Mag-log in【No.000】【第一失踪者】【神谷澪】【状態:帰還失敗】その文字が、夜空に浮かんでいた。真紅の光が、全員の顔を照らしている。誰も言葉を発せない。風さえ止まっていた。航平はただ、そのページを見つめていた。頭が真っ白になる。第一失踪者――神谷澪?そんなはずがない。彼らは同級生だった。一緒に学校へ通い、黄昏教室を経験し、同じ時間を過ごしてきた。なのに。どうして十九年前の失踪者なんだ。「……嘘だろ」航平の声は震えていた。しかし、第二管理者は静かに首を振る。「嘘じゃない」その瞳は、どこか寂しそうだった。「君たちが知っている神谷澪は」「本来、存在してはいけない存在なんだ」空気が凍りつく。奥田の目が鋭くなる。「ちゃんと説明しろ」第二管理者は夜空を見上げた。巨大な書。No.000のページ。長い沈黙のあと、ゆっくり語り始める。「十九年前」「第四書架が初めて開いた」「一人の生徒が」「その中へ入った」「名前は――神谷澪」隣に立つ神谷は、何も言わなかった。否定しない。全部知っていたからだ。第二管理者は続ける。「当時の裂け目は不安定だった」「管理者もまだ完成していなかった」「時間の崩壊を止めるため」「一人が自ら残った」「新しい管理者になるために」第二管理者は小さく笑う。だがその笑みは、ひどく疲れていた。「それが俺だ」航平は拳を握る。「だったら!」「お前が神谷なら!」「こいつは誰なんだ!」視線が集まる。今まで一緒にいた神谷へ。神谷はしばらく黙っていた。やがて、ゆっくり顔を上げる。「俺は」風が鐘楼を吹き抜ける。「逃げ出した欠片だ」静かな声だった。だが、誰の耳にもはっきり届いた。「十九年前」「管理者になる前に」「俺は自分の記憶を切り離した」「せめて一部だけでも」「普通の世界へ帰したかった」「普通の人生を送ってほしかった」航平の瞳が揺れる。「じゃあ……」神谷は苦笑した。「そう」「俺はその記憶の欠片」「本来存在しちゃいけない人間だ」「時間のバグが偶然残した」「ただの残像」誰も何も言えなかった。あまりにも残酷だった。奥田が突然口を開く。「だから何だよ」全員が彼を見る。奥田は第二管理者を睨む。その声は、驚くほど冷静だ
「私……」玲奈の声は震えていた。「家に……帰れるの?」あまりにも小さな声だった。風が吹けば、消えてしまいそうなくらいに。だがその一言は、鐘楼の空気を完全に止めた。玲奈はゆっくりと自分の手を見る。長い年月、ずっと付きまとっていた透明感が、少しずつ消えていく。白かった肌に色が戻る。冷たかった指先に、温もりが宿る。呼吸も。鼓動も。すべてが本物になっていく。まるで。ずっと帰れなかった少女が、ようやく現実へ帰ってきたように。「玲奈……」神谷澪は呆然と彼女を見つめる。何を言えばいいのか、分からなかった。玲奈自身も、まだ信じられない様子だった。おそるおそる手を伸ばす。隣の手すりに触れる。ひんやりとした金属の感触。その瞬間。玲奈の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。声を殺した涙ではない。長い長い迷子の時間を終えた、子どものような泣き声だった。「触れた……」「本当に……」「幻じゃない……!」涙が止まらない。風がそっと鐘楼を吹き抜けていく。航平は胸の奥が締め付けられるような気持ちになった。やっと分かった。玲奈は怪談なんかじゃない。管理者でもない。ただ。帰れなかった、普通の女の子だったのだ。……しかし。夜空に浮かぶ巨大な書は、止まらなかった。むしろ。ページをめくる速度がどんどん速くなる。バララララ――バララララ――本全体が激しく震えていた。何かの均衡が、崩れ始めている。管理者の声が、何度も響く。【異常】【異常】【第一帰還者を確認】【修正プログラム起動】神谷の表情が変わった。「まずい……!」奥田が振り向く。「何が起きてる?」神谷は夜空を睨みつけたまま言う。「管理者は」「一度も誰かを帰したことがない」「奴が記録するのは失踪だけだ」「帰還じゃない」「玲奈が現実に戻ったってことは――」神谷の声が低くなる。「ルールそのものが書き換わった」その言葉に、空気が静まり返る。航平はふと気付く。「誰が書き換えたんだ?」神谷は答えない。ゆっくりと顔を上げる。鐘楼の最奥。そこに、いつの間にか一人の人影が立っていた。背が高い。静かだった。ずっとそこにいたように、じっとこちらを見ている。制服姿。顔は闇に隠れて見えない。だが。その姿を見
【振り返る】【あるいは――忘却する】その二行の文字が、夜空に浮かんでいた。真紅の光が、全員の顔を赤く染める。残り時間。三分。風が止んだ。世界が異様な静寂に包まれる。それでも、あの声だけは消えない。「修司……」「航平……」「帰っておいで……」近い。どんどん近付いてくる。あまりにも懐かしく、あまりにも優しい声。振り返れば、もう一度会える気がした。奥田は目を強く閉じる。額に青筋が浮かんでいた。もう何年も、母親の声なんて聞いていない。なのに。忘れたはずの記憶が、次々と蘇ってくる。熱を出した夜。母が額に手を当ててくれたこと。学校から帰った時、キッチンから漂う夕飯の匂い。そして。病室で見た最後の笑顔。「修司」「お母さんはずっと会いたかった」奥田の肩が震える。爪が掌に食い込むほど拳を握った。その時だった。誰かが、そっと手を握った。温かい。力強い手だった。奥田は目を開ける。隣には航平がいた。何も言わない。ただ、強く手を握ってくれていた。その瞬間。耳元で囁いていた声が、少しだけ遠ざかった気がした。奥田は航平を見つめる。そして、小さく笑った。「大丈夫だ」「俺は平気」だが。神谷澪の顔色は悪くなる一方だった。本当に危ないのは、奥田ではない。航平だった。案の定。次の瞬間。神谷の声が聞こえてくる。「航平」優しい声。いつもの声。「言いたいことがあったんじゃないの?」「振り返れよ」「今度は」「俺は消えないから」航平の肩が震える。呼吸が乱れ始めた。神谷が叫ぶ。「聞くな!!」だが声は止まらない。「後悔してるんだろ?」「もっと早く気付けばよかったって」「俺を引き止められなかったって」「最後まで何も言えなかったって」一言一言が、胸の奥を正確に抉ってくる。航平は歯を食いしばる。それでも。身体が少しずつ後ろを向き始めていた。一歩。また一歩。「航平!!」奥田が慌てて腕を掴む。その時だった。一人の人物が、静かに前へ歩き出した。全員が息を呑む。佐伯先生だった。老人はゆっくり振り返る。その顔に恐怖はない。あるのは、長い年月を生きてきた者の疲労だけだった。「そういうことだったのか……」小さく笑う。「十九年か」「やっと、
床が崩れた瞬間だった。航平は反応する暇もなかった。足元が消える。身体がそのまま闇へ落ちていく。「航平!!」奥田が咄嗟に手を伸ばした。指先がかろうじて手首を掴む。だが落下の勢いは凄まじい。二人まとめて引きずり込まれそうになる。亀裂は広がり続けていた。バキッ。ミシッ。木材が砕ける音が絶え間なく響く。まるで時計塔そのものが崩壊しようとしているようだった。「離すな!」奥田は歯を食いしばる。腕が震えていた。航平も必死に握り返す。だがその時。闇の奥から、無数の白い手が現れた。書架の隙間から。ゆっくりと。這い出してくる。一本。二本。十本。百本。何かを探すように。何かを求めるように。航平の背筋を冷たいものが走る。次の瞬間。一本の手が彼の足首を掴んだ。凍り付くほど冷たい。「っ……!」身体がさらに沈む。奥田の顔色が変わった。「放せ!!」だが手は増え続ける。闇を埋め尽くすほどに。その時だった。白い影が闇の中から飛び出した。ドンッ!最前列の手を蹴り飛ばす。そして亀裂の縁へ軽やかに着地した。風が前髪を揺らす。見慣れた笑み。「まったく」「数日見てなかっただけで」「もう死にかけてるのか?」航平の目が大きく見開かれる。「神谷!?」神谷澪だった。神谷はしゃがみ込む。航平のもう片方の手を掴んだ。二人同時に力を込める。そして。航平はようやく引き上げられた。轟音。その直後。床が完全に崩落する。闇が下層を飲み込んだ。三人は床へ倒れ込む。荒い呼吸。鼓動が速い。だが航平が何か言うより先に、神谷が人差し指を口元へ当てた。「シッ」笑みは消えていた。代わりに。これまで見たことのないほど真剣な表情。「これから先」「一つだけ覚えておけ」神谷は低く言った。「何が聞こえても」「絶対に振り返るな」空気が張り詰める。奥田が眉をひそめた。「どういう意味だ?」神谷は答えない。ただ階段の方を見上げる。そこには誰もいなかった。だが数秒後。音がした。コツ。コツ。コツ。ゆっくり。重く。誰かが階段を上がってくる。航平は反射的に視線を向けそうになる。だが神谷の顔色が変わった。「見るな」声はほとんど囁きだった。「絶対に見るな」緊張が走る。足音は近付く。一
翌日。奥田はひどい隈を目の下に浮かべたまま登校してきた。航平は一目で異変に気づく。「寝不足か?」奥田は二秒ほど黙り込んだ。それから、鞄の中から一枚の紙を取り出して差し出す。楽譜の切れ端だった。端は黒く焦げている。まるで火に焼かれたようだった。航平は目を見開く。昨日、旧音楽室で見た楽譜とまったく同じ紙だった。「どこで手に入れた?」奥田は低い声で答える。「夢の中で」航平は反射的に、そんなはずがないと言いかけた。だが。楽譜の裏面を見た瞬間、言葉が止まる。そこには見覚えのある筆跡があった。神谷澪の字だった。【鐘の音が鳴ったら、振り返るな】空気が静まり返る。二人は同時に黙り込んだ。もはや偶然では説明できない。・・・・・・放課後。二人は再び旧音楽室へ向かった。夕陽が窓から差し込む。教室の中は相変わらず無人だった。だが今回は違う。ピアノの音が、彼らを待つように先に鳴り始めた。ポーン――ポーン――ポーン――途切れ途切れの旋律。まるで誰かが意図的に導いているようだった。奥田は音を追う。教室の一番奥まで歩く。そして足を止めた。そこには古いロッカーがあった。普段は鍵が掛かっている。だが今日だけは違った。扉がわずかに開いていた。航平がそっと開く。中には何もない。ただ一つだけ。錆びた真鍮の鍵が置かれていた。鍵には黄ばんだタグが付いている。そこに書かれていた文字は――【旧時計塔】二人は顔を見合わせた。学校の裏山。そこには確かに古い時計塔がある。十年以上前に使用停止となった施設。老朽化が進み、生徒の立ち入りは禁止されていた。・・・・・・午後六時。二人はフェンスを越え、時計塔の前へ辿り着いた。夕陽は完全に沈んでいる。巨大な黒い影のような時計塔が、森の中に静かに立っていた。木々を揺らす風。葉擦れの音。なぜだろう。航平は妙な既視感を覚えた。来たことがある気がする。だがそんなはずはない。ギィ――古い木製の扉が開く。埃が舞い上がった。内部は真っ暗だった。螺旋階段が上へ続いている。二人は懐中電灯を点けた。一段ずつ慎重に登る。三階に差し掛かった時。奥田が突然立ち止まった。「聞こえたか?」航平は首を傾げる。「何が?」奥田は眉をひそめた。「誰
鎖が現れた瞬間。神谷澪はなぜか微笑んだ。「やっぱり、最後は俺か」その声は驚くほど穏やかだった。航平の顔色が変わる。「神谷!」思わず駆け出そうとする。だが神谷は片手を上げた。来るな。そう告げるように。次の瞬間。管理者のページが大きく開く。眩い白光が溢れ出した。轟音。世界が光に呑み込まれる。誰も目を開けていられなかった。そして――航平が再び意識を取り戻した時。彼は図書館の外に立っていた。静かな夜だった。風が吹いている。空には月が浮かんでいる。まるで。先ほどまでの出来事が、最初から存在しなかったかのように。奥田が隣にいた。佐伯先生もいる。だが。神谷澪だけがいなかった。第四書架も。時間の裂け目も。何もかも消えていた。・・・・・・翌日。学校はいつも通りだった。放送は流れない。図書館も平穏そのものだ。だが昼休み。奇妙な噂が校内を駆け巡り始めた。――夜六時を過ぎると、旧音楽室からピアノの音が聞こえる。誰が最初に言い出したのかは分からない。だがその噂は瞬く間に広がった。旧音楽室は何年も前に廃室になっている。ピアノも撤去済みだ。誰も使っていない。それなのに。毎晩。必ず音が聞こえるらしい。しかも日を追うごとに。その音ははっきりしてきていた。放課後。航平と奥田は確かめることにした。夕陽が沈みかける。古い校舎の廊下を進み、旧音楽室の扉を押し開く。ギィ……重たい音が響く。中には誰もいなかった。机も椅子もない。積もった埃だけが、長い年月を物語っている。当然。ピアノも存在しない。航平は周囲を見回した。「何もないな」奥田も頷く。「ただの噂かも――」その時だった。ポーン……高く澄んだ音が響く。二人は同時に振り返る。確かに聞こえた。ピアノの音だ。そして。一音だけでは終わらなかった。ポロン……ポロン……途切れ途切れの旋律。まるで誰かが練習しているような。不完全なメロディ。音は教室の隅から聞こえてくる。航平はゆっくり近づいた。そこで足を止める。息を呑む。いつの間にか。床の上に一枚の楽譜が落ちていた。古びた紙。黄ばんだ端。誰かが大切に保管していたような譜面。航平は震える手で拾い上げる。表紙を開く。そこに記されていた名前を見た
寮の部屋は、ひどく静かだった。自分の呼吸がわずかに震えている音さえ聞こえるほどに。航平は顔を枕に埋め、腕で目を押さえた。まるで光さえ遮ってしまえば、世界そのものが一時的に存在しなくなるとでも言うように。スマートフォンはすでに電源を切っている。
文化祭が終わったあとの教室は、驚くほど静まり返っていた。放課後特有のざわめきも、片づけの物音も、もうない。カーテンの端が夕風にふわりと持ち上がり、差し込む橙色の光が床に長い影を引いている。影は黒板の前まで伸び、講台の足元を越え、壁際に立てかけられたキャンバスへと届いていた。航平は教壇の横に立ち、そのキャンバスを見つめている。すでに展示は撤去され、フレームは外され、壁から下ろされたその絵は、今はただの一枚の布に戻っていた。それでも。そこに描かれた横顔は、光の中で静かに息をしているように見える。孤独で、凛として、どこか遠くを見ている騎士の背。それは彼が描いたものだ。そして同時に
図書館のいちばん窓際の席は、仁野があえて選んだ場所だった。斜めに差し込む陽光が机を照らし、紙の端を白く浮かび上がらせる。彼はスマホの画面を見つめ、指先で静かにスクロールしていた。話題の勢いは、まだ落ちていない。文化祭の展示が終わって二日。 それでも議論は止まらなかった。あの絵。あの詩。「もし騎士が光の中に立つ宿命なら、私はその影になろう。」コメント欄は、はっきりと二つに割れている。浪漫だと称える声。 越えてはならない線だと責める声。 そして——“騎士”のモデルを探り始める者たち。仁野は目を伏せる。もし二年前に戻れるなら。あの小説は、書かなかったかもしれない。前
展示ホールは、少し騒がしかった。ライトが額縁に当たって、白く飛ぶほどに明るい。俺は、自分の絵の横に立っていた。掌だけが、妙に熱い。その一枚は、中央に掛けられている。黒髪の騎士が、わずかに身体を斜めに向けている。正面を向いていない。ちょうど今、振り返ったところ――けれど、まだ完全にはこちらを見ていない。数人が前で足を止めた。「ねえ、これ……」「ちょっと似てない?」声は、抑えているつもりなのかもしれない。でも、十分に聞こえる音量だった。俺は、聞こえていないふりをする。けれど一言一句、はっきり耳に入ってくる。「特にさ、あの雰囲気」「うんうん、あの笑い方」笑い方?