LOGIN「何言ってるんだ。ぼくが襲撃を受けたかもしれないんだろ。そんなぼくと、長嶺組の大事な跡目を同じ部屋に泊まらせるなんて、できるはずがない。お前がどうしてもと言い張るなら、ぼくから組長に連絡するぞ」
「残念。オヤジは行事に顔を出していて、電話は通じないよ。先生のことも、まだ耳に入ってないかもしれない。オヤジがいない以上、先生のことで指示を出せるのは俺。その俺が、先生の側にいたいんだから――」「ますます、ここに泊めるわけにはいかないっ。何があるかわからないんだから、早く本宅に戻れっ。いざとなれば、会長に連絡するぞ」 千尋が拗ねたように唇を尖らせたので、和彦は奥の手を使うしかなかった。 大きくため息をつき、視線を伏せる。力ない声でこう訴えた。「――……一人になって、落ち着きたいんだ。今のぼくは、お前にまで気をつかえる余裕はない。ぼくを心配するなら、お前はお前の身の安全を考えてくれ。それと、お前を支えている人たちのことも。お前一人の身じゃないんだぞ」「それは先生だって同じだろ…&御堂について、そこまで言い切られるというのも、複雑な心境だ。正確に表現するなら、嫉妬だ。御堂と直接会って話すことで、この感情を自分の中で上手く処理できたと思っていたが、甘かったようだ。それとも、今という状況のせいだろうか。「……信頼、しているんだな」『それもあるが、俺はあいつの性格がわかっている。――昔からのつき合いだから、秋慈はよく知っているんだ。俺がキレると、どれだけ面倒で厄介なことになるか。それに自分が巻き込まれることもな。だからそうならないよう、手を回す。つまり、そういうことだ』 とりあえず納得はできる答えだったが、和彦は別のことが気になり、つい呟いていた。「あんたでも、キレることがあるのか……」『蛇の怒りは冷たくて陰湿だ。みっともないから、先生には見せたくねーな』「ぼくも……、そんな怖いもの、見たくないな」 物騒な大蛇を背負う男相手にこんなことを言えるのも、オンナの特権なのだろうなと、和彦は密かに苦笑を洩らす。 ここで賢吾が、電話の向こうで誰かと抑えた声音で話すのが聞こえた。こんな時間だというのに、まだ周囲に人がいるようだ。「仕事中だったのか」『先生が気にするな。俺がどうしても、先生の声だけでも聞いて安心しておきたかったんだ』 この瞬間、胸の奥から強い衝動が湧き起こり、和彦は早口にこう告げた。「もう安心しただろ。切るからな」 慌てて電話を切って起き上がると、グラスに注いだお茶を一気に飲み干す。 ごく自然に、賢吾の顔が見たいと願った自分に、ひどくうろたえていた。それと同時に、心細さを自覚する。 少し前まで当然のように享受していた、怖い大蛇に守られる安堵感が恋しかった。**** 翌朝、うつ伏せの姿勢で目を覚ました和彦は、起き上がろうとして顔をしかめる。肩だけでなく、体のあちこちが軋むように痛んだからだ。原因は考えるまでもなく、昨夜の車の衝突のせいだ。動けないほど痛みがひどいわけではなく、筋肉痛のようなものだ。
「何言ってるんだ。ぼくが襲撃を受けたかもしれないんだろ。そんなぼくと、長嶺組の大事な跡目を同じ部屋に泊まらせるなんて、できるはずがない。お前がどうしてもと言い張るなら、ぼくから組長に連絡するぞ」「残念。オヤジは行事に顔を出していて、電話は通じないよ。先生のことも、まだ耳に入ってないかもしれない。オヤジがいない以上、先生のことで指示を出せるのは俺。その俺が、先生の側にいたいんだから――」「ますます、ここに泊めるわけにはいかないっ。何があるかわからないんだから、早く本宅に戻れっ。いざとなれば、会長に連絡するぞ」 千尋が拗ねたように唇を尖らせたので、和彦は奥の手を使うしかなかった。 大きくため息をつき、視線を伏せる。力ない声でこう訴えた。「――……一人になって、落ち着きたいんだ。今のぼくは、お前にまで気をつかえる余裕はない。ぼくを心配するなら、お前はお前の身の安全を考えてくれ。それと、お前を支えている人たちのことも。お前一人の身じゃないんだぞ」「それは先生だって同じだろ……。でも、一人になりたいという気持ちはわかる。先生の心配が減るというんなら、今晩は帰る」 素直な千尋を騙したような罪悪感の痛みを押し隠して、和彦は小さく頷いた。** 精神的にも肉体的にも疲弊しているのだが、この夜はまったく眠れる気がしなかった。 テレビのニュース番組を漫然と眺めてから、電源を切る。千尋の話を聞いたせいだろうが、ホテルの一室に身を置いていると、外では凄まじい嵐が吹き荒れていながら、自分だけが何も知らずぼんやりしているのではないかと、焦燥感のようなものが生まれる。 ベッドに横になろうとして気が変わり、部屋に備えつけの冷蔵庫から缶ビールを取り出そうとしたが、結局、冷たいお茶を選んでいた。 グラスにお茶を注いでいると、ナイトテーブルの上に置いた携帯電話が鳴る。今は誰かと話すのはひどく億劫だと思ったが、表示された相手の名を確認すると、無視するわけにはいかない。『――起きていたか』 夜更けであろうが、普段の落ち着きも艶もまったく失っていない賢吾の声は、
「脅しだったんじゃないかと思う。先生じゃなくて、じいちゃんに対する。いままで、弱みらしいものがなかったじいちゃんが、先生を側に置いたうえに、総和会の力と金を使って、先生に事業を始めさせそうとしているんだ。誰だって、先生が特別な存在なんだってわかる。……法要のときの、〈あれ〉もあるしさ。実際、どういうことをしたのかはともかく、盃を交わしたという話で、総和会の中は持ちきりだったらしいし」「……お前のその口ぶりだと、まるで、総和会の中に――」「外部の組織の可能性がまったくないわけじゃないけど、総和会の誰かの仕業という可能性のほうが、圧倒的に高い。総和会は、そういう組織なんだ。じいちゃんだって、手を汚さずに会長の座についたわけじゃない。それをよく思わない人間は、総和会の中にいくらでもいる。表立って揉めないのは、やっぱりそれだけ、じいちゃんの力が絶大だからだ」 そんな存在の弱みになりうるかもしれないと、自分は目されているのだ。和彦は、これまで総和会という組織の中で、自分に向けられた男たちの視線を思い返していた。守光を信奉する男たちの目が行き届いているのか、オンナであることで不愉快な思いをしたことはないが、その中に敵意や害意が含まれていたかもしれないのだ。 本部周辺では現在、この雨にもかかわらず、厳戒態勢が敷かれているという。和彦を本部から遠ざけたのも、不測の事態に備えてのことらしい。「本部かクリニックにいる先生にはピンとこないだろうけど、夏頃から、総本部とかの空気がちょっとおかしいんだよね。ざわついているというか、浮き足立っているというか」「どうしてだ?」「第一遊撃隊の隊長が職務に復帰して、隊自体も活動を再開したから」 思いがけない形で第一遊撃隊の話題が出て、和彦は目を見開く。「御堂さんのことか……」「そういえば先生、御堂さんと会ったことあるんだってね。――先生がどこまで知ってるかはわからないけど、あの人がどうこうというより、あの人を、じいちゃんの抵抗勢力の神輿にしたがってる人間がいるんだよ。筆頭は、清道会かな。とにかく、そういう目論見を抱く側と、警戒する側が、総本部の
尋常でない出来事があったにも関わらず、総和会の男たちの動きは迅速だった。速やかに代わりの車が呼ばれ、和彦だけがその車に乗って現場を立ち去ったのだが、そのあと、警察を呼んで処理したとは到底思えなかった。 どしゃ降りの雨の中、車の外にいた男たちは、ずぶ濡れになりながら明らかに殺気立っており、あんなぎらついた目をして警官と相対すれば、さらに面倒な事態になるのは目に見えている。 先生は何も心配しなくていいと言われたが、自分が乗っている車があんな目に遭い、安穏とした気持ちでいられるはずがない。頭の中は疑問符が飛び交っていた。 車をぶつけてきたのはどこの誰なのかということはもちろん、今夜はこのホテルで休むよう言われた理由も、時間の経過とともに気になってくる。 本部までは、もう少しだったのだ。歩いてさえ行けた距離だ。なのに、わざわざ離れたホテルへと連れて来られた。おそらく隣か前の客室も、総和会によって押さえられているはずだ。護衛の手間を考えても、ホテルの部屋を取った利点が見えてこない。 もう一度ため息をつこうとしたとき、部屋の外で慌しい気配がする。また何か起こったのかと、反射的に飛び起きたと同時に、ドアがノックされた。和彦はベッドの上で動けず、じっと息を潜める。すると、ナイトテーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。相手は千尋だ。『――先生、ドア開けて』 電話に出ると、開口一番にそう言われて面食らう。再びドアがノックされ、ようやく和彦はベッドから下りた。 念のためドアスコープを覗いて、ドアの前に千尋が立っているのを確認する。ドアを開けると同時に千尋が押し入り、和彦をきつく抱き締めてきた。「よかったっ……。本当に無事だった」 呻くように千尋が洩らした言葉に、和彦は目を丸くしたあと、小さく笑みをこぼす。千尋の背後に目を向けると、護衛としてついてきたのだろう。廊下に長嶺組の組員たちが立っている。和彦が頷くと、ドアが閉められた。「……大丈夫だと言っただろ。どうして来たんだ」 茶色の髪をくしゃくしゃと撫で回しながら和彦が言うと、不安そうに千尋が見つめてくる。「迷惑だった?」
**** 八月最後の日だった。 和彦はウィンドーを覗き込むようにして、外の様子をうかがう。クリニックからの帰宅途中なのだが、日が暮れてから急に天候が崩れ、とうとうどしゃ降りの雨となっている。『――雨すごいね』 電話の相手である千尋の言葉に、見えるはずもないのに和彦は頷く。「ああ。クリニックを閉める頃に降り出したから、よかったといえばよかったが……。お前は、本宅にいるのか?」『珍しく、午後からずっとね。先生が仕事休みだったら、どこかに一緒に出かけたかったのにさ』「この暑い中、どこに出かけるつもりだったんだ」『いろいろあるよ。まずは、映画なんてどう? あと、秋物も並んでるから、服を買いに行くとかさ』 ここのところ、千尋と気楽な気分で出かける機会もなかったので、素直にいいなと思ってしまう。「お前の予定が合うなら、クリニックが休みの日に出かけるか。ぼくも、買いたいものがあるし」『予定なんて、合わせるよっ。じゃあ、来週の日曜は?』「ぼくのほうは、今は予定が入ってないから大丈夫」『だったら俺、じいちゃんに、その日は絶対に先生に予定を入れないように言っておくから』 総和会会長の孫だからこその発言だなと、和彦は密かに苦笑を洩らす。今の守光に、こんなことを面を向かって言えるのは、おそらく千尋ぐらいだろう。賢吾ですら、長嶺組組長という立場から気安く口にはできないはずだ。「あまり強引な頼み方はするなよ」 柔らかな口調で窘めた和彦は、ここで異変に気づく。大雨のため、普段以上に慎重な運転を続けていた車が、前触れもなく加速したのだ。それに伴い、前に座っている護衛の男たちが目に見えて緊張する。「どうかしたんですか?」 和彦が問いかけると、助手席に座っている男が硬い声で答える。「車の通りが少ない道に入ってから、急に後続車が車間を詰めてきたんです。どうも、動きが不自然で」 和彦がおそるおそる振り返ると、確かにすぐ背後を走る車があった。それでなくてもどしゃ降りの雨の中、この車間の近
和彦は声を洩らして笑っていたが、中嶋が律動を再開し、すぐに尾を引く嬌声を上げる。中嶋に抱き締められ、両腕の中で滑る体を奔放に捩って乱れていると、ふいに、内奥から欲望が引き抜かれ、下腹部から胸元にかけて、中嶋の精が飛び散った。「……さすがに、本部に帰る先生の中に、俺の精液を残すわけにはいきませんからね」 息を乱しながらの中嶋の言葉に、納得せざるをえない。「そんなことまで、頭が回ってなかった……」 和彦が率直に告げると、中嶋がゾクゾクするほど挑発的な表情で応じた。「そんなに、気持ちよかったですか?」「気持ちよかった。自分が浅ましい人間なんだと実感させられた。……周りの男たちが大層な扱いをしてくれるから思い違いをしていた。ぼくは、オンナであろうがなかろうが、本来、こういう人間なんだ。プライドが傷ついたなんて発言は、おこがましかったな」「先生は、自分を正しく客観視しようとしすぎですよ。誰も採点なんてしないんだから、気楽に」 中嶋の発言に、正直驚いた。和彦は目を丸くしたあと、苦々しい顔となる。「子供の頃からの癖だな。採点はされていた。――父親から」 まるで慰めようとするかのように中嶋に頬を撫でられたが、ローションがついてしまい、思わず破顔する。 唇を重ね、抱き合いながら、精がこびりついた下肢を密着させているうちに、中嶋を組み敷く格好となる。和彦は、高ぶった欲望をためらいもなく、潤んだ内奥に再び埋め込んだ。** 気だるさと、清々しさをまとった和彦が本部に戻ったとき、すでに日付は変わっていた。堂々の夜遊びだ。 エレベーターを降り、ラウンジの前を通り過ぎようとして、ぎょっとする。誰もいないと思っていたが、ソファの背もたれの向こうで大きな影が動いたからだ。姿を見せたのは南郷だった。どうやら、ソファに深くもたれかかっていたらしい。 和彦が全身の毛を逆立てる勢いで警戒すると、南郷は露骨に頭の先からつま先まで眺めてきた。そして、芝居がかった下卑た笑みを見せた。「わかってはいるつもりだった
****「――俺との約束を忘れたのかと思ったぞ」 春巻を一口食べて、味に納得したように頷いてから、唐突に澤村が切り出す。和彦は苦笑を洩らしながら、酢豚を堪能する。値段が手頃なランチメニューなのだが、値段以上の価値がある味だ。 先日、中嶋に連れてきてもらってディナーを食べた中華料理店に、ぜひもう一度訪れたいと思っていたところだったので、澤村とランチを一緒に、という約束を果たすには、うってつけの店だろう。 店はホテル内にあるため、常にさまざまな人が行き交っている。そのため、護衛をホテルの駐車場
ああ、と声を洩らして中嶋は苦笑する。怪我をした秦の治療を、和彦に頼んだことを思い出したらしい。 「今になって考えるんですよ。あのときの俺の選択は正しかったのかどうか、と。結果として、秦さんは無事だったし、先生との距離も近くなりましたが……その分、しっかり代償を払ったような気もします」 「君と秦さんとの距離間が、わからなくなってきたか」 中嶋は驚いたように和彦を見て、皮肉っぽく唇の端を持ち上げた。 参ったな……。先生と秦さんが、普段どんなことを話しているのか、すごく気になりますよ。その様子だと、俺のことも聞いているんでしょう?」 「彼の
「なるほど。先生のきれいな指が、他の男の体を這い回るのかと思うと、少しばかりムカつくな」「変な言い方をするなっ……。用が済んだんなら、ぼくはこれで帰るからな」 立ち上がろうとした和彦だが、すかさず手首を掴まれて引っ張られ、バランスを崩して賢吾の胸元に倒れ込む。そのまましっかりと両腕で抱き締められた。「先生への本題はこれからだ」 嫌な予感がした和彦は、露骨に顔をしかめて見せる。すると賢吾は表情を和らげてから、耳元に唇を寄せてきた。「頼みたいことがある」「……聞きた
外から男二人のにぎやかな話し声が聞こえてくる状況で、求められるまま、やむをえず舌を絡め合い、唾液を交わす。引き出された舌を痛いほど吸われると、たまらず和彦は鷹津の肩にすがりついていた。 ますます鷹津の腕の力が強くなり、和彦の中で奇妙な変化が起こっていた。鷹津のことがどうしようもなく嫌いで、嫌悪しているのに、そんな男にねじ伏せられるように口づけを交わしていると、高揚感に襲われ、体の奥深くから強引に官能を引き出される。 官能に形を借りた、サソリの毒かもしれないと、ふとそんな考えが脳裏を過る。鷹津の毒を注入され、体も心も侵されていくのだ。 思わず身じろごう