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第5話

Auteur: 雪八千
玲が弘樹と出会ったのは八歳の頃。それから十三年、彼女が何を言っても、弘樹は無条件で信じ、常に味方でいてくれた。

だから今日、綾が仕掛けた稚拙な罠に、雪乃が気づかなくても、弘樹だけは見逃さないと玲は信じていた。

だが彼はしばし玲を見つめたあと、ゆっくりと綾のもとへ歩み寄り、その手を取った。

「玲、これが最後の警告だ。靴を綾に返し、彼女に謝ってくれ」

その迷いのない言葉と態度に、周りの人々の視線が一斉に玲から離れていく。つい先ほどまで彼女が無実だと信じていた者も、今や「意地を張って認めないだけ」と思い始めていた。

静まり返ったリビング。綾のそばには、彼女を信じて支える人々が並んでいる。だが、玲の隣には誰一人いなかった。

玲はその現実を受け止めながらも、不思議と体の傷はもう痛まない。胸を満たしていたのは、失う悲しみではなく、すべてを奪われたあとの虚無だけだった。

――弘樹は綾を選んだ。彼女との婚約をも。

三年間の想いも、尽くしてきた努力も、権力の前では塵に等しい。

その残酷な事実を突きつけようと、玲と弘樹の関係を知った綾は、今日という場を仕組んだのだろう。玲に「弘樹はもう自分のものではない」と思い知らせ、敗者として蹴り落とすために。

けれど、玲は這い上がっていこうとした。

周りの冷たい視線を無視して顔を上げると、足を引きずりながら落ちていたスマホを拾い上げ、ためらいなく「110」に発信した。

「弘樹さん、私は謝らない。警察に来てもらうわ」

「……」

弘樹の眉間に深い皺が刻まれる。額に浮かぶ血管が怒りを物語っていたが、その威圧も、もはや玲を怯ませることはなかった。

一方、綾は動揺を隠しきれず、慌てて横へと視線を逸らす。

そのとき、運転手らしき男がガラスの靴を抱えて駆け込んできた。

「お嬢様!靴はこちらに……池のそばに置かれていたのを見つけまして。盗まれたのかと心配で、勝手に保管しておりました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません!」

「えっ……あなたが持っていったの?」

綾は芝居めいた驚きを浮かべ、すぐに玲へと顔を向ける。

「ごめんなさいね、玲さん。まさか、うちの者が余計なことをしていたなんて。

でも……この靴は私にとって大切なものなの。まさか私と意地を張るために、高瀬家の名誉まで潰そうなんて思っていないわよね?」

謝罪の裏に忍ばせた、見え透いた脅し。

しかしよそから見れば、「藤原家の令嬢が、自分より身分の低い相手にまで頭を下げた」と映るだろう。わがままな一面があるとしても、すぐに過ちを認める素直さと寛大さも持ち合わせていると。

実際、通報などすれば高瀬家も綾自身も世間の笑いものになるだけ。

だからこそ、綾は玲をなんとか宥めようと必死だった。

だが玲は、綾には目もくれず、ただ弘樹だけを見据える。

「弘樹さん、さっきまで私が盗んだって言い切ってたわよね?こうして真相が明らかになったのだから……自分の言葉、恥ずかしくないの?」

皮肉を込めた笑みを浮かべながら、玲は運転手の手にあるガラスの靴を見た。

「でも今日、はっきりわかったの。

不相応なものを欲しがってはいけないって。見た目は美しくても、所詮ただのガラクタだから」

ガラスの靴は輝いて見えても、履けば痛みと冷たさしか残さない。

――まるで弘樹という男のように。

温もりを知らずに育った高瀬家で、玲にとって弘樹だけが唯一の優しさだった。

だから彼女は自分を押し殺し、必死に「いい子」を演じ続けてきた。ただ、彼のそばにいるためだけに。

けれど、弘樹は優しい男ではなかった。玲がすべてを捧げるほど、価値ある相手でもなかった。

綾と結婚したければすればいい。自分たちの恋は、ここで終わりだ。

そう思った瞬間、玲の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。その顔には、もう憎しみも未練も残っていない。

彼女の表情を見た弘樹は、拳を固く握りしめた。手の甲の血管は、張りつめた弓の弦のように、今すぐ切れてしまいそうだった。

――彼は、自分から何か大切なものが離れていくのを悟ったのかもしれない。

だが結局、彼が口にしたのは冷たい一言だけだった。

「……もういい。玲、靴を綾に返せ」

通報の電話は運転手が入ってくる前に繋がったため、雪乃が玲のスマホを取り上げ、警察に事情を説明すると、そのまま電話を切った。

彼女にとってすべては夫と弘樹の意志次第。弘樹が「もういい」と言ったのなら、従うまでだ。

弘樹の言葉に、玲は静かに頷いた。

だが、綾が靴を受け取ろうと手を伸ばしたその瞬間、玲はそれを思い切り壁へ投げつけた。

「きゃあっ!」

甲高い悲鳴とともに、靴は粉々に砕け散る。

「何をするの……?あれは私と弘樹さんの愛の証なのよ!」

取り乱す綾に、玲は平然と答えた。

「何って、私を陥れた代償を支払っていただくだけです」

「……っ、謝ったじゃない!」

「ええ。けどその謝罪に、いったい何の価値があるというのですか?」

雪乃が慌てて割って入る。

「玲!なんて口をきくの!藤原さんに失礼でしょう!」

玲はしばらく黙り、母をまっすぐに見つめた。やがて、冷ややかな声で言う。

「お母さん……もう耳が遠くなったの?私が理不尽に責められても黙っていたのに、どうして他人をかばう時だけ必死なの?

外の人には頭を下げて、身内をきつくしつけておけば、尊敬されると思ってるの?そんなわけない。もし本当に尊敬されてたなら、娘の私がいじめられることなんてなかったはず。

それに藤原さんだって――もし本気でお母さんを敬ってるなら、最初から私をこんなふうに扱ったりしなかったわ」

バシッ!

乾いた音が響き、玲の頬に熱が走る。

あまりの衝撃に雪乃は青ざめ、動けなくなった。

しばらく耳鳴りが続いたあと、玲はゆっくりと我に返る――自分を打ったのは弘樹だった。

自分の母を罵倒した時には動かなかったくせに、綾を口にした途端、彼はためらいなく手をあげたのだ。

そのとき、威厳のある声が部屋に響いた。

「なんの騒ぎだ」

現れたのは高瀬家の当主、茂だった。

リビングにいた全員がはっと我に返る。自室で仕事をしていた彼が、騒ぎを聞きつけて姿を現したのだ。

もみあげには白いものが混じり始めていたが、その眼差しはなお鷹のように鋭く、場を一望する。

茂の面影を宿した弘樹の目にも、暗い影が落ちていた。

「お父さん、お騒がせしてすみません。今日のことは俺に任せてください。

玲……綾に免じて見逃してやろうと思ったが、どうやら罰を与えなければ懲りないようだ。

ならば、お父さんに報告するまでもない。

田中さん、鞭を取ってきてくれ」

弘樹の声に応じ、執事の田中(たなか)が腕ほどの太さもある棘の鞭を持ってくる。

高瀬家に古くから伝わる、過ちを犯した者に与える罰の象徴だった。

雪乃は思わず止めようとしたが、夫の鋭い視線に射すくめられ、言葉を飲み込むしかなかった。

代わって綾が、勝ち誇ったように笑みを浮かべ、玲に囁く。

「弘樹さんを責めないでね。あんた、私を侮辱したんだから当然よ。この痛みで思い知りなさい――これが、私に逆らった報いよ」

頬を腫らした玲は、その言葉を黙って聞いていたが、やがて口の端を吊り上げた。

「藤原さん……私が打ちのめされる姿を見たいのでしょうけど、ひとつ言い忘れていました。昔、あの方を助けた恩。返してもらうつもりはなかったけれど……気が変わりました」

その一言に、綾の顔色が一瞬にして変わる。

次の瞬間、重々しい靴音が響き渡り、空気が張りつめた。

皆が音のする方へ目を向ける。逆光の中、長身の影が姿を現す。

男の冷ややかに光る瞳は、まっすぐ玲を見つめていた。

光を受けて浮かび上がる深い彫りの顔立ちは、思わず息を呑むほどに美しい。どんな彫刻の名匠であっても、その端正で気高い気配までは彫り出せまい。

ただ立っているだけで、場の空気を一変させ、全員の呼吸を奪う――圧倒的な存在感。

彼こそ、首都の経済界を牛耳る藤原グループ現当主――藤原秀一だ。

玲は大きく息を吸い込み、真っすぐ彼のもとへ歩み寄ると、はっきりと言った。

「秀一さん……私を連れて行って」
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