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花嫁すり替え、それでも春は来る

花嫁すり替え、それでも春は来る

By:  チビッコCompleted
Language: Japanese
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結婚式前夜、独身最後の夜のことだった。親友の小林知華(こばやし ともか)が、突然こんなことを言い出した。 「ねえ、コスプレごっこしない?」 ルールはシンプルだった。女子は新郎がいちばん好きな姿を、男子は新婦がいちばん好きな姿をそれぞれ再現する。 天城未知瑠(あまぎ みちる)と榊原和智(さかきばら かずとも)は学生時代から交際を始め、いよいよ結婚という節目を迎えようとしている。これまで何年も一緒に過ごしてきた。 和智をあっと言わせたくて、未知瑠はこっそり高校時代の制服を用意した。 けれど個室に着いたとき、和智はすでにすっかり酔い潰れていた。 ソファにひとりもたれかかり、目の前には空き缶がいくつも置かれている。 未知瑠は弾む足取りで近づき、身をかがめて笑顔で声をかけようとした。その瞬間、薄く目を開けた和智が、不意に未知瑠を引き寄せた。 和智は腕に力を込め、未知瑠の肩を強く抱きしめた。掠れた声で、穂月の名を繰り返し呼んだ。 「穂月……やっと来てくれた。 今夜だけ、そばにいてくれないか。来週式を挙げたら、もう二度と、こうして抱きしめることも、口づけることもできなくなるから!」 未知瑠の顔に浮かんでいた笑みが、そのまま凍りついた。 天城穂月(あまぎ ほづき)。それは、自分の姉の名前だった。

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Chapter 1

第1話

体が凍りついたように動かない。なのに和智は、慣れた様子で顔を寄せ、唇を重ねてきた。まるでこの触れ合いを、これまで何百回と繰り返してきたかのように。

込み上げる嫌悪感が全身を駆け巡る。

未知瑠は渾身の力で彼の腕を振りほどき、テーブルの上の冷えた酒の入ったグラスをつかむと、和智の顔面めがけて浴びせかけた。

そこへ、知華が足早に歩み寄ってきた。

「もういい加減にしてよ、未知瑠。まだ気づいてないの?和智がずっと好きだったのは、あんたのお姉ちゃんの穂月だよ」

未知瑠はその場に凍りついたまま、ゆっくりと辺りを見回した。

そこにいる女子たちは皆、姉の穂月が普段よく着ている服装や色合いを真似ていた。

息が震える。信じられない思いで、苦楽を共にしてきたはずの親友を見つめた。

「……どういうこと?」

知華の表情は平然としていた。スマホのアルバムを開くと、画面を未知瑠の目の前に突きつけてきた。

「高校の卒業旅行のとき、あんたにわざと嘘ついたでしょ。チケットが取れなかったって。本当は和智と穂月にふたりきりの時間を作ってあげたかったの。なのにあんた、空気を読まずに自分でチケット買って、無理やりついてきた」

未知瑠の頭の中で、ガンと音がしたような衝撃が走った。

あのとき未知瑠は、自腹でチケットを買い、喜んで駆けつけたのだった。到着したあと、妙に重苦しい空気が流れていた。皆で談笑していたのに、自分が近づいたときだけ、誰もが表情を強張らせ、言いようのない気まずさが漂っていた。

あれは、姉と和智だけの世界に、自分が土足で踏み込んでいたということだったのか。

知華は未知瑠の血の気の引いた顔など気にも留めず、話を続けた。

「大学時代、就活していたときもね、みんなで裏で相談してた。あんたを地方に送り出そうって。そうすればふたりが自然に一緒になれるから。なのにあんた、私のパソコンに残ってた地元の求人資料を勝手に見て、自ら応募してここに残ったじゃない。

そのあと家を買う話になったときも、遠回しに郊外エリアを勧めたのに。よりによって都心のあの物件を選んで。和智の近くにね」

未知瑠は手を伸ばし、乱暴に知華のスマホを伏せさせた。

涙はとっくに限界まで溢れそうになっていたが、必死に堪えて零れ落ちないようにした。目を赤くしたまま、震える声で口を開く。

「……なんで。この何年もの間、いくらでも正直に話すチャンスがあったじゃない……

私が自分から身を引けばそれで済んだのに。どうしてこんなやり方で、何度も何度も私を騙し続けたの?」

知華は静かに未知瑠を見つめた。

「穂月は、あんたのためを思って、それに和智への未練を完全に断ち切るために、焦って結婚したんだよ。

でも結婚してからDVに遭って、結局離婚するしかなかった。もしまた妹の彼氏と関係を続けたりしたら、世間の風当たりが穂月を追い詰めちゃう。

あんたが和智と無事に結婚すれば、この先穂月が和智と関わっても、誰にも後ろ指をさされない。これは、穂月を守るためでもあるの」

未知瑠は唇を歪め、自嘲気味な笑いを漏らした。

長らく心待ちにしていたこの結婚は、最初から最後まで、あのふたりの秘め事を覆い隠すための隠れ蓑に過ぎなかったというわけだ。

ソファで泥酔して眠り込んでいる和智は、今もまだ、切れ切れに穂月の名前を呟き続けている。

個室が水を打ったように静まり返った、そのとき。ローテーブルに置かれた和智のスマホが、通知音を響かせた。

未知瑠はそれを手に取った。母からのメッセージだった。

【和智くん、安心してね。穂月も了承してくれたわ。結婚式当日は、未知瑠を家に閉じ込めておくから。穂月が代わりに式を挙げれば、あなたたちの叶えられなかった願いも、これで一応形になるでしょう】

全身から、力という力が一気に抜け落ちていった。

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松坂 美枝
松坂 美枝
毒親がしつこかったわ クズ男もしつこかったがえぇ~な散りざまで複雑な気持ち 主人公の復讐は華麗だった 穏やかに暮らせるようになって良かった
2026-10-01 09:45:47
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15 Chapters
第1話
体が凍りついたように動かない。なのに和智は、慣れた様子で顔を寄せ、唇を重ねてきた。まるでこの触れ合いを、これまで何百回と繰り返してきたかのように。込み上げる嫌悪感が全身を駆け巡る。未知瑠は渾身の力で彼の腕を振りほどき、テーブルの上の冷えた酒の入ったグラスをつかむと、和智の顔面めがけて浴びせかけた。そこへ、知華が足早に歩み寄ってきた。「もういい加減にしてよ、未知瑠。まだ気づいてないの?和智がずっと好きだったのは、あんたのお姉ちゃんの穂月だよ」未知瑠はその場に凍りついたまま、ゆっくりと辺りを見回した。そこにいる女子たちは皆、姉の穂月が普段よく着ている服装や色合いを真似ていた。息が震える。信じられない思いで、苦楽を共にしてきたはずの親友を見つめた。「……どういうこと?」知華の表情は平然としていた。スマホのアルバムを開くと、画面を未知瑠の目の前に突きつけてきた。「高校の卒業旅行のとき、あんたにわざと嘘ついたでしょ。チケットが取れなかったって。本当は和智と穂月にふたりきりの時間を作ってあげたかったの。なのにあんた、空気を読まずに自分でチケット買って、無理やりついてきた」未知瑠の頭の中で、ガンと音がしたような衝撃が走った。あのとき未知瑠は、自腹でチケットを買い、喜んで駆けつけたのだった。到着したあと、妙に重苦しい空気が流れていた。皆で談笑していたのに、自分が近づいたときだけ、誰もが表情を強張らせ、言いようのない気まずさが漂っていた。あれは、姉と和智だけの世界に、自分が土足で踏み込んでいたということだったのか。知華は未知瑠の血の気の引いた顔など気にも留めず、話を続けた。「大学時代、就活していたときもね、みんなで裏で相談してた。あんたを地方に送り出そうって。そうすればふたりが自然に一緒になれるから。なのにあんた、私のパソコンに残ってた地元の求人資料を勝手に見て、自ら応募してここに残ったじゃない。そのあと家を買う話になったときも、遠回しに郊外エリアを勧めたのに。よりによって都心のあの物件を選んで。和智の近くにね」未知瑠は手を伸ばし、乱暴に知華のスマホを伏せさせた。涙はとっくに限界まで溢れそうになっていたが、必死に堪えて零れ落ちないようにした。目を赤くしたまま、震える声で口を開く。「……なんで。この何年もの間、
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第2話
魂が抜けたように、未知瑠はふらふらと立ち上がり、騒がしい個室を出た。背後から知華の声が追いかけてくる。「送ろうか?」未知瑠が首を横に振って断ろうとした、その矢先だった。知華は聞く耳も持たず、まるで当然のように話を続けた。「まあいいよ。私、今から穂月呼びに行くから。和智ってね、今夜はもう、頭の中は穂月のことでいっぱいでしょ。式の前くらい、ふたりを好きにさせてあげてもいいでしょ?あんたも気にしないよね?」未知瑠の返事など待たず、知華はくるりと踵を返し、個室へ戻っていった。深夜の街を、未知瑠はひとり歩いた。遅れて押し寄せてきた悲しみと痛みに、未知瑠は何度もえずいた。高校時代、大雨の日の下校時。皆が帰ったあとも、和智だけが大きな傘を差して校舎の入り口に立ち、まるまる30分も彼女を待っていてくれた。真っ先に傘を未知瑠の方へ傾け、そっと鞄を受け取ってくれた。大学の頃、高熱にうなされた夜。街じゅうの薬局を何軒も駆け回り、彼女の部屋の前でずっと待っていてくれたのも和智だった。就活につまずいて、道端でうずくまり泣き崩れたときも。彼は優しく未知瑠を抱きしめて、「俺がいる。俺はいつでもお前の逃げ場だから」と言ってくれた。社会人1年目の誕生日には、手作りのケーキを用意して、「これから毎年、一緒に祝おう」と約束してくれた。何年も寄り添ってくれた、そのすべてが演技だったなんて。あまりにもリアルで、あまりにも完璧で、長い間ずっと、自分を欺き続けていた。涙がついに堪えきれず落ち、手の甲に当たって弾ける。凍えるほど冷たかった。未知瑠は魂が抜けたまま前へ歩き続け、頭の中は真っ白だった。眩しいヘッドライトが視界を照らし、耳を突き刺すようなブレーキ音が響いて、ようやく我に返った。車の窓が下り、運転手が顔を出して怒鳴りつけてくる。彼女は呆然としたまま、反射的に数歩後ずさった。顔を上げた瞬間、心臓がずんと沈んだ。目の前にあったのは、荷台を透明なカバーで覆ったトラックだった。その中には、真新しい限定モデルのスポーツカーが収められていた。透明なケースの外側には、金文字で大きくこう書かれていた。【穂月、27歳の誕生日おめでとう。お父さんとお母さんは、あなたがずっと健康で幸せでいることを願っています】その眩しさに、目を背けたく
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第3話
翌朝目覚めると、スマホの上部に未読メッセージが2件、静かに並んでいた。和智から、明け方に届いたものだった。【愛してる】【長い年月がかかったけど、俺たちついに結ばれたな】その2行を、未知瑠はじっと見つめた。明け方の熱っぽい愛の言葉なんて、大方、穂月と睦み合ったあとの高揚感のまま、気休め程度に未知瑠へ送ってきただけなのだろう。ふたりが同じベッドで肌を重ね、睦み合う光景を思い浮かべると、胃の中がひっくり返るような吐き気が喉元まで込み上げてきた。彼女は無表情のままトーク画面を閉じ、寝室を出た。寝室のドアを開けた瞬間、リビングのソファに座る和智の姿が目に入った。彼はすぐに彼女の手のひらの傷に気づき、立ち上がって早足で歩み寄ってきた。「その手、どうしたんだ?」彼は未知瑠の傷ついた手首をそっと握り、申し訳なさそうな声で言う。「昨日は飲みすぎて、色々よく覚えてないんだ。悪かった。結婚したら、もう二度とこんなことしないから」未知瑠はわずかに口元を歪めたまま、彼が薬を取り出し、身をかがめて手のひらの傷を手当てするのを、されるがままにしていた。穂月はソファに静かに腰かけたまま、ふたりの触れ合う手にじっと視線を注いでいた。その瞳の奥には、拭いきれない寂しさが揺れていた。母はそんな穂月の様子を見ていられなかったのか、慌てて話題を変えた。「はいはい、ただの小さな怪我でしょう。未知瑠は昔からおっちょこちょいなんだから。和智くん、今日の試着と前撮りの流れ、もう分かってるわよね?」和智の手が、薬を塗る途中でふと止まった。顔を横に向けて、曖昧に返事をする。未知瑠は手を引き抜き、うつむいて、自分の手のひらに残る、半分だけ薬を塗られた傷を見つめた。乾いた笑みをこぼしただけで、それ以上何も言わず、立ち上がって洗面所へ向かった。身支度を整えると、そのまま玄関を出た。和智の車が門の前に停まっていた。彼女はためらいなく後部座席のドアを開け、身をかがめて乗り込んだ。バックミラー越しに未知瑠を見た和智が、意外そうに片眉を上げた。「昔はいつも穂月と助手席取り合ってたのに、今日は随分と素直なんだな」未知瑠は何も答えなかった。昔は毎回、彼女が嬉々として助手席のドアを開けようとすると、和智は決まって理由をつけて姉をそちらに座らせた。
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第4話
スマホが震えた。不動産仲介からのメッセージだった。【天城様、売却に出されたお部屋、お客様が立地とリフォームをとても気に入っています。一応確認させてください。本当に急いで手放すおつもりですか?こちらは新居だと伺いましたが、こんなに綺麗にリフォームされたのに、もったいないですよ】未知瑠は感情を交えず、短い返信を送った。【ええ、売ります】仲介からすぐに返信が来た。【ではその後の手続きはこちらで進めさせていただきますね。内覧はいつから可能となりますか?】【明後日。お客様をお連れして、直接向かっていただいて構いません】送信ボタンを押すと同時に、彼女は抗アレルギー薬を2錠、口に放り込んだ。このマンションは、未知瑠が一から心を込めて整えた新居だった。けれどもう、その必要はなくなった。タクシーでマンションに乗り付け、暗証番号を押して中に入る。ドアを開けた瞬間、思わず眉をひそめた。リビングのソファには、穂月の服が無造作に散らばっている。吟味して特注し、靴箱の上に綺麗に並べておいたペアのルームシューズは、リビングのラグの端へと無造作に蹴り飛ばされていた。ローテーブルには穂月の好む菓子が散乱し、ベランダには彼女の下着が干され、浴室にはスキンケア用品が並んでいる。未知瑠は靴を脱ぎ、冷たいフローリングをゆっくりと歩きながら、部屋を見渡した。心の底が、しんと冷え切っていくのが分かった。家の防犯カメラの管理画面を開き、この1か月分の映像を呼び出す。週末のたびに、そして残業だと言っていた夜のたびに、和智は決まって穂月を伴い、この部屋へ帰ってきていた。ふたりで料理をし、ソファに寄り添って映画を観て、肩を並べて新居の飾り付けをする。その仲睦まじい様子は、まるで本物の新婚夫婦そのものだった。なるほど。彼の言う「忙しい」とは、ここに身を潜め、姉とふたりきりで過ごすことだったのか。未知瑠は無表情のまま、すべての映像データをコピーして保存し、それから黙々と、自分以外の痕跡を片付け始めた。午後。玄関口から、電子錠の解錠音が鳴り響いた。片付けの手を止め、ドアを開ける。和智、穂月、知華、それに長年付き合いのある共通の友人たちが、廊下いっぱいに立っていた。裸足で部屋の中に立つ未知瑠を見て、全員が一斉に固まった。顔に浮かんで
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第5話
余興の練習をひとしきり終えた一同は、食事に行く店を相談し始めた。マンションの下まで降りたところで、穂月がふと足を止め、服の裾をきゅっと握った。「しまった、ブレスレット、リビングのテーブルに忘れてきちゃった。大事なものなのに」和智が上階の窓を振り返り、それから未知瑠に目を向けた。「未知瑠、悪いけど、取ってきてくれないか。穂月は暗証番号を知らないし、お前の家だから、その方がいいだろ」未知瑠はその場に立ち止まったまま、彼を一瞥した。分かっていた。自分が上に行っているわずかな時間で、ふたりは抱き合うのかもしれない。式の前の慰めの言葉を交わすのかもしれない。あるいは、彼女が聞いてはいけない約束を交わすのかもしれない。けれど未知瑠は何も言わず、ただ小さく頷いた。ちょうど自分も、新居全体の写真を何枚か撮って仲介に送るつもりだったからだ。未知瑠は踵を返し、エレベーターで上階へ戻った。暗証番号を押した直後。背後から凄まじい力で腕を掴まれ、体ごと壁に叩きつけられた。ドンッ、という鈍い衝撃音とともに、目の前に火花が散ったように視界が白く飛んだ。「このクソ女が!」我に返る間もなく、頬に平手が飛んできた。頭が大きく傾ぎ、口の中に生臭い血の味が広がる。「離婚した途端に次の男を作りやがって。俺の目を盗んで浮気しやがって、恥知らずにも程があるだろうが!」そこでようやく、目の前の男の顔が見えた。血走った目、酒の匂いをまとわせた男。穂月の元夫だ。あの、日常的に暴力を振るっていたという男だった。未知瑠はやっとの思いで身を起こし、口の中に鉄の味を感じながら、締めつけられた喉から声を絞り出した。「人違いです……私は、穂月じゃないっ」男は一瞬呆けたが、すぐに彼女の首を掴んで壁に押しつけ、歯を食いしばりながら唸った。「まだ俺を騙す気か?お前が2日前、自分でうっかり漏らしたんだろうが。今夜このマンションに来るってな。じゃなきゃこの俺が、待ち伏せなんてできるわけないんだよ!」締めつけられ息もできないまま、未知瑠は爪を男の手の甲に食い込ませた。男は痛みに手を離すと、すぐさま反対の手で再び平手を打ちつけてきた。体ごと吹き飛ばされ、床に倒れ込む。後頭部がテーブルの角にぶつかり、そこから生温かい血がじわりと滲み出し、首筋を伝った。男
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第6話
答えは返ってこなかった。未知瑠はそのまま救急隊員によって救急車へ運び込まれた。しばらくして、両親が慌ただしく病院に駆けつけてきた。ふたりはベッドの脇まで駆け寄り、その目には一瞬、痛ましげな色がよぎった。けれど次の瞬間、母は胸を撫で下ろしながら怯えたようにため息をつき、涙まで浮かべて言った。「ケガしたのがあなたでよかった……穂月じゃなくて、本当によかったわ!彼女は体が弱いのに、こんな殴られ方や刃物沙汰、どうやって耐えられるっていうの!」父も横で頷き、心底気の毒そうな顔をした。「そうだな、穂月が前の結婚生活でどれだけ苦労してきたか、考えるだけで胸が痛む。あの子の人生は本当に大変だったんだから」隣で処置をしていた看護師が、さすがに聞き捨てならなかったのか、手を止めて口を挟んだ。声には隠しきれない怒りが滲んでいた。「お母さん、今ベッドに横たわって全身傷だらけで、命の危険まであったのは下のお嬢さんの方ですよ。それなのに、上のお嬢さんじゃなくてよかったなんて、よく言えますね」母はその場で固まり、気まずそうな表情を浮かべた。その負い目とやらを埋め合わせるつもりなのか、母は自ら申し出て、未知瑠の入院中の一週間、毎日食事を差し入れると言い出した。けれど丸一週間、届けられた食事はすべて穂月の好みの味付けばかりで、未知瑠が食べられるものはひとつもなかった。食事のたびに母は病室に居座り、隣に座る穂月に優しくおかずを取り分けながら、そっと慰めていた。「穂月、あなたが気に病むことじゃないのよ」一週間の療養を終え、未知瑠は退院して家に戻った。結婚式当日。母が湯気の立つお吸い物の椀を持って、未知瑠の部屋に入ってきた。三つ葉と麩の入った、やさしい味のお吸い物。未知瑠が子供の頃からずっと好きだったものだ。母がわざわざこれを作ってくれるのは、一年に一度あるかないかの、ごく稀なことだった。椀を差し出しながら、母は優しい声で言った。「未知瑠、これ飲みなさい。飲み終わったら、今日は笑顔でお嫁に行くのよ。これからは新しい家庭を築いていくんだから」未知瑠はためらうことなく椀を口元へ運び、最後の一口まで飲み干した。飲み終えるのを見届けると、両親は目を見交わし、揃ってそっと安堵の息を吐いた。数分後、彼女は睡眠薬が効いてきたふりをし
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第7話
仲介業者は体を横にずらし、背後にいる客へ手で「どうぞ」と促した。和智は立ちすくみ、反射的に手を伸ばして相手を制止した。「待ってください。あなたたちは?ここは俺の新居なんですが」仲介業者は彼を一瞥すると、背後に控えるこれから一緒に式場へ行く面々と、ウェディングドレスを抱える穂月に視線を巡らせた。愛想笑いを浮かべて言った。「お客様、こちらの物件は本日、決済と引き渡しが完了しております。現在は当方のお客様がお引き渡しを受けた物件ですので、玄関先を塞がないでいただけますか」和智の顔がこわばった。「引き渡し……?」仲介業者は鞄から書類を取り出し、該当のページを開いて差し出した。「天城未知瑠様との売買契約に基づき、本日、決済と引き渡しが完了しております。皆様はいったい……」彼は和智と後ろに控える一団をちらりと見て、探るように言葉を続けた。「もしかして、場所をお間違えではないですか?天城様からは、結婚の話は白紙になったと伺っておりますが」和智は書類に記された未知瑠のサインを見つめたまま、全身を強張らせた。背後の群衆がざわめき始める。友人たちは顔を見合わせ、何人かが寄ってきて、書類を覗き込む。穂月がドレスを抱えながら進み出た。「未知瑠ったら、きっと機嫌を損ねて拗ねてるだけよ」すかさず母が同調し、顔を強張らせて仲介業者に食ってかかった。「あなた、グルになって芝居を打ってるんでしょう!家を売るなんてひと言も聞いてないわよ!まったく、どこまで手のかかる子なの!」仲介業者は眉をひそめ、もう説明する気も失せたのか、手元の契約書と決済・引き渡しに関する書類を無言で示した。「奥様、売買の決済と引き渡しはすでに完了しております。うちのお客様の自宅前で騒ぐのはやめていただけますか」母は口を開きかけたが、言葉に詰まった。仲介業者はそれ以上取り合わず、客に軽く頷いてから体をずらして中へ入り、そのままドアを閉めた。無情な金属音とともに、全員が玄関の外へと締め出された。廊下がしばし静まり返る。和智はその場に立ち尽くしたまま、頭の中で先ほどの言葉が何度も繰り返されていた。「天城未知瑠様との売買契約に基づき、本日、決済と引き渡しが完了しております……」売った?いったいいつの間に?つい数日前、ドレスの試着に
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第8話
和智の顔から、みるみる血の気が失せていった。1本目の動画。新居で、和智のシャツを羽織った穂月が彼の胸元にすり寄り、彼が身をかがめて彼女の髪にキスをしている場面。続いて、音声データがひとつ。再生すると、自分自身の声が流れてきた。「結婚したらちゃんと埋め合わせするから。彼女への説明は俺がなんとかする。あいつは優しいから、きっと許してくれる」続けて、未知瑠の母の声。「早く、穂月、急いでドレスに着替えて。時間が迫ってるわ」そして、どこか落ち着かない様子の穂月の声。「でも……もし未知瑠が目を覚まして、私が代わりに行ったって気づいたら」和智の指先が、ぐっと強張った。彼はゆっくりと顔を上げ、穂月の方へ視線を向けた。周囲のざわめきは、もう収まりそうになかった。最初に動いたのは撮影スタッフだった。たまたまみんなと一緒に同行してきた彼は半歩下がり、隣のアシスタントと顔を見合わせると、そっとカメラを下ろした。「榊原さん、申し訳ありません。こちらは式場から、おふたりの結婚式を撮影するよう伺っておりますので、このまま撮影を続けていいのか、こちらだけでは判断できません」そう言うと、撮影スタッフは近くにいた式場スタッフへ視線を向けた。「一度、責任者の方に確認していただけますか。この状況をそのまま撮影するのは、さすがに難しいです」式場スタッフも険しい表情で頷き、すぐに責任者へ連絡を入れた。撮影スタッフは機材を下ろしながら、もう一度だけ和智の方を見る。「こちらは、純愛を貫いたおふたりの結婚式だと伺っていました。それが当日になって、こんなことになるとは聞いていませんでしたので……」隣にいたアシスタントも、さすがに呆れた様子で小さく呟いた。「……これは、ちょっとひどすぎますね」撮影スタッフたちは、振り返りもせず去っていった。事情を知らない親族や友人たちは駐車場に集まり、互いに顔を見合わせた。スマホを取り出してグループトークのメッセージを追う者、集まって小声で囁き合う者。ひそひそ話がどんどん大きくなっていく。「どういうこと?今日の結婚式の主役って未知瑠じゃないの?」「道理でさっき新居が売れてたわけだ。あれ、知ってて売ったんだろうな」「姉が妹の彼氏を奪った?しかも妹の家から花嫁として送り出すつもりだった?
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第9話
穂月の顔面から完全に血の気が失せ、その唇は小刻みに震えていた。和智ははっと彼女の方を振り向いた。これまで見過ごしていた細部の数々が、今この瞬間、冷たい刃のように脳裏に突き刺さった。和智は一歩前へ踏み出し、絞り出すような声で問い詰めた。「道理で……あの日、みんなで下に降りたのに、お前だけが忘れ物したって言い出したんだな。俺が未知瑠に取りに行かせるって、最初から計算してたのか?」穂月は一歩後ずさり、涙がぶわっと溢れ出した。「違う、私はそんな……!」未知瑠の母は隣で穂月を見つめながら、最初の狼狽の色が、次第に信じられないという表情へと変わっていった。穂月をじっと見据える。まるで初めて娘の素顔を見たかのように、唇を震わせたかと思うと、突然声を張り上げた。「穂月、まさか……離婚したあとも、あの人と連絡取ってたの!?」穂月の体が、びくりと強張った。「あなたの気が済むようにって、私たちがどれだけあなたに合わせてきたと思ってるの!あなたが言うことなら何でも聞いてきたのよ!」母の声が激しく震えていた。「ドレスを替えたいって言えば替えたし、新居に住みたいって言えば住まわせた。辛い思いをしてるって言うから、結婚式さえあなたに譲ろうとしたのよ!それなのに、あなたって子は……どこまで欲張れば気が済むの!」穂月は突然、狂ったように首を振り始めた。大粒の涙をこぼしながら、金切り声を上げる。「違う!未知瑠が手にしたものは、本当なら全部私のものになるはずだったの!あの子の人生だって、本来なら私のものだったはずなのに!」直後、母の平手が力任せに穂月の頬を打ち据えた。パンッ。穂月はよろめき、頬を押さえながら信じられないという顔で母を見つめた。母の手も声も、激しく震えていた。「あなたがどうしてもって言って、あんなクズと結婚したんでしょう。お父さんとふたりでどれだけ止めても聞かなかった。あの人はお金があるからって、いい暮らしがしたいって。あなた、あの男の財産目当てで結婚したんじゃないの?違うって言えるの?」穂月の顔から、瞬時に色が抜け落ちた。母の声がさらに冷たくなる。「それどころか、離婚したあとも同情を引くために、私たちに口裏を合わせさせて、『未知瑠と和智くんのために、私が身を引いて急いで結婚した』なんて嘘までつかせて!
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第10話
箱のいちばん上には、1枚の写真が置かれていた。写真の縁はわずかに黄ばんでいた。高校時代に撮ったものだった。写真の中の和智は制服を着て、風に髪を乱されながら、校庭の隅の木の下に立っている。未知瑠はその隣で、ポニーテールを揺らし、制服のカーディガンを腰に巻いたまま彼を見上げ、目を三日月のように細めて楽しそうに笑っている。ふたりとも、幼さの残る笑顔だった。和智の指先が、そっと写真の表面に触れ、未知瑠の輪郭をなぞった。17歳の彼女。よく笑い、よく喋り、鞄の中にはいつも、和智がこっそり入れてくれたキャラメルが入っていた。写真を裏返すと、そこには未知瑠の字で、一文字ずつ丁寧に書かれた一文があった。【和智へ。好きです】和智の胸が、ぎゅっと締めつけられた。さらにその下を探る。写真の下にあったのは、黄ばんだ映画の半券。半券の横には、未知瑠の字でこう記された付箋が貼られていた。【初めて一緒に映画を観たとき、映画館でこっそり手を握ってきたよね。これからはこの手、あなたに預けるね】さらにその下には、くしゃくしゃになったメモ用紙。メモの下には、色褪せた不格好な手編みのミサンガが挟まれていた。高3の年、部活で手首を捻挫した彼のために、未知瑠が見よう見まねで、ふた晩かけて編んでくれたお守り。不格好で、彼女自身も「これつけてたら早く治るよ」と笑っていた。彼はそれを不細工だと文句を言いながらも、紐が切れるまでずっとつけ続けていた。未知瑠が、それをまだ取っておいていたなんて、知らなかった。ミサンガの隣には、1枚のポラロイド。残業を終えた彼が、街を半分横切るほどの距離をわざわざ迎えに来てくれた夜、タクシーの後部座席で彼の肩にもたれて眠りこける未知瑠。写真の裏にはこう書かれていた。【腕が痺れても起こさずにいてくれた。この人と結婚したい】さらにめくると、いちばん下に封筒がひとつ、押さえるように置かれていた。1枚目の便箋、冒頭にはこうあった。【和智へ。これを読んでいるということは、私はもう、ウェディングドレスを着てあなたの前に立っているはずだよね】彼は勢いよくページをめくった。【17歳から今日まで、もう9年。私たちってずっと運がいいなって思ってた。学生時代の制服からウェディングドレスまで、初恋の人と一緒に歩いてこら
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