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第2話

Author: ジョジョ
受話器の向こうで、数秒の沈黙が流れた。

「……本気なのかい? あんなに彼のことが好きで、そのためにどれほどのチャンスを棒に振ってきたか。それがどうして急に……」

小夜子は小さく笑い、首を振った。

「今はもう、好きじゃないんです。それだけですよ」

電話を切ると、彼女は窓に頭を預け、そっと瞼を閉じた。

この数年間、彼女が湊に心酔していることは誰もが知る事実だった。

自分を失うほどに、プライドを捨てて縋り付くように、彼を想い続けてきた。

けれど、もう疲れ果ててしまったのだ。

心のなかに永遠に別の女性を住まわせている男を愛し続けるのは、あまりに過酷だった。

十八歳の春。大学の一年生だった小夜子は、新入生歓迎の式典で初めて湊を見かけた。

うららかな陽光が降り注ぐ中、白いシャツに黒のスラックスを纏って壇上に立つ彼は、清廉で、どこか浮世離れした輝きを放っていた。まさに選ばれし者という言葉が相応しい彼の姿に、会場にいた女子学生たちの多くが頬を染めた。

小夜子もまた、そのうちの一人だった。

しかし、彼に近づける者など誰もいなかった。

湊の心には、幼馴染である理央しかいない。それは周知の事実だったからだ。

理央は奔放で、わがままで、気性の激しい女性だったが、湊はそんな彼女を慈しみ、すべてを許容していた。誰もが、彼は彼女を死ぬほど愛しているのだと噂し合った。

彼が理央を愛した歳月と同じだけ、小夜子もまた、彼の背中を影から追い続けてきた。

やがて、理央が湊との結婚を何度も反故にするようになる。

一度目は「まだ若すぎるから、結婚なんて早すぎる」と言い、二度目は「マリッジブルーだから」とはぐらかした。三度目は「あなたの愛が足りない気がする」と。

そして九度目。結婚式を翌日に控えた夜、海外にいた彼女から一本の電話が入った。

「湊さん。やっぱり自由の方が大切だって気づいちゃったの。今の結婚はやめておきましょう?しばらく海外で遊んでくるわ!」

その時、湊はもう彼女を追いかけなかった。

しばらくの間、彼は抜け殻のようになっていたが、やがて親の勧める見合いに応じ始めた。何人もの女性と会っては、一度きりで縁を切る。そんな日々が続いていた。

その知らせを耳にしたとき、小夜子の鼓動は激しく跳ね上がった。

知人を介し、あらゆる手を尽くして、彼女は彼との見合いの席をもぎ取った。

当日、彼女はどういう風の吹き回しか、理央が好んでいたものとよく似たデザインのワンピースを身に纏った。案の定、小夜子を一目見た湊は、その場に釘付けになった。

彼はじっと彼女を見つめ、やがてこう告げた。

「……結婚しよう」

小夜子の狂おしいほど高鳴っていた鼓動は、その瞬間、すとんと冷え切った。

分かっていた。彼は自分を見ているのではない。自分の向こう側にいる、別の誰かを見ているのだと。

それでも、彼女は頷いた。

あまりに好きすぎて、たとえそこに愛がひとかけらもなくても、彼の側にいたいと願ってしまったから。

結婚してからも、二人は他人のように礼儀正しく暮らした。

湊は夫としての務めを完璧にこなした。経済的に不自由させたことは一度もないし、妻としての立場も十分に尊重してくれた。けれど、小夜子には痛いほど分かっていた。そこに愛などひとかけらもないことを。

彼の方から肌を求めてくることは決してなかった。

唯一の例外は、小夜子が理央の好むような服を身につけている時だけ。そんな時、彼は何かに取り憑かれたように彼女を抱きすくめ、うわごとのように「理央」と呼んだ。

そのたびに、小夜子は聞こえないふりを貫いた。

そんな生活が五年続いた。

このまま、緩やかな不幸の中で生きていくのだと信じていた――あの女、理央が帰ってくるまでは。

ちょうど妊娠三ヶ月を迎えた頃だった。

ある日、腹部を突き刺すような激痛に襲われた。小夜子が脂汗を流しながら救急車を呼ぼうとしたその時、理央が家に乗り込んできたのだ。

「あなたが小夜子さん?」

理央は彼女を値踏みするように見下ろし、侮蔑の笑みを浮かべた。

「私がいない隙に、私の場所を奪い取った泥棒猫ってわけ?」

痛みで血の気を失った小夜子には、言い返す気力さえ残っていなかった。ただ病院へ行きたい一心でその場を離れようとしたが、理央が執拗に立ちはだかる。

揉み合いになり、小夜子は思わず彼女を突き飛ばしてしまった。よろめいた理央はドア枠に頭を強打し、鮮血が飛び散った。

その夜、帰宅した湊は事情も聞かず、小夜子を空き部屋に閉じ込めた。

腹部の痛みは、ナイフで内臓を掻き回されるような激痛へと変わっていた。彼女はドアを叩き、枯れた声で叫び続けた。

「湊……助けて……赤ちゃんが……私たちの子供が……」

だが、誰も来ない。

冷たい床の上で体を丸める彼女の股間から、生温かい液体が溢れ出した。震える指で触れると、べっとりと赤い血がついた。

やがて、彼女の意識は痛みと絶望の中で途切れた。

目を覚ました時、彼女は病院のベッドの上だった。

子供はもう、いなかった。

ベッドの脇に立つ湊の瞳には、さすがに罪悪感が滲んでいた。

「俺が悪かった。退院したら、また子供を作ろう」

彼は言い訳をするように早口で続けた。

「……君があの時、理央を突き飛ばさなければ、閉じ込めたりはしなかった。彼女には血液凝固障害があるんだ。あの一撃が命取りになるところだった。俺も気が動転していて……償いはするから……」

その瞬間、小夜子は笑った。

涙を流しながら、声を上げて笑った。

「湊。命の償いができるものが、この世にあるとでも思っているの?」

それが、彼に見せた最初で最後の涙だった。

あの日から、小夜子は変わった。

水面下で離婚届を用意し、会社には海外赴任の希望を出した。

湊が理央とどうなろうが、もうどうでもいい。

だって、私はもう彼を愛していないのだから。

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