LOGIN結婚式前夜、独身最後の夜のことだった。親友の小林知華(こばやし ともか)が、突然こんなことを言い出した。 「ねえ、コスプレごっこしない?」 ルールはシンプルだった。女子は新郎がいちばん好きな姿を、男子は新婦がいちばん好きな姿をそれぞれ再現する。 天城未知瑠(あまぎ みちる)と榊原和智(さかきばら かずとも)は学生時代から交際を始め、いよいよ結婚という節目を迎えようとしている。これまで何年も一緒に過ごしてきた。 和智をあっと言わせたくて、未知瑠はこっそり高校時代の制服を用意した。 けれど個室に着いたとき、和智はすでにすっかり酔い潰れていた。 ソファにひとりもたれかかり、目の前には空き缶がいくつも置かれている。 未知瑠は弾む足取りで近づき、身をかがめて笑顔で声をかけようとした。その瞬間、薄く目を開けた和智が、不意に未知瑠を引き寄せた。 和智は腕に力を込め、未知瑠の肩を強く抱きしめた。掠れた声で、穂月の名を繰り返し呼んだ。 「穂月……やっと来てくれた。 今夜だけ、そばにいてくれないか。来週式を挙げたら、もう二度と、こうして抱きしめることも、口づけることもできなくなるから!」 未知瑠の顔に浮かんでいた笑みが、そのまま凍りついた。 天城穂月(あまぎ ほづき)。それは、自分の姉の名前だった。
View More未知瑠が残業を終えて帰宅すると、史哉がキッチンで夕食の麺を茹でていた。ベランダの鉢植えは瑞々しく育ち、ミントは青々とした新芽を伸ばし、ポトスの蔓は床に触れそうなほど豊かに垂れ下がっている。未知瑠がスリッパに履き替え、鞄を玄関の棚に置くと、史哉がキッチンから顔を覗かせた。「麺、食べる?」「うん」ふたりはダイニングテーブルに向かい合って座った。それぞれの器には、目玉焼きが乗った温かいスープ麺が湯気を立てている。史哉はひと口食べてから口を開いた。「今日、会社に誰か来てたよ」「誰?」「小林知華って人」史哉が言った。「受付で2時間も粘って、君に会いたいって言ってたらしい。受付の人がどうしますかって電話してきたから、僕の独断で、会わないって伝えて帰ってもらったよ」未知瑠は麺をすする箸を、ほんの一瞬だけ止めた。「そう」「今までのこと、自分が間違ってたって言ってたみたいだよ」未知瑠は何も答えず、ただ静かに麺を食べ続けた。史哉も、それ以上過去を穿り返すような真似はしなかった。食後、食器をキッチンに下げる史哉の後ろ姿を、未知瑠はリビングから静かに眺めていた。蛇口から勢いよく水が流れる音が響く。史哉はシャツの袖を肘までまくり上げ、慣れた手つきで食器を洗っていた。その穏やかな日常の風景に、未知瑠の口元に自然と柔らかな微笑みが浮かんだ。新しい街での仕事は、順調そのものだった。未知瑠が率いるチームは2年連続で社内の優秀部門賞を受賞し、取引先から3度もヘッドハンティングの誘いを受けたが、彼女はすべて丁重に断った。ある日、エレベーターで社長に鉢合わせたとき、社長は同乗していた社員たちの前で朗らかに言った。「天城さん、来年はもう一つ上のポストを目指してもいいんじゃないか」彼女は小さく頷いただけで、何も言わなかった。週末になると、ふたりで揃って近所のスーパーへ買い出しに出かける。史哉が野菜の鮮度を吟味する傍らで、未知瑠は果物売り場でみかんを選んでいた。両親からは、3度だけ連絡があった。1度目は父が人づてに、母の容体が芳しくないと伝えてきた。未知瑠は無言でまとまったお金を振り込み、メッセージに【治療費の足しに】とだけ添えた。2度目は母自身からの着信だった。未知瑠はためらいつつも電話に出た。通話口の向こうで重い
一方、和智が職場に戻ると、オフィスに入った瞬間に空気が異様なことに気づいた。給湯室にいた同僚たちは彼を見るなりそそくさと散っていき、隣の席の人間は彼が通るとき、無意識に椅子を引いて距離を置いた。上司に呼び出され、明言こそされなかったものの、言葉の端々には、しばらく休んだ方がいいという含みがあった。いつからか、和智はアルコールに頼らなければ眠れなくなっていた。その夜、彼はいつも以上に深く酒に溺れた。泥酔して朦朧とする意識の中、玄関のドアが開き、誰かが入ってくる幻覚を見た。低い位置でまとめたポニーテール、薄いグレーのコート、フラットシューズ。未知瑠だ。昔、残業終わりに迎えに来てくれたときと、まったく同じ出で立ちだった。和智は椅子から弾かれたように立ち上がり、グラスが床に転がって砕けた。彼はドアの方へよろめきながら駆け寄り、両腕を広げた。「未知瑠!」だが、その腕が抱きしめたのは、冷たい空気だけだった。その夜、和智は救急車で病院へ運ばれた。意識が朦朧とする中で、彼は夢を見た。夢の中で未知瑠は、出会った日と同じ白いワンピースを着て彼の前に立ち、微笑みながら手を差し伸べていた。彼は笑みを浮かべたまま目を覚ました。だが、重い瞼を開けると、そこには無機質な天井があるだけだった。病室はがらんとしていた。彼は点滴の刺さっていない方の手で顔を覆った。口元に浮かんでいた笑みの名残が、ゆっくりと消え失せ、痛切な後悔に歪んでいく。サイドテーブルに置かれたスマホが不意に震えた。画面を見ると、見知らぬ番号から1枚の写真だけが届いていた。未知瑠の隣にひとりの男が立っている。ふたりの間には半歩ほどの距離があり、近すぎず遠すぎずといったところだった。和智は狂ったように体を起こすと、手の甲に刺さった点滴の針を無理やり抜き、スマホを握りしめたまま病院を飛び出した。未知瑠の住むマンションに着いたときには、すでに夕闇が空を覆い始めていた。エントランスで警備員に呼び止められ、声を荒らげようとした瞬間、視界の端に、外から戻ってくる未知瑠と秋山史哉(あきやま ふみや)の姿が映った。和智の頭の中で、理性の糸がプツンと切れる音がした。彼は獣のように駆け寄り、史哉を激しく突き飛ばした。史哉はよろめき、手にしていた買い物の紙袋が地面に落ち
飛行機を降りると、未知瑠はそのままタクシーで病院へ向かった。廊下の奥から消毒液の匂いが漂ってくる。病室番号を確認し、ドアの前で一瞬足を止めてから、静かに押し開けて中へ入った。母はベッドに横たわっていた。顔色は土気色で、唇には血の気がなく、腕には点滴の針が刺さっている。未知瑠の姿を見た瞬間、母の目にぱっと光が宿った。ベッドの縁に手をつき、身を起こそうとしながら、もう片方の手を震わせつつ伸ばしてくる。「……っ。未知瑠、来てくれたのね」未知瑠は入り口に立ったまま、その伸ばされた手を見つめ、近寄るどころか反射的に少し後ずさった。母の手は宙で止まったまま、顔の笑みがみるみるうちに凍りついていった。父が傍らで眉をひそめ、何か言おうと口を開きかけたが、母がそれを手で制した。声は弱々しいながらも、どこか焦りを帯びていた。「未知瑠を責めないで……久しぶりね。ずいぶん痩せたじゃない。ひとりであっちで、ちゃんとご飯食べてるの?住むところはどう?」「もういい」未知瑠は母の言葉を遮った。声はひどく冷たく、平坦だった。「どうして急に、そんなに心配するふりをするの?昔、少しでも私のことを気にかけてくれたことがあった?」母の顔から、さーっと血の気が引いていく。父が勢いよく立ち上がり、未知瑠の頬めがけて手を振り上げた。「お母さんに向かって、なんて口の利き方だ!」「やめて!」母が力を振り絞って父の手首を掴んだ。「この子をぶたないで」父の手は宙で止まり、未知瑠をきつく睨みつけたものの、結局下ろされた。未知瑠はその一部始終を冷ややかに見つめながら、自嘲気味に口の端を上げた。「小学生の頃、お姉ちゃんがピアノを習いたいって言ったら、ふたつ返事でピアノを買って、いちばんいい先生をつけたよね。私も習いたいって言ったら、うちにはお金がないから、勉強だけ頑張ればいいって言われた。中学のとき、お姉ちゃんが鞄が古くなったって言ったら、その日のうちにブランド物の新品を買いに連れて行ったよね。私の鞄は3年間ずっと使い続けて、底が擦り切れてた。買い替えたいって言ったら、まだ使えるから繕って使いなさいって言われた。高校のとき、お姉ちゃんが卒業旅行に行きたいって言ったら、10万円も渡したよね。私も行きたいって言ったら、そんな余裕はないから、夏休
未知瑠は、掴まれた手首に視線を落とし、眉をひそめて手を引き抜いた。「両親にここを見つけられたくないなら」和智の声が背後から聞こえた。「10分だけくれ」未知瑠の足が止まった。2秒ほど沈黙したあと、体の向きを変えて、会社の隣にあるカフェへと歩いていった。ふたりは窓際の席に座った。和智はあの淡い水色の箱をテーブルに置き、未知瑠の方へ押しやった。「受け取った。これ、お前が用意したものだよな」和智の声は低く、掠れていた。「未知瑠。俺が悪かったことは分かってる。穂月とはきっぱり縁を切る。もしお前さえよければ、俺たち、もう一度やり直せないか」未知瑠は目の前のコーヒーを手に取ると、彼の顔に浴びせかけた。「あの日のお酒じゃ目が覚めなかったみたいだけど、このコーヒーで少しは頭が冷えた?」カップをテーブルに戻しながら、彼女は言った。「もう私の前に現れないで。見るだけで気分が悪い」数日後の朝、会社の前に着くと、遠くに和智が道路の向かい側に立っているのが見えた。手には白い紙袋を提げている。彼女は足を止めることなく、目もくれずに通り過ぎ、会社のドアを押して入った。昼、階下に降りると、警備員が呼び止めた。「天城さん、受付に花束が届いてますよ」見ると、白いバラだった。彼女はそのままゴミ箱に放り込んだ。夜10時まで残業して外に出ると、遠くに、正面玄関の街灯の下に和智が立っているのが見えた。未知瑠は側面の出口から出て、遠回りして地下鉄に向かった。あとで同僚から聞いた話では、彼は夜の11時半近くまで正面で立ち尽くしていたらしい。ある日、会社の前で男に行く手を塞がれたことがあった。穂月の元夫の知人らしい男だった。どうやって突き止めたのか分からないが、彼女を追いかけてきたらしい。男は彼女のバッグを掴んで離さず、「お前の姉さんの件、けじめつけてもらうからな」と怒鳴り散らしていた。未知瑠は引っ張られてよろめき、警備員を呼ぼうとしたそのとき、横から1本の腕が伸びてきて、男の手首を掴み、乱暴に振り払った。和智が彼女の前に立ちはだかった。肩を強張らせたまま、ひと言も発しない。男は数歩よろめいたが、逆上して拳を振り上げた。和智は避けなかった。顔面にまともに2発食らい、切れた唇の端から血が滴り落ちた。それでも一歩も
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