ログインかつて世界を救った英雄オリオンの息子、リオン。 彼は「殺さずに世界を救う」という父の遺志を胸に、 騎士団とギルド、そして異なる種族の狭間で戦い続ける。 剣よりも言葉を。勝利よりも和解を。 だが、理想はいつも血に塗れる。 裏切り、喪失、そして再生——。 彼の決断が、“断絶の王国”に架けるたった一つの橋となる。 理想を掲げる騎士団。 自由を求めるギルド。 閉ざされた森の民、沈黙の海の王国、そして暗躍する魔族たち。 世界が“断絶”へと進む中、 リオンは「橋を架ける者」として、剣を取り、迷いながらも走り出す。 ——殺して進む勇気は要らない。 繋いで進む勇気だけが、世界を変える。
もっと見る空が、赤かった。
夜なのに、朝よりも明るい。 王都の屋根が溶け、風は火の匂いを運ぶ。炎は大きな獣の息みたいに地面をなめ、石畳をやわらかくしていく。 瓦礫の上に、ひとりの男が立っていた。 オリオン。左腕には白い包帯。右手の剣は、炎の色を拒むように淡く光っている。 空を覆う影がうねる。火竜だ。 その咆哮に、鐘楼の鐘が震えた。 誰かが逃げ、誰かが叫び、誰かが祈っている。 オリオンは背を振り返らない。仲間はもう退いた。いまはただ、ここを“つなぐ”だけだ。 包帯が、焦げた。白が黒へ、黒の隙間から白い光が滲む。 オリオンは足をひらき、剣の切っ先を地へ。 声は、驚くほど静かだった。 「倒すんじゃない。――眠らせる」 言葉は風になって、火に触れた。 炎の尾がほどけ、竜の瞳に薄いまぶたが落ちる。 地面に光の線が走った。川みたいに分かれては合わさり、やがて橋の形を描く。 赤い夜が、少しだけ冷えた。 竜の息がゆっくりと弱まり、街の泣き声が遠のく。 オリオンは剣に体重を預け、うっすら笑う。 「誰かが、もう一度渡ってくれるといい」 剣からこぼれた光が夜を切り裂いた。 その瞬間――鐘が鳴る。 ……そして、何も残らなかった。 鐘の音で、朝が来た。 灰色の空。屋根は薄く白く、雪の代わりに煤が積もっている。 王都の片隅、古い井戸の前で、リオンは手袋をはめ直した。灰色の外套、包帯を巻いた左腕。年は若いが、背中に“英雄の影”がついている――その重みを、少し持て余している顔だ。 「……よし。もう一回、引き上げてみるか」 桶が石肌を擦る、ぎい、とした音が小さく響く。水面には白い埃が浮いている。 底に引っかかっていたのは石くずだけ――そう思って手を伸ばした指先に、紙の感触が触れた。 細い紙片。濡れて、ふやけて、それでも中心に小さな印が残っている。 印は、わずかに歪んでいた。丸のはずの輪が、橋のかたちに引きのばされている。 その瞬間、紙片がかすかに温かくなった。 指先に、微かな熱。目に入らないほどの光が、紙の繊維を通って脈を打つ。 リオンは顔を上げ、空を見た。 灰が舞い、鐘の余韻が薄く残っている。 「……夢の続き、か」 言葉は誰にも届かない。 彼は紙片をそっと包み、道具袋の奥にしまった。 ギルドの朝は、いつも火花から始まる。 鍛冶場の奥で、小柄なドワーフの少女リリィがハンマーを振るう。髪の先に火花が散っても気にしない職人気質。 金床に一打、火の粒が跳ねて笑う。 「おかえり、井戸の勇者。報酬は“きれいな水”と“泥の靴紐”。――はい、どっちも高くつく」 短く尖った調子。手は止めない。 リオンは肩をすくめた。 「水はありがたいな。靴紐は……おまけで頼む」 「材料費は嘘つかないよ」 「ツケで」 「ツケはもう橋の長さ分あるけどね」 机の前では、獣人族のヴァルドが大きな手で革袋をもてあそび、黒い耳をぴくりと動かして、にやりと牙を見せた。 「今日も安いな。王都は、いつから銅貨で動くようになったんだ?」 「銅貨で動かないのは貴族くらいだろ」 扉を肩で押し開け、片耳に小鈴を下げた痩せぎすの情報屋ノエルが、ひらひらと紙束を掲げる。声は軽いが、目は笑っていない。 「はい、朝の娯楽。王国からの通達。――ギルド諸氏“協力”を求む、だそうで。“協力”って便利だよね。実体は“束縛”だったり“監視”だったり。言葉って、だいたい節約でできてる」 リリィがしかめっ面で紙をのぞき込む。 「また締め上げるの? 鍋の底まで磨いてるのに」 ヴァルドは短く笑い、椅子の背にもたれかかる。 「締めたい奴は、だいたい自分が解けない。縄の話だ」 「詩人だな、ヴァルド。じゃ、その詩で家賃払ってよ」 ノエルが鈴をちり、と鳴らし、袋を振る。 「家賃はこいつに聞いてくれ。あいにく、俺には金がない。いや“現金がない”と言うべきかな、信頼はあるつもりなんだけど」 奥から、低い声が飛んだ。 「金の話は昼にしろ。朝は腹が減る」 ガロスが現れた。片手にパン、もう片方で書類の束を肩に乗せている。片目の古傷と、重い鎧の痕が残る肩――かつての騎士。 灰色の髭に、笑っていない目。けれど声はどこか温い。 「自由ってのは、好き勝手に走ることじゃねぇ。背負って立つ覚悟のことだ。……で、リオン。井戸はどうだ」 「水は出ました。底で、これを拾った」 リオンは道具袋から例の紙片を取り出した。 光はもう消えて、ただの濡れた紙に見える。けれど印の歪みは残っている。 ガロスの手が止まった。パンが少しだけきしむ。 彼は紙を受け取り、じっと見た。笑い皺が消え、目の底の色が深くなる。 「……それ、どこで拾った?」 鍛冶場の火が小さく鳴った。誰も冗談を言わない。 外から、鐘がもう一度、遠くで鳴る。 「井戸の底で。石の間に挟まってた」 ガロスは一拍置いて紙を返す。 「なくすなよ。……そんで、まだ誰にも見せるな」 「なんで?」 「理由はそのうち嫌でもお前の前に来る。来たとき、逃げ道が要る。自由はそのためのものだ」 ノエルが口笛を鳴らす。 「ガロスの説教、今日も切れ味がいい。鋼材に食い込むタイプのやつだね、比喩として」 「うるせぇ。そんなことより、仕事だ。――昼過ぎ、広場の警備に出る。王都に“青い列”が来る」 その言葉に、空気がわずかに乾いた。 昼。通りに人が集まる。 石畳を鎧の爪先が叩く音が、街の骨を鳴らす。 青い布。光の盾。まっすぐ前だけを見る顔。 騎士団の行進は、いつだってきれいだ。 嫌う者は多いが、目を離せない者も多い。 「はいはい、皆さん、道をあけて」 鎧の列が通りを満たす。青が石畳を染め、陽光が反射する。 子どもたちが息を呑み、大人たちは帽子を脱いだ。 その先頭に――女騎士がいた。 セリア――金の髪をまとめた、王家の血筋の騎士。額に落ちる髪を指で払うと、王家の紋章である青いリボンが風にふれた。 一瞬だけ、まぶしさを避けるようにまぶたを伏せる。 その眼は、光よりも規律を信じている。 「列を乱すな」 短く、冷たく、正確に。 その一言だけで人の波が静まった。 露店の屋根に片肘をついていたリオンは、目線だけで彼女を追った。 言葉の代わりに、胸の奥でひとつ息を整える。 「きれい」と、いつの間にか横に来ていたリリィが小声で言う。 「整列は“見るぶん”にはね」 「ええ、“中にいるぶん”にはきつい」とノエル。 「呼吸の権利を申請したくなるよ、書式は三枚綴りでね」 ヴァルドは黙って腕を組む。 隊列の中ほどで、重い視線がこちらを掠めた。ルーク。副団長の硬い眼差しは、人を測る秤のようだ。 リオンは、その視線を受けて、ほんのわずかに口角を動かす。 「橋を壊すのは、どっちだろうな」 誰にともなくこぼれた言葉は、行進の音に消えた。 夜。ギルドの灯はオイルの匂い。 リオンは机に紙片を広げる。乾いたと思っていたのに、指に触れるとまた温かい。 印が、淡く光った。 輪はほどけ、細い線が伸び、また結ばれる。 橋のかたち。小さな光の筋が、紙の上で呼吸しているみたいだ。 外で、風が鳴った。 遠くで、鐘がひとつ。雲の切れ間に、黒い影が薄く浮かぶ。 竜。目覚めるでも、眠るでもない、曖昧な形。 リオンは窓に寄り、そっと空に問いかけた。 「父さん……この世界、まだ壊れてないよな」 返事は、風の音と紙の鼓動だけ。 それでも、胸の中に小さな火が灯る。 燃やすためじゃない。照らすための火だ。 彼は紙片を包み、ポケットにしまう。 息を吸う。吐く。手の震えが止まる。 灰はまだ空に漂っている。 けれど、どこかで朝が待っている。 ――灰の朝は、まだ息をしている。 けれど、その息は、どこかで火を呼んでいた。朝。同じ光が、同じ角度で落ちている気がした。水の街はよく働き、よく黙った。露店の棚を並べる手つきも、昨日と同じ音を出す。誰かが笑って、誰かが頷く。名前だけが、どこにも置かれていない。「なあ、昨日……ってあったっけ」ノエルが片手をひらひらさせて、鈴に触れずに止めた。リリィは肩をすくめる。笑いの形だけ作って、目は笑わない。「昨日は……あったと思う」リオンが答えると、セリアが横顔を見た。目だけで問い、すぐに外へ滑らせる。「“思う”って言葉、もうあてにならないかも」ヴァルドは風を嗅いで、短く喉を鳴らす。「同じ匂いだ。昨日と」言葉が薄くて、音だけ厚い。そのとき――胸の紙片が、潮の匂いを立てた。薄い面が、指先の脈に合わせて光る。〈第四接続:黒潮の門 反応率73%〉「……行くか」誰が言ったのか、はっきりしない。でも、足は同じ方向へ動いた。◇水都の外縁。海と陸の境。白いものが浮いていた。輪。波。近づくほど、音が少なくなる。呼吸だけが残る。「ここが……“門”」リオンの声は、自分の喉で小さく跳ねて、すぐに鎮んだ。「開いてるようで、閉じてる」セリアがひとつ息を置く。ノエルは縁を覗き込み、指先を引く。「見てるだけで……落ちていく気がする」輪は海に触れず、海は輪に触れない。ただ、境界のまま、そこにある。波間で、光が集まる。少女が立っていた。前より淡く、輪郭が水に溶けかけている。セリアの足が、反射で一歩出る。少女は目を細めて、笑いにもならない笑みを作った。「……また“呼んだ”のね」リオンは首を横に振って、すぐ止める。「呼んでない。ただ……届いた」「“届く”ことが、いちばん壊すのよ」言葉が引いて、沈黙が押し返す。潮の呼吸みたいに、会話が寄せては返す。「世界は、名を失って静かになった。あなたは、まだ動かそうとする」「止めたままじゃ、生きられない」「じゃあ、壊しながら生きるのね」否定の形は作らない。喉が鳴るだけ。輪の白が、海の青を少しだけ薄くする。「だから、私は記す」背から落ちた声に、振り向くまでもなく分かった。アーベルがいた。海風で外套が揺れ、眼鏡が光を拒む。「封印の構文は、あなたの父が残した。開くほどに、記録は削れる。あなたが書くたびに、世界は“修正”される」リオンは紙片を握る。光がじわ
朝。水の匂いが、少し薄い。窓の外の光は柔らかく、音だけが遅れてやって来る。食堂の卓、木の皿の上でパンが乾いた音を立てた。ノエルが顎で窓を指しながら、言葉を手探りするみたいに口を開く。「昨日の……あの、えっと」リリィが笑う。けど、笑いが膝の上で止まる。「寝不足でしょ」ノエルは鈴を指で転がして、鳴らないのを確かめるみたいに眉を寄せる。「昨日、何を見てたんだっけ」リオンはパンをちぎって、返事を遅らせた。「……水を。いつも通り」セリアがこちらを見た。視線が一度だけ外へ滑って戻る。「でも、“いつも”って、何度目?」声が落ちて、皿の縁で消えた。誰も、すぐには拾わない。ヴァルドが背もたれを指で叩いて、短く喉を鳴らす。それで会話は一旦、終わる。◇外へ出ると、水の街は静かにあたたかかった。橋の影が水面に折り重なって、人の足音を丸くする。市場の女が手を振った。「おはよう」隣の老人も、通りの少年も、口にするのはそれきりだ。名前は、どこにも置かれていない。リリィが気づいて、指先で空中に字でもなぞるみたいに言う。「呼び名が……ない」セリアの眉がわずかに寄る。「“呼ぶ”って、橋を渡すことだもの」リオンは無意識に胸の紙片に触れた。薄い灯りが、布越しに呼吸する。「……橋が、何かを“持っていった”?」セリアがリオンの横顔を見た。問いじゃない、確かめるような息。「あなたが書いた構文、覚えてる?」「〈息せよ、すべての声〉」「“声”の中に、“名”もあった」通り過ぎていく人たちは、笑うし、頷く。ただ、誰も呼ばない。誰も呼ばれない。挨拶は水に沈んで、輪のまま広がる。◇塔の前。石段に、朝の光が浅く乗っている。アーベルが降りてきた。白衣の袖にまだ水滴。眼鏡の奥は、眠っていない目。「現象を確認しました」いつもの声。紙の温度。「発生源は、あなたです」リオンは言い返そうとして、喉に小石を入れられたみたいに言葉がつかえた。「俺は、壊してない……書き換えただけ」アーベルは頷きも否定もしないで、淡々と続ける。「壊す、創る、呼吸する。どれも“介入”です」セリアがまっすぐ立つ。髪の先が風を拾って、すぐに落とした。「観測してるだけのあなたが、一番静かに壊してる」アーベルの唇が、わずかに動いた。笑いでも怒りでもない、記号のずれ。「
朝。まだ世界が濡れている。水都の空は薄く、色だけが先に変わっていく。水面は鏡のまま、音は小さく、長い。窓辺に紙片を置く。昨日落ちた滴の跡が、細く残っていた。じっと見ていると、文字がかすかに揺れる。脈みたいに。「……動いてる」背後の気配。セリアが立った。言葉より先に視線が下りてくる。「呼吸してるのね」「橋が?」「あなたのほうが、先に」笑うほどでもないのに、口の端が少しだけ緩む。紙片は、胸の内側と同じ速さで、ふっと、またふっと。◇塔の石段に朝のひかりがのぼる。白衣が光を通して、向こうの手の形が薄く見える。アーベルが降りてきた。眼鏡の奥は、夜のまま。「……見ましたか、声を」問いの形で置かれて、空気が少し冷える。リオンは答えない。セリアだけが視線を返す。「あなたは“書き換えた”んです。封印の構文を」セリアが、短く息を吐く。「書き換えじゃなく……“応えた”」「応えもまた、命令の一種です」温度のぶつかる音がしない。ただ、言葉の輪郭がぶつかる。アーベルは一枚の古紙を取り出した。角の丸い、触れば崩れそうな紙。端に、見慣れた筆跡が走る。〈封印構文:第零式〉「これが、“起点”です。彼は……これを最後に、書くのをやめた」墨の行が胸の中で音を立てる。〈終息せよ、すべての音〉喉が乾く。言葉が出ない。視界の端で、水が細く跳ねた。◇塔を離れる。水路の匂いは冷たくて、指先から肩へと戻ってくる。紙片が勝手に開いた。内側に灯りを入れたみたいに明るい。〈第四接続:黒潮の門〉〈転送構文:未起動〉水面に映ったのは、自分の顔じゃない。昨日の影。口を開かない、銀の瞳。〈……開くたびに、失われる〉耳ではなく、胸の奥に触れてくる声。リオンは息をひとつ置いて、指を紙に落とす。父の文字の並びが、掌の内で蘇る。けれど、途中で止めた。「終わらせるために書いたなら……俺は、始めるために書く」指先が、光を引く。墨ではない、呼吸の色。〈終息〉の字が、内側から滲んで崩れる。そこへ、細い線を一本ずつ足していく。――〈息せよ、すべての声〉音は鳴らないのに、水面が震える。街の水が、いっせいに小さく吸って、吐いた。橋の桁がきしむような、でも柔らかい響き。窓のガラスが細かく震え、塔の腹のどこかが低く応える。胸の中の紙片と、街の水が、同じ速さで呼吸してい
夜と朝のあいだ。水の音だけが生きている。眠れずに外へ出ると、街が鏡のなかに沈んでいた。足音はすぐに丸くなって、どこかへ消える。桟橋の板は冷たく、手すりに残った夜露がゆっくり落ちていく。「……音が、やまないな」背中で衣擦れ。セリアが並んだ。頷く代わりに、息がひとつ。「水は、止まらないもの」「止まらないのに、閉じようとした」彼女は目だけで空を探して、それから水面へ戻した。「……あの人、そういう人だったのかもね」「あの人」――父の名を出さないで、二人とも口を閉じた。言葉より先に、紙片が胸の内側で震える。小さく。呼ぶみたいに。セリアが気づいたのか、視線だけ落とす。「行く?」返事はしなかった。足が先に、静かな方へ向く。◇街外れの水路は、細くて深い。灯りの届かない底で、何かがたしかに息をしている。覗き込むと、こちらを覗き返す“影”があった。誰もいないのに、人の形が揺れている。風はない。波紋だけがゆっくり広がって、戻ってこない。声ではない声が、内側に触れる。〈……開くたびに、失われる。〉〈それでも、開くの?〉背筋の毛が、ひとつずつ立つ。振り返る。そこに、少女がいた。白い外套。濡れた髪。瞳は淡い銀。水気をまとったまま、こちらの温度を測るみたいに立っている。「……あなたの音、聞こえた」声というより、息。言葉の端が、水滴みたいに落ちる。「音……?」「水が鳴いた。あなたが、触ったから」触れない距離。水のこちらと、向こう。でも、呼吸はどこか似ていた。「封印はね」少女は目を伏せ、指で外套の端をつまむ。「壊すためにあるんじゃない。……守るために」リオンは反発の言葉を探して、見つけられずに息を整えた。「それでも、閉じたままじゃ……何も届かない」少女はすこしだけ笑った。笑みにも届かない、口角の温度。「届いたあと、誰が残るの?」喉が動いて、音にならない。紙片が胸の内で光を増す。水面に細い輪が走る。「……父さんは、何を守りたかったんだ」聞かせる声じゃないのに、少女のまつげが影を落とす。「“声”よ。 ――届くたびに、消える声」水面がふっと崩れて、影がほどけた。リオンの手の中、紙片の縁に冷たい滴が落ちる。その滴が、光の中で滲んで、文字になった。〈第四接続:南西端 “黒潮の門”〉読むより先に、
朝、谷の風が細くなる。灰の匂いが遠のいて、かわりに湿った音が近づいてきた。波でもない、布を撫でるみたいな、やわい音。「……次は、水の音か」リオンがつぶやくと、前を歩くセリアが肩だけ小さく動かした。青の外套が朝の光を吸って、後ろへ長い影を落とす。「音は似てる。……けど、流れは違う」ノエルは何か言いかけて、口の端を片手で押さえた。風が言葉を持っていく。「落ちないようにね、流れに」リリィが地図を折りたたみ、背の紐をもう一度締め直す。ヴァルドは空気の匂いを確かめ、ただ一度うなずいた。◇水都レヴァリアは、空を映していた。白い建物が水面から生え、橋が鏡の上で折り重なる。声を出すと、すぐ吸い込まれて、音が丸くなる。桟橋の上で、紙片がしっとりと重みを増す。薄い光が内側から滲み、短い行が揺れた。〈第三接続:安定化未確認〉リリィが水に指を入れて、すぐ引っ込める。「……この街、眠ってる」「眠ってるふりかも」セリアが水面の端を見た。風もないのに、細い皺が走って消える。ノエルが港の人影を眺め、鈴を触らずに指先だけ動かす。「静かだね。静かなほうが、言葉は速く沈む」ヴァルドは舟の綱に触れて、掌で震えを測るみたいに押した。「底で、何かが息してる」◇塔は水の縁に立っていた。白い壁。窓が少ない。扉の金具は磨かれ、触ると冷たい。出迎えた男は微笑んだが、目は笑っていなかった。白衣の上に青い外套。縁の細い眼鏡。「ようこそ、レヴァリアへ。参謀、アーベル・カノンです」声が穏やかで、机の上の紙と同じ手触りだった。「風の封印を、開いたそうですね。……あなたの意思で?」リオンは答える前に、息をひとつ置いた。窓の外で、水が小さく跳ねる。「あれは、眠ってた。……目を、開けたかっただけです」「橋を動かす者は、世界を動かす者です」アーベルは視線を下げ、細いペンを横へ置いた。「あなたが“何を起こすか”、私は記録しに来ました」机に古びた紙が置かれる。角が擦れて、手に馴染んだ色。端に、見覚えのある筆跡。――オリオン・ブリッジライト。リオンの視線が、そこで止まる。その止まり方を、セリアが横で見ていた。何も言わず、呼吸だけが浅くなる。「この街で、最初の橋に関する記録が残っています」アーベルは紙を持ち上げず、指で縁をなぞった。「彼は、よく書いた。
夜明け前、ノクスの空気は軽いのに、街の胸は重かった。昨夜の光の橋は消え、谷底には焦げたような痕と、薄い灰の匂いだけが残っている。広場の端で、兵が縄を張っていた。「異端の儀式だ」「封鎖だ」――言葉が先に歩き、事情は置いてきぼりだ。リリィが腕を組み、短く言う。「片づけは、いつも翌朝だね」ノエルは鈴を指で弾き、肩をすくめた。「道を開いたあとって、誰が掃除するんだろうね」ヴァルドは鼻で風を吸い、眉を寄せる。「谷の風が、獣の匂いをしてる」セリアは王都へ戻らなかった。青の外套は着ているが、立つ場所はもう列の中じゃない。「秩序の外でも、守れるものがあるなら、私はそこにいる」彼女はそうだけ言って、剣の柄に軽く触れた。リオンの胸ポケットで、紙片が震えた。熱ではない。小さな鼓動みたいな震え。耳を澄ますと、谷が浅く息をしている。吸って、吐いて。――呼吸音。「嫌な予感しかしない」とノエル。「燃え残りは、“次”の燃料になるんじゃない?」とリリィ。リオンは頷き、視線を谷底に落とした。「行こう。今のうちに、確かめる」◇崩れた橋の根元へ降りるには、石の階段を延々と下るしかない。風が上から下へ、下から上へ。服の裾をひゅうっと撫でていく。谷底は、思ったより広かった。石が円を描くように並び、中心に一本、黒い石柱が立っている。光を吸うみたいに、そこだけ夜が残っていた。リリィが近づき、手袋の上からそっと触れる。指先が弾かれ、火花がぱちりと散った。「……魔力じゃない。これ、“息”だよ。生きてる鉱石」ノエルが目を細める。「封印ってのは、呼吸するもんなの?」セリアは石陣を見渡しながら静かに言う。「橋が“渡す”なら、渡される側もいる」リオンの紙片が勝手に開いた。淡い光が走り、文字が浮かぶ。〈第二接続:安定化失敗〉〈再起動警告:封印層破損〉リオンは小さく息を呑む。「……開きすぎた、のか」ヴァルドが低く唸る。「だから風が、獣の匂いをした」石柱の奥から、空気が逆流した。髪が逆立つ。砂が、灰が、光の粒が、ひとところに吸い寄せられて――渦になる。◇渦は、細い骨から形を作るみたいに、空気で身を組み上げた。輪郭だけの竜。鱗はない。刃のように鋭い風と、胸の奥に響くうなり声だけがある。ノクスの谷が鳴った。高い壁が共鳴して、耳の奥がきしむ。紙片が赤く疼
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