تسجيل الدخولかなり経ってから一人のメイドが部屋を訪れる。
私の担当のメイド——パウラ。愛想というものをどこかに置き忘れたんじゃないかっていうくらいそっけない人で、記憶にある限り笑ったところを見たことが無い。 ナノリアはこの人が苦手だった。怒っても怒鳴っても、淡々と仕事をこなす彼女が、何を考えているかわからなくて。その内ほとんど会話をすることもなくなっていた。 まあ、毒があるかもしれないと噂される私の世話を担当してるっていう時点で、普通のメイドではないのかもしれない。 「お呼びですか」 「支度をお願い」 はいとも言わずにパウラは去っていって、水と着替えを持ってきてくれた。 ナノリアは寝込んでいたから、1週間ぶりくらいに呼んだことになる。 それでも一切の質問もない。特に私の体調とかは気にならないみたいだ。——いいけどね。 私は顔を洗って着替えて、化粧台の前に座った。 身支度はいつも一人でしていたから、ブラシを取って髪を梳く。その間にパウラがベッドを整えて——ぶほっ、すごい埃が立ってる。やめてくれ。 息を止めて髪を整えた。 服は質素な暗い色の、着古したドレスだった。背中に少し切れ込みが入っていて、そこから羽を出している。格好としては、これで十分だ。 「隠さないんですか」 「え?」 いつの間にか側まで来ている。パウラの視線は私の背中にあった。 「その、羽です」 「ああ……」 この羽から毒の鱗粉が出ているのではと言われていたから、人前ではいつも包帯で巻いたり、荷物を背負うように何かで包んだりしていた。 でも、この10年誰も病気になってないんだから、そんなのは何の根拠もない。発言力のある王妃から出た妄言に皆従っているだけだ。 この羽はものすごく敏感で、当たると剥き出しの神経に触れるみたいになる。それを包むなんて……それだけでイライラしてしまいそう。 「いいのあれは。痛いから」 「でも……」 パウラの表情が初めて戸惑ったように動いた。 羽の鱗粉よりこの部屋の埃の方がよっぽど害になると思うんだけど。そうは思っていないようだ。 私は肩をすくめて見せた。 「窮屈なの。耐え難いほどにね」 「は、あ……」 「心配しなくても、羽の粉で健康を害したりはしないはずよ? 気になるなら窓を開けて換気して」 「あとで暴れたりしませんか」 「えっ、何で私が——」 言いかけて、そう言えば、と止まる。 「つい先日も、羽がちゃんと隠れてなかったって言ってめちゃくちゃ怒ったじゃないですか」 「あ……」 ナノリアはアディノスに忌み嫌われているこの羽を見られるのを極端に嫌っていた。恐れていた、ともいえる。無理をしてまで隠していたのもそのためだ。 ——みすぼらしい羽だな。いっそ切り落としたらどうだ。 ——みっともないそれを、俺に見せるな。 そう言われて、恥ずかしくてたまらなくて。 ちゃんと隠してくれなかったメイドらにその恥ずかしさをぶつけるように、物を投げて怒鳴り散らしていた。——ナノリアが。 「えっと……その節は、ごめんなさい」 私じゃないけど記憶の限り私のしたことだ。 パウラが目を丸めた。 「一体どうしたんですか、ナノリア様。謝るなんて」 「そりゃ、悪いことをしたら謝るでしょう」 「悪い事ってわかってらしたんですね」 「ねえ、一言多いって言われない?」 「まあ、ナノリア様の投げた物にぶつかるようなへましないんで、大丈夫です」 いまいち会話がかみ合っていない気がしたけど、怒ってもいないようだしとりあえず大丈夫と言われたらそれ以上は何とも言えない。 それよりも、この身体はもう何日も食事を摂れていない。空腹を通り越してお腹が気持ち悪いまである。 そっちの方が深刻だ。 「朝食をもってきてくれる?」 基本的には部屋から出るなと言われているから、食事はパウラに頼むしかない。 パウラはまた不思議そうな顔をした。 「ダイニングには行かないんですか」 「うん」 「えっ……なんで」 「なんでって、極力出るなって言われてるじゃない」 「それでも、いつも殿下の後をつきまとってたじゃないですか」 「あ……そう、ね」 つきまといって……人聞きの悪い。 確かに、私は毎日アディノスの後を追いかけていた。 それはもう、小さな時からずっと。 4つまでは兄妹のように育てられたし、ドローネが亡くなりサフィアに拒絶されて。唯一の家族のような存在に依存したように。 5つになって半ば軟禁状態になっても、隙を見てはアディノスに会いに行っていた。 一方、アディノスは幼い時から神童と言われるほど優秀な子供だった。勉強も剣術も乗馬も、何でもこなせて人当たりも良く、評判が良い。 やがて、そんなアディノスに毒蛾が付きまとって——と城の人達からはより冷たい目で見られていた。 アディノス自身も、次第にナノリアを遠ざけるようになった。 「お前は俺に不釣り合いだ、離れろ!」 そう言って突き飛ばされても、怪我をしながらナノリアは追いすがった。 「でんか、行かないで、でんか……!」 どんなに邪険にされても、ひどい扱いを受けても、ナノリアは会いたくて会いたくてたまらなかった。側にいたくて我慢できなくて——これは恋、なのか? 恋ってもっと、ドキドキして、苦しくても嬉しかったり甘酸っぱい気持ちじゃないのかな。こんなに耐え難くもがき苦しむようなものだろうか。 記憶を辿っても、アディノスとの記憶は、ただ執着し恋焦がれるを通り越して——よく、分からない。いったいどこに好意を持つ要素があったのか、記憶を辿っても謎だ。 とにかくナノリアはアディノスに会えるタイミングを常に見計らい、さながら城内ストーカーと化していた。 特に朝食時はダイニングに必ずアディノスが現れる。内城のこのエリアで確実に会える唯一の時間だから、1時間前から待ち構えていた。 それを少しでも阻む使用人には当たり散らすから、ナノリアの朝の執務室から内城へ入った途端、ドンっ! と強く背中を押された。 そのまま廊下に激しく倒れ込む。 しかも悪いことに、背中を押されたときに羽も押されたから、悲鳴も上げられないほどの痛みに顔から床にダイブしてしまった。 くそう……痛い。 「——馬鹿なのかお前」 アディノスの緑の目が、私を見下ろしている。ブレイクに比べれば覇気も怖さも遠く及ばないが、どうしてここまで怒っているのかわからない。 その怒りの目に、これまでのナノリアの記憶が走馬灯のように駆け抜けていった。*** ある日、まだ10歳かそれくらいの時、ナノリアはアディノスに湖に落とされた。 上がろうとするのを木剣で頭を押さえられて溺れそうになる。 アディノスの取り巻き数人がナノリアを順番に小突きながら、大笑いしていた。 「ははっ! 実験だ。妖精の羽は、蝶と同じく水をはじくのか!」 「殿下、もっとしっかり沈めなくては! この不潔なところを洗わないと!」 「おう、洗え、もっとそっちを押さえろ!」 そんな風に水に無理やり押し戻され、生臭い水をしこたま飲んで、いよいよ意識が遠のきそうになった頃、よくやく飽きたようにつつくのをやめてくれた。 命からがら岸に上がったナノリアを見下ろして、誰かが声を上げる。 「うわ、羽の粉がおちたら色が変わるんだ」 「ほんとだ。こすってみよう」 とんでもないことを言い出した少年たちに、ナノリアは真っ青になってがたがたと震えた。 「い、いや……いや、や、やめて」 「おい暴れるな。そっち押さえろ」 「はい!」 「殿下、これなんかどうですか」 誰かがブラシを持ってきた。馬を洗う時に使う、固いブラシだった。 両手を抑えられたナノリアは目の前が真っ暗になる。 何とか逃れようと激しく暴れた。渾身の力で何人かを突き飛ばす。 「おい、ナノリア!!」 アディノスが憤怒の表情でナノリアの前に立ちふさがった。 ナノリアはどうしてか、反抗できなかった。アディノスを見ると一気に力が抜けていく。
「殿下はもう子供ではありません」 ブレイクがぴしゃりと言い放つ。 「とにかく、今年いっぱいです。あと一年。殿下が出て来られようと来られまいと、国政会議でもその方向で話を進めます」 「おい、そんな強引に——」 「父も年ですし、何より、コーンワルド公爵領からの上申について、もう見過ごせぬと考えました」 「上申……?」 「お伝えしましたよね」 ブレイクの額に青筋が浮いている。 部屋の温度が下がったような気さえした。 ブレイクの目はアディノスに向けられているが、こっちを向いていたら悲鳴を上げていたかもしれない。横顔を見ただけでも、怖い。 「コーンワルドの天膜についてです」 「あー、それね。ああ、わかってるよ」 アディノスの声が上擦っている。 ブレイクは大きくため息をついた。それから私の方を向くから、つい背筋を伸ばしてしまった。 けれどこちらを向いた時には、ブレイクの眼差しは柔らかかった。 「ナノリア様、これが、今日来てもらった、本題の方なんだ」 「は、はい」 何でも言ってください、と言いそうになる。 こういうのをカリスマって言うのかな。何でも言う事を聞きたくなる。——いや、ただ単に魅力的なだけか。 「我がロフェリア王国には精霊の加護により、外敵を防ぐと言われている天膜があるのは、知ってるかな」 「はい……見たことは、ないですけど」 国境全てにではないものの、オーロラのように天からゆらゆらと光の膜のようなものが見られる場所があるという。その最も広大な範囲を有するのが、ブレイクの領地であるコーンワルド公爵領だ。 実際それによって敵を退けたとかいう記録はないが、その見た目の神々しさからも、きっと妖精が国を守ってくれているのだろうと言われ、神聖視されている。 「近年、徐々にその天膜に綻びが見られるようになったというんだ。穴が開いているような、消えかかっているような。妖精の加護に陰りが見えたのではないかと話す者もいる」 それは……本物のナノリアの魂が消えてしまった事と、何か関係があるのだろう
久しぶりに来た執務室は、10年前とまた少し変わっていた。 色々なものの配置も少し変わっているし、書類や本がすごく増えている。 執務室にはブレイクだけがいた。「ようこそお越しくださいました」 声は前と同じだ。 あたたかい気持ちになる、優しい声だ。 自ら扉を開けて丁寧にお辞儀をされる。 アディノスが邪魔でよく見えないけど、私も後ろの方で頭を下げた。「ふん。あれだけしつこく言われたらな」「許可を頂ければ出向きましたのに、このような場所で申し訳ありません」 よく聞くと少し声の感じは変わっている。 さらに低音になって、前より……疲れているような。10年経ったのだから、そりゃお互い歳を取るか。 すっと目の前に手を伸ばされる。 え、と思わず目線を上げると、ブレイクと真正面から目が合った。 わぁ……めっちゃイケおじ。——いや、失礼か。まだ40にもなってないのに。 目の下にクマもあるし、どことなく疲れた顔をしているからすこし老けているように見える。けれどそれさえも魅力的だ。漆黒の髪は相変わらず艶やかに光っている。 疲れは見えるものの不健康な感じはなくて、体も鍛えてるのが服を着ていてもわかる。背筋はまっすぐで独特の威厳というか雰囲気がある。 琥珀色の瞳が優し気に私に向けられているのを見ると、怖いという噂は当てにならないなと思った。「またお会いできて光栄です、妖精の姫君。——といっても、覚えてないかな。君はまだ5つだったから」 覚えてる——と言おうとしたら、アディノスがどかどかと大股で歩いてソファに座った。そっちに気を取られて返事をできずにいたら、ブレイクが続けた。「君をひどく恐がらせてしまったんじゃないかと心配していたんだ。怖い記憶として残っていなければいいが」「怖いだなんて」 その気遣いにもびっくりする。 そうか、あの時ナノリアは泣いたまま眠ってしまったから。「こちらへ」 あ、これはエスコートか。されたことが無いから分からなかった。 手の角度的に握手じゃないもんな。そっと手を乗せてみる。「あっ、私の手、汚……」 雑巾掛けのせいで荒れてる。 咄嗟に引っ込めようとしたのに、きゅっと握られる。そのままふっとブレイクが表情を緩めた。「汚くなど。小さくて、可愛らしい手だ」 顔に熱が集中する。もう……こういう事をさらりと言っちゃ
アディノスが部屋に来た3日後、パウラが新しいドレスを持ってきた。 「なに? それ」 「王子殿下から、今日はこちらをお召しになるようにと指示があったらしいです」 「安定の突然」 今まで着た中では最も豪華なドレスだった。白くて細かいレースまで施されている。 汚れが目立ちそうだ。 雑巾がけは日課になったけど、これで掃除はできないな。 一体どうして……。 「あ、もしかして今日行くのかな、摂政殿下の所に」 「さあ、私は何も聞いてませんので」 そうね。突然来て突然連れて行かれそうね。 あの虫も突然だったけど恐怖体験すぎて、あれからしばらくノックが怖くなったくらいだ。 ちなみに、黒いバッタさんは、ちゃんと庭の片隅に埋めて供養しておいた。宗教は違うかもしれないけど、許してほしい。 今日はもう日課の床磨きも終わったし、することもない。 着替えてないとまた嫌がらせをされたら怖いので、パウラに手伝ってもらって着替えて身支度を整えた。 ドレスはちょっとぶかぶか。 「サイズが合ってないわね」 「王子殿下は、ナノリア様のサイズをご存じないんでしょうか」 知らないだろうな。知ってても気持ち悪いけど。 「採寸したこともないしね」 今のドレスも、洗濯して縮んだからちょうど良くなったんだ。 ここの洗濯メイドは洗濯が下手なのか、ナノリアへの扱いのせいなのかわからないけど、出した洗濯物が縮んで帰ってくる。 洗濯したらいい感じに縮むかもしれないが、今から洗濯に出すわけにもいかないし。 肩口や腰回りはぶかぶかだけど、まあ切れなくはない。 それより背中がきつかった。羽を出す穴がない。 「あぁ、これ……羽が出ないわ」 「中に入れておけばよろしいのでは」 「だから、それは窮屈なんだって。ねえ、ちょっと切ってくれない?」 「ええっ!」 パウラは大袈裟に半歩後ずさった。 「私がですか!」 「うん。慣れてるでしょ? 洋服にはさみを入れたりしないの?」 一般的に庶民
ナノリアが初めてブレイクに会ったのは、国王の葬儀が終わって数か月後だった。 まだ8つのアディノスのために、摂政として抜擢されたのがブレイクだった。 コーンワルド公爵領は、国境沿いの広大な領地を有する歴史ある家門だ。国王ドローネの姉が嫁いでおり、その息子ブレイクがすでに公爵位を継いでいた。つまりはアディノスの年の離れた従兄弟に当たる。 当時彼は30手前だったかと思う。それでも王都まで統治の名声が届くほど有能で、国王の推薦ではあったけど摂政就任にどこからも反対はなかったのだとか。 ナノリアは5つになったばかり。摂政殿下へ挨拶をしにいくぞと言われて、アディノスと2人、会いに行った。 葬儀にも参列を許されなかったナノリアは、この日、本当に久しぶりに内城を出た。そうして国王の執務室に向かう。 ドローネがかつて使っていた執務室は、ナノリアも何度か出入りした事がある。 そこはすでに主人を変えて、室内は様変わりしていた。 落ち着かなくてきょろきょろとして、アディノスに背中を小突かれる。 「った——」 「挨拶しろ」 「あ……ナノリアで、ございます」 緊張したままお辞儀をすると、ブレイクはわざわざナノリアの前まで来て、膝をついた。 「はじめまして。君が瑠璃の妖精姫だね」 吸い込まれそうな琥珀色の瞳と、はっきりと目立つ黒髪の青年。強烈な存在感——幼いナノリアにも、強く印象に残った。 彫りの深い濃い目鼻立ちは、従兄弟とはいえアディノスとは全然似ていなかった。爽やかな笑みを浮かべながら、優しい眼差しを向けてくれる。 瑠璃の妖精姫、それはドローネが付けた呼び名だった。瑠璃姫、妖精姫と言って可愛がってくれた。久しぶりに呼ばれた呼び名に、少し恥ずかしくて懐かしくて、もじもじとしてしまう。 「聞いていた通り可愛らし——」 「どこが。ぐずで、のろまな出来損ないだ」 ブレイクの言葉を遮ってアディノスが言い捨てた。 父親を亡くし、アディノスは急に攻撃的になった。 母親であるサフィアもずっと部屋にこもってしまっているから、まだ8つの彼としても怒りの矛先が必要だったのかもしれない。 こんな悪態はいつもの事だった。けれどこの日は恥ずかしくて、ナノリアはうつむくしかなかった。 すごく偉い人の前で、ぐずでのろまと知られるのが、情けな
「え、誰?」 思わず聞き返したら、パウラは補足してもう一度言ってくれた。「王子殿下です。アディノス王子殿下。ナノリア様ご執心の」「やめて。執心してないから」 正確には私は、していない。「何の用?」「聞いてませんけど、聞いてきましょうか?」「普通聞くものじゃないの?」 取次ぎってそういう者じゃないのか。 パウラがさあ、と首を傾げた。「だってナノリア様は用件を聞いたことなんてなかったので」 そうか、好きな人が来たらすぐさま招き入れてたか。 いや、それでもさ。普段、まったく交流のないレディーの部屋に来るんだから、向こうから用件を言ってしかるべきでは。 コンコン、とノックの音が響く。待ちきれなくて催促のノック。「あ、来ちゃいましたね」「え、なに、はやいはやい」「いつもより遅いからですよ多分。いつも、はーい! って走っていくじゃないですか」 はーい、の所を高い声で再現された。ちょっと悪意を感じる。 それは置いておいて。 私は、王子には特に会いたくもない。それよりお昼ご飯が食べたい。 断ったら駄目だろうか。まだこの体に入って昨日の今日だし、因縁の相手にはもう少し馴染んでから会いたい。 いや、次期国王だし、無碍にしたらだめなんだろうか。 そんなことを考えていたら。「開けろ」 若い男の声が響く。——アディノスの声だ。 条件反射で体に緊張が走った。 そしてこの部屋の主人の同意の全くないままに、扉は開かれた。 侍従に開けさせたのだろうが、入って来たのはアディノス一人だった。 こちらを見て、あからさまに眉を寄せる。「いるなら早く開けろよ」 すっごい、偉そう。 そのまま遠慮もなく入ってくると、部屋の中にある椅子にどかりと座った。 ものすごく久し振りに見たような、映画の中の人に会ったような、不思議な感覚だ。 確かに目鼻立ちは整った







