断絶の王国と架け橋の騎士

断絶の王国と架け橋の騎士

last update最終更新日 : 2025-10-22
作家:  吟色たった今更新されました
言語: Japanese
goodnovel4goodnovel
評価が足りません
10チャプター
45ビュー
読む
本棚に追加

共有:  

報告
あらすじ
カタログ
コードをスキャンしてアプリで読む

概要

冒険

異世界ファンタジー

魔法

後継者

ヒーロー

騎士

成長

敵対

超能力

かつて世界を救った英雄オリオンの息子、リオン。 彼は「殺さずに世界を救う」という父の遺志を胸に、 騎士団とギルド、そして異なる種族の狭間で戦い続ける。 剣よりも言葉を。勝利よりも和解を。 だが、理想はいつも血に塗れる。 裏切り、喪失、そして再生——。 彼の決断が、“断絶の王国”に架けるたった一つの橋となる。 理想を掲げる騎士団。 自由を求めるギルド。 閉ざされた森の民、沈黙の海の王国、そして暗躍する魔族たち。 世界が“断絶”へと進む中、 リオンは「橋を架ける者」として、剣を取り、迷いながらも走り出す。 ——殺して進む勇気は要らない。 繋いで進む勇気だけが、世界を変える。

もっと見る

第1話

灰の朝、井戸の底の約束

空が、赤かった。

夜なのに、朝よりも明るい。

王都の屋根が溶け、風は火の匂いを運ぶ。炎は大きな獣の息みたいに地面をなめ、石畳をやわらかくしていく。

瓦礫の上に、ひとりの男が立っていた。

オリオン。左腕には白い包帯。右手の剣は、炎の色を拒むように淡く光っている。

空を覆う影がうねる。火竜だ。

その咆哮に、鐘楼の鐘が震えた。

誰かが逃げ、誰かが叫び、誰かが祈っている。

オリオンは背を振り返らない。仲間はもう退いた。いまはただ、ここを“つなぐ”だけだ。

包帯が、焦げた。白が黒へ、黒の隙間から白い光が滲む。

オリオンは足をひらき、剣の切っ先を地へ。

声は、驚くほど静かだった。

「倒すんじゃない。――眠らせる」

言葉は風になって、火に触れた。

炎の尾がほどけ、竜の瞳に薄いまぶたが落ちる。

地面に光の線が走った。川みたいに分かれては合わさり、やがて橋の形を描く。

赤い夜が、少しだけ冷えた。

竜の息がゆっくりと弱まり、街の泣き声が遠のく。

オリオンは剣に体重を預け、うっすら笑う。

「誰かが、もう一度渡ってくれるといい」

剣からこぼれた光が夜を切り裂いた。

その瞬間――鐘が鳴る。

……そして、何も残らなかった。

鐘の音で、朝が来た。

灰色の空。屋根は薄く白く、雪の代わりに煤が積もっている。

王都の片隅、古い井戸の前で、リオンは手袋をはめ直した。灰色の外套、包帯を巻いた左腕。年は若いが、背中に“英雄の影”がついている――その重みを、少し持て余している顔だ。

「……よし。もう一回、引き上げてみるか」

桶が石肌を擦る、ぎい、とした音が小さく響く。水面には白い埃が浮いている。

底に引っかかっていたのは石くずだけ――そう思って手を伸ばした指先に、紙の感触が触れた。

細い紙片。濡れて、ふやけて、それでも中心に小さな印が残っている。

印は、わずかに歪んでいた。丸のはずの輪が、橋のかたちに引きのばされている。

その瞬間、紙片がかすかに温かくなった。

指先に、微かな熱。目に入らないほどの光が、紙の繊維を通って脈を打つ。

リオンは顔を上げ、空を見た。

灰が舞い、鐘の余韻が薄く残っている。

「……夢の続き、か」

言葉は誰にも届かない。

彼は紙片をそっと包み、道具袋の奥にしまった。

ギルドの朝は、いつも火花から始まる。

鍛冶場の奥で、小柄なドワーフの少女リリィがハンマーを振るう。髪の先に火花が散っても気にしない職人気質。

金床に一打、火の粒が跳ねて笑う。

「おかえり、井戸の勇者。報酬は“きれいな水”と“泥の靴紐”。――はい、どっちも高くつく」

短く尖った調子。手は止めない。

リオンは肩をすくめた。

「水はありがたいな。靴紐は……おまけで頼む」

「材料費は嘘つかないよ」

「ツケで」

「ツケはもう橋の長さ分あるけどね」

机の前では、獣人族のヴァルドが大きな手で革袋をもてあそび、黒い耳をぴくりと動かして、にやりと牙を見せた。

「今日も安いな。王都は、いつから銅貨で動くようになったんだ?」

「銅貨で動かないのは貴族くらいだろ」

扉を肩で押し開け、片耳に小鈴を下げた痩せぎすの情報屋ノエルが、ひらひらと紙束を掲げる。声は軽いが、目は笑っていない。

「はい、朝の娯楽。王国からの通達。――ギルド諸氏“協力”を求む、だそうで。“協力”って便利だよね。実体は“束縛”だったり“監視”だったり。言葉って、だいたい節約でできてる」

リリィがしかめっ面で紙をのぞき込む。

「また締め上げるの? 鍋の底まで磨いてるのに」

ヴァルドは短く笑い、椅子の背にもたれかかる。

「締めたい奴は、だいたい自分が解けない。縄の話だ」

「詩人だな、ヴァルド。じゃ、その詩で家賃払ってよ」

ノエルが鈴をちり、と鳴らし、袋を振る。

「家賃はこいつに聞いてくれ。あいにく、俺には金がない。いや“現金がない”と言うべきかな、信頼はあるつもりなんだけど」

奥から、低い声が飛んだ。

「金の話は昼にしろ。朝は腹が減る」

ガロスが現れた。片手にパン、もう片方で書類の束を肩に乗せている。片目の古傷と、重い鎧の痕が残る肩――かつての騎士。

灰色の髭に、笑っていない目。けれど声はどこか温い。

「自由ってのは、好き勝手に走ることじゃねぇ。背負って立つ覚悟のことだ。……で、リオン。井戸はどうだ」

「水は出ました。底で、これを拾った」

リオンは道具袋から例の紙片を取り出した。

光はもう消えて、ただの濡れた紙に見える。けれど印の歪みは残っている。

ガロスの手が止まった。パンが少しだけきしむ。

彼は紙を受け取り、じっと見た。笑い皺が消え、目の底の色が深くなる。

「……それ、どこで拾った?」

鍛冶場の火が小さく鳴った。誰も冗談を言わない。

外から、鐘がもう一度、遠くで鳴る。

「井戸の底で。石の間に挟まってた」

ガロスは一拍置いて紙を返す。

「なくすなよ。……そんで、まだ誰にも見せるな」

「なんで?」

「理由はそのうち嫌でもお前の前に来る。来たとき、逃げ道が要る。自由はそのためのものだ」

ノエルが口笛を鳴らす。

「ガロスの説教、今日も切れ味がいい。鋼材に食い込むタイプのやつだね、比喩として」

「うるせぇ。そんなことより、仕事だ。――昼過ぎ、広場の警備に出る。王都に“青い列”が来る」

その言葉に、空気がわずかに乾いた。

昼。通りに人が集まる。

石畳を鎧の爪先が叩く音が、街の骨を鳴らす。

青い布。光の盾。まっすぐ前だけを見る顔。

騎士団の行進は、いつだってきれいだ。

嫌う者は多いが、目を離せない者も多い。

「はいはい、皆さん、道をあけて」

鎧の列が通りを満たす。青が石畳を染め、陽光が反射する。

子どもたちが息を呑み、大人たちは帽子を脱いだ。

その先頭に――女騎士がいた。

セリア――金の髪をまとめた、王家の血筋の騎士。額に落ちる髪を指で払うと、王家の紋章である青いリボンが風にふれた。

一瞬だけ、まぶしさを避けるようにまぶたを伏せる。

その眼は、光よりも規律を信じている。

「列を乱すな」

短く、冷たく、正確に。

その一言だけで人の波が静まった。

露店の屋根に片肘をついていたリオンは、目線だけで彼女を追った。

言葉の代わりに、胸の奥でひとつ息を整える。

「きれい」と、いつの間にか横に来ていたリリィが小声で言う。

「整列は“見るぶん”にはね」

「ええ、“中にいるぶん”にはきつい」とノエル。

「呼吸の権利を申請したくなるよ、書式は三枚綴りでね」

ヴァルドは黙って腕を組む。

隊列の中ほどで、重い視線がこちらを掠めた。ルーク。副団長の硬い眼差しは、人を測る秤のようだ。

リオンは、その視線を受けて、ほんのわずかに口角を動かす。

「橋を壊すのは、どっちだろうな」

誰にともなくこぼれた言葉は、行進の音に消えた。

夜。ギルドの灯はオイルの匂い。

リオンは机に紙片を広げる。乾いたと思っていたのに、指に触れるとまた温かい。

印が、淡く光った。

輪はほどけ、細い線が伸び、また結ばれる。

橋のかたち。小さな光の筋が、紙の上で呼吸しているみたいだ。

外で、風が鳴った。

遠くで、鐘がひとつ。雲の切れ間に、黒い影が薄く浮かぶ。

竜。目覚めるでも、眠るでもない、曖昧な形。

リオンは窓に寄り、そっと空に問いかけた。

「父さん……この世界、まだ壊れてないよな」

返事は、風の音と紙の鼓動だけ。

それでも、胸の中に小さな火が灯る。

燃やすためじゃない。照らすための火だ。

彼は紙片を包み、ポケットにしまう。

息を吸う。吐く。手の震えが止まる。

灰はまだ空に漂っている。

けれど、どこかで朝が待っている。

――灰の朝は、まだ息をしている。

けれど、その息は、どこかで火を呼んでいた。

もっと見る
次へ
ダウンロード

最新チャプター

続きを読む

コメント

コメントはありません
10 チャプター
灰の朝、井戸の底の約束
空が、赤かった。夜なのに、朝よりも明るい。王都の屋根が溶け、風は火の匂いを運ぶ。炎は大きな獣の息みたいに地面をなめ、石畳をやわらかくしていく。瓦礫の上に、ひとりの男が立っていた。オリオン。左腕には白い包帯。右手の剣は、炎の色を拒むように淡く光っている。空を覆う影がうねる。火竜だ。その咆哮に、鐘楼の鐘が震えた。誰かが逃げ、誰かが叫び、誰かが祈っている。オリオンは背を振り返らない。仲間はもう退いた。いまはただ、ここを“つなぐ”だけだ。包帯が、焦げた。白が黒へ、黒の隙間から白い光が滲む。オリオンは足をひらき、剣の切っ先を地へ。声は、驚くほど静かだった。「倒すんじゃない。――眠らせる」言葉は風になって、火に触れた。炎の尾がほどけ、竜の瞳に薄いまぶたが落ちる。地面に光の線が走った。川みたいに分かれては合わさり、やがて橋の形を描く。赤い夜が、少しだけ冷えた。竜の息がゆっくりと弱まり、街の泣き声が遠のく。オリオンは剣に体重を預け、うっすら笑う。「誰かが、もう一度渡ってくれるといい」剣からこぼれた光が夜を切り裂いた。その瞬間――鐘が鳴る。……そして、何も残らなかった。鐘の音で、朝が来た。灰色の空。屋根は薄く白く、雪の代わりに煤が積もっている。王都の片隅、古い井戸の前で、リオンは手袋をはめ直した。灰色の外套、包帯を巻いた左腕。年は若いが、背中に“英雄の影”がついている――その重みを、少し持て余している顔だ。「……よし。もう一回、引き上げてみるか」桶が石肌を擦る、ぎい、とした音が小さく響く。水面には白い埃が浮いている。底に引っかかっていたのは石くずだけ――そう思って手を伸ばした指先に、紙の感触が触れた。細い紙片。濡れて、ふやけて、それでも中心に小さな印が残っている。印は、わずかに歪んでいた。丸のはずの輪が、橋のかたちに引きのばされている。その瞬間、紙片がかすかに温かくなった。指先に、微かな熱。目に入らないほどの光が、紙の繊維を通って脈を打つ。リオンは顔を上げ、空を見た。灰が舞い、鐘の余韻が薄く残っている。「……夢の続き、か」言葉は誰にも届かない。彼は紙片をそっと包み、道具袋の奥にしまった。ギルドの朝は、いつも火花から始まる。鍛冶場の奥で、小柄なドワーフの少女リリィがハンマーを振るう。髪の先に火花が散っても気
last update最終更新日 : 2025-10-11
続きを読む
封鎖区の火と青の誓い
朝の市場は、乾いていた。パンの湯気より先に、粉っぽい空気が喉にふれる。布張りの屋台は風を弾き、誰もいないのに喧嘩腰みたいにきしんだ。リオンは外套の裾を結び直し、胸ポケットを指で確かめる。紙片が、ぬくい。火に近づけたわけでもないのに、皮膚の下からじわりと熱が押し上げてくる。「昨日より、空が軽いな」隣で縄を巻いていたヴァルドが、顎で北を示す。獣人の黒い耳が、ひとつ、ぴくりと動いた。「軽い空は、火を呼ぶ」リリィが工具を肩に担いで、ぶっきらぼうに言う。「湿り気ゼロ。火の勝ち」ちり、と小さな鈴。ノエルが紙束をひらつかせ、片耳の鈴を指先で弾いた。「はい、朝の娯楽。王国より“緊急通達”。封鎖区で異常熱反応、だそうで。言葉は熱い、財布は寒い」「文句はあとだ」ガロスが通りの真ん中で声を張った。片目の古傷が朝日に細く光る。「“青い列”が動く前に、こっちが行く。――誘導、消火、救助。ぶつけるな。守れ。それが自由の稼ぎ方だ」「了解」リオンは短く頷き、紙片をポケットの奥へ押し込んだ。胸の鼓動と、熱の脈が妙に合う。封鎖区――旧街区。竜の夜の傷跡が、まだ地面の奥でうずく。傾いた壁、焦げた梁、積み木みたいに崩れた家。立ち入り禁止の札は灰を被り、風にこすれて音だけ大きい。「水を回すよ。路地に一本、広い通りには二本!」リリィがバケツの列に短く指示を飛ばす。言葉は鋭いけれど、手は優しい。ヴァルドは鼻で空気を嗅ぎ、浅くうなった。「人の匂い。…奥だ」ノエルは綱を張りながら、ぼそり。「“封鎖区”って、封が甘いほどよく燃える」路地の先、黒く焼けた壁に、焦げの輪郭が残っていた。丸い印のはずなのに、片側だけ細く伸びて――橋のかたち。リオンの胸で、紙片が微かに脈打つ。ポケット越しに、熱が指先に移った。「見たんだよ、ほんとに」避難してきた老婆が、指を震わせる。「きのうの夜、火の上に細い道が光ってさ…夢じゃないんだよ」リオンはうなずき、目を細めて路地の奥を見た。風が一度、逆さに吹く。火の匂いが濃くなる。蹄の音。砂を巻く短い風。騎士団が到着した。行進ではない、仕事の足音だ。鎧に煤がつき、馬の鼻息は白い。先頭の馬から、女騎士が降りた。セリア。金の髪は高くまとめられ、額にほどけた一束を指で払う仕草まで整っている。青い小さなリボンが、煤の空の中で水面みたい
last update最終更新日 : 2025-10-11
続きを読む
青の牢と、灰の手紙
朝は来た。けれど街の匂いは昨日のままだった。焦げと水と、冷えた鉄。ギルドの戸口をくぐると、最初に目に入ったのはリリィの腕組みだ。小柄なドワーフの少女は金床の前で眉を寄せ、ふん、と鼻を鳴らす。作業台の上には濡れた布と焦げた釘。昨夜の名残。ヴァルドは窓際で新聞を丸め、牙を少し見せてうなった。黒い耳がぴくり。「見出しが変わった。『英雄たち、火中から救出』が――」紙面をひっくり返して、乾いた指で叩く。「『王都南区で“禁忌印”発光 異常魔力現象として調査』だとよ」ノエルが椅子の背にもたれ、片耳の小鈴を指で弾いた。ちり。「英雄ってのは便利だ。次の日には“異端”に書き換えられる。字面は軽いのに、落ちる影は重い」言い合いを止めたのは、ガロスの靴音だった。ギルドマスターは何も言わず、厚い封筒を机に置く。封蝋は青。王城の印。中身は一枚の呼び出し状――『協力要請』の文字が、きれいなほど冷たい。「行け」ガロスの声は低く短い。片目の古傷が朝の光を細く跳ね返す。「今なら“まだ”話を聞く耳があるうちに、な」リオンは頷き、外套を取る。胸ポケットの紙片が、皮膚の熱に応えるみたいに一瞬だけぬくくなった。(また、始まる)戸口の向こう。灰の街路に、鐘の余韻がまだ薄く残っていた。◇王城の地下は、地上より静かだ。音が石に吸われ、声がよく届く。白い石の廊を抜けた先、鉄格子の影が床に縞模様を描いている。セリアは鎧を外され、簡素な拘束服に身を包んでいた。背筋はまっすぐ。目も。取調室の卓をはさんで、ルークともう一人の上官が座る。羊皮紙、羽根ペン、淡い魔力の灯。「命令違反」上官が項目を読み上げるたび、ペン先が乾いた音を立てる。「禁印への接触」「ギルドとの共謀の疑い」セリアは淡々と、しかし逃げずに答えた。「命令は理解していました。状況を見て、人命を優先しました」壁に、爪で引いたような細い線が残っている。橋のかたち。燃えた石に白い痕だけが沈んでいた。セリアの視線は、そこに一度だけ止まる。ルークが口を開く。副団長の声は低く、まっすぐだ。「火の中で見た“白い橋”……あれは、君の意思か?」セリアはひと呼吸、息を整えた。「もしそうなら、あなたはもう私を見ていないはず」目だけで続ける。“私が橋を出せるほどの者なら、この部屋の秩序は今ここにはない”――そんな意味。
last update最終更新日 : 2025-10-12
続きを読む
渓谷都市ノクス
朝の空気は薄く、街の声だけが濃かった。「光の橋を見た」「異端の子がいる」「青が裏切った」――そんな噂が、洗濯物みたいに通りにぶら下がっている。ギルドの前で、リリィは背負い袋の口をぎゅっと結んだ。「工具、よし。水袋、よし。――文句、なし」ヴァルドは革の帯を締め直し、短く鼻を鳴らす。「肉、少ない。途中で獲る」「道中で獲らないで。保存食あるから」ノエルはいつも通り軽く手を振り、片耳の鈴を鳴らした。「異端の旅一行、ただいま出発。――ええと、目的は“観光”ってことで押し通せる?」「観光なら、荷が重すぎるな」ガロスが地図を机に広げ、指で南を叩いた。「橋が次を指したなら、止まる理由はねぇ」彼は顔を上げ、ひとりひとりの目を見た。「行け。追手が来る前にな」リオンは胸ポケットの紙片をそっと確かめる。薄い光が、短く笑ったみたいにまたたく。〈第二接続:ノクス〉まだ“どうして”は掴めてない。けれど、呼ばれている。「……火は呼ばれた。なら、応えるのは俺たちの番だ」自分に言い聞かせるみたいに呟くと、ガロスがにやりと口の端を上げた。「その顔だ。――気をつけてな」◇南へ向かう街道は、岩と風の道だった。崖が切り立ち、影が歩幅を合わせて伸びていく。風は乾いて、舌に砂の味を残す。「ここ、地図だと緩やかな坂って書いてあるんだけど」リリィが眉をしかめながら地図を覗く。「地図は紙。坂は石。石の勝ちだ」ヴァルドが淡々と答えると、ノエルが肩をすくめた。「はい、“石の勝ち”メモっとく。――ところで、あれ見て」指差す先で、灰色の鳥が群れになって空を裂いた。風を嫌う鳴き声。火を恐れる鳥、だとどこかで聞いた。左腕が、じんわり熱を帯びる。包帯の下で心臓がひとつ跳ね、ポケットの紙片が小さく共鳴した。リオンの口から、思わず言葉がこぼれる。「……眠ってるんじゃない。待ってるんだ」「今なんて?」「なんでもない」「いや、“なんでもない”って顔じゃないね」ノエルが覗き込む。リオンは笑って首を振った。「風の音が、少し大きくなっただけだ」そのとき、風の中にかすれた声が混じった気がした。〈……眠りは終わり、風が渡る〉聞き間違いかもしれない。けれど、足が少しだけ速くなる。◇渓谷都市ノクスは、底に眠っていた。切り立った崖のあいだを、白い家々と石の階段が縫っている
last update最終更新日 : 2025-10-14
続きを読む
風の底で目を開けたもの
夜明け前、ノクスの空気は軽いのに、街の胸は重かった。昨夜の光の橋は消え、谷底には焦げたような痕と、薄い灰の匂いだけが残っている。広場の端で、兵が縄を張っていた。「異端の儀式だ」「封鎖だ」――言葉が先に歩き、事情は置いてきぼりだ。リリィが腕を組み、短く言う。「片づけは、いつも翌朝だね」ノエルは鈴を指で弾き、肩をすくめた。「道を開いたあとって、誰が掃除するんだろうね」ヴァルドは鼻で風を吸い、眉を寄せる。「谷の風が、獣の匂いをしてる」セリアは王都へ戻らなかった。青の外套は着ているが、立つ場所はもう列の中じゃない。「秩序の外でも、守れるものがあるなら、私はそこにいる」彼女はそうだけ言って、剣の柄に軽く触れた。リオンの胸ポケットで、紙片が震えた。熱ではない。小さな鼓動みたいな震え。耳を澄ますと、谷が浅く息をしている。吸って、吐いて。――呼吸音。「嫌な予感しかしない」とノエル。「燃え残りは、“次”の燃料になるんじゃない?」とリリィ。リオンは頷き、視線を谷底に落とした。「行こう。今のうちに、確かめる」◇崩れた橋の根元へ降りるには、石の階段を延々と下るしかない。風が上から下へ、下から上へ。服の裾をひゅうっと撫でていく。谷底は、思ったより広かった。石が円を描くように並び、中心に一本、黒い石柱が立っている。光を吸うみたいに、そこだけ夜が残っていた。リリィが近づき、手袋の上からそっと触れる。指先が弾かれ、火花がぱちりと散った。「……魔力じゃない。これ、“息”だよ。生きてる鉱石」ノエルが目を細める。「封印ってのは、呼吸するもんなの?」セリアは石陣を見渡しながら静かに言う。「橋が“渡す”なら、渡される側もいる」リオンの紙片が勝手に開いた。淡い光が走り、文字が浮かぶ。〈第二接続:安定化失敗〉〈再起動警告:封印層破損〉リオンは小さく息を呑む。「……開きすぎた、のか」ヴァルドが低く唸る。「だから風が、獣の匂いをした」石柱の奥から、空気が逆流した。髪が逆立つ。砂が、灰が、光の粒が、ひとところに吸い寄せられて――渦になる。◇渦は、細い骨から形を作るみたいに、空気で身を組み上げた。輪郭だけの竜。鱗はない。刃のように鋭い風と、胸の奥に響くうなり声だけがある。ノクスの谷が鳴った。高い壁が共鳴して、耳の奥がきしむ。紙片が赤く疼
last update最終更新日 : 2025-10-15
続きを読む
水都レヴァリア ― 沈む記憶と青の残響 ―
朝、谷の風が細くなる。灰の匂いが遠のいて、かわりに湿った音が近づいてきた。波でもない、布を撫でるみたいな、やわい音。「……次は、水の音か」リオンがつぶやくと、前を歩くセリアが肩だけ小さく動かした。青の外套が朝の光を吸って、後ろへ長い影を落とす。「音は似てる。……けど、流れは違う」ノエルは何か言いかけて、口の端を片手で押さえた。風が言葉を持っていく。「落ちないようにね、流れに」リリィが地図を折りたたみ、背の紐をもう一度締め直す。ヴァルドは空気の匂いを確かめ、ただ一度うなずいた。◇水都レヴァリアは、空を映していた。白い建物が水面から生え、橋が鏡の上で折り重なる。声を出すと、すぐ吸い込まれて、音が丸くなる。桟橋の上で、紙片がしっとりと重みを増す。薄い光が内側から滲み、短い行が揺れた。〈第三接続:安定化未確認〉リリィが水に指を入れて、すぐ引っ込める。「……この街、眠ってる」「眠ってるふりかも」セリアが水面の端を見た。風もないのに、細い皺が走って消える。ノエルが港の人影を眺め、鈴を触らずに指先だけ動かす。「静かだね。静かなほうが、言葉は速く沈む」ヴァルドは舟の綱に触れて、掌で震えを測るみたいに押した。「底で、何かが息してる」◇塔は水の縁に立っていた。白い壁。窓が少ない。扉の金具は磨かれ、触ると冷たい。出迎えた男は微笑んだが、目は笑っていなかった。白衣の上に青い外套。縁の細い眼鏡。「ようこそ、レヴァリアへ。参謀、アーベル・カノンです」声が穏やかで、机の上の紙と同じ手触りだった。「風の封印を、開いたそうですね。……あなたの意思で?」リオンは答える前に、息をひとつ置いた。窓の外で、水が小さく跳ねる。「あれは、眠ってた。……目を、開けたかっただけです」「橋を動かす者は、世界を動かす者です」アーベルは視線を下げ、細いペンを横へ置いた。「あなたが“何を起こすか”、私は記録しに来ました」机に古びた紙が置かれる。角が擦れて、手に馴染んだ色。端に、見覚えのある筆跡。――オリオン・ブリッジライト。リオンの視線が、そこで止まる。その止まり方を、セリアが横で見ていた。何も言わず、呼吸だけが浅くなる。「この街で、最初の橋に関する記録が残っています」アーベルは紙を持ち上げず、指で縁をなぞった。「彼は、よく書いた。
last update最終更新日 : 2025-10-17
続きを読む
声の底 ― 眠らなかった継承者 ―
夜と朝のあいだ。水の音だけが生きている。眠れずに外へ出ると、街が鏡のなかに沈んでいた。足音はすぐに丸くなって、どこかへ消える。桟橋の板は冷たく、手すりに残った夜露がゆっくり落ちていく。「……音が、やまないな」背中で衣擦れ。セリアが並んだ。頷く代わりに、息がひとつ。「水は、止まらないもの」「止まらないのに、閉じようとした」彼女は目だけで空を探して、それから水面へ戻した。「……あの人、そういう人だったのかもね」「あの人」――父の名を出さないで、二人とも口を閉じた。言葉より先に、紙片が胸の内側で震える。小さく。呼ぶみたいに。セリアが気づいたのか、視線だけ落とす。「行く?」返事はしなかった。足が先に、静かな方へ向く。◇街外れの水路は、細くて深い。灯りの届かない底で、何かがたしかに息をしている。覗き込むと、こちらを覗き返す“影”があった。誰もいないのに、人の形が揺れている。風はない。波紋だけがゆっくり広がって、戻ってこない。声ではない声が、内側に触れる。〈……開くたびに、失われる。〉〈それでも、開くの?〉背筋の毛が、ひとつずつ立つ。振り返る。そこに、少女がいた。白い外套。濡れた髪。瞳は淡い銀。水気をまとったまま、こちらの温度を測るみたいに立っている。「……あなたの音、聞こえた」声というより、息。言葉の端が、水滴みたいに落ちる。「音……?」「水が鳴いた。あなたが、触ったから」触れない距離。水のこちらと、向こう。でも、呼吸はどこか似ていた。「封印はね」少女は目を伏せ、指で外套の端をつまむ。「壊すためにあるんじゃない。……守るために」リオンは反発の言葉を探して、見つけられずに息を整えた。「それでも、閉じたままじゃ……何も届かない」少女はすこしだけ笑った。笑みにも届かない、口角の温度。「届いたあと、誰が残るの?」喉が動いて、音にならない。紙片が胸の内で光を増す。水面に細い輪が走る。「……父さんは、何を守りたかったんだ」聞かせる声じゃないのに、少女のまつげが影を落とす。「“声”よ。 ――届くたびに、消える声」水面がふっと崩れて、影がほどけた。リオンの手の中、紙片の縁に冷たい滴が落ちる。その滴が、光の中で滲んで、文字になった。〈第四接続:南西端 “黒潮の門”〉読むより先に、
last update最終更新日 : 2025-10-18
続きを読む
声の形 ― 水に息を与える者 ―
朝。まだ世界が濡れている。水都の空は薄く、色だけが先に変わっていく。水面は鏡のまま、音は小さく、長い。窓辺に紙片を置く。昨日落ちた滴の跡が、細く残っていた。じっと見ていると、文字がかすかに揺れる。脈みたいに。「……動いてる」背後の気配。セリアが立った。言葉より先に視線が下りてくる。「呼吸してるのね」「橋が?」「あなたのほうが、先に」笑うほどでもないのに、口の端が少しだけ緩む。紙片は、胸の内側と同じ速さで、ふっと、またふっと。◇塔の石段に朝のひかりがのぼる。白衣が光を通して、向こうの手の形が薄く見える。アーベルが降りてきた。眼鏡の奥は、夜のまま。「……見ましたか、声を」問いの形で置かれて、空気が少し冷える。リオンは答えない。セリアだけが視線を返す。「あなたは“書き換えた”んです。封印の構文を」セリアが、短く息を吐く。「書き換えじゃなく……“応えた”」「応えもまた、命令の一種です」温度のぶつかる音がしない。ただ、言葉の輪郭がぶつかる。アーベルは一枚の古紙を取り出した。角の丸い、触れば崩れそうな紙。端に、見慣れた筆跡が走る。〈封印構文:第零式〉「これが、“起点”です。彼は……これを最後に、書くのをやめた」墨の行が胸の中で音を立てる。〈終息せよ、すべての音〉喉が乾く。言葉が出ない。視界の端で、水が細く跳ねた。◇塔を離れる。水路の匂いは冷たくて、指先から肩へと戻ってくる。紙片が勝手に開いた。内側に灯りを入れたみたいに明るい。〈第四接続:黒潮の門〉〈転送構文:未起動〉水面に映ったのは、自分の顔じゃない。昨日の影。口を開かない、銀の瞳。〈……開くたびに、失われる〉耳ではなく、胸の奥に触れてくる声。リオンは息をひとつ置いて、指を紙に落とす。父の文字の並びが、掌の内で蘇る。けれど、途中で止めた。「終わらせるために書いたなら……俺は、始めるために書く」指先が、光を引く。墨ではない、呼吸の色。〈終息〉の字が、内側から滲んで崩れる。そこへ、細い線を一本ずつ足していく。――〈息せよ、すべての声〉音は鳴らないのに、水面が震える。街の水が、いっせいに小さく吸って、吐いた。橋の桁がきしむような、でも柔らかい響き。窓のガラスが細かく震え、塔の腹のどこかが低く応える。胸の中の紙片と、街の水が、同じ速さで呼吸してい
last update最終更新日 : 2025-10-20
続きを読む
欠けた声 ― 記録者たちの朝 ―
朝。水の匂いが、少し薄い。窓の外の光は柔らかく、音だけが遅れてやって来る。食堂の卓、木の皿の上でパンが乾いた音を立てた。ノエルが顎で窓を指しながら、言葉を手探りするみたいに口を開く。「昨日の……あの、えっと」リリィが笑う。けど、笑いが膝の上で止まる。「寝不足でしょ」ノエルは鈴を指で転がして、鳴らないのを確かめるみたいに眉を寄せる。「昨日、何を見てたんだっけ」リオンはパンをちぎって、返事を遅らせた。「……水を。いつも通り」セリアがこちらを見た。視線が一度だけ外へ滑って戻る。「でも、“いつも”って、何度目?」声が落ちて、皿の縁で消えた。誰も、すぐには拾わない。ヴァルドが背もたれを指で叩いて、短く喉を鳴らす。それで会話は一旦、終わる。◇外へ出ると、水の街は静かにあたたかかった。橋の影が水面に折り重なって、人の足音を丸くする。市場の女が手を振った。「おはよう」隣の老人も、通りの少年も、口にするのはそれきりだ。名前は、どこにも置かれていない。リリィが気づいて、指先で空中に字でもなぞるみたいに言う。「呼び名が……ない」セリアの眉がわずかに寄る。「“呼ぶ”って、橋を渡すことだもの」リオンは無意識に胸の紙片に触れた。薄い灯りが、布越しに呼吸する。「……橋が、何かを“持っていった”?」セリアがリオンの横顔を見た。問いじゃない、確かめるような息。「あなたが書いた構文、覚えてる?」「〈息せよ、すべての声〉」「“声”の中に、“名”もあった」通り過ぎていく人たちは、笑うし、頷く。ただ、誰も呼ばない。誰も呼ばれない。挨拶は水に沈んで、輪のまま広がる。◇塔の前。石段に、朝の光が浅く乗っている。アーベルが降りてきた。白衣の袖にまだ水滴。眼鏡の奥は、眠っていない目。「現象を確認しました」いつもの声。紙の温度。「発生源は、あなたです」リオンは言い返そうとして、喉に小石を入れられたみたいに言葉がつかえた。「俺は、壊してない……書き換えただけ」アーベルは頷きも否定もしないで、淡々と続ける。「壊す、創る、呼吸する。どれも“介入”です」セリアがまっすぐ立つ。髪の先が風を拾って、すぐに落とした。「観測してるだけのあなたが、一番静かに壊してる」アーベルの唇が、わずかに動いた。笑いでも怒りでもない、記号のずれ。「
last update最終更新日 : 2025-10-21
続きを読む
黒潮の門 ― 世界を呼ぶ声 ―
朝。同じ光が、同じ角度で落ちている気がした。水の街はよく働き、よく黙った。露店の棚を並べる手つきも、昨日と同じ音を出す。誰かが笑って、誰かが頷く。名前だけが、どこにも置かれていない。「なあ、昨日……ってあったっけ」ノエルが片手をひらひらさせて、鈴に触れずに止めた。リリィは肩をすくめる。笑いの形だけ作って、目は笑わない。「昨日は……あったと思う」リオンが答えると、セリアが横顔を見た。目だけで問い、すぐに外へ滑らせる。「“思う”って言葉、もうあてにならないかも」ヴァルドは風を嗅いで、短く喉を鳴らす。「同じ匂いだ。昨日と」言葉が薄くて、音だけ厚い。そのとき――胸の紙片が、潮の匂いを立てた。薄い面が、指先の脈に合わせて光る。〈第四接続:黒潮の門 反応率73%〉「……行くか」誰が言ったのか、はっきりしない。でも、足は同じ方向へ動いた。◇水都の外縁。海と陸の境。白いものが浮いていた。輪。波。近づくほど、音が少なくなる。呼吸だけが残る。「ここが……“門”」リオンの声は、自分の喉で小さく跳ねて、すぐに鎮んだ。「開いてるようで、閉じてる」セリアがひとつ息を置く。ノエルは縁を覗き込み、指先を引く。「見てるだけで……落ちていく気がする」輪は海に触れず、海は輪に触れない。ただ、境界のまま、そこにある。波間で、光が集まる。少女が立っていた。前より淡く、輪郭が水に溶けかけている。セリアの足が、反射で一歩出る。少女は目を細めて、笑いにもならない笑みを作った。「……また“呼んだ”のね」リオンは首を横に振って、すぐ止める。「呼んでない。ただ……届いた」「“届く”ことが、いちばん壊すのよ」言葉が引いて、沈黙が押し返す。潮の呼吸みたいに、会話が寄せては返す。「世界は、名を失って静かになった。あなたは、まだ動かそうとする」「止めたままじゃ、生きられない」「じゃあ、壊しながら生きるのね」否定の形は作らない。喉が鳴るだけ。輪の白が、海の青を少しだけ薄くする。「だから、私は記す」背から落ちた声に、振り向くまでもなく分かった。アーベルがいた。海風で外套が揺れ、眼鏡が光を拒む。「封印の構文は、あなたの父が残した。開くほどに、記録は削れる。あなたが書くたびに、世界は“修正”される」リオンは紙片を握る。光がじわ
last update最終更新日 : 2025-10-22
続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status