ログイン約束の日は、一週間後に決まった。
場所は三浦の事務所近くのホテルラウンジ。
弁護士同席ではない。
ただし、何かあればすぐに連絡できるよう三浦にも共有されている。
佳苗自身が望んだ条件だった。
悟と二人で話す。
本当に最後に一度だけ。
それで終わりにするために。
当日。
佳苗は少し早めに到着した。
窓際の席へ案内される。
平日の昼下がりだからか、店内は落ち着いていた。
コーヒーを注文する。
そして時計を見る。
約束の時間まであと五分。
不思議なほど緊張していなかった。
昔なら違っただろう。
会う前から何を話そうか考えて。
嫌われないように気を遣って。
機嫌を損ねないよう言葉を選んでいた。
だが今は違う。
答えは決まっている。
だから迷
その日の夜、佳苗は帰宅するなり雄吾を探した。「ただいま!」「おかえり。随分機嫌がいいな」 リビングにいた雄吾が顔を上げる。「分かる?」「顔を見ればな」「今日ね、すごく嬉しいことがあったの」 佳苗はバッグを置くと、雄吾の隣へ座った。「来月から、新しい仕事を任せてもらえることになりそうなの!」「そうか。よかったな」「うん! 今までの仕事もちゃんと評価してもらえてるみたいで」「何を任されるんだ?」「まだ詳しくは聞いてないけど、ほかの部署とも関わる仕事になるみたい。今の担当を少し減らして、そっちを任せてもらえるんだって」「それなら、単に仕事が増えるわけじゃないんだな」「そうなの。そこもちゃんと考えてくれてて」 佳苗は嬉しくて、つい身を乗り出した。「高瀬課長が、私の仕事ぶりを見て決めたって言ってくれたの」 雄吾の表情が、ほんのわずかに変わった。「あ」 佳苗は思わず口を押さえた。「また名前出しちゃった」「別に禁止してないだろ」「でも、嫌なんでしょう?」「気に入らないだけだ」「同じじゃない?」「違う」 いつものやり取りに、佳苗は笑ってしまった。 雄吾は呆れたように息を吐いたが、すぐに佳苗の頭を撫でた。「それだけ嬉しいなら、いい仕事なんだろうな」「うん。頑張りたい」「頑張れ」 短い言葉だった。 けれど、雄吾が本当に喜んでくれていることは分かった。 ◇ 夕食を終えたあと、佳苗はソファで新しい仕事のことを考えていた。 詳しい説明は明日だ。 どんなことを任されるのだろう。 期待もあるが、少し不安もある。「佳苗」「ん?」「何考えてる?」「明日のこと」「仕事か」「うん」 雄吾が隣へ座る。「そんなに楽しみか?」「楽しみ。でも、ちゃんとできるかなって」「できると思われたから任されるんだろ」「そうだけど」「今までやってきたことがあるんだから、自信持て」 佳苗は雄吾を見た。「……ありがとう」「ああ」 そこで雄吾が、ふと思い出したように言った。「ところで、来月から帰りは遅くなるのか?」「え?」「担当が変わるなら、しばらく忙しいだろ」「どうかな。まだ分からない」「そうか」 雄吾は少し考え込んだ。「……またデートの予定を先に押さえとくか」「えっ?」「忙しくなってからじゃ、
温泉旅行から帰った日曜日の夜。 佳苗は荷物を片づけながら、寝室の扉を見つめていた。 旅行先では、今夜も一緒に寝ようと約束した。 けれど、帰宅していつもの部屋に戻ると、急にその約束が気恥ずかしくなってくる。 これまでは、それぞれの寝室で眠るのが当たり前だった。 結婚してからも変わらなかった習慣を、今夜から少し変えることになる。「佳苗」 振り返ると、雄吾が廊下に立っていた。「荷物、片づいたか?」「うん。もう少し」「そうか」 雄吾は佳苗の部屋を覗き、それから尋ねた。「今夜、どっちで寝る?」「……どっち?」「俺の部屋か、お前の部屋か」 佳苗は思わず笑ってしまった。「そんなこと考えてたの?」「一緒に寝るって言っただろ」「言ったけど」「嫌になったなら別にいいぞ」「嫌じゃないよ」 佳苗は少し考えてから答えた。「じゃあ、雄吾の部屋に行こうかな」「分かった」 雄吾はそれだけ言って、廊下を戻っていった。 あまりにもあっさりしている。 けれど、少ししてから佳苗が寝室を覗くと、雄吾はベッドの片側に置いていた本やクッションを片づけていた。「……準備してる」「寝る場所が必要だろ」「そうだけど」「何だ?」「嬉しそうだなって」 雄吾は手を止めた。「嬉しいに決まってるだろ」 また、当たり前のように言われた。 佳苗は照れくさくなって、自分の枕を取りに戻った。 ◇ 翌朝。 佳苗が目を覚ますと、隣にはもう誰もいなかった。 枕元の時計を見ると、いつもより少し遅い時間だ。 慌てて起き上がり、リビングへ向かう。
目を覚ました佳苗は、いつもと違う天井を見つめていた。 障子越しに柔らかな朝の光が差し込み、遠くから鳥の声が聞こえる。 そうだ。温泉旅行に来ていたのだった。 寝返りを打とうとして、腰に回された腕に気づいた。「……雄吾?」 隣を見ると、雄吾はまだ眠っていた。 普段は佳苗より早く起きていることが多いから、こうして寝顔を見る機会はほとんどない。 佳苗はしばらく、その顔を眺めていた。 いつもは何でも分かっているような顔をしているのに、眠っていると少し無防備に見える。 そっと頬に触れようとしたところで、雄吾が目を開けた。「……何してる」「起きてたの?」「今起きた」「おはよう」「ああ。おはよう」 雄吾は佳苗を抱き寄せると、もう一度目を閉じた。「ちょっと、起きないの?」「まだ早い」「何時?」「知らん」「雄吾がそんなこと言うなんて珍しい」 佳苗が笑うと、雄吾は薄く目を開けた。「休みの日くらいいいだろ」「それはそうだけど」「もう少しこのままでいろ」 そう言われて、佳苗は素直に雄吾の胸へ頬を寄せた。 昨日の夜は、あんなに緊張していたのに。 朝になってみれば、同じベッドで眠ったことが不思議なくらい自然に感じられた。「ねえ、雄吾」「何だ?」「家でも、たまには一緒に寝る?」 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。 雄吾が目を開ける。「いいのか?」「嫌だったら言わないよ」「そうか」 その声が妙に嬉しそうで、佳苗は顔を上げた。「……そんなに嬉しい?」「ああ」 迷いのない返事だった。「ずっと別々だったからな」「そうだね」「俺から言って、お前に気を遣わせるのも違うと思ってた」 佳苗は少し考えた。 雄吾はいつも、佳苗の気持ちを優先してくれる。 それがありがたいと思う一方で、遠慮ばかりさせているのかもしれない。「これからは、雄吾も言ってね」「何を?」「こうしたいとか、一緒にいたいとか」 雄吾が佳苗を見つめる。「言ったら聞いてくれるのか?」「できることなら」「じゃあ、今夜も一緒に寝たい」「……早速?」「お前が言えって言ったんだろ」 佳苗は吹き出した。「分かった。今夜もね」「ああ」 雄吾は満足そうに笑うと、佳苗の額に口づけた。 ◇ 朝食を終え、チェックアウトまでの時間を使って、二
露天風呂から上がった佳苗は、用意されていた浴衣に着替え、鏡の前で髪を整えていた。 普段なら、風呂上がりはそのまま自分の部屋へ戻る。 けれど今日は、そうはいかない。 寝室には大きなベッドが一つ。 旅館へ着いたときから分かっていたことなのに、今になって妙に気になってしまう。「佳苗、まだか?」「もう出る!」 返事をしてから、佳苗は小さく息を吐いた。 何をそんなに緊張しているのだろう。 雄吾とはもう夫婦なのに。 部屋へ戻ると、雄吾はソファに座ってテレビを見ていた。「髪、乾かしたか?」「うん」「こっち来いよ」 隣を示され、佳苗は素直に腰を下ろした。 窓の外では、庭の灯りが静かに揺れている。「いい旅館だね」「ああ」「ご飯もおいしかったし、温泉もよかった」「気に入ったなら、また来ればいい」「そんな簡単に言うけど、高いでしょう?」「気に入った場所にまた来るくらい、別にいいだろ」 雄吾らしい答えに、佳苗は笑った。 しばらくテレビを眺めていると、雄吾が肩を抱き寄せてきた。 佳苗は抵抗せず、その胸に頭を預ける。「眠いか?」「まだ眠くない」「そうか」 雄吾の手が、佳苗の髪をゆっくり撫でた。 その心地よさに目を閉じかけたところで、ふと気づく。 こんなふうに甘えているうちに、夜はどんどん更けていく。 やがて寝る時間になれば、二人であのベッドに入るのだ。「……雄吾」「何だ?」「今日、同じベッドだね」「ああ」「気づいてた?」「気づかないわけないだろ」 あまりにも当然の返事に、佳苗は少しむっとした。「なんでそんなに平気なの?」「平気だと
旅館へ戻るころには、外はすっかり暗くなっていた。 部屋に入ると、夕食の準備が整えられている。「すごい」 佳苗は並んだ料理を見て、思わず声を上げた。「温泉まんじゅう食べなきゃよかったかも」「だから言っただろ」「一個だけだもん。これくらい食べられるよ」「無理するなよ」「しないって」 向かい合って食事を始める。 季節の料理を少しずつ味わいながら、他愛のない話をした。 仕事の話はしなかった。 どちらからそう決めたわけでもないのに、今日は自然と別の話ばかりになった。 次はどこへ行きたいとか、帰りに何を買うとか。 そんな話をしているだけで楽しかった。 ◇ 食事が終わり、しばらくして。「先に入っていいよ」 佳苗は露天風呂を指した。「佳苗は?」「あとで入る」「一緒に入らないのか?」「えっ」 あまりにも普通に聞かれて、佳苗は固まった。「……入るの?」「部屋の風呂なんだから、別にいいだろ」「いいけど!」 夫婦なのだから、おかしくはない。 分かっている。 分かっているのだが、雄吾が平然としているせいで、自分ばかり意識しているような気がして悔しい。「嫌なら別でいいぞ」「嫌とは言ってない」「じゃあ入るか?」「……入る」 言ってから、早まったかもしれないと思った。 けれど今さら撤回するのも恥ずかしい。 佳苗は浴衣を持って立ち上がった。 ◇ 湯気の向こうに夜の庭が見える。 肩まで湯に浸かりながら、佳苗はなるべくそちらを見るようにしていた。「佳苗」「何?」「さ
旅行の日は、思ったより早くやってきた。 土曜日の朝、佳苗は小さな旅行バッグを持って玄関へ向かった。「これくらいでいいかな」「一泊だろ。十分だ」「忘れ物しても知らないよ?」「現地で買えばいい」「雄吾はそう言うと思った」 結局、行き先を決めたのは雄吾だった。 都心から車で二時間ほど。山あいにある温泉地だという。「宿は?」「着いてからのお楽しみ」「またそれ?」「部屋に露天風呂があるところ、って希望は聞いた」「じゃあ期待していいんだ」「ああ」 助手席に座りながら、佳苗は笑った。 ◇ 途中で昼食を取り、温泉街へ着いたのは午後三時前だった。 車窓から古い旅館や土産物店が見える。「あとで歩きたい」「いいぞ」「温泉まんじゅうも食べたい」「夕飯食えなくなるぞ」「一個くらい平気」 そんな話をしているうちに、車が一軒の旅館へ入っていく。 派手ではないが、門をくぐった先には手入れされた庭が広がっていた。「ここ?」「ああ」 案内された部屋へ入った佳苗は、思わず足を止めた。 広い和洋室の向こうに、小さな庭と露天風呂が見える。「すごい……」「気に入ったか?」「うん。でも、これ絶対高いでしょう」「また値段を気にしてるのか」「するよ」「俺が泊まりたくて選んだんだからいいだろ」 そう言われてしまえば、それ以上は何も言えない。 佳苗は窓際まで歩き、外を覗いた。「本当に二人だけで入れるんだ」「そのための部屋風呂だろ」「そうだけど」 そこでようやく、自分の言葉の意味に気づいた。 夫婦なのだから、別におかし
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。