結婚して七年。藤田智昭(ふじた ともあき)の冷たい態度に、青木玲奈(あおき れな)はずっと笑顔で向き合ってきた。 彼を深く愛していたから。 いつか彼の心を温めることができると信じていたから。 でも、待っていたのは、別の女性への一目惚れと優しい気遣い。 それでも必死に守り続けた結婚生活。 誕生日に海外まで会いに行った日、彼は娘を連れてあの女と過ごし、彼女は一人部屋で待ちぼうけ。 ようやく心が折れた。 自分が育てた娘が他の女性をママと呼ぼうとしても、もう胸は痛まない。 離婚協議書を用意し、親権を放棄。すっぱりと去って、父娘のことは知らないふり。離婚証明書を待つだけ。 家庭を捨て、仕事に没頭した彼女は、かつて誰もが見下していた身でありながら、軽々と何兆円の資産を築き上げた。 でも待てど暮らせど離婚証明書は来ないどころか、以前は家に帰りたがらなかった夫の帰宅が増え、彼女への執着も強まる一方。 離婚の話を聞いた途端、いつもの高慢で冷たい男が彼女を壁際に追い詰めた。 「離婚?そんなことは絶対にありえない!」
View More結菜は得意げに玲奈を見た。佳子も娘のことを嬉しそうに見ていた。一方の玲奈はというと、いつも通りで、そちらを見るのすら面倒くさがっていた。玲奈は俯いて黙々とお茶を飲んでいた。まるで存在感がなく、優里と三井教授の話題には全く入っていけなかった。それなのに、優里は多くの専門家たちから注目されていた。それを見た淳一は、ようやく胸がすっとするのを感じた。その時、スミスからまた優里にメッセージが届いた。【長墨ソフトは驚くほど革新的な会社だ。社長の湊礼二だけでなく、彼のもとで働くエンジニアたちも非常に創造的だ。近いうちにまた訪問したいと思っていて、湊礼二や何人かの技術者と直接対話できればと思っている】NMIジャーナルは厳格なブラインドレビュー制度を採用しており、査読者は投稿者の情報を一切見られない。そのため、スミスも以前はこの論文の執筆者が誰か知らなかった。優里はスミスからのメッセージを見て、前回の訪問で礼二と深く話せなかったことをまだ悔やんでいるのだと思った。優里がスミスに慰めの返信を書こうとしたとき、三井教授が学生に話しかけた。「我慢できずに、やっぱり論文を見に行ったのか?」「はい!」学生は興奮気味に言った。「この論文の核心は、大規模モデルの長文処理効率を十倍以上に引き上げたことです。海外の多くの著名エンジニアたちが今、徹夜でこの論文を読んでいます。この成果は海外でも大きな話題になっていて、国内でもさっきトレンド入りしました。しかも、これを発表したのは長墨ソフトのチームなんです!」その声を聞いた優里は動きを止め、メッセージを返そうとしていた手も止まり、礼二を見上げた。他の人たちも同様だった。佳子たちはその言葉に眉をひそめた。こんなに優れた研究成果が、礼二たちによって生み出されたとは。とはいえ、礼二の実力を思えば、この論文が彼の会社のチームによるものでも、別に驚くことではない気もした。ただ、今の礼二は心のすべてを玲奈に向けていて、自分たちとは敵対する立場にいる。娘の教授がこれほどまでに推していた論文が、礼二たちの研究だったと知ってしまえば、どうしても気持ちは穏やかではいられなかった。一方、三井教授は嬉しそうに礼二に言った。「湊さん、また新しい成果を率いて出されたんですか?おめでとうございます」それに対し
言葉が終わらないうちに、個室の外でノックの音が響いた。来たのは清司と辰也だった。清司がドアを開けて中を覗くと、人の多さに驚いた。「こんなに人がいたのか?」このレストランは彼の家の経営だ。彼と辰也は夕食に来ていたが、マネージャーから智昭が来ていると聞き、挨拶だけと思って立ち寄ったところ、こんなにも人がいるとは思わなかった。しかも顔見知りばかりだ。これだけ人が集まっているのを見て、清司は二人だけで食事するのもつまらないと思い、口を開いた。「智昭、こんなに人がいるんだし、俺と辰也も加わってもいいかな?」智昭は言った。「三井教授、湊さん、いかがでしょうか——」さっき三井教授が大森家と遠山家を招いた手前、智昭の友人の申し出を断るのが難しかった。「もちろん構いませんが、湊さんは——」礼二は笑って言った。「島村さんも村田さんも旧知の仲ですから、もちろん構いません」最初に大森家や遠山家が加わったときは、彼も少し不機嫌だった。でも今は、世界中の人が来ても構わないくらいだ。二人増えたところで気にするはずもない。最近、結菜は辰也に会いたがっていたが、彼は避け続けていた。ようやく会えた彼女は立ち上がって言った。「辰也さん、こっちに座って」辰也は彼女を無視し、清司と一緒に智昭の隣へ椅子を二つ追加させた。二人が座った途端、またノックが響いた。今度入ってきたのは、淳一と彼の会社の主力エンジニア三人だった。藤田グループのこのプロジェクトには、彼の会社も関わっている。中に入ってこの人数を見て、彼も驚いた。けれど彼が驚いたのは、玲奈や礼二がいることではない。智昭がこの案件で長墨ソフトと手を組んでいるのはもう周知の事実だった。驚いたのは、優里や遠山家、それに大森家の人々までいることだった。入ってきた彼は優里の顔に一瞬視線を走らせてから言った。「皆さん、遅れてしまいすみません」智昭は言った。「遅くありませんよ、俺たちも着いたばかりです。徳岡さん、どうぞ」淳一は座る前に三井教授に挨拶した。「こちらが三井教授ですね、お名前は以前から伺っておりました」「おお、徳岡さんでしたか。こんにちは、どうもどうも」慎也が予約していたのはもともと広い個室で、大きな円卓は二、三十人でも余裕で座れる。優里、辰也、清司ら六七人が増え
交流?彼らの間にはまったく会話なんてなかった。もちろん、現場には人がたくさんいるし、わざわざ三井教授にそんな話をする必要もない。そもそも礼二と三井教授は一度会っただけの関係で、たいして親しいわけでもない。彼は適当に笑って「教授の言う通りです」とだけ返した。三井教授は国内のAI分野ではそれなりに名の知れた存在だ。大森家と遠山家の人間も、礼二ならスミス先生の博士課程の学生である優里を特別視するだろうと思っていた。今また三井教授が優里をこれほど高く評価しているのを耳にして、結菜は得意げに玲奈の方を見やった。彼女の姉はスミス先生みたいなその道の権威の弟子なのに、玲奈なんて何者?あの姉の前じゃ、玲奈なんて存在感ゼロだ。佳子や律子たちも同じことを思っていた。智昭が優里に電話をかけたとき、佳子や正雄たちもその場にいた。彼らがこっちで食事をすると知って、ついでにやってきただけだった。とはいえ、ただ飯にありつくつもりで来たわけじゃない。実際には、ただ一緒にこの店で食べたかっただけだ。三井教授は彼らが優里の家族だと知ると、ぜひ一緒にどうですかと食事に誘った。誘ったあとで、礼二に向き直り、声をかけた。「湊さん、よろしければ——」礼二は玲奈の方を見やった。玲奈は特に気にする様子もなかった。三井教授は年配だから、礼二もわざわざ顔をつぶすような真似はしなかった。礼二は内心で苦笑しつつも、表ではにこやかに言った。「お招きしてるのは藤田さんですから。藤田さんさえよければ、私が気にすることなんてありませんよ」一行はそのまま個室へと入っていった。玲奈は礼二の隣に腰を下ろした。その反対側には、翔太が静かに座った。優里の両隣には、智昭と三井教授が陣取った。席につき少し話したあと、三井教授は優里にスミスの話を切り出した。二人が話し始めて間もなく、優里のスマホにメッセージの通知音が鳴った。届いたばかりのメッセージを見た優里はふっと笑って、三井教授に言った。「NMIの最新号が発行されたそうです」NMIの最新号は、たしかに今日発行された。これは特にニュースってほどでもなく、ここにいる佳子や結菜たち遠山家や大森家の人間以外なら、だいたい誰でもAI分野のトップジャーナルの動向はチェックしている。だから、
言葉が終わる前に、瑛二が返事をする間もなく、彼女の通信機が鳴り出した。通信機のメッセージを確認すると、玲奈は言い残し、足早に立ち去った。「データセンターで急ぎの用件があるから、先に失礼するわ」翌朝早く、玲奈は基地を後にした。自宅で一日休養を取った後、彼女は長墨ソフトへと出社した。長墨ソフトと藤田グループはすでに正式な業務提携を開始していた。玲奈が長墨ソフトに戻ったその日、礼二もちょうど藤田グループで会議が予定されていた。以前に智昭と契約の話をしたときは、彼女はまったく関与せず、礼二や茂人に任せることができた。だが、今回の長墨ソフトと藤田グループのプロジェクトでは、彼女の関与が不可欠だった。今回の会議は、両社が中核技術について協議する重要なものであり、玲奈は復職後、礼二とともに藤田グループへ向かった。翔太をはじめとする技術スタッフも一緒に藤田総研へと向かった。会議室の前に着いた時、智昭と二人の秘書、慎也がちょうど反対側から向かって来ていた。彼らの姿を見ると、智昭は礼儀正しく礼二に挨拶を交わした。玲奈が藤田グループを離れてから、慎也は彼女とほとんど顔を合わせることがなかった。ただし、和真から彼女が長墨ソフトで働いていることを聞いたことがあった。この数日、礼二はすでに数回藤田グループを訪れていたが、その時は玲奈は同行していなかった。彼らはもう玲奈が藤田グループに現れることはないと思っていた。まさか……もちろん、智昭も玲奈と翔太の姿に気づいていた。玲奈にも翔太にも、一瞥をくれるだけで、まるで赤の他人のように目を逸らし、そのまま礼二と共に会議室に入っていった。翔太もまた自分と智昭の関係を他人に知られたくなかった。智昭のその態度は、むしろ彼の望むところだった。玲奈と慎也は以前それなりに良好な関係だった。久しぶりに顔を合わせた彼に、彼女は軽く頷いて挨拶した。「畠山さん、お久しぶりです」「ご無沙汰しています」その様子を見て、翔太が尋ねた。「知り合い?」「前にこちらで働いていたの」翔太は彼女と智昭の関係を知らず、「こちらで」と言われて、以前藤田グループで技術職として働いていたのだろうと解釈した。それ以上詮索することなく、本題があることもあり、深くは聞かなかった。玲奈と翔太が席についたち
玲奈は慌てて頷き、瑛二に言った。「ごめんね、一緒に食事行けなくなっちゃった」瑛二は優しく「気にしないで」と言った。玲奈はそのまま歩き去った。瑛二は彼女と真田教授が去っていく背中を見送り、一人で食堂へ向かった。彼はしばらく休暇を取っていなかった。玲奈と会ってから二日後が、彼の正式な休暇初日だった。その二日間、彼は玲奈の姿を一度も見かけなかった。家に帰っても、家族は彼が今日休みだとは知らず、それぞれの用事で誰もいなかった。彼の帰宅を知った淳一が、夕食に誘ってきた。食事中、宗介が思わず瑛二に向かって噂話を口にした。「あの大森さんって、淳一が好きな人でしょ?まさかあのカイウェット・スミスの博士課程の学生だったとは、すごいよな」瑛二はAI分野の歴史に詳しくなく、スミスの名も知らなかった。宗介も、瑛二がその名を知らないことはわかっていた。自分も以前は知らなかったが、淳一のおかげで少し詳しくなっただけだ。瑛二は元々この話題にはあまり関心がなかった。だが、何かを思い出したようにふと尋ねた。「このカイウェット・スミスと、我が国の真田教授では、どちらがAI分野で影響力が大きいのか?」その質問に宗介は答えられなかった。だが淳一は知っていた。「真田先生だな」あの真田教授は、かつてたった一人でAI分野に数々の革新的成果をもたらした天才だ。彼が率いるチームは、国外による多くの技術的封鎖を突破し、我が国のAI発展に新たな道を切り開いた。彼は海外からも非常に警戒される存在だった。今の我が国のAI技術の進展は、真田教授の貢献なしには語れない。カイウェット・スミスも優秀かもしれないが、真田教授との間にはまだ差がある。彼は今、礼二を快く思っていない。だが真田教授は真田教授であり、礼二とは別だ。真田教授について話す際に、礼二のことを理由に偏見を持つことはなかった。自分に関係のないことには、瑛二は普段ほとんど口を出さない。そんな彼が今日に限ってこんな質問をしたのは、少し異例だった。だが真田教授が国内AI分野の第一人者であり、しかも全員が真田教授と面識があることから、こういう場面で瑛二がその話題を持ち出しても、淳一と宗介は特に不思議には思わなかった。その話題が一段落ついた後、何を思い出したのか、淳一
日曜日は母の日だった。茜は土曜日に青木家にやって来た。彼女を送ってきたのは智昭の運転手だった。茜が母の日に贈ったプレゼントは、手作りのカードで、数文字が書かれていた。「ママ、母の日おめでとう」「きれいでしょ?先生はパパに手伝ってもらってもいいって言ってたけど、最近パパは忙しくてさ、構図から絵を描いてハートを貼るまで、ぜーんぶ自分でやったんだ」玲奈が茜の文字を見るのも久しぶりだった。彼女の字は、前よりずっときれいになっていた。玲奈はその言葉を聞き、手元のカードを見つめながら、去年A国まで飛んで彼女と智昭の誕生日を祝おうとした時、彼女が優里のブレスレット作りに夢中だったことを思い出した。しかも茜の話ぶりからすると、あのブレスレットは彼女と智昭の合作だったようだった。そんなことを考えても、玲奈の表情は変わらなかった。ゆっくりとカードを閉じ、「とてもきれいね、ありがとう」と言った。母の日の翌日、玲奈は真田教授から電話を受け、その晩には再び基地へ向かった。瑛二がデータセンターに入り、忙しそうに作業をしている玲奈を見て、ふと足を止めた。玲奈はすぐには彼の存在に気づかなかった。しばらくして、コップを手に取り一口水を飲み、再び作業に戻ろうとした時、ようやく少し離れた場所に立っている瑛二の姿に気づいた。一瞬動きを止めて彼に軽く会釈すると、そのまま作業に戻った。瑛二がここに来たのは、ある用件があったからだ。用事を一通り終えた頃、玲奈がまだ同じ場所にいるのを見て、彼は近づいて言った。「こんなに遅いのに、先に食事を済ませないのか?」玲奈は顔を上げて彼だと気づき、「もう少ししたら行く」と答えた。瑛二は頷き、それ以上は何も言わず立ち去った。玲奈がさらに作業を続け、食事に行こうとデータセンターを出た時、瑛二が外で待っているのを見かけた。誰かを待っているようだった。足音に気づいて振り返った瑛二は、彼女を見て微笑みながら言った。「終わったのか?食事に行くのか?」「ええ、あなたは——」「一緒に?」玲奈は一瞬きょとんとしたが、すぐに彼が自分を待っていたのだと気づいた。瑛二は彼女の仕事の邪魔をしないようにと、外で待っていてくれたのだった。彼は玲奈を見つめて言った。「先週の任務の記録、見たよな。君が私を救
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