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――燃えるように熱い世界の中。
地面は溶けたように揺らぎ、
空は赤く染まり、風は焦げていた。 その世界には色も形もなく、ただ焼き尽くす気配だけが存在していた。目を開けても、何も見えない。
見えているはずなのに、視界は光に呑まれ、境界がない。 なのに、そこには確かに“誰か”がいた。「……ああ……やっと見つけた……」
低く、深く、獣のような声が、熱の中から響いてくる。
それは言葉というよりも、魂に直接刻み込まれるような響きだった。 懐かしい。 会ったことがあるはずがないのに、知っている気がした。 けれど同時に、喉の奥が震えるほどの恐怖も、胸の奥に芽生える。それは、恋に似た痛みだった。
「名を聞かせろ。おまえの、名を」
誰だ、おまえは――。
どうして俺の名を問う? そもそも、ここはどこなんだ?意識はある。だが身体は動かない。
ただ、燃えさかる世界の中で、名前を奪われることを恐れている自分がいる。「……おまえが俺の番か……」
その一言で、すべてが焼き崩れる。
肺の奥が、灼けるように熱くなる。 心臓が跳ねる音が、骨の内側で鳴り響く。 まるで、自分という器が中から満たされていくような感覚。 重なる呼吸、共鳴する鼓動。 知らない誰かの体温が、確かにこの身体の中に流れ込んでくる。夢だ。
これは夢に違いない。 だが、現実よりも強く、この感覚は刻み込まれていく。この声を、拒絶してはいけない。
そんな直感が脳裏を貫いた。 だが、従ったら戻れない気がした。 このまま身を任せれば、きっと、二度と元には戻れない。「もう離さない。……おまえは、俺のものだ」
声が落ちると同時に、世界が音もなく崩れ始めた。
紅蓮の空が割れ、足元の地面が消えていく。 重力も音もない空間に、ただ熱だけが残り――焔 琉苑《えん・りゅうえん》は、跳ねるように目を覚ました。
寝台の上、薄絹の寝衣は汗で貼りつき、胸は荒く上下している。
冷や汗が頬を伝い、背中がじっとりと濡れていた。 ただ一つ、確かなことがある。今の夢は、ただの夢ではなかった。
それは“記憶”だったのか、“予兆”だったのか――。 わからない。 けれど、あの声だけは確かだった。そして、琉苑は知ることになる。
あの声が、これから自分の世界を焼き尽くしていくということを。
――それが、すべての始まりだった。
きっかけは、ほんの偶然だった。シュアがしばらく姿を消した夕刻、彼の部屋に呼ばれた琉苑は、ふと開かれたままの机の引き出しに目をやった。木肌の色に似た、手擦れのある革表紙。手に取るつもりなどなかったのに、指先が触れた瞬間、それは琉苑の掌に収まっていた。開いたページには、見たことのない古い言語が記されていた。──いや、それは正確ではない。「見たことがない」のに、「読めてしまう」のだ。目が、文字の形を理解していく。脳が、意味を汲んでいく。そして心が、拒否する前に内容を知ってしまっていた。そこには、名があった。優美な筆致で、その名前は何度も記されていて、すべての行の始まりにその名があることが、まるで呪いのようだった。知らないはずの、誰かの名。けれど、どこか胸に引っかかる──懐かしさすら滲ませる名だった。番。その言葉がふっと浮かんで脳内に染みを作っていく。「……どうして、俺じゃない?」声にはならない問いが、喉奥で震えた。これは、自分ではない誰かの記録。かつてシュアが愛したらしき相手の記録。シュアの手によって記されたその名を見て、琉苑はなぜか息苦しくなっていた。彼はページを閉じた。音を立てず、記憶の底に沈めるように。けれど、視界から消えても、胸の中のざらつきは消えなかった。※それから、なにかが変わった。琉苑のなかの温度が、わずかに。シュアの声が、いつもより遠く感じる。その手が肩に置かれても、自然と体が少しだけ引いた。本人は気づかぬふうだったが──いや、気づいていて、それでも距離を詰めようとしているのかもしれなかった。その日の夜も、寝室にはふたりきりだった。ルシェリアはとうの昔にその場から姿を消している。いつものように、琉苑が遅れて入ると、先に寝台にいたシュアが片腕を広げる。いつもなら、その中にすべりこむように身体を預けていた。けれどその日は、一瞬だけ足が止まった。シュアのまなざしが揺れる。言葉はない。ただ、そこには明らかな「問い」があった。琉苑は、それに答えず寝台に入ったが、背中を向けた。「……どうした?」低く、だが優しい声が降ってくる。「別に」そう返した声が、思ったよりも刺々しくて、自分で驚いた。「我は、何かしたか?」「……してない。でも、してたのかもな。昔」「──?」琉苑は目を閉じた
琉苑が目覚めた時、背にぬくもりがあった。それは寝具ではなく──明確に誰かの体温だった。いや、誰かではない。シュアの体温だ。まどろみの中で、ふいに何かが琉苑の髪に触れた。起き抜けの乱れた髪を、ゆるやかに梳いていく、ゆるやかな指先。「……何してんだよ」声を出そうとして、思ったよりも掠れた自分の声に小さく驚いた。それでも、背後の主は何の照れも逡巡もなく、当然のように言葉を返してくる。「絡んでいた。梳かした方がいいだろう」「……そういうの、勝手に触るなって教えられなかった?」「教えられた。だが我は、触れてもいい立場だと、思っている」そんな言い分を真顔で吐けるのは竜くらいのものだろう、と琉苑はため息をつきかけて──結局、やめた。だって、実際に、嫌ではなかったのだ。それどころか、髪を梳かされる感触の心地よさに、体が緩みそうになっている自分を、彼自身が一番よくわかっていた。頭皮をかすめる指の温度が、やけに優しくて、穏やかで、つい、そのまま目を閉じてしまう。(……俺、こんなに他人に無防備になったこと……あったか?)数えきれない人間に囲まれ、利用され、持ち上げられ、崇められて生きてきたはずだったのに。そのどれよりも、いま、この異形の隣で感じている静けさのほうが、ずっとまともで、温かい。そう感じてしまう自分に、琉苑はひっそりとため息をついた。※昼過ぎ。日差しは高く、庭の木々が伸びた枝葉の先に涼やかな影を落としている。琉苑は、いつものように外の空気を吸うために庭へ出た。シュアもそれに従うように、しかし先を歩くでも後を歩くでもなく、自然な距離で傍らにいた。歩きながら、何かを話すわけではない。けれど、沈黙は重くなかった。むしろその沈黙が心地よくて、言葉よりも体の距離が、今のふたりには大切だった。ふと、軽く背に触れる気配があった。視線を向けると、シュアが片手で琉苑の肩を引き寄せ、ぴたりと隣に並びながら立ち止まっていた。「……なんだよ、急に」「陽が強い。お前が眩しそうだったから」言いながら、額にかかる髪をそっと指で払われる。指先の所作があまりにも自然で、誰かに見られていたらきっと誤解されるだろうと思ったのに、琉苑はそれを払うことすら忘れていた。今日はよく髪に触られる日だ、なんて頭の隅で思っていた。次の瞬間、頬に唇が触れた。「
その朝、彼女は現れた。白銀の長い髪。雪を彷彿とさせる淡い肌。一見すれば儚げな少女のようでいて、まなざしの奥に燃える理性は、人よりもはるかに深く、冷たい静謐をたたえていた。現れたのは、何の前触れがあるわけではなく、ふと視界の隅に、雪の粉のようにひらりと舞っていた。「お初にお目もじいたします、番様。これなるは、主シュアの眷属でございます」「……シュアの眷属?」問いかけに、彼女はほんの少しだけ膝を折って、かすかに笑んだ。「はい。主の血を受け、在るもの──名はルシェリア。以後、お見知りおきを」声は鈴のように響いたが、そこには媚びや甘さはなく、礼儀の温度で整えられた言葉だけが、すっと琉苑の胸に入り込んできた。「……シュアの友人ってやつなら、見たことあるけど。眷属ってのは、初めて聞いたな」「主はあまり語られぬのでしょう。けれど私たちは、常に傍におります。ただ、今のように現れたいと願われたときだけ、その姿を得るのです」語りながら、ルシェリアはふわりと膝をつき、琉苑の足元に自然と身を低くした。驚いて身を引くと、彼女は顔を上げて、静かに言った。「あなたは主の番──つまり、私たちにとっても、特別な存在ですから」その言葉は、琉苑は少しばかり眉を寄せる。元の立場が皇族と言ったものであったから、こういった礼を取られるのは茶飯事ではあった。が──いかんせんそれは人の世界のことだ。不快ではない。だが、戸惑いは確かにある。「……特別って、まだ何になったわけでもないけどな……」思わずこぼれた本音に、ルシェリアは小さく笑った。「それでいいのです。主もまた、手探りのまま、あなたと向き合っておられる。──ただ、私は、あなたの身の回りの世話を命じられております。どうか、お気を張らず」それからというもの、ルシェリアは、衣服の手入れに始まり、まともな食事の支度や配膳、そして髪を結い上げる手際に至るまで、すべてを過不足なく──いや、驚くほど洗練された動きでこなしていった。彼女の所作は、どれも静かで美しく、決して急かさず、けれど決して手間取らない。その立ち居振る舞いは、仕えるという言葉よりも寄り添うという表現のほうがしっくりくる気がして、琉苑は最初こそ面食らったが、徐々にその存在に心を預けていった。人間ではない。だが、人間よりもずっと、細やかで、心地よい距離を保って
深く、静かな夜だった。身を委ねた寝台は柔らかく、シュアの手はまだ琉苑の指と絡んだまま、緩やかにその熱を伝えている。その温度が心地よくて、琉苑はつい目を閉じ、深く深く、眠りに落ちた。──そして、夢を見た。琉苑の意識は、地面になかった。彼は、地上の少し上、空の中層のような場所に浮かんでいて──誰かの視点で、見下ろしていた。庭がある。そこには、今の彼が知っている異界の庭に似た場所があり、小さな噴水の脇で、二人の影が並んでいた。ひとりは、明らかに琉苑だった。ただ、服装も年齢も、何もかもが違っていた。けれどその仕草、首の傾け方、指先の癖……どうしても、自分としか思えなかった。もうひとりは──シュア。だが、今よりずっと人間に近い見た目をしていて、肌の色も、声も違って聞こえた。にもかかわらず、琉苑はそれがシュアであると、確信していた。ふたりは、言葉を交わしていた。だが、音はなかった。口の動きだけが、まるで無音の劇のように、静かに繰り返されていく。琉苑は目を凝らす。何を話しているのか、どうにか読み取ろうとした。そのとき、ふと、自分の視界の奥に、誰かの目を感じた。視点はたしかに自分のものなのに、その中に、自分ではない意識が寄り添っている──そんな奇妙な感覚だった。そして、その視線の奥が感じた懐かしさに、胸の奥が不意にきゅ、と軋んだ。──また、お前たちは出会ったのだな。それは、どこか優しく、少し哀しい響きだった。内側から、それは聞こえた。琉苑自身はそんなこと思ってもなければ、喋ってもいなかった。ではそれが、誰なのか?わからないのに、疑問を持つよりも前に答えがわかる。光の粒のように漂う観察者。時を超えて、巡り巡って、そこに在る存在。次の瞬間、場面が変わった。暗く、けれど穏やかな部屋。窓辺に揺れる布。遠くで子どもの笑い声がする。琉苑は、そこに立っていた──いや、違う。それの視点に、彼はまた重なっていた。子どもがいた。年齢も性別も、はっきりとはわからない。けれど、小さな背中には、淡く銀の光が滲んでいた。その子は、庭を駆けていく。「……お前の子か?」視界の隣から、低い声がした。その声に、琉苑の胸が強く疼いた。振り返ろうとした。けれど、夢はそこまでだった。──目を覚ましたとき、琉苑は、シュアの腕の中にいた。寝台の
夜は、静かだった。静かすぎるほどに、音も気配も、世界の縁から削ぎ落とされたように、何も聞こえない。琉苑は寝台に横たわっていた。目を閉じてはいたが、意識は冴えたまま。(……眠れない……)だって、眠るには、少しだけ、この場所の夜は音がなさすぎた。風は吹かず、草は揺れず、虫も鳴かず──夜が夜として在るだけで、何ひと響かない。こんな夜に、ひとりで眠るという行為は、やけに心細かった。(……いや、別に怖いわけじゃない、けどさ……)誰がいるわけでもないのに、言い訳する思考が、ゆっくりと脳内に浮かんでは消える。そのとき、不意に、部屋の空気が少しだけ変わった。扉も足音もなかったが、それでもわかる。空間そのものが呼吸を変えるように、シュアがそこに入ってきたのだと、わかった。「眠れないのか」静かな問いが届く。振り返らずとも、すぐ隣にいるのがわかった。「……まあ、静かすぎてな。眠れるようで眠れないって、あるもんなんだな」そう返すと、わずかに布が揺れて、シュアの身体が寝台の上に沈む気配がした。「人間が眠るには、何が要る?」「……さあ。人によるけど……ぬくもりとか、安心感とか……あとはまあ、疲れてると勝手に寝る」「今のお前には、何が足りていない?」問いながら、シュアの手が伸びてくる。琉苑は一瞬、身をこわばらせたが、それはただの反応であって、拒絶ではなかった。だから、自分からもそっと、手を探していた。それがシュアの手に触れ、絡み合ったとき──どちらからでもなく、自然と力が籠もる。「こうしてれば、少しはましだ」そう呟いた声は、面映くて小さくなった。それをどう受け取ったのか、シュアは何も言わず、ただその手を離さずにいた。やがて、シュアの顔が近づく。琉苑は目を開けた。暗がりの中でも、あの紅の瞳は濁らずに、ただまっすぐこちらを見ていた。「……何?」声にする前に、熱が触れる。鎖骨の少し上、あの結晶が触れているすぐそばの、皮膚が薄く神経の通り道のような場所。そこをシュアの唇が撫でていく。「っ……お、い……」声を上げたが離れることはなく、もう一度、同じ箇所を戻るように唇が触れる。今度は、先ほどよりも深く、濡れて、長い。琉苑の呼吸がわずかに乱れる。「……お前、そういうこと、を……」「拒まなかった」シュアの声が、耳の近くで低く響く。「
空は今日も、幾重もの色で折り重なっていた。朝焼けの層と、昼の光が交差し、遠くには夜の帳がゆるやかにたなびいている。空が多い、というのは不思議と人を落ち着かせるのかもしれない──そう思いながら、琉苑は軽く伸びをして、寝衣のまま庭の縁へと足を向けた。そして、背後から気配が近づく。「リウ」呼ばれた名に振り返ると、シュアがいた。変わらず無表情に見えて、しかしほんの少しだけ眉が柔らかくなっているような気がする。その手には小さな包みを持っていた。「……何だ、それ」「贈り物だ。受け取ってほしい」琉苑は訝しみながらも、その手から包みを受け取った。重さはほとんどなく、代わりにかすかな熱が、薄布越しに指先へと伝わってくる。包みをほどくと、中から現れたのは、銀のように光る細い鎖に繋がれた、楕円形の光の結晶だった。金属ではない。石でもない。形容しがたい光沢と、触れる前から感じるぬくもり──それは、ひと目でただの装飾品ではないとわかった。「……これ、なんだ?」「我の鱗の一部だ。力の核に近いものを、結晶化させた」シュアの声は淡々としていたが、その意味するところは、決して軽くない。「お前がそれを身につけるなら、我の力は安定する。いや……お前の傍に、より馴染むと言った方が近い」「……これってつまり、お守りとか?」「違う」言葉は即答だった。「それは我の一部だ。お前がそれを持つことで、我の中の何かが、ひとつの形を得る。……言わば、誓い」「ずいぶん……物騒だな」そう言いながら、琉苑は視線を落とす。掌の中で揺れる光の結晶は、熱を持って脈打っていた。まるで生き物のように──あるいは、シュアそのものの心臓の一部でも渡されたかのような。軽いのに、重い。「つけてやる」不意に、シュアの手が伸びた。琉苑がそれを避ける前に、鎖は彼の首筋にふわりとかけられ、するりと後ろで留められる。「おい……自分で……っ」言いかけた声が、言葉になりきる前に喉の奥で溶けた。シュアの手が、彼の首元に触れていたからだ。細く柔らかな部分。汗腺の少ない、熱がこもるその部分に、指先がほんの数秒、這った。「ああ……よく馴染んでいる」そう告げながら──彼の唇が、そこに触れた。口付けは短かった。だが、直接そこに熱が移ることによって、琉苑の背筋は思わず跳ねた。まるで、恋人に指先で