เข้าสู่ระบบエレベーターの扉が静かに開く。
雄吾は一人、マンションのエントランスへ向かった。
夜のロビーは静かだった。
だが。
自動ドアの向こうに立つ男を見た瞬間、
空気が変わる。「……榊原」
悟だった。
数日前より明らかにやつれている。
髪も乱れ、
目の下には濃い隈。それでも。
雄吾を睨む目だけは妙に鋭かった。
「佳苗は」
低い声。
「会わせる気はない」
雄吾は即答した。
悟の顔が歪む。
「なんでお前が決めるんだよ」
「今のお前を近づける理由がない」
冷静な声。
だが。
その静けさが逆に相手を追い詰める。
「……俺は佳苗の夫だぞ」
「不倫していた夫がよく言う」
「痣があったんですか……?」 佳苗は思わず聞き返した。『ええ。手首から肘にかけて、青紫色になっていたそうなの』「それって、もしかして……」『分からないわ。お母様も、何度聞いても転んだとしか答えてくれなかったって』 美佐子の声は沈んでいた。『私、あの子が結婚すると聞いたとき、本当に嬉しかったのよ。雄吾のお嫁さんになってくれたらと思っていた時期もあったけれど、こうして別の方と幸せになれるなら、それが一番だと思っていたの』「……はい」『小さい頃から知っている子だから、幸せになってほしくて。でも、こんな話を聞いてしまうと、心配で……』 佳苗は返す言葉が見つからなかった。 痣があるからといって、直哉が暴力を振るったとは限らない。けれど、結婚式での態度や、その後の連絡を思い返すと、嫌な想像ばかり浮かんでしまう。「お義母さん、絢子さんのお母様はどうされるつもりなんですか?」『もう一度、娘に会わせてほしいと連絡するそうよ。でも、直哉さんが取り次いでくれるかどうか……』「そうですか……」『佳苗さんにも心配をかけてしまったわね』「いえ。教えていただいてよかったです」 電話を切ったあと、佳苗はソファに座り込んだ。 絢子とは、決して仲がよかったわけではない。 以前の嫌がらせを忘れたわけでもないし、すべて許したつもりもなかった。 それでも、誰にも会えず、夫の顔色をうかがいながら暮らしているのだとしたら。 そんな生活を、幸せな結婚とは呼べないだろう。 昼過ぎ、雄吾が帰宅した。「ただいま。待たせたな」「おかえりなさい」 佳苗の顔を見るなり、雄吾は足を止めた。「何かあったのか?」「……うん。絢子さんのことで」 佳苗は美佐子から聞いた話を伝えた。 雄吾は最後まで黙って聞いていたが、痣の話になると表情を険しくした。「母さんは絢子の両親と連絡を取ってるんだな?」「うん。お母様も心配してるみたい」「なら、まずは家族に任せるべきだ」「そうだよね……」 佳苗は頷いたものの、胸のつかえは消えなかった。「でも、絢子さんが助けてって言えない状態だったら?」 雄吾は佳苗を見た。「何かあれば、俺たちにもできることはある。ただ、本人の意思も確かめずに動くのは危険だ」「……うん」「佳苗が心配する気持ちは分かる。だが、久世に直接会いに行くような真似
佳苗はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。 絢子に送ったメッセージに、夫の直哉が返事をしてきた。 しかも、直前まで表示されていた絢子からの返信は、すべて取り消されている。「佳苗?」 隣にいた雄吾が、映画を一時停止した。「どうした?」「……これ、見て」 佳苗がスマートフォンを差し出すと、雄吾は画面を覗き込んだ。『佳苗さん、妻がいつもお世話になっています。久世直哉です』『ところで、絢子に何かご用でしょうか?』 雄吾の表情が険しくなった。「久世が絢子の携帯を使ってるのか」「うん。さっきまで絢子さんから返事が来てたの。でも、急に取り消されて……」「何て書いてあった?」「元気にしてるって。それから、直哉さんが交友関係を気にするから、しばらく連絡を控えてほしいって」 雄吾は黙って画面を見つめた。「……返事はするな」「でも、何か答えないと不自然じゃない?」「今はいい。向こうが何を言ってくるか分からん」 佳苗は頷いたものの、落ち着かなかった。 絢子は今、直哉の隣にいるのだろうか。 自分が送ったメッセージのせいで、責められているのではないだろうか。 そんなことを考えていると、再び通知が鳴った。『絢子は結婚したばかりで、まだ新しい生活に慣れていないんです。昔のお友達とのお付き合いも大切ですが、今は夫婦の時間を優先させたいと思っていましてね』 丁寧な文章だった。 けれど、佳苗にはまるで、絢子に近づくなと言われているように感じられた。「……私、絢子さんに迷惑をかけちゃったのかな」「佳苗が悪いわけじゃない」「でも、連絡しなければ……」「絢子が自分で返事をしたんだろ。久世がそれを
「外出していいか、分からない……?」 佳苗は美佐子の言葉を繰り返した。『そうなの。私も驚いてしまって。結婚したばかりだから、旦那様の予定に合わせたいということなのかもしれないけれど』「そうですね……」 佳苗は曖昧に答えた。 夫婦で予定を相談するのは、ごく普通のことだ。けれど、絢子の言い方には引っかかるものがあった。 外出できるかどうかではなく、外出していいかどうか。 まるで、夫の許可が必要であるかのようだった。『佳苗さん、何か聞いていない?』「いえ、詳しいことは……」 佳苗は言葉を濁した。 絢子から届いたメッセージや、直哉とのやり取りを勝手に話していいものか分からなかった。『そうよね。ごめんなさい、変なことを聞いてしまって』「いえ。私も少し気になっていたので」『あの子、昔から気の強いところはあったけれど、言いたいことを我慢するような子ではなかったのよ』 美佐子は寂しそうに笑った。『幸せに暮らしているなら、それでいいんだけれど』 電話を切ったあとも、佳苗はしばらく考え込んでいた。 以前の絢子なら、誰かに遠慮して外出を諦めるなど、考えられなかった。 もちろん、結婚して生活が変わっただけかもしれない。 それでも、あの結婚式で感じた違和感が、少しずつ形になっていくようだった。 佳苗は思い切って絢子にメッセージを送った。『お久しぶりです。最近どうしていますか? お元気ならいいのですが』 返事はなかった。 その日の夕方、雄吾が珍しく早く帰ってきた。「ただいま」「おかえりなさい! 今日は早かったんだね」「ああ。少し区切りがついた」 佳苗はほっとして、雄吾の上着を受け取った。「よかった。最近、ずっと遅かったから」「心配させ
その日から、雄吾の帰宅が遅くなった。 普段なら夕食を一緒に取れる時間に帰ってくるのに、ここ数日は九時を過ぎても姿が見えない。 佳苗が心配して連絡すると、必ず返事はあった。『今日は遅くなる。先に食べていてくれ』 けれど、何があったのかまでは書かれていない。 佳苗も、仕事のことを根掘り葉掘り聞くつもりはなかった。自分だって、会社で扱う情報を何でも夫に話せるわけではない。 それでも、心配なものは心配だった。 木曜日の夜、佳苗がリビングで本を読んでいると、玄関から鍵の開く音がした。「おかえりなさい!」 時計を見ると、もう十一時近い。 迎えに出ると、雄吾がコートを脱いでいるところだった。「ただいま。まだ起きてたのか」「うん。お疲れさま」「先に寝ててよかったのに」「眠くなかったから」 佳苗がそう答えると、雄吾は少し笑った。「夕飯は?」「会社で軽く食べた」「じゃあ、お茶でも淹れようか?」「ああ。頼む」 雄吾はリビングのソファに腰を下ろし、ネクタイを緩めた。 その仕草が、いつもより疲れて見える。 佳苗は温かいお茶を用意して、隣に座った。「……大変そうだね」「少しな」「久世さんの件?」 雄吾は湯呑みを手にしたまま、佳苗を見た。「心配かけてるな」「それは、心配するよ」 佳苗は素直に答えた。「でも、仕事の内容を教えてほしいわけじゃないの。ただ、雄吾が無理してないか気になって」「無理はしてない。多少面倒なことになってるだけだ」「そっか……」 佳苗が頷くと、雄吾は彼女の肩を抱き寄せた。「もう少ししたら落ち着く」「本当?」「ああ。だから、そんな顔するな」
佳苗は絢子から届いたメッセージを、雄吾に見せた。「ねえ、これ……」 雄吾は画面に目を通すと、わずかに眉を寄せた。「会社のことを聞かれても答えるな、か」「久世さん、何か企んでいるのかな」「分からん。ただ、絢子がわざわざ忠告してくるなら、気になるな」 雄吾はスマートフォンを佳苗に返した。「返事は?」「まだ。何のことなのか聞いてみようかと思って」「そうだな。ただし、無理に聞き出す必要はない」 佳苗は頷き、短い文章を送った。『分かりました。何か理由があるんですか?』 しばらく待っても、返信はなかった。「忙しいのかな」「新婚早々、いろいろあるんだろう」 雄吾はそう言って立ち上がった。「夕飯、何が食べたい?」「えっ、雄吾が作ってくれるの?」「今日は休みだろ。たまにはな」 その言葉に、佳苗は思わず笑顔になった。「じゃあ、パスタがいいな」「分かった」 雄吾がキッチンへ向かうのを見送りながら、佳苗はもう一度スマートフォンを確認した。 やはり、絢子からの返信はない。 これ以上考えても仕方がないと、佳苗は雄吾の手伝いをすることにした。 翌週の月曜日。 佳苗はいつもどおり出勤し、午前中の仕事を片づけていた。 高瀬課長から任された業務も順調に進んでいる。以前より責任は増えたが、そのぶん仕事の手応えも感じられるようになっていた。 昼休み、スマートフォンを確認すると、絢子から返信が届いていた。『ごめんなさい。昨日は返事ができなくて』 続けて、もう一通。『直哉さんが、雄吾さんの会社の新しい事業について気にしているみたいなの』 佳苗は首を傾げた。 雄吾の会社の新しい事業。 そういえば、最近も帰宅後に仕事の話をしていたが、具体的な内
「久世さんの番号なの?」 佳苗が尋ねると、雄吾は頷いた。「ああ。仕事で何度か連絡を取ったことがある」 スマートフォンは鳴り続けている。 絢子との通話が切れた直後に、夫の直哉から電話がかかってくる。偶然とは考えにくかった。「……出たほうがいいかな」「無理に出る必要はない」「でも、何か用事があるのかもしれないし」 佳苗は少し迷い、通話ボタンを押した。「はい、朝倉……いえ、榊原です」『こんにちは、佳苗さん。久世直哉です』 電話の向こうから、聞き覚えのある明るい声が響いた。「こんにちは。昨日はお招きいただき、ありがとうございました」『こちらこそ。楽しんでもらえたかな?』「はい。素敵な結婚式でした」『それはよかった。ところで、さっき絢子と電話していたそうですね』 佳苗は雄吾と目を合わせた。「ええ、少しお話ししました」『そうですか。何を話していたんです?』 あまりに当然のように尋ねられ、佳苗は一瞬返事に詰まった。「……それは、絢子さんとの個人的なお話なので」『おや、夫の僕にも内緒ですか?』 直哉は笑った。『困ったな。新婚早々、妻に秘密を作られてしまった』「そういうことではありませんが……」『冗談ですよ。そんなに警戒しないでください』 佳苗は唇を結んだ。 冗談と言われても、少しも面白くない。『それより、慈善パーティーの件なんですが』「そのお話でしたら、雄吾からお断りしたと思います」『ええ、聞いています。でも、奥様ご本人のお気持ちはどうなのかなと思いましてね』「私も、今回は遠慮させていただきたいです」『どうしてです? お忙しい?』「それもありますし
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし