เข้าสู่ระบบ|庫裏《くり》(境内の住居)の引き戸が、乾いた木の音を立てて開いた。
中から漏れ出した空気は、冬の境内とはまるで違う温度をしていた。 ほんのりとした温かさと、煎った茶葉の匂いが混ざり合い、どこか家庭の匂いを運んでくる。浩人は、背筋がわずかに強張るのを感じながら、一歩足を踏み入れた。
畳の匂い。
湯気の立つ茶器。 外の冷たさとはまるで別の世界。そんな空間の真ん中に、住職――隆寛の父が座していた。
「遠いところを、わざわざご丁寧に」
穏やかな声。
深い眼差し。 葬儀の場で導師として厳かな姿を見せていた人と同じとは思えないほど、柔らかい表情をしていた。落ち着いた仕草で、住職は湯飲みに茶を注ぐ。
その指先さえも丁寧で、浩人は無意識に背筋を伸ばす。「いえ…こちらこそ突然お邪魔してすみません。
会社として、挨拶をと思いまして」そう答えながらも、声の奥に微かな緊張が混ざった。
住職の前では、何か取り繕った言葉しか出てこない。すると住職が、まるで心を見透かすように微笑む。
「野上さんは、息子が大学の時…よく支えてくださったと聞いております」
湯飲みを手渡される瞬間、浩人の胸が一度ひっくり返ったように揺れた。
息子。
支えてくださった。その言葉は、表向きには何もおかしくない。
だがその裏に、あの日々が一気に蘇る。レポートを一緒に仕上げた夜。
家で食事を作り合った夜。 互いの部屋を行き来し、朝まで抱きしめて眠った夜。親が知る“支え合っていた二人”は、おそらく健全そのものの友情だったのだろう。
けれど実際は――もっと深かった。
表には出せないほど、濃く、密接で、離れることを知らない関係だった。浩人は心の奥に沈む痛みを飲み込み、柔らかな笑みを作った。
「…いえ。僕の方こそ、いろいろ助けてもらってました」
本当は、助けてもらっただけじゃない。
心も身体も、あいつに狂わされていた。そんな言葉を口にできるわけもなく、浩人は視線を茶の表面へと落とした。
湯気がゆらゆらと立ち上り、その奥に自分の歪んだ表情が映っている。すると、廊下の方から足音が近づいてきた。
軽やかで、どこか温かみのある音。次いで、襖が開く。
「まあ…懐かしい方?」
柔らかな声だった。
その声だけで空気が少し明るくなるほどに、隆寛の母は穏やかな雰囲気をまとっていた。彼女は浩人の顔を見た瞬間、ほんの少し目を細めた。
「息子、昔あなたの話をしていましたもの」
その言葉は、どこにも棘がなく、ただ懐かしさを込めたものだった。
だが、浩人の心を深く刺した。(……そんな風に、話してたのかよ。俺のこと)
予想外の優しさだった。
隆寛が家で自分の話をする姿を想像すると、胸が熱くなる。 けれど、同時に冷たくもなる。自分は――もうその場所にはいない。
こんな風に彼の親と笑い合うことも、以前のように家族のように扱われることも、もう許される場面ではない。
隆寛は今、僧侶だ。
自分の道を歩き、戒を胸に抱き、距離を保とうとしている。その真実が、母の優しい一言によって、より鮮明に突きつけられる。
浩人は、軽く笑って見せた。
「…そうでしたか。ご迷惑ばっかりかけてたと思いますけど」
「いいえ、そんなこと。あの子ね、大学の頃は少し不器用だったでしょう? だから…あなたのことは信頼していたんでしょうね」
母の目はまっすぐで、曇りがなかった。
その言葉が、なぜか胸を締めつける。(信頼…か。それだけじゃなかったんだよ、俺たち)
けれど、それを言う権利は今の自分にはない。
もう二人の間にあったものを口に出すには、距離がありすぎる。母は、穏やかに笑ったまま続ける。
「またいらしてくださいね。近くまで来られたら、ぜひ」
その言葉は温かく、柔らかく、遠慮のない優しさに満ちていた。
その優しさが、逆に痛い。
浩人は、胸に溜まった熱を外へ逃がすように、静かに息を吐いた。
自分は彼の家族にとって、好ましい存在なのかもしれない。
だが、自分がこの家の温かさに触れる資格はもうない。隆寛が距離を作った以上――自分も、外側の世界の人間でいなければならない。
そう分かっているのに、母の笑顔は胸の奥を揺らしたまま、広がる温かさに変わる。
その温かさが、逆に痛くなる。
(…ずるいよな、お前。
こんな家庭で育って。 なのに、俺とはあんな別れ方して)思い出したくないのに、思い出してしまう。
あの日の冷たさも、最後に残った熱も。住職が言葉を添える。
「息子も…どこかで喜ぶでしょう」
浩人の心が、一瞬止まった。
どこかで――喜ぶ。
会ったら。 話したら。 自分が来たと知ったら。そんなわけがない。
僧侶として距離を取っている男が、喜ぶはずがない。だが、喜んでほしいと願ってしまう自分がいた。
胸の奥で、懐かしさと痛みが渦を巻く。
ここは温かい。
外の冷たい空気とはまるで違う。 心ごと包まれてしまいそうな柔らかな温度。けれど――自分はここに属さない。
その事実が、どんな言葉よりも冷たく刺さる。
浩人は、湯飲みを両手で包むように持ち、静かに頭を下げた。
「…ありがとうございます。
本当に、お気遣いなく」温かさを拒むように、けれど丁寧に返す。
住職も母も、その言葉の裏にある温度を知らない。
ただ優しく微笑むだけだ。その笑顔が、痛かった。
隆寛の家族の優しさが、自分をより外側へ押し出していく。
浩人は胸の奥を押さえるように、深く息を吐いた。
温かい空気の中で、心だけが冷たい。
それなのに――懐かしさで満たされていく。この家の温度を知ってしまったことが、
隆寛への想いをもう一度強くしてしまうと、気づきながら。そして、その痛みこそが、彼をさらに前へ進ませるのだと――
浩人自身、まだ気づいていなかった。深夜の空気は乾ききっていて、窓の外にはほとんど人の気配がなかった。街灯の光だけが細い筋となって部屋の壁を撫で、そこに散らばるプリントや参考書の影を淡く揺らしていた。試験前の追い込みでは、誰もが机にかじりつき、時間を惜しむように文字を追うはずだった。しかし浩人の部屋には、紙の音よりも、二人の呼吸のほうが濃く滞っていた。机の上にはノートが広がり、蛍光ペンのキャップがいくつも外されたまま転がっている。隆寛はページに視線を落としたまま、途切れるように文字を追い、鉛筆の先が紙の上を小さく震えていた。肩に落ちる影は疲れを隠しきれず、けれどその影の奥には、別の理由で乱れた呼吸が潜んでいた。浩人はソファ代わりのベッドに腰を下ろし、手元の教科書を開いていたが、ほとんど頭に入っていなかった。ページをめくる指先が紙を擦る音よりも、机に座る隆寛のかすかな息遣いのほうが気になって仕方がない。少しでも動けば、その気配は敏感に揺れる。まるで互いの呼吸が見えない糸で繋がれているようだった。「なあ、休憩しないか」浩人が低く声をかけると、隆寛は動きを止め、ゆっくり顔を上げた。目の下にうっすらと影が差し、集中していたはずなのに、そこには別の疲労が滲んでいた。「…いや、まだやらないと。今日は本当に時間がない」そう言いながらも、隆寛は筆を握る手に力を入れきれず、指先がわずかに震えていた。浩人はその揺れを見逃さない。「徹夜で乗り切る気か。お前、絶対途中で潰れるぞ」「潰れても、やるしかない」言葉は強いのに、声が弱かった。浩人は本を閉じ、ゆっくり立ち上がる。足音を立てぬよう隆寛の背後へ歩き、肩越しに覗き込むと、細かい文字が隙間なく並んだページに目が走っている。しかし、その目は活字ではなく、何か別のものに怯えるように揺れていた。そっと肩に触れると、隆寛は微かに震えた。「…今日はやめようって言っただろ」浩人が囁くと、隆寛は痛むように眉を寄せた。「言った。けど…」言葉は続かない。続けられない。肩に乗った浩人の手の熱が、隆寛の理性より先に
レポートの山が机の端に積まれ、浩人の部屋には紙の擦れる乾いた音と、夕方の光がゆっくりと伸びていた。窓の外では沈みかけた陽が淡い橙を散らし、街のざわめきが遠くに薄れていく。静けさはあるが、完全な無音ではない。冷蔵庫のモーターが低く唸り、エアコンが息を潜めるように風を送り出す。その些細な音の中に、二人の呼吸が混ざり合っていた。浩人は筆記用具を指先で転がしながらプリントに視線を落とし、隣に座る隆寛の横顔を盗み見る。光に透けた睫毛の影が頬に降り、長い指先が淡々と資料の行を追っている。口元は真面目な線を保っているのに、ほんの少しだけ、どこか緩んで見えた。さっき、玄関で軽く唇を触れた余韻が残っているのを、浩人は薄々感じていた。隆寛がページをめくる。紙が空気を切る小さな音とともに、沈黙がまた一段深くなる。喉を鳴らし、浩人は手元のペンを置く。「なあ」声をかけた瞬間、隆寛が横目でゆっくり振り向く。その動きだけで胸が軽く跳ねるような感覚が走る。光が揺れ、隆寛の瞳に夕日の欠片が映った。「ちょっとだけ、いいか」隆寛の眉が緩く動いた。問いの形をしているのに拒絶がまったくなく、むしろ待っていたと言わんばかりの柔らかさがあった。浩人はその反応に呆れるほど弱いと自覚しながら、指先でそっと隆寛の顎を持ち上げた。わずかに触れただけで、隆寛の呼吸が浅くなる。唇が触れ合うと、静かな部屋に微かな音が沈んだ。軽いキスのはずだった。だが触れた瞬間、隆寛がほんのわずかに目を閉じ、浩人の指に頬を預けてくる。その温度が、浩人の中の何かを簡単に壊す。唇を離した後も、隆寛はゆっくりと目を開けるだけで何の言葉も発さない。問いかけのようで、許しのようでもある沈黙。浩人は息を吐き、少し笑った。「すぐ触りたくなるんだよ、お前」隆寛は驚いたように瞬きし、それから視線を落とした。照れ隠しのように紙を整えようとするが、その指先がわずかに震えている。「……課題、終わらなくなるぞ」掠れた声が落ちる。責めているわけではない。むしろ、もっとしてもいいと言っているように聞こえてしまう。浩人の胸の奥がひどく熱くなる。
朝の光は、カーテンの隙間から細くこぼれ、床に淡い帯をつくっていた。冬に向かう前の、まだやわらかい陽射しだった。ワンルームの狭さは、その光を窮屈に跳ね返しながらも、どこか安心できる密度を持っている。隆寛は、シーツに頬を押しつけたまま、ゆっくりと目を開けた。枕に残った微かな匂いは、何度も嗅いだことのあるものだ。洗剤の残り香と、乾いた空気と、浩人の肌の匂いが混ざった、ここにしかない匂い。天井が見える。見慣れた白い板と、蛍光灯の細長い影。ここは自分の部屋じゃない、という認識はある。けれど、その事実に焦ることもなくなっていた。視線を横に向けると、空になったマグカップが机の端に置かれているのが見えた。昨日の夜、課題をやりながら飲んだコーヒーの名残りだ。その隣には、自分の教科書とノートが積み上がっている。ページの端には、浩人の字で書き込まれたメモが混ざっていた。布団の隙間から腕を伸ばし、枕元を探る。指先に、柔らかい布の感触が触れた。昨夜脱いだ自分のパーカーだった。タグの部分が、こちら側に向いている。袖をつまんだまま、隆寛はぼんやりと考える。これも、何日目か分からない「置きっぱなし」の一つだ。最初に置いていったのは、替えのシャツだった。徹夜明けにそのまま大学へ行くのがしんどくて、一枚だけ「忘れて」行った。翌週、取りに来るつもりだったのに、結局そのままになった。その次は、スウェットの下。それから、靴下の予備が一足。歯ブラシは二本立てておくほうが自然になった。机の端には、自分用のマグカップが増えた。一つ一つは些細なものだ。ここが自分の部屋ではないという前提を崩すほどの重さはない。けれど、気づけばこの空間のどこを見ても、自分のものが視界に入るようになっていた。忘れていった、というより、置いていかれてたものたち。布団から上半身を起こすと、肩にかけた毛布がずり落ちた。ひやりとした空気が肌に触れ、隆寛は無意識に腕をさする。キッチンのほうから、音がした。湯を沸かす
夜明け前の気配は、窓の隙間からゆっくりと部屋に滲み込んでいた。薄いカーテン越しの光にはまだ色がなく、青とも灰ともつかない淡さで、乱れたベッドの縁をかろうじて縁取っているだけだった。卓上灯は消されていて、しばらく前まで二人の肌を照らしていた光はもうない。残っているのは、熱と、浅い呼吸と、夜の余韻だけだった。シーツはぐしゃぐしゃに寄れている。その皺の中に、さっきまでの動きが刻み込まれているように見えた。隆寛は、仰向けになりきれず、浩人の胸にもたれるような体勢になっていた。片方の頬が、浩人の裸の胸板に触れている。肌の下でゆっくりと刻まれる鼓動を、耳の奥で聞いていた。耳たぶが、じくじくと痛んだ。そこだけ異様に鮮明で、そこだけが夜の中で覚醒している。新しく通されたシルバーのリングが微かに触れ合うたび、チリ、と小さな電流みたいな痛みが走る。その痛みが、先ほどの選択を何度でも思い出させた。刻まれた証。その言葉が、頭の奥で静かに浮かんでは沈んだ。胸の奥は、満たされていた。自分の輪郭がやっとどこかに定着したような、そんな感覚。見失いそうだったものに、今夜、はっきりと境界線が引かれた。その境界が、浩人の腕の中にある。それが、怖かった。満たされているのに、怖い。失うことを考えた瞬間、呼吸が苦しくなる。浩人の腕が、隆寛の背中にしっかりと回っていた。逃がすつもりのない、拒絶を許さない、そんな強さ。けれど締めつけるほどではない。むしろ、ここから落ちていかないように支えるみたいな力加減だった。汗のにじんだ肌と肌が、ところどころまだ離れずにくっついている。胸のあたり、脇腹、太ももの側面。触れている部分すべてに、ぬるい熱が残っている。どこまでが自分の体温で、どこからが浩人の体温なのか、もう分からなかった。隆寛は、浅く息を吸った。空気が冷たくて、喉の奥だけ少しひやりとする。吐く息は、浩人の胸元に当たって、跳
新しく通されたリングが軽く揺れた。耳たぶに残る熱と鈍い痛みが、じんじんと脈打つみたいに存在を主張してくる。隆寛は、小さく息を吐いた。胸の奥に溜め込んでいた緊張が、ようやく出口を見つけたように抜けていく。耳元をかすめる自分の呼気がやけに熱く感じられ、視界の端がふわりとにじんだ。「……ふー……」声にならない吐息が漏れる。肩から力が抜け、背中がわずかにベッドの縁へ預けられた。浩人は、その変化をすぐ目の前で見ていた。ピアッサーを机の端に置き、指先についた微かな赤をティッシュで拭いながら、視線だけは隆寛から離せなかった。卓上灯の光が斜めから差し込み、新しく開いた耳たぶを照らす。うっすら赤く腫れた皮膚と、そこに嵌めたシルバーのリング。さっきまでなかったものが、もう当たり前のようにそこに居座っている。自分のものにした、という感覚が、喉の奥で静かに熱を持った。隆寛が、ゆっくりと顔を傾ける。横顔が光のほうに向き、そのラインが浮き上がる。長いまつげの影が頬に落ち、薄く開いた唇からまた小さな息が漏れた。「……変な感じ」ようやくこぼれた言葉は、疲労と高揚が混ざったような弱さを含んでいた。浩人は、短く息を吸う。「痛むか」問いかけた声は、自分で思った以上に低く落ちていた。隆寛は、少し考えるように瞬きをしてから、小さく頷いた。「痛い……けど」そこで言葉が途切れる。途切れたあとの沈黙に、別の意味がにじんでいた。けど、嫌じゃない。そう続けられることを、浩人はなぜか確信してしまった。指先が勝手に動いた。リングのすぐ下、耳たぶの少し赤くなった部分へ、人差し指がそっと伸びる。「っ……」触れた瞬間、隆寛の肩がびくりと跳ね
深夜の空気は、課題を提出し終えたあとの気の抜けた静けさで満たされていた。張りつめていた緊張がすっと抜けるその瞬間は、毎回どこか宙に浮いたような感覚を伴う。けれど今夜は、それ以上の何かが二人のあいだに漂っていた。卓上灯だけがついたままの部屋は、薄い光と濃い影を交互に刻んでいる。缶コーヒーの空き缶がベッド脇の机に二本並び、深夜までの作業の痕跡がそのまま残っていた。隆寛は、背筋を伸ばしたあと、軽く首を回した。緊張が解けた身体には、疲労のぬるい重さが残っている。浩人は机に寄りかかるようにして座り、息をゆっくり吐いた。深夜の空気が、わずかに肌を冷やす。その時だった。隆寛の視線が、浩人の左耳に向いた。黒髪の間からのぞく、小さな黒いリングピアス。いつもさりげなく揺れていて、隆寛にとっては“浩人そのもの”のような象徴だった。視線がそこに吸い寄せられたことを自覚する頃には、もう口が動いていた。「……耳、開けてみたい」言った瞬間、隆寛自身が驚いた。声は静かで、深夜の空気に吸い込まれるような弱さだった。浩人は、動きを止めた。数秒間、返事が来ない。沈黙が、影のように二人のあいだに落ちる。やがて、「……は?」短い声。しかし、その声には抑えきれない熱が滲んでいた。隆寛は視線を外さず、ゆっくり繰り返した。「耳、開けたい」浩人の喉が小さく動いた。卓上灯に照らされた横顔が、僅かに揺れた影の中で固まったように見えた。「……みはら、お前」言葉が続かない。それほど意外だった。それでも、数秒後に漏れた言葉は低く、深く、どこか支配する響きを持っていた。「任せろ」強く言ったわけではないのに、胸が震えるほどの確信があった。







