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第2話

氷花
汚い。

汚らわしい。

汚い瑠璃なんかより、ずっといい……

この短い動画の中で、蓮は何度自分のことを「汚い」と言った?

でも、これでようやく分かった。

だから結婚して5年、蓮は一度も自分に触れようとしなかったのだ。

蓮がプラトニックな恋愛を理想としていたからでも、自分を大切に想っていたからでもなく、ただ自分のことを汚らわしいと感じていただけだったなんて!

18歳の時、蓮が拉致された。そんな彼を救い出そうと、瑠璃はたった一人で駆けつけ、命がけで彼を逃がした。その後、瑠璃は蓮の代わりに捕らえられ、三日三晩にわたって痛めつけられた末、救い出された時には全身血まみれだった。そんな自分のことを、蓮が汚らわしいと思っていたなんて……

心臓がぎゅっと握りつぶされるように痛んだ。息もできないほど苦しくて、胸元を力任せに掴む。

その時のことを思い出した。拉致犯の恐ろしい顔、冷たい道具の数々、果てしない暗闇と恐怖……最後まで抵抗して、女の身体だけは守り抜いた。しかし、彼らから受けた暴力と精神的なショックによる心の傷は、今でも残っている。

瑠璃が救出された時、蓮は拉致犯たちを今にでも殺してしまうのではないかというほどの形相で睨みつけていた。

そして、震える手で自分を抱きしめてくれた。だがその時、瑠璃は彼の瞳に、心配の表情だけでなく、理解し難い複雑な何かが混じっていたのを見ていた。

それが何か、今やっと理解できた。

あの時の複雑な感情の正体は……嫌悪感だ。彼は、自分のことを汚らわしいと思っていたのだ!

でも、自分はそんなこと……!

弁解したかったが、瑠璃は喉まで出かかた言葉を飲み込む。

今さら蓮にこのことを話して、何になるというのだろう。

彼に「汚らわしい」というレッテルを貼られて、もう5年だ。

自分がどれだけ必死に訴えても、蓮が持ち続けてきた偏見の前では、何を言っても虚しく響くだけに違いない。

一瞬で落ち込み、顔を青ざめさせている瑠璃を見て、奈美は満足げに笑った。そして、優雅にコーヒーを一口啜ると、鞄からある書類を取り出して瑠璃の目の前に差し出した。

「瑠璃さん、こういうことなので、もう諦めてくれますか?このことは……もう蓮さんの心から消えないと思うので、このまま一緒にいても幸せになれないはずですから。

これ、離婚協議書です。中に、『離婚届は代理の者が記入しても、有効とする』って内容を入れておきましたから、離婚の手続きについては心配しないでくださいね。私が全てやっておきますから。瑠璃さんは、この離婚協議書に、サインするだけでいいんです。

だから……書いていただけますよね?せっかく仲の良かったお二人なんだから、綺麗に終わりましょうよ」

かつての瑠璃なら、こんな理不尽で勝手なことを言われたら、即座に相手の顔に平手打ちを叩き込んでいたことだろう。人の夫に色目を使うなんて何事だ、と。

しかし、今は身体中が冷え切っていて、指先ひとつ動かすことができない。

それに、もちろん奈美にも腹が立つが、根本的な原因が、自分を「汚い」と言い切った蓮にあることを、瑠璃ははっきりと理解していた。運命の相手だと信じ、10年もの間愛してきた男なのに!

目の前で勝ち誇ったような笑みを浮かべる奈美の顔を見ながら、瑠璃はふっと笑みを漏らした。笑えば笑うほど、涙が溢れ出してくる。

なんて皮肉なのだろう。

16歳の頃、全校生徒の前で、顔を真っ赤にしながら告白してきたあの少年は、まさか未来の自分が瑠璃を「汚い」と言い、その証拠動画が愛した妻に離婚を決断させることになるとは、夢にも思わなかったはずだ。

絶望の後には、ただ静かな虚しさだけが残るらしい。

こんなにも人を長く愛し続けることができた。

しかし、その愛が終わるのは一瞬だった。

もう、蓮のことなど愛してはいない。

少なくとも、自分を「汚い」と言い捨てた、あの蓮だけは!

奈美に目をくれることもなく、瑠璃は黙ったまま、奈美が用意してきた離婚協議書を受け取った。署名欄に自分の名前を書き入れる——九条瑠璃。

それは相変わらず丁寧な文字だったが、どこか迷いのない鋭さを含んでいた。

一方の奈美は、話が拍子抜けするほどすんなりと進み、驚いていた。しかし、瑠璃がサインし終えると、すぐに離婚協議書を回収し、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「瑠璃さん、潔いですね。今晩には、蓮さんにもサインをしてもらうので、安心してください。でも、この離婚協議書を弁護士さんとかにも確認してもらわなきゃならないので、離婚が受理されるのは1ヶ月後ぐらいになってしまうかもしれません。そこは、ごめんなさいね」

瑠璃は黙って立ち上がり、何も答えずに、そのまま背筋を伸ばして、カフェを出て行った。

かなり日差しが強かったが、瑠璃は一切暖かさを感じることができなかった。

呆然としながら家に戻った途端、携帯が震えた。どうやら、奈美から動画が送られてきたようだ。

震える指で動画を再生する。

そこには、蓮と奈美が映っていた。しかも……場所はベッドの上。

甘い空気に包まれる中、奈美がそっと傍らから離婚協議書を取り出した。そして、欲しい限定バッグがあるのだと甘えた声でねだりながら、蓮にサインを求める。

内容を確かめようとしたのか、蓮が少し俯くと、奈美はすかさず彼の喉元にキスを落とした。

蓮がふっと笑う。「しょうがない奴だな。買ってやるよ」

そして彼は、書類を確認することもなく、自分自身の名前を書き記した。

その筆跡は力強く、あの婚姻届を書いた当時と何も変わっていない。

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