Mag-log in座り直した凛は、自分が握っている康平の手元の親指が半分欠けていることに気がついた。身体的障害として認定された場合、左手の親指よりも、右手の親指の方が重度として認定される。凛は康平の手を見つめた。医師は康平の全身に無数の傷があると言い、海斗が手を伸ばしただけで、康平は過剰に反応し、さらには、白衣を見ただけで震えだした。なぜ?この2年間で何があったのだろう?そしてこの1週間余り、学校で康平に何が起きたというのか?想像したくない。涙がこぼれ落ちそうになったその時、突然、康平が凛の手を強く握り、2年前と同じ呼び方で、凛を呼んだ。「姉ちゃん」かすれた、聞き取りづらい声。それでも凛は、精いっぱい笑みを作る。「うん、ここにいるよ」「姉ちゃん」康平にとって、凛が人生でいちばん大切な人だったかどうかは分からない。しかし、初めて「姉ちゃん」と呼んだあの日から――凛はずっと、康平にとって何より大切な存在だった。康平がにへらと無邪気に笑った。その笑顔は2年前よりも幼く、どこか痛々しい。凛の胸が痛んだ。康平は施設で凛と特別親しかった子ではない。それでも、凛が思わず連絡先を教えてしまった子。たとえそれがなくても、ひとりの子どもが、こんなにも自分を頼り、慕ってくれる。それだけで、凛の心は簡単に動かされてしまうのだ。本当は、康平に聞きたいことが山ほどあった。だが、今の康平がきちんと話せる状態だとは思えないし、まだ体調も回復していない。だから凛は、とりあえず警察の連絡を待つことにした。……ホシゾラ・テクノロジー。スノウ・セミコンダクターとの提携プロジェクト発足式を終えた智也は、ほっと胸をなで下ろしていた。とはいえ、片付けなければならない仕事は山ほど残っている。その最優先が、ホシゾラ・テクノロジーの年次報告書。正確には、智也自身の1年を総括する報告だろう。まもなく景山グループの年次総会が開かれる。スノウ社との提携は何とか守り切ったものの、マイクロチップ開発プロジェクトは竹内グループに奪われた。もし純粋に実力負けだったなら、それほど問題にはならなかっただろうし、相手が竹内グループなら、負けても誰も責めはしない。だが実際には、智也の私生活が原因で失った案件だ。翼の特許を取れなかったのも、完全に私的なミスが原因だった
さらに、その声は一段と冷たくなる。「この件、学校側に責任がないといいですね」その場にいた誰もが息をのんだ。もう誰ひとり口を開こうとはせず、黙ったまま引き返していく。道すがら互いに顔を見合わせてはすぐに目をそらす様子には、後ろめたさが滲んでいた。椅子に座り込んだ凛。凛は待合の椅子に腰掛けたまま、ずっと手術室の扉だけを見つめていたため、海斗が何をしていたのかにも気づかず、どれほど時間が過ぎたのかも分からなかった。すると、ふとカイロを差し出された。凛は手を伸ばしてそれを受け取った。開封したばかりなのか、まだ完全には温まっていない。礼を言おうとしたその時、手術室のランプが消え、医師が出てきた。康平は脚の骨折だけでなく、頭部にも血腫があったが、すでに処置を施したため、もう命に別状はないと言う。すると、医師が尋ねた。「患者さんのご家族の方ですか?」凛は頷く。「はい、彼の姉です」「弟さんの体には他にも多くの傷があったのですが、そのことについてはご存じでしたか?」凛は驚きながら首を振った。「どんな傷ですか?」「切り傷や打撲、打ち身の跡も多く、全身にわたるアザがありました」「彼は寮で暮らしています」と、海斗が口を挟んだ。「ご家族でしたら、学校での様子をもっとよく見てあげてくださいね」海斗が一言だけ返事をする。「はい」そして、康平が病室へ運ばれていったので、凛と海斗もその後を追った。そこは狭い大部屋で、冬ということもあり窓は閉め切られ、空気はこもり、様々な匂いが入り混じっていた。凛は病室のベッド脇に腰を下ろし、康平に触れることさえためらうように、ただ静かに寄り添った。時折、不安そうに視線を心電図モニターへ向け、その規則正しく刻まれる波形を確認しては、また康平の寝顔へと目を戻す。そんな凛の様子を、海斗は静かに見つめていた。海斗が一度病室を出た。しばらくして海斗が戻ってくると、康平は別の病室へ移されていた。広くはないものの、清潔に整えられた個室。海斗は凛の隣まで歩み寄り、静かに問いかける。「医者の言っていたあの傷、どうするつもりだ?」凛が答える。「警察に任せる」「そうか」夕方になり、ようやく康平が薄く目を開けた。「康平!」凛はすぐさま身を乗り出した。「康平、目が覚めたのね」酸素マスクをつけた
凛はそれ以上考えている余裕もなく、手術室の場所だけを聞くと、足早に駆け出した。走り始めてすぐ、小走りではもどかしくなり、そのまま廊下を駆けていく。手術室の前に行ったところで、康平に会えないとは分かっていた。海斗が康平の状態を聞いたが、看護師も具体的な状況は知らないようだった。その後、海斗は支払いを済ませてから、すぐに凛の元へ向かった。海斗が手術室の前へたどり着くと、凛はひとり、ぽつんと立ち尽くしていた。ほかの家族のように落ち着かず歩き回ることもなく、ただその場に立ったまま、まるで時間だけが止まってしまったかのようだった。近づくと、凛の顔に涙が伝っているのに気づく。「凛。康平くんは足にケガをしただけで、頭は特に怪我をしていなかったって看護師が言ってた」「海斗」そう海斗の名前を呼ぶ凛の声は、もう消え入りそうだった。「昨日私がここに来ていればよかったのに。昨日来てさえいれば……」凛の自責の念が海斗にひしひしと伝わってきた。「凛、自分を責めるな。たとえ昨日のうちにここに来ていたとしても、校内には入ることができなかった。今回のことは谷口に全責任がある。あいつが康平くんをあの学校に送ったくせに、監視を怠ったんだから」凛は海斗を見上げた。すべては智也のせいだと分かっていても、自分を責める気持ちを抑えきれなかったのだ。自分が手を下したわけじゃない。でも……こうなった原因は、自分にある。凛の瞳から、涙が堰を切ったように溢れ出した。海斗はその涙をそっと拭う。凛の頬は冷たかった。手足も冷えているに違いない。海斗は自分のコートを脱いで凛の肩にかけ、静かに言った。「心配しなくていい。今は手術の結果を待とう。ここで手術ができないというのなら、A市に戻ればいいし、A市でも駄目なら、海外で治療をするという選択肢もあるんだ」海斗のコートの温もりがそうさせたのか、それとも、静かにかけられた言葉に、不思議と心を落ち着かせる力があったのか……それまで声もなく涙を流していた凛は、とうとう堪えきれず、小さく嗚咽を漏らし始めた。隠されていた凛の脆さが曝け出されていく。「海斗……私、すごく怖い……康平は無事かな?人の生き死にに、自分が関わってしまったことが、本当に怖いの。本当なら、康平はこんなことに巻き込まれるはずじゃなかった。私
その学校は静かな場所に建てられていたが、教室棟の中はひどく騒がしかった。3人が階段を上っていると、一人の女性教師と二人の男性教師とすれ違った。女性教師は顔を真っ青にして脂汗を流し、男性教師たちは険しい表情をしている。凛は少し眉をひそめた。教育委員会の職員が言った。「校長室は3階ですので、もうすぐ着きますよ」しかし、凛たちが校長室の前に着くと、その扉は固く閉ざされていて、中からは怒号が聞こえてきた。「こんなことを繰り返していたら、全員ただじゃ済まないぞ!それに、あの生徒は『特に注意して見守るように』と、上から何度も念を押されていた子なんだ。その意味が分からないわけじゃないよな?」その言葉が聞こえてきた瞬間、教育委員会の職員が顔をしかめる。「やはり特別支援学校というだけあって、少し特殊ですので、子ども同士の喧嘩やトラブルは日常茶飯事で……」しかし、海斗が鋭い視線を投げかけると、教育委員会の職員は即座に口を閉じ、校長室のドアをノックした。ノックの音が響いた瞬間、校長室の中が静かになった。校長室の扉が開けられ、中からは男性教師が出てきた。教育委員会の職員の姿を確認すると、すぐに笑みを浮かべ、手を差し出す。すぐに、凛たちにも気づいたらしく、教育委員会の職員へと視線を向けた。教育委員会の職員が海斗と凛を紹介する。「竹内社長と凛さんです。ある生徒を探しているらしいということで、上司の指示により、こちらにお連れしました」男性教師は3人を中へ招き入れ、校長や他の教師たちに順次紹介し、特に教育委員会職員の上司の名前を強調した。人に頼み事をするときは、まず世間話から入り、このひと手間は、どうしても避けて通れない。簡単な世間話が終わった後、凛はすぐさま本題に入る。康平の写真を取り出した。「私の弟の岡田康平です。でも、叔父に引き取られてしまい、今は名前が変わってしまっています」康平の写真を見た途端、その場にいた教職員全員の顔から一気に血の気が引いた。海斗は目を細め、低い声で尋ねる。「この子に何かあったんですか?」「いや、何もありませんよ。何も……」一斉に首を振って否定する教職員たち。その態度は明らかに不自然だった。その中でも、校長はまだ落ち着いていた。「その生徒の名前は『岡田一郎(おかだ いちろう)』と言います」
確かにそうだと思った海斗は、すぐさま整腸剤を一箱買った。……A市。深夜のこと。すでに眠っていた智也の枕元で、携帯が鳴り出した。しかし、最初の2回は気づかず、彼は寝返りを打ってそのまま眠り続ける。それでも、着信音は鳴り続けた。智也が目をこすりながら画面を確認すると、それは見知らぬ番号だったため、すぐさま拒否ボタンを押した。拒否しても、またすぐ着信音が鳴り響く。智也は最近疲れが溜まっていて、さらに気持ちよく眠っていたところを着信音に起こされたため、苛立ちのままに携帯の電源を切った。やっと静かになり、智也は再び深い眠りに落ちた。電話をかけていた相手の瞼も、次第に閉じられていったのだった。……早朝。出発の準備を整えた凛は、海斗の部屋のドアを叩いた。ドアが開くと、目の下にうっすらとクマができている海斗の姿が目に入った。よく眠れなかったようだ。ホテルのベッドが合わなかったのだろう。それに、このホテルの防音はあまり良くなく、窓の外の幹線道路を走るトラックの騒音が常に聞こえている。街が静まり返る夜中となれば、大型トラックの通過する音はひときわ響いた。それでも海斗は特に何も言うことはなく、冷静に口を開いた。「朝食はここで食べて行くか?それとも、車の中で?」「車の中にしよう」二人がロビーに下りると、昨晩案内してくれた教育委員会の職員がすでに社用車を横付けして待ってくれていた。今日は目的の特別支援学校へ連れて行ってくれるという。この人がいれば、比較的スムーズに進むだろう。凛は3人分の朝食を買った。自分は運転するわけではないので食べられるが、運転する海斗はそうはいかないし、昨晩もよく眠れていない。やはり運転免許を取るべきだ、と凛は心の中で思った。隣の市までは1時間半。海斗がお腹を空かせてしまうのではと心配した凛は、手に持ったパンを彼の口元へ差し出す。パンが海斗の唇に触れるとき、凛の指先も一緒に触れた。その唇は少し乾いていた。冬は乾燥しやすい。凛の指先は少し震えたが、指先で慎重にパンをつまみ直す。海斗が食べなければ、パンが落ちてしまうから。海斗が凛をちらりと見た。「ちゃんと除菌ウェットティッシュで消毒したから」と凛は自分の手が汚くないことを伝えたが、そのパンが町の少し古ぼけたパ
凛が海斗から焼き鳥と焼き芋を受け取った際、二人の指がわずかに触れ合い、海斗の指先が軽く震えたが、彼は何事もなかったかのように引っこめた。凛は海斗を見て言う。「海斗、車に乗って。外は冷えるから」海斗が車の前を回って乗り込んだので、凛も自分側の窓を閉めた。車内は暖房が効いている。海斗がホテルまでのルートを検索し、車を走らせたが、食べ物に手をつけようとしない凛。海斗が凛に聞いた。「好きじゃないのか?」凛が首を振る。「一緒に食べようと思って」その後、海斗はそれ以上何も言わず車を走らせ、車がホテルの前に停車した。この町で一番まともなホテルだが、大手チェーンの類ではない。二人並んで中に入り、凛が予約していた名前を伝える。「デラックスルームを二部屋ご予約となっておりますが、同じ階になさいますか?」受付に聞かれた凛は頷いた。「はい」その瞬間、ごくりと動いた海斗の喉仏。海斗はロビーにある自動販売機をちらりと見て、凛に何か飲むかと尋ね、凛はミネラルウォーターを1本だけお願いした。海斗は両手にミネラルウォーターを1本ずつ握り、凛と一緒にカードキーでエレベーターに乗り込み、2階へ上がる。二人の部屋は同じ階で、隣同士。凛は焼き芋を半分に割って海斗に手渡した。「焼き鳥はあげない。ここの焼き鳥は辛いし、もしお腹でも壊したら大変だから。智……」智也の名前を言いかけてしまい、凛は慌てて言葉を切った。ここで智也の名前を出すなんて縁起でもないのだが、辛い焼き鳥を見て、ふと思い出してしまったのだった。しかし、海斗はその続きを察したようで、焼き鳥のパックを奪うと、中から3本だけ取り出して自分の部屋に入っていった。しかし、1秒とたたないうちに、その部屋のドアがまた開く。ドアのそばに立ったままの海斗が言った。「早く寝ろ。明日は隣の市まで移動するから」「わかった」それから、おやすみと言って今日を締め括るつもりだった凛だが、海斗には人を安心させるような不思議な雰囲気があり、ふと凛の口から言葉が溢れる。「海斗、少し心配なことがあって」海斗も凛が不安を抱えていることには気づいていたので、そのまま静かに耳を傾ける。「ただ漠然とした不安ってわけじゃないの。今日、地元の人に対して聞き込みをしたでしょ?本来、康平は知的障害に対して補助金
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も







