LOGIN結婚3周年の記念日、九条澪(くじょう みお)は夫の九条慎也(くじょう しんや)への贈り物として、離婚届を用意した。 澪は、誰もいない向かい側の席に目をやり、弁護士の岡本翔太(おかもと しょうた)に電話をかけた。 「岡本先生、離婚協議書の準備はできましたか?」 この時、澪は一人ダイニングテーブルに座っていた。揺れるキャンドルの炎が彼女の横顔を照らし、表情をぼんやりさせていた。彼女は離婚がスムーズに進められるよう弁護士に頼んで「離婚協議書」を用意させていたのだ。 「はい、もう準備はできていますので、書留で送りました」そう言って翔太は少しためらった後、戸惑ったように尋ねた。「ですが……今日はお二人の結婚3周年の記念日ですよね?そんな大切な日に、本当に離婚を切り出すおつもりですか?」 大切な日? 澪は、とっくに冷めてしまった料理に目を落とし、自嘲するように口元を歪めた。 夫婦がお互いに覚えていてこそ、記念日には意味がある。 言うまでもなく、慎也との間でこの日を覚えていたのは、自分だけだった。 そう思って彼女が電話を切ると、ちょうど玄関のドアが開く音がした。 慎也が、疲れきった顔でドアを開けて入ってきた。けれど、その声には喜びがにじみ出ていた。 「美羽の離婚裁判が終わったんだ。これでようやく、彼女はあのDV男から解放される」 1ヶ月ぶりに顔を合わせたというのに、慎也の口から出た最初の言葉。それは、彼の初恋の人がついに離婚した、という報告だった。
View Moreそう思うと、隼人の後悔はさらに深まった。もし自分がもう少し早く気づいていたら、きっとためらわずに飛び込んでいただろう。一方それを聞いた、澪は何とも言えない気持ちになった。結婚していた3年間、慎也は自分を大切にしてこなかった。それなのに、離婚した今になって、彼は命をかけて自分を助けようとしたのだ。澪はそれ以上は何も言わず、ただ慎也が目を覚ましたらすぐに知らせてほしいとだけ伝えた。片や慎也が目を覚ましたのは、翌日の朝になってからだった。知らせを聞いた澪は、隼人が止めるのも聞かず、点滴を抜いて慎也の病室に向かった。澪の姿を見た瞬間、慎也の目にパッと光が宿った。「澪、無事でよかった。ゴホッ……」彼の容体は澪よりもずっと重く、体はまだ弱りきっていた。すると澪は複雑な表情で彼を一瞥し、そばにいた隼人に言った。「隼人さん、少し二人だけで話がしたいの」そう言われ隼人は目に見えて落ち込んだ。でも彼は黙って病室を出ていくと、二人きりにしてあげた。一方、澪の行動を、自分を許してくれた証だと受け取った慎也は思わず胸が高鳴った。「澪……ゴホッ、やっと俺を許してくれる気になったのか?」「まずは落ち着いて」澪は唇を引き結んだ。「助けてくれたことには本当に感謝してる。でも、だからといって、私たちの失敗した結婚生活が帳消しになるわけじゃない」それを聞いて慎也は喜びに満ちた表情が一瞬で凍りつき、しどろもどろに言った。「どうしてだ、澪。俺はお前のためなら命も惜しくない。これでも俺の愛を信じられないのか。前は自分の気持ちが分かっていなくて、お前をないがしろにした。でも、もう二度とそんなことはしないと誓う。それでも許してくれないのか……」「そういうことじゃないの」澪は慎也の言葉を遮った。彼を見る目には感謝の色はあっても、愛情は少しもなかった。それから、澪は病室の外で待っている隼人にちらりと目をやり、言葉を続けた。「あなたが私を傷つけたことは許せる。でも、もうあなたを愛してはいないし、これから愛することもないわ」慎也は聡明な男だ。すぐに澪の言いたいことを理解した。彼は悔しさをにじませながら苦笑いを浮かべ、最後の質問を口にした。「お前は……あいつのことが好きになったのか?」澪は一瞬ためらったが、最後にはこくりと頷
その言葉に、慎也の顔がさっと青ざめた。彼は今までまさか自分の妻から、出ていけと言われる日がくるなんて、思わなかったからだ。そして、この状況はすべて、自分が招いたことだった。それから慎也は、茫然としながら花屋を後にした。彼が去っていくのを見届けて、澪はようやくほっと息をついた。「隼人さん、さっきはありがとう」隼人は、気にしないようにと手を振った。「気にしないで。たいしたことじゃないよ」そして、彼は少し真面目な顔になって言った。「もし君の元夫がまたしつこくしてきたら、すぐに俺に教えてほしい。君がひとりで彼と向き合うのは、危ないから心配なんだ」二人が親しくなってから、隼人はどうしてこんな人里離れた町に来たのかと澪に尋ねたことがあった。澪は一瞬ためらったけど、結局、慎也との失敗に終わった結婚生活について打ち明けた。この話は今まで誰にもしたことがなく、隼人は、それを知る最初の人間だった。その時彼女はまるで、やっと胸の内を打ち明けられる人を見つけたとでもいうように、昼から夜までずっと話し続けた。話を聞き終えた隼人は、ただ真剣に澪の目を見て言った。「もしあいつが君を連れ戻そうとしても、君が望まないなら、俺が必ず君の前に立って守るから」その時、澪は彼の言葉をただの冗談だと思っていた。だって慎也は、今ごろ美羽との結婚準備で大忙しのはず。まさか自分のところへ来るなんて、ありえないと思っていた。でも、まさか隼人の心配が現実になるなんて思ってもみなかった。でも、さっき自分の前に立ってくれた隼人の姿を思い出し、澪の胸に温かいものがこみ上げてきた。慎也が現れたのは、ほんの些細な出来事のようで、澪の穏やかな生活に、大きな波風を立てることはなかった。それからの日々も、澪は以前と変わらなかった。一日のほとんどを花屋で過ごし、たまに隼人と近所を散歩するくらいだった。ただ、ひとつだけ、彼女は、慎也がまだこの町を去っていないことを知っているのだ。そして花屋で仕事をしていると、焼き付くような視線を感じることがよくあった。でも、慎也が目の前に現れることはなかった。だから彼女も、自分の生活の邪魔をしない限りは、気づかないふりをすることにした。そんなある日のことだった。突然、ものすごい豪雨が町を襲った。大粒の雨がひさし
慎也は何か言おうとしたが、反論できるような記憶がまったく思い浮かばなかった。「俺、俺は……お前のことを愛してたんだ。ただ、自分でも気づいてなかっただけで……」彼の口から「愛してる」なんて言葉を聞くなんて思わなかったから、澪は思わず嘲笑った。「本当に愛してるなら、どうして結婚記念日を忘れるわけ?愛してるなら、どうして私のこと、ちっとも信じてくれなかったの?」澪の一つ一つの言葉が、鋭い刃となって慎也の胸に突き刺さり、彼は酷く打ちのめされたのだ。この時、慎也は自分がどれほどひどい過ちを犯してきたのか、ようやく思い知らされた。慎也は切なげな表情を浮かべ、その瞳には今まで感じたことのないほどの後悔が渦巻いていた。「澪、俺が悪かった。本当に……今すぐ許してくれなくてもいい。だから、もう一度だけチャンスをくれないか?許してくれるまで俺は待つよ。いつまでだって、待ってみせる」そう言って、彼の瞳には、かすかな期待が宿っていた。「無理よ」澪はきっぱりと首を横に振ると、はっきりと、こう言い放った。「あなたと離婚を決めた時から、もう一生、あなたとは関わらないって心に誓ったの」そのあまりにも素っ気ない言葉に、慎也は最後の望みを打ち砕かれたようだった。それでも彼は諦めきれず、店の中に立ち尽くしたまま、ただ黙って澪を見つめていた。だが澪は、慎也がいないかのように無視して、黙々と花束の手入れを続けた。カラン、とドアベルが鳴った。その音を聞いて、彼女の顔にようやく笑顔が戻った。「ちょうど終わったところ。さ、行こう」店に入ってきた隼人は、隅に立つ大柄な男の姿に一瞬、目を見張った。でも、澪が紹介するそぶりを見せなかったので、彼も気づかないふりをした。そして隼人は手に持ったバスケットを軽く掲げると、親しみのある笑顔で白い歯を見せた。「この花、さっきフラワーパイを作ろうと思って摘んできたんだ。今日は本場の、とびっきりおいしいやつを食べさせてあげるよ」彼の明るい笑顔につられて、澪の口元も、さらにほころんだ。「ええ、じゃあ行こうか」二人が仲良く店を出ていこうとするのを見て、慎也はついに我慢できなくなった。彼は勢いよく澪の前に回り込むと、その手首を強く掴んだ。「こいつは、誰だ?」突然のことで、澪は反応できなかっ
慎也は、直樹から澪が江原市行きの航空券を買ったと聞き、迷わず自分も一番早い便を手配させた。ただ、彼が忘れていたのは、江原市の範囲がとても広いということ。航空券を取っただけでは、人の居場所まで特定はできないのだ。それから江原市内で10日近く探し回ったものの、彼は結局あの見慣れた姿を見つけることはできなかった。会社には仕事がたくさん溜まっていて、これ以上先延ばしにはできなかった。仕方なく、慎也は一旦飛行機で東都に戻って仕事を片付けることにした。同時に、直樹には道中の防犯カメラを調べて、澪が江原市のどこにいるのか突き止めるよう命じた。しかし、彼女が今いる町は本当に人里離れた場所にあって、見つけ出すまでに20日近くもかかってしまった。だから、花屋にいる澪の写真が慎也の手に渡ったとき、いつも冷静沈着な男が、思わず目を潤ませた。彼はもう一刻も無駄にしなかった。すぐに一番早い江原市行きの航空券を買い、そこから丸一日近くかけて移動して、ようやくこの小さな町にたどり着き、澪の前に立った。もともと澪に会う前、慎也は心の中で何度も弁解の言葉を繰り返していた。離婚したくない、美羽と一緒になる気はない、自分の中で妻はずっと澪だけだ、と彼女に伝えたかったのだ。しかし、1ヶ月ぶりに見る澪を目の前にすると、用意していたはずの言葉はすべて吹き飛んでしまった。「お前……この1ヶ月、元気でやってたか?」そう言って慎也は、澪のどんな小さな変化も見逃すまいと、瞬きもせずにじっと見つめた。しかし澪は、慎也が現れたことにあっけにとられていた。「何をしに来たの?」彼との離婚はもう受理されているはずだ。そして今ごろは美羽と一緒にいるはずなのに、どうしてこんな所に来たのだろうか。一方、澪の目に再会の喜びのかけらもないのを見て、慎也は心の中に沸き立つ切なさをぐっと飲み込んだ。「お前を迎えに来たんだ」澪に断られるのを恐れて、彼は慌てて付け加えた。「澪、前に俺が美羽を助けたのは、ただの友情からなんだ。それに、今になってやっと気が付いたんだけど、あいつは嘘ばかりつく女なんだ……」慎也の話で、澪は初めて知った。美羽はマンゴーを食べて自分を陥れただけでなく、大学入学共通テストの後に別れたのも、海外留学がしたかったからだということを。そして今、慎也
そして、澪が病室のドアを開けると、ちょうど手当てを終えた慎也と美羽に鉢合わせした。「美羽はこんな目に遭うのは初めてだから、怖がっていると思うから、しばらくうちに泊まらせようと思っているんだ」それを聞いて澪は一瞬、言葉を失った。自分がまだいるのに、そんなに慌てて美羽を家に連れてくるなんて。だが、彼女は結局何も言わずに、ただ頷いて、「わかったわ」とだけ言った。どうせ自分が出て行ったあと、いずれ美羽は住み着くことになるのだ。それが数日早まっただけの話だ。夜、慎也の手のひらの傷口が不意に開いてしまい、包帯が血で滲んでいた。医師に確認した後、澪は新しい包帯を持ってきて、彼の手
食事の後、澪は役所へ向かって離婚届を提出した。「手続きには1ヶ月かかります」役所の職員は書類を受け取るとそう告げた。そして、手続きを終えて役所から出てくる彼女は久しぶりに将来への期待に心を躍らせていた。それから数日、澪は友人たちと一人ずつ食事の約束を取り付けた。ここを離れる前に、みんなと最後に会っておきたかったのだ。慎也もまた、この1ヶ月でたまってしまった仕事の処理に追われていた。二人は朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる生活だった。だから、ここ数日はほとんど会話がなかった。そんな生活が1週間ほど続いたある日、秀林館高校の創立100年記念式典が開かれた。名の知れた卒業生
彼女がそう言いかけていると慎也のスマホに、メッセージの着信の知らせがあった。彼は画面をスワイプすると、目元に笑みを浮かべた。一方、澪は離婚の書類を握る手に、思わず力を込めた。その表情を見れば、誰からのメッセージなのかはすぐに分かったから。慎也は片手でスマホを操作しながら、もう片方の手でそれらを受け取ると、彼女に視線を向けることなく離婚協議書と一緒に離婚届にもサインしてしまったのだった。そしてサインをし終えると、澪は彼の力強い筆跡を見つめ、静かに口を開いた。「離婚の手続きは成立したら、九条家を出ていくね」でも慎也の意識は、完全に美羽とのラインのやり取りに集中していて、
結婚3周年の記念日、九条澪(くじょう みお)は夫の九条慎也(くじょう しんや)への贈り物として、離婚届を用意した。澪は、誰もいない向かい側の席に目をやり、弁護士の岡本翔太(おかもと しょうた)に電話をかけた。「岡本先生、離婚協議書の準備はできましたか?」この時、澪は一人ダイニングテーブルに座っていた。揺れるキャンドルの炎が彼女の横顔を照らし、表情をぼんやりさせていた。彼女は離婚がスムーズに進められるよう弁護士に頼んで「離婚協議書」を用意させていたのだ。「はい、もう準備はできていますので、レターパックで送りました」そう言って翔太は少しためらった後、戸惑ったように尋ねた。「ですが…
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