッググリズリーに向かって魔術を使ってみろ」 深い草むらに身を潜めながら、レクスはうろつく巨獣を見据えて顎《あご》をしゃくった。 木々の幹に残された真新しい爪痕《マーキング》と、むせ返るような獣臭。以前アーコブと出会った際にも気配を感じていた個体——この森の生態系の上位に君臨する巨大な魔獣だ。 しきりに鼻を鳴らし、こちらの匂いに気づいている素振りは見せるものの、絶対的な強者であるがゆえの慢心か、自らが『狩られる側』であるなどとは思考の片隅にもないらしい。 のっそりと辺りを見回しているが、俺たちの正確な位置を特定するには至っていなかった。 俺は深く息を吐き、先程レクスの体内を巡っていた『魔術の流れ』を意識の奥底でなぞる。 俺自身の回路で再現しようとしても、あの男の力強い奔流を完璧に模倣することは難しく、威力が落ちることは避けられない。 だが、それでもイメージは結ばれる。 ただ一つ。あの熊の太い首を、正確に刎《は》ね飛ばすことだけを。 淀《よど》みない殺意を『祈り』として具現化し、撃ち放つ。
「よし。じゃあまずは──お前の魔術の質を調べるぞ」 街の外に出て、レクスと俺はひたすらに『獲物』を探した。 しかし、レクスは純粋な戦闘者だからか、俺に比べて気配遮断能力……否、相手をただ殺すための下準備の力が、どう見ても及第点を与えられないほどお粗末なものだった。 そのため、俺がレクスから獲物の特徴を聞き出して探すことになった。 まずは獲物の能力。 嗅覚はそこそこあるが、絶対的な捕食者としての自信ゆえか、接近に警戒を抱くほどの鋭い嗅覚は持ち合わせていないらしい。ただ、目は前に付いているため、距離感を測るのは得意だそうだ。 典型的な肉食獣のものだな。 次に戦闘能力。 レクスの言う通りならば、そこら辺の魔術師の魔術はその剛毛を通らず、普通の武具も効かない。 だから、この生物には『ある感情』が強く表れる。 慢心。 自らが襲われるなんていう想像すらしない。 故にそこに付け入る隙がある。 だが、俺たちがそれを狩るには、魔術が使えることが大前提だ。 「その前に聞いていいですか?俺、魔術なんて無縁の世界にいたんですけど……使えるんですか?」 「ああ、人間である限り使える。条件はひとつ。流れさえつかめばな」 「流れ……?」 (気功みたいなものか?) そう思っているとレクスに腕を突きつけられた。 「ソル。俺の腕を、組ん
「さて……君の実力は、わかった」 場所はアーコブの執務室。 アーコブは椅子に深々と腰を沈み込ませて、一定間隔でトントンとリズムを刻んで指を机に打ち付けている。 まるでなにかに悩んでいるようだった。 そう。扱いに悩むおもちゃでどう遊ぶかを決める子供のような純粋な眼差しで。 しかし、その奥には威厳のある光が点《とも》っていた。 そして、レクスは隣で腕を組み、不貞腐れたまま……けれどもその眼光を依然として鋭くして立っている。 俺も何も言わない。 ただ、二人が沈黙を破るのを待つだけだ。 いや、皆なにも言おうとは考えていないのかもしれない。 その時間がどのくらい流れただろうか……? アーコブが指を打ち付けるのをやめて声を発した。 しかし、先ほどのように気さくに夕飯について聞くような軽々しい感じではなく。 覚悟を決めたような、どこか哀愁に満ちた響きがあった。 「次に──君の立場について話そうか」 きっとアーコブなりに考えた結
「相変わらず速いな、レクス」 楽しむかのような声でアーコブは眼前の男──レクスに言葉を放った。 すると、レクスはその強面《こわもて》で鋭い目線をただ真っ直ぐにアーコブに向けた。 その重厚で鋭い目線は彼が歴戦の戦士であるということを一目で俺に理解させた。 「あんたらの反応が遅いだけだ。で、俺を呼び出して何の用だ?」 両肩に圧がかかったのを感じた。 (…………) 俺は思わず目を細くして彼だけを捉えた。 それは自身がレクスを『戦闘者』と認めているという感覚を残した。 機嫌の悪さを隠さずにレクスは用件だけを聞く。 そして、アーコブがどんな言い方をするのか……。それを想像していると、またもや今晩の夕餉《ゆうげ》を聞くように軽い口調でレクスに指示をする。 「そこにいる青年の実力を見たい。少し相手してくれ。 レクス、お前はこの村で最強の、まとう魔術師だ。お前に一矢でも報えるかどうかで、彼をお前の部隊に入れるか決める……」 そのアーコブの一言でレクスは
「……っ!!」 驚きはしたが、暗殺者としてのプライドがそれを顔に出すことを許さなかった。 それが薄汚れた俺が、この圧倒的な『上澄み』に対して見せられる……唯一の反逆だった。 しかし──まるで夕食の献立でも提案するみたいな口調で、自分の考えを見透かされたことに……。 俺は、奇妙な安堵を感じていた。 さっきまではこの老人をどう倒すか考えていたのに、今はその選択肢を手放した自分に、むしろほっとしている。 そうすれば俺はきっと後悔の念を感じる前にどうにかされていただろう……。 否、そう考えさせられるほどに。 ……このアーコブは、やはり只者《ただもの》ではないという認識が俺の中で強く印象づけられた。 だが、『暗殺者』が最後の抵抗を見せた。 無意識下で交渉の最適解を弾き出し、思考に追いつくよりも早く、即座に言葉を紡いだ。 「意味が分かりませんが?」 だが、その最後の悪あがきでさえ、アーコブの前では無意味だった。 「なあに、私の前でぼかしたり、嘘をついたりする必要はない。境《きょう》の者か?と問うたとき、君は怒らず肯定もせず。普通なら激昂する場面でも、あえてぼかした。だからこそ、私はここまで連れてきた。もし君が“境の者”なら、何かしら反応があったはずだ。なのに、君は何もしなかった。むしろフェルータには心を許し、いろいろ聞いていた。この世界の常識さえもだ」 つまらなそうに書類を眺めながら、アーコブは言葉を続ける。 「故に境の者ではない。そう判断した。ならば君は──久方ぶりに現れた、異世界から来た者だと思っただけだよ」 (……聞かれていたか) そう考えて、俺は天を仰ぎ見る。 そして、自分の失態を恥じた。 (魔法という力が存在している以上、それくらい想定すべきだった……)
後から思い返せば、フェルータとの会話はとても心地よかった。 まるで娯楽の少なかった昔の人間が、吟遊詩人の詩《ものがたり》に魅了されるような時間だった。 そう自覚させられるほど、彼女との小さなやり取りの一つ一つが、魂に染み渡る聖水のように俺の中の『何か』を破壊していくのを感じた。 だが、『暗殺者』の俺はそれに気が付かなかった……。 その時に気がついていたら、後の結末は変わっていたのだろうか? その時の『暗殺者』は舌打ちを繰り返して俺に『真実』を映し出すことはなかった。 まるでお前は絶対に変わることなど出来ないと、呪いをかけるように……。 そこまで感じさせるほどに彼女は、人を疑うということを知らずに育ったのだろう。 そう思った時……ふと、フェルータが最初に震わせていた手を思い出した。 あれは……どういう意味だったのだろう……? 今でも、それは分からない。 否、思い返した時には既に答え合わせは永久に出来なくなっていた。 俺はなんと愚かで傲慢《ごうまん》だったのだろうか? 結局後悔しても俺の本質は変わらないのだ。 ―――――――――――― 『暗殺者』の俺は限りある時間を有効活用して『道具』を利用した。俺の問いにフェルータは空気のように自然に答えてくれていた。 「ここはどこか」 「アーコブという老人は何者か」 「この世界はどういう構造で成り立っているか」 ──そのすべてを。 この村は、《対境《たいきょう》の山脈》に囲まれた森のなかにあるらしい。 地名は“境《きょう》に対する森”。 そしてここは、《エデレン王国》という巨







