婚約者に人前で結婚を破棄された翌日、私は飛行機に乗って江松市へ向かった。 彼は恋人を慰めながらこう言った―― 「早乙女清枝(そおとめ きよえ)は小さい頃から甘やかされて育った。少し騒げば自分で戻ってくるさ。君が気に病むことはないよ」 友人たちは、私がなおも墨谷基成(すみや もとなり)に未練を抱き、また何か騒動を起こすのではと恐れていた。 だが、私はすでに、別の人の求婚を受け入れていたことを彼らは知らなかった。 今回の江松行きは、嫁ぐための旅だったのだ。 結婚式が近づく中、私は基成からこれまで贈られた物を一つ残らず箱に詰めて送り返した。 かつて宝物のように大切にしていた、あの想い出のネックレスさえも。 これからは、時だけが流れ、あなたとは二度と交わらない。
View More基成は心のどこかで密かに喜んでもいた。清枝が嫉妬する姿を見るのが好きだった。自分の周りに別の女性が現れるたびに、彼女が悔しそうに涙を浮かべる様子。可愛くて、愛おしくて、たまらなかった。けれど清枝は、いつもすぐに機嫌を直してくれた。少し甘い言葉をかけて、小さなプレゼントを贈って。街に連れ出し、映画を観て、スイーツを食べれば、すぐに笑顔を取り戻した。だから今回も、きっと許してもらえると、彼は思っていた。だが、月美が妊娠した。両親は彼女のことを気の毒に思いながらも、どうすることもできなかった。彼は、どうしてもこの関係を断ち切りたかった。基成の目には、月美は最初から計算高い女だった。偶然の出会いも、彼を助けられたシーンも。両親の恋の再現劇も。何もかもが仕組まれた演出だった。月美は、のし上がるために男を利用する、ただの成り上がりの女だった。彼は無理やり月美を病院に連れて行こうとしたが、彼女は絶対に首を縦に振らなかった。追い詰められた月美は、実家の家族を呼び寄せ、大騒ぎを始めた。基成は、あんな人間を見たことがなかった。豪邸の前で地べたに座り込み、泣き叫び、喚き散らし、スキャンダルを暴露すると脅し続けた。墨谷家は代々、商いを生業とし、何よりも体面と評判を重んじる家柄。警察に頼るわけにもいかず、仕方なく金で解決するしかなかった。だが一度甘い汁を吸った相手は、より貪欲になっていった。骨に食いつく寄生虫のように。吸血蚊のように。どこまでも追ってくる亡霊のように。目覚めることのない悪夢のように。基成は心身ともに追い詰められていった。そして月美の腹は、日ごとに大きくなっていった。ついに彼は決断した。徹底的に決別することを。警備員が彼らを強制的に追い出したその日、月美もようやく現実を受け入れた。彼女は高額の口止め料を要求し、それを受け取った。真実が白日のもとに晒されたその瞬間――基成は、初めて月美という人間の本性を見た。美しい容姿の裏にある、欲深さと醜さと偽り。小切手を手渡すとき、彼は思わず自嘲した。なんと愚かだったのか、と。幼馴染の情。朝夕を共にした日々の温もり。本物の男なら、外の誘惑になど屈せず、愛する人を一番美しい場所に連れていけた
新婚の翌日――私は昼過ぎまでぐっすり眠っていた。一方、周吾はすでに朝の運動、新聞チェック、お茶を嗜むなど、日課をすべて終えていた。結婚してから数日が経ったある日。家の使用人たちが笑顔で私に言った。「奥さま、あの日の陸田様のご様子をご覧になっていれば……本当に嬉しそうでしたよ」「そうなんです、私、陸田家に長年仕えていますが、あんなにお話好きな陸田様を見たのは初めてです」「誰彼構わず挨拶されて、玄関の宅配便の方にまで話しかけてました」「まるで、世界中に『自分は愛する花嫁を娶った』と宣言したくて仕方ないようなお姿でしたよ」私は顔が赤くなるのを感じ、恥ずかしさと可笑しさでいっぱいになり、咄嗟に後庭へ逃げ込んだ。すると、遠くから周吾の車が入ってくるのが見えた。彼は車を降り、ブリーフケースと上着を執事に預けたあと、真っ先に私のいる方へ目を向けた。「周吾!」私は庭の中でぴょんぴょん跳ねながら手を振った。彼はその笑顔を見ると、自然と口元が緩んだ。鬱蒼と茂る庭園を通り抜け、私のもとへと歩いてくる。私はその場にいられず、駆け出して彼のもとへ向かった。彼はその場で足を止め、困ったように笑いながらも腕を広げて待っていた。私は勢いよくその胸に飛び込み、彼はしっかりと私を抱きしめてくれた。……基成が清枝の婚約式で、彼女が周吾と結ばれると知ったのは、その日だった。最初はとても信じられなかった。それどころか、滑稽にもこう思った。これはきっと、清枝が彼を怒らせるために仕掛けた、単なる駆け引きに過ぎないと。まるで自分と月美の婚約のように。どうせ形だけのもので、実質的な意味はないはずだと。だが――友人からリアルタイムで送られてきた婚約式場の写真。そこにはシャンパン色のドレスを纏い、周吾の腕に手を添える清枝の姿があった。そこには両親が席で嬉しそうに微笑んでいる様子があった。そこには瑠奈が、親友として涙をぬぐっている場面もあった。そこには、周吾が清枝に指輪をはめている、まなざしが映っていた。そこには、清枝が彼の腕に幸せそうにもたれかかっている光景があった。基成の胸に、鋭い痛みが走った。まるで何かが、バラバラに砕け散ったようだった。その場に立ち尽くし、周囲の音はすべて遠のいて
それは――まさしく陸田グループ社長、陸田周吾の結婚式だった。そして、長らく謎に包まれ、どのパパラッチも捉えることができなかった花嫁。その正体は、なんと私だったのだ。墨谷おじさん夫婦は、驚きながらも心から喜んでくれた。特に墨谷おばさんは、私の手を強く握りしめたまま、涙を堪えられずに流した。「清枝……こんな慶びの日に涙を流すなんて、本当はしちゃいけないんだけど。それでも……悔しくてたまらないの。全部、おばさんが基成をちゃんと育てられなかったせい。だから彼は、何度も過ちを重ねてしまったのよ……」実は、基成は月美との婚約を解消しようとしていた。だが月美は絶対に別れようとしなかった。しまいには、彼女の家族が墨谷家の別荘に押しかけ、そのまま居座るような勢いだった。そんな泥沼の最中、月美の妊娠が判明した。子どもをおろすことなど、墨谷家が許すはずもなかった。こうなれば、この婚約は既定路線だ。私はおばさんの胸に顔を埋め、そっと涙を浮かべた。思い出されるのは、初めて墨谷家に来た日の夜。両親を想い、ひとり涙を流していた私を、おばさんが優しく抱きしめて慰めてくれた記憶。あの、何もかもが温かかった日々。本当の娘のように愛してくれた日々。涙は、とうとう頬を伝い落ちた。「清枝、それはね、基成がその幸せに値しなかっただけ」おばさんは私の涙をそっと拭い、深いため息のあと、優しく微笑んだ。「陸田家は岡北でも由緒ある名家だし、陸田周吾さんは商界でも飛ぶ鳥を落とす勢いの逸材。あなたの未来は、きっと穏やかで幸せに満ちているわ」私は分かっていた。周吾のような、あんなにも温厚で誠実な男性となら、たとえ恋がなくても、穏やかな結婚生活を送れるはずだと。でも、まさか。こんなにも激しく、熱く、幸福が押し寄せてくるとは。両親が遺してくれた翡翠の指輪を、彼に託したとき。彼はスマートフォンのアルバムから、一本の動画を再生した。そこには、淡い水色のドレスをまとった私が、舞踏会の中央で舞っている姿が映っていた。画面の片隅――ずっと私を見つめていた周吾の視線。それは、昨年の舞踏会の開幕で踊った一幕だった。あのとき、私をステージに誘ったのは周吾本人だった。けれどその頃の私は、基成のことで頭が
そんな痛み、これから先いくらでも味わうがいい。けれど瑠奈は、真実を決して口にしなかった。清枝に口止めされている以上、彼女は絶対に言わない。基成に真相を知られて、江松で式を妨害されるなんて――そんな馬鹿なこと、彼女は絶対に許さない。それは、親友の人生で最も大切な一日なのだから。あんな利己的な男に、台無しにさせるわけにはいかない。「聞き間違いよ。私は江松での結婚式に出席するの。清枝も行くけど、結婚するのは大学の友人」基成は目を細めた。「清枝には、江松に親しい同級生なんていないはずだ」瑠奈は冷笑を浮かべた。「墨谷、あなた、本当に清枝のこと分かってたつもり?彼女の気持ちに、真剣に寄り添ったことがあった?彼女のために何かしたことなんて、一度でもあった?一度だってない。あなたは、清枝という人間がどれだけ尊くて、どれだけ愛される存在か……一生理解できないわ。彼女がこの何年あなたに捧げた真心、あなたにはその価値がない」そう言い切ると、瑠奈はきっぱり背を向けて立ち去った。その背中を見つめながら、基成の胸に鈍い痛みが走った。なぜこんなにも苦しいのか、彼自身も分からなかった。ただ――無性に清枝に会いたくなった。たとえ遠くからでも、ただ一目だけでも。翌日、江松から一つの大きな荷物が届いた。それが思いのほか早く着いたのは、周吾がわざわざ航空便を手配してくれたからだった。その頃の私は、結婚式のリハーサルに夢中で、そんなことなど全く知らなかった。基成は箱を開けるとき、わずかに手を震わせた。最初は中身に見覚えがなかった。だが、すぐに記憶が堰を切ったようにあふれてきた。彼が清枝に贈った初めてのカルティエのネックレス。価値のあるサファイアのブレスレット。真新しいポルシェの鍵。そして、色とりどりの宝石類がぎっしり詰まったジュエリーボックス。最後に現れたのは――あのネックレスだった。基成はそのベルベットのケースを両手でそっと抱え、目の前がにわかに滲んだ。「いつになったらお前のお姫様を嫁にするんだ?」かつて、友人たちはよくそう冷やかした。あの頃の彼は若く、傲慢で、自信に満ちていた。言い寄ってくる相手は数え切れなかったが、誰にも目を向けなかった。
私はそっと携帯を置き、通話を終えた。十五歳の頃、初めて恋という感情を知った。それからというもの、気持ちは抑えきれなくなっていった。私は意地になって、彼のことを「お兄ちゃん」と呼ばなくなった。それから、あっという間に何年も過ぎ――彼は結局、最初の位置へと戻っていった。私は、彼を恨んでもいないし、責める気持ちもなかった。長年にわたる日々の積み重ねは、私に、心から彼の幸せを願わせるに至っていた。私は基成の父親の電話番号を押し、発信した。基成の母親の近況をたずね、挨拶を済ませた後――ようやくあの指輪の話題を、慎重に切り出した。「おじさん、ずっとご連絡できず申し訳ありません。最近は色々と考えることがあり、ようやく色んなことが分かるようになりました。基成お兄さんには、すでにご自身の選んだ相手がいます。だから、過去のことは……もう手放そうと思います」受話器の向こうは、長い沈黙に包まれた。「清枝……君のことは、おばさんも私も、ずっと実の娘のように思ってきたんだよ。基成は頑固な子でね。ちゃんと導いてやれなかったのは私たちの責任だ。辛い思いをさせてしまったな」懐かしいその声に、私は堪えていた涙が止まらなくなった。けれどそれは、彼らの真心と温かさに対する惜別の涙だった。「おじさん、おばさんのお気持ちはよく分かっています。でも……感情は、無理にどうこうできるものじゃありません。私はもう気持ちの整理がつきました。だから、おじさんも悲しまないでください。」「分かった。その指輪は、基成に返すよう言っておくよ。数日後に、私たちも結婚式で江松へ行く予定だから、そのとき直接渡そう」私は静かに礼を言い、電話を切った。宅配業者がちょうど到着した。梱包しておいた贈り物の数々が、次々とトラックに積まれていく。まもなく、それらは彼の手元へ戻ることになる。数日後には、墨谷おじさんたちも江松へ来る。そのとき、あの指輪も返ってくるだろう。私の長い片想い――そのすべてが、ようやく終わるのだ。そしてこれからは、それぞれ別々の人生を歩んでいく。……ある夜、基成はビジネスのパーティーで酔いつぶれていた。ふらつきながら洗面所を出ると、瑠奈が電話をしている声が聞こえた。「やっ
私はちょうど江松に来たばかりで、目立つようなことはしたくなかった。基成とのことにも、きちんと終止符を打たなければならない。岡北を離れるときはあまりに急だったため、家の使用人たちは私の持ち物をほとんどすべて、江松へと運んでいた。そこには、彼がこの数年間、私のために心を込めて選んでくれた贈り物も含まれていた。その中に一つ、限定版の宝石ネックレスがあった。それは私の十五歳の誕生日に、彼が自ら私の首にかけてくれたものだった。当時の私は、それを宝物のように大切にしていた。かつて気分が落ち込んだとき――そのネックレスを見れば、たちまち元気を取り戻せた。ネックレスのように肌身離さず持つ贈り物は、特別な意味を持つものだ。でも、ようやく私は気づいた。人が本当にあなたのことを好きではない場合。あるいは、その感情に一点の濁りがあるなら。たとえあなたが彼の婚約者であっても、それは、すべてが空虚なのだ。ましてや、物など何の意味もない。贈り物の数々をひとつひとつ整理しているとき、私の心は、驚くほど静まり返っていた。最後に、ジュエリーボックスが空になったとき、胸の中はかつてないほど軽くなっていた。ちょうどそれらを梱包して送ろうとしていたとき――スマホに数件の微信メッセージが届いた。牧場のスタッフからの連絡だった。私が飼っていたコーギーが病気になってしまったという。一日中ぐったりとしていて、食事も口にしないらしい。動画を見た瞬間、私は思わず目頭が熱くなった。スタッフは「きっと寂しがってるんですよ」と言った。私は以前、毎週のように会いに行っていた。でも今回は、もうずっと顔を見せていなかった。私はすぐに電話をかけた。「早乙女さん、ちょうど墨谷さんがこちらにいらっしゃいますので、代わってもらいますね」一瞬戸惑う私の耳に、基成の低く落ち着いた声が響いた。「清枝。あの犬を飼い始めたとき、君はどう約束したか、もう忘れたのか?」もちろん覚えている。墨谷家の家訓は、選んだペットには最後まで責任を持てというものだった。大切に育て、決して途中で放棄してはならない。「でも、私が江松を離れたのって……あなたが望んでたことでしょう?」「清枝」基成は冷たく笑った。「君がそんなに素直だ
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