ANMELDEN「やっぱり、いい人」 先程の会話を脳内で繰り返す。いつも無表情だから冷たい印象が拭えないが、常にうたを気遣ってくれる。最初はやっていく自信が皆無だったが、今ならなんとかやっていけそうな気がする。 ただ、問題は……。「あの使用人達、どうにかならないかしら」 いくらうたに悪口耐性があるとはいえ、聞いてて気分の良いものではない。それに、争い事は嫌いだ。このままだと、いつ使用人達と言い争いをするか、分かったものじゃない。「15円ももらってるなら、ちゃんと働けばいいのに」 実家にいた頃、うたの小遣いは庶民より少し多いくらいだった。父がケチだからそれしかもらえなかったのだが、おかげでまともな金銭感覚を手に入れた。普通なら、15円稼ぐのに数ヶ月かかるだろう。それを1月でもらっているのなら、どんなに主人が嫌いでも、表にそれを出すのは間違っている。「17の私でも分かることなのに、なんで分からないんだろう?」 彼女達の稚拙さに呆れていると、誰かがドアをノックした。「奥様、湯浴みの準備が整いました」 ふさの声だ。「今行きます。……あ」 返事をしたところで、文彦に来るように言われたことも今更思い出し、鼓動が早くなり、緊張と不安が押し寄せる。「私、うまくお相手できるかな……?」 不安と着替えを抱え、浴室に向かった。 湯浴みが終わると、文彦が食事を持ってうたの部屋に来る。テーブルの上にはステーキやスープ、サラダなどが並べられる。「さぁ、食事の練習をしましょうか」 内心ドキドキしているうたと違って、文彦はいつもどおりだ。自分だけがこんな気持ちを抱えているのかと思うと、虚しくなる。「食器は外側から使います」 文彦は優雅にステーキを切り分け、口に運ぶ。夜のことで頭がいっぱいのうたは、何度も注意されながら、なんとか食べ終わらせた。味などは分からずじまいのまま。 文彦が湯浴みをしている間、歯を磨いて着替えを済ませ、文彦の部屋で彼を待つ。ベッドの隅に腰を掛けて身を固くしていると、ドアが開かれ、文彦が入ってくる。 濡れた象牙色の髪と、ガウンの隙間から見える肌にドキッとして目をそらす。「慣れなさい」 不快そうな声に恐る恐る顔を上げると、文彦はしかめっ面でうたを見下ろしていた。「む、無理です……。家族以外の男の人と、ほとんど話したことないのに、いきなり、こういう
「どうして? そんなに安いんですか? ここ」「月給15円です」「じゅっ……!? えぇ!?」 驚きのあまり、大きな声が出る。時期によるが、当時の1円は1万2000円から2万円ほど。住み込みで働いて15円ももらえるなんて、夢のような話だ。誰だって食いつくだろう。「それなら、なおさら解雇して、ちゃんと働いてくれる人を雇うべきですよ」「来るわけがないでしょう。怪人と暮らさないといけないんですから」 自嘲する文彦に、胸が締め付けられる。うたは文彦の象牙色の髪も、眼帯で隠された青空のような瞳も、美しいと思う。だが、大半の人間は、自分と違いすぎるものを気味悪がることが多いのも事実。「実際、あなたのご両親も、小生の髪を見て顔を引き攣らせていたでしょう。少なくとも母君は、小生に嫁がせるのを嫌がっていたようですしね」「そんな……」「それより、話があります。このまま立ち話も疲れますから、小生の部屋へ」「は、はい」 もやもやした気持ちを抱えたまま、文彦の部屋に入る。改めて見回すと、寂しい部屋だ。最低限の調度品はうたでも高価なものと分かるが、物も色合いも少なく、個性がない。誰かの部屋と言われるより、どこかの宿の一室と言われたほうがしっくり来る。「あの、話って?」 ソファに身を沈めると、おずおずと尋ねる。昔から「話がある」という言葉が嫌いだ。怒られる前兆は、だいたいこの言葉だと相場で決まっているからだ。「女学校のことです」「え?」 間の抜けた声が出る。特別勉強嫌いというわけではないが、家族と友に会えた安心感で、女学校のことなどすっかり忘れていたのだ。「あなたの父君が、せめて卒業させてやってほしいと言ってましてね。小生も賛成しました。あなたのように頭が回る女性を、ずっと屋敷に閉じ込めておくのは、もったいないですから」「あ、ありがとうございます! そんなことなら、道具とか持ってくるんだった……」 実家に行くことは、直前まで知らせてもらえなかった。それに、姉妹との話に夢中になり、私物を持って帰ろうという考えに至らなかった。「その辺は心配ありませんよ。明日、あなたの母君が、いくつか荷物を届けに来るそうですから」「お母様が?」「えぇ。娘の嫁ぎ先を見ておきたいそうですよ」「そう、ですか……」 少なくとも数カ月は会うことはないと思っていたから、拍子抜けだ。
屋敷に帰ると、さっそく草履を履いてみる。とても履き心地がよく、もう少し高くてもいいのにと思った。 玄関へ草履を置きに行くと、使用人達はクスクス笑う。「この屋敷に草履なんて古臭いもの持ち込んで」「教養がないのね」「一応華族らしいけど、嘘なんじゃない?」「きっとそうよ。ちょっと可愛い顔してるからって、調子に乗ってみっともない」 彼女たちはうたに聞こえるように、わざと大きめの声で言う。(悪口しか娯楽を知らないのね。可哀想な人たち) 少し前のうたなら、精神的に追い詰められていただろう。だが、久しぶりに家族や友の顔を見て落ち着きと余裕を取り戻した今のうたには、彼女たちは哀れな存在にしか見えない。 父は見栄っ張り故に、3姉妹全員を女学校に通わせるつもりでいるが、女が勉強をしても仕方ないと思っている人は、未だに多い。通学路で大人とすれ違うと、陰口を叩かれることも多い。「女が勉強して何になる」「花嫁修業でもしたらいい」「男の真似をして生意気だ」 こういったことは、耳にタコができるほど聞かされてきた。少しでも男子やあんみつにうつつを抜かせば後ろ指を刺され、勉学に勤しめば生意気だと言われ、花嫁修業をすれば型にはまっていてつまらない女と言われる。 うたや学友は、そういった理不尽の嵐の中で過ごしてきた。最初の頃こそ落ち込んでいたが、半年もすれば相手を同情するくらいに心が強くなった。そんなうたからしたら、使用人達の陰口など、小鳥のさえずりと大差ない。「みっともないわ」 未だにクスクス笑う使用人達に呆れ果てたうたは、ズカズカと彼女達に近づき、にっこり微笑む。「な、なにか御用ですか? 奥様」「あなた達、バケツと人間って似てるの、ご存知?」「は?」 莫迦にするような眼差しをものともせず、足元にある水がたっぷり入ったバケツを軽く蹴る。ゴンッという鈍い音が、広い玄関に響く。「中がいっぱいだと、このように、大きな音は出ません。けど」 この前の仕返しと言わんばかりに、彼女達の足元に、濁った水をぶちまける。使用人達は短い悲鳴を上げ、ハンケチで拭うが、そんな小さな布でどうにかなるわけもなく、靴の中は水浸し。西洋のメイド服とやらも、前掛けは薄汚れた濡れ鼠のよう。 うたはそんな彼女達に向かって、バケツを蹴り飛ばした。バケツは大きな音を立てながら、使用人のひとりの足
それから話の内容は、いつもどおりのものになっていく。どこのお嬢さんが嫁いだとか、結婚するならこういう人がいいとか。 自分の立場などをすっかり忘れて話し込んでいると、ふすま越しに声をかけられた。「終わりましたよ。帰りましょう」「は、はい」 ふすまの前まで行くと、ふたりに手を振ってから廊下に出る。「行きましょうか」「はい」 兄弟唯一の男児である清以外とばあやに改めて挨拶をしてから、馬車に乗る。清にも挨拶をしたがったが、彼は不在とのこと。 名残惜しくて外を眺めていると、ひとりの少女が目にとまる。「あ……!」「どうしました?」「友達が、さっき……」 文彦は御者に声をかけ、馬車を停めてくれた。「友達というのは、草履売りの娘ですか?」「えぇ、そうです。はるちゃんといって、病弱なお母さんの代わりにああやって働いてるんですよ。本当は、女学校にも行けたはずなのに……」 はるも元はうたと同じくらいの家柄の娘だった。だが、彼女の父には愛人がおり、愛人が男児を産むと、ふたりを追い出してしまったのだ。元々病弱な母は更に弱り、はるが必死に稼いでいる。そのことを思うと、胸が痛い。「確かあなたは、普段は和装でしたね。ちょうどいい。これで草履や、他に必要なものがあれば、それも買ってきなさい。釣り銭はいりません。好きになさい」 文彦は金をうたに握らせると、見送ってくれた。「はるちゃん!」 声を掛けるとはるは嬉しそうに駆け寄り、涙を流す。「うたちゃん! よかった、生きてたのね。連れ去られるところを見たけど、私、なにもできなくて……。ご家族に教えることしか、できなくて……」 どうやら、稲葉家にうたが拐われたと知らせたのは彼女のようだ。「ううん、ありがとう。逆の立場だったら、きっと私もなにもできなかったと思う。だから、自分を責めないで」「うたちゃん……」「あまり長話はできないけど、私、結婚したの。幸せよ」「そう、よかった」「草履、買わせてくれる?」「もちろん!」 支払いをしようと手のひらを見ると、1円硬貨が1枚だけ。当時の1円は、1万2000円~2万円の価値があり、そばを20杯近く食べることができる額だ。「これしかないんだけど、いい?」「えぇ!? そんなお釣りないよぉ」 1円硬貨を見るなり、はるは涙目になる。今日の食費をかせぐのにやっとなはるに
「もちろん、娘さんを大事にします。こちら、結納金です」 文彦は懐から分厚い封筒を出すと、茂の前に置いた。無遠慮に中身を確認してにやりと笑う父を、うたは心底軽蔑した。見えっ張りなのは仕方ないが、娘を売るような形で大金を得て笑う父など、見たくなかった。「うた、あなたは、その、納得、してるの?」「莫迦者! 失礼なことを言うな! 愚女ですが、どうぞよろしくお願いします」 茂はみえを叱咤すると、にやけ顔をこちらに向け、頭を下げる。(あの人拐いの男と一緒じゃない。いいえ、それ以上に最低) 父を蔑んでいると、肩に手を置かれ、小さく跳ねる。「久しぶりの実家でしょう。御兄弟のところにでも行ってきなさい。小生は、ご両親と話がありますから」「はい、ありがとうございます」 ご厚意に甘えてふすまを開けると、姉のえみと、妹のちえがいた。「びっくりした……。何してるの」「うたが帰ってきたって、ばあやから聞いたから来たの」「おねえ、会いたかった!」 3人娘が会話をしていると、茂がわざとらしく咳払いをする。慌てて居間から出ていき、えみの部屋に逃げ込んだ。部屋の中央に置かれた小さなちゃぶ台の上には、3人分のお茶とまんじゅうがある。ばあやから聞いてすぐに用意したと思うとなんだかおかしくて、小さく笑った。「さぁ、座って。なにがあったか話しなさい」 3人はちゃぶ台を囲んで座る。えみの向かいに、うたのちえが寄り添って座る形になる。 3人娘は、上から20、17,13と歳が離れているが、父という共通の敵がいるからか、仲が良い。特に気の強い姉は、父に時代遅れだの見栄っ張りだの、言いたくても言えないことを言ってくれるのだから、気持ちがいい。えみはうたとちえにとって、最高の姉だ。「あの人、怪人でしょ? ちえでも知ってるよ」 ちえは声を潜めて言う。「けど、いい男だったわ」 恋愛小説が好きなえみは、うっとりする。「あの人は怪人なんかじゃないわ。とってもいい人よ」 うたがムキになると、ふたりはにやりと笑う。「あらぁ、随分入れ込んでるじゃない」「おねえ、聞かせて聞かせて」 いつの時代も、乙女の娯楽の代表格は恋バナ。特に、恋愛小説マニアのえみと、恋に恋するお年頃のちえは、恋愛に興味津々だ。いつもどこの店の店主が男前だとか、素敵な男児を見かけたとか、そういった話をしては盛り上がっ
うたが呆気にとられていると、文彦は呆れたようにばあやの背中を見ていた。「使用人は彼女しかいないのですか?」「えぇ、そうです。あまり大きな声では言えませんけど、華族と言っても、そんなに立派な家ではないので、見栄のためにひとり、やっと雇ってるといった状態でして」「そうでしょうね」 文彦はそっけなく言うと、足を進める。うたは呆れられてしまっただろうかと不安に思いながら、彼に続いて玄関へ向かう。玄関はふたりが開けようとする前に開き、母のみえが出てきた。みえはうたを見るなり目を丸くし、口をパクパクしだした。顔色は真っ青で、まるで幽霊でも見たような顔だ。「ほ、本当に、い、生き……」「お母様、うたです。生きてます」 うたが口を開くと、みえはわっと泣き出し、痛いくらいにうたを抱きしめた。「うた、うたぁ! よかった、よかった……! お前が拐われたところを見たって聞いてから、お前はもう、うぅ……」「お母様、この方が助けてくださったの」「え?」 みえはようやく文彦に気づき、彼の姿を見て口をあんぐりさせる。「あなた様は、まさか……!」「お初にお目にかかります。水月文彦と申します」「ま、まぁまぁ! 少々お待ち下さいね。うた、お客様を応接室へ案内して!」「はい、お母様。文彦さん、こちらです」 みえは慌てて奥へ引っ込む。残されたうたは、文彦を居間に連れて行く。みえは応接室だなんて大層な言い方をしたが、この日本家屋に、そんなものはない。ただ、それだと貧相だと思った父の茂が、客人が来た時は居間を応接室と言うようにと、ずっと言い聞かせてきたのだ。 うたは数日ぶりの家を懐かしみながら、居間へ進む。「適当に座ってください」 座ってから文彦に言うと、彼はうたの隣に座った。状況からして正面に座るのはおかしいと分かってはいるが、隣に座られるのも落ち着かない。だが、嫌ではなかった。 まもなく稲葉夫妻が来てふたりの前に座ると、少し遅れて来たばあやが、4人の前に湯呑みを置いてそそくさと立ち去った。「私は稲葉家当主、稲葉茂と申します。水月殿のお噂はかねがねおうかがいしております。うちの愚女が迷惑をかけたそうで、大変申し訳ございません」 いつも威張り散らしている父が、自分より少し年上の男にへこへこ頭を下げているのがあまりにも滑稽で、いつもなら気に障る男尊女卑発言も気にならな







