【律side】
ニューヨークの撮影スタジオで、俺は最後のカットを撮り終えたところだった。6月の蒸し暑さが、窓の外から漂ってくる。
疲労は感じていたが、充実感もあった。寧々に早く会いたい気持ちを抑えながら、予定通り来月の帰国を心待ちにしていた。
そのとき、俺のスマホが鳴った。
小島マネージャーからの着信。時差を考えると、向こうは深夜のはずだ。緊急でなければ、こんな時間にはかけてこないだろう。
「はい……?」
「律、大変よ!」
電話の向こうの小島さんの声は、明らかに動揺していた。その声を聞いただけで、ただ事ではないと悟った。
「どうしたんですか?」
「寧々さんの身に、危険が迫っているわ」
「え……?」
俺の血の気が一気に引いた。心臓がドクンと大きく鳴り、耳の奥で自分の心音が響く。
「危険って……寧々に、何があったんですか!?」
「天野沙羅が、寧々さんのバイト先や大学にまで現れて……嫌がらせをしているみたいなの。それだけでなく、あなたのマンションの郵便受けに寧々さん宛ての不審な手紙が投函されたり、寧々さんのSNSに自宅で撮影されたかのような私物の画像が送られてきたりしているの」
小島さんの説明を聞きながら、俺の手が震え始めた。手のひらには、嫌な汗が滲む。
俺が想像していたよりも、事態ははるかに深刻だった。
「明らかに、寧々さんの行動が監視されている証拠よ。元カレの佐伯拓哉も、再び彼女に接近している。寧々さんの命の危険もあるかもしれないの!」
「今すぐ帰ります」
俺は即座に答えた。
「律、でも、お仕事が……」
俺がこの日のためにどれだけ努力してきたか、小島さんが一番よく知っているはずだ。だけど、そんなもの、寧々の命と天秤にかける価値もない。
俺が欲しかったのは、世界的な評価なんかじゃない。ただ、愛する人の隣にいることだけだ。
「
【律side】ニューヨークの撮影スタジオで、俺は最後のカットを撮り終えたところだった。6月の蒸し暑さが、窓の外から漂ってくる。疲労は感じていたが、充実感もあった。寧々に早く会いたい気持ちを抑えながら、予定通り来月の帰国を心待ちにしていた。そのとき、俺のスマホが鳴った。小島マネージャーからの着信。時差を考えると、向こうは深夜のはずだ。緊急でなければ、こんな時間にはかけてこないだろう。「はい……?」「律、大変よ!」電話の向こうの小島さんの声は、明らかに動揺していた。その声を聞いただけで、ただ事ではないと悟った。「どうしたんですか?」「寧々さんの身に、危険が迫っているわ」「え……?」俺の血の気が一気に引いた。心臓がドクンと大きく鳴り、耳の奥で自分の心音が響く。「危険って……寧々に、何があったんですか!?」「天野沙羅が、寧々さんのバイト先や大学にまで現れて……嫌がらせをしているみたいなの。それだけでなく、あなたのマンションの郵便受けに寧々さん宛ての不審な手紙が投函されたり、寧々さんのSNSに自宅で撮影されたかのような私物の画像が送られてきたりしているの」小島さんの説明を聞きながら、俺の手が震え始めた。手のひらには、嫌な汗が滲む。俺が想像していたよりも、事態ははるかに深刻だった。「明らかに、寧々さんの行動が監視されている証拠よ。元カレの佐伯拓哉も、再び彼女に接近している。寧々さんの命の危険もあるかもしれないの!」「今すぐ帰ります」俺は即座に答えた。「律、でも、お仕事が……」俺がこの日のためにどれだけ努力してきたか、小島さんが一番よく知っているはずだ。だけど、そんなもの、寧々の命と天秤にかける価値もない。俺が欲しかったのは、世界的な評価なんかじゃない。ただ、愛する人の隣にいることだけだ。「
「寧々、声が震えてるぞ。無理してないか?何かあったら、すぐに俺に話せ」彼の鋭い観察眼は、画面越しでも私の異変を見抜いてしまう。「ううん、大丈夫だよ」私は必死に笑顔を作る。「律こそ、ちゃんとご飯食べてる?疲れてない?」私は話題を逸らそうとしたが、律は納得していない表情だった。「俺のことはいい。寧々のことが心配なんだ」律の声に、いつも以上の優しさが込められていた。「最近、様子がおかしい。電話の声も、メッセージの文面も……寧々、俺に何か隠してないか?」私は言葉に詰まりそうになった。律に心配をかけたくない。でも、嘘をつき続けるのも辛い。「寧々」律が画面越しに、私の名前を呼ぶ。「一人で抱え込むな。俺は、いつだって君の味方だ」その言葉に、涙がこみ上げてきた。「どんなことでも、俺に話してほしい。君が苦しんでいるのを見ると、俺は何も手につかないんだ」律の優しい声に、思わず涙があふれそうになった。でも、カメラに映らないよう、必死に涙を拭った。「本当に大丈夫?」「うん……卒論の準備で、ちょっと疲れているだけ」私はかろうじて、そう答えた。「無理せず、いつでも頼ってくれよ。どんな時でも、俺がそばにいるから」「ありがとう、律」私は、精一杯の笑顔を見せた。「律の声を聞いたら、元気が出たよ。本当にありがとう」それは、嘘偽りない気持ちだった。律の声を聞いているだけで、不思議と安心できた。通話が終わったあと、私は一人でソファに崩れ込んだ。律の優しさに触れて一瞬安堵したが、同時に彼に本当のことを話せないもどかしさが襲ってきた。本当のことを話せない辛さ。一人でこの困難を乗り越えなければならない孤独感に、胸が張り裂けそうになった。でも、律に心配をかけるわけにはいかなかった。遠い異国で、夢に向かって必死に頑張っている彼に、
それから数日後、大学から突然連絡があった。「一条さん、学生課まで来てもらえますか」電話の向こうの事務員さんの声は、いつもより重々しかった。翌日、学生課を訪れると、課長が深刻な表情で私を迎えた。「一条さん、実はあなたについて告発文が届いているんです」「告発文?」私は驚いて聞き返した。「内容は……」課長が読み上げた告発文の内容に、私は愕然とした。「文学部の一条寧々氏は、A大学の品位を著しく損なう行為を行っている可能性があります。特定の著名人との親密な関係を、SNS上で不適切に示唆する行動が見受けられ……」私はSNSで、律との関係を公にしたことなど一度もない。むしろ、細心の注意を払って秘密にしてきた。「これは、事実ではありません」「そうですね……実際、調べてみましたが、あなたのSNSにそのような投稿は見当たりませんでした」課長も困惑している様子だった。「ただ、こうした告発がある以上、形式的にでも調査せざるを得ないのです」「そんな……」「卒業論文の提出も控えていることですし、今後の動向によっては単位取得に影響する可能性もあります」頭が真っ白になった。もし単位が取れなかったら、卒業できない。大学を出ると、足元がふらついた。これも、きっと沙羅さんの仕業だ。私を大学から、律から、すべてから引き離そうとしている。***嫌がらせは、日に日にエスカレートしていった。ある夜。大学からの帰り道、人通りの少ない住宅街を一人で歩いていると、後ろから車のエンジン音が近づいてきた。最初は、単なる車の走行音だと思っていた。でも、その音は私の背後にぴたりと寄り添い、決して追い越さない。嫌な予感がして、歩くペースを速めた。すると、車も同じように速度を上げた。心臓がドクンと大きく鳴る。今度、私は立ち止まってみた。すると、車もエンジンを静かに響かせながら、ぴったりと止まった。「……っ」私は息を
翌週、私がバイトをしている大学近くのカフェで、奇妙なことが起こり始めた。その日は平日の午後、比較的忙しい時間帯だった。私がレジでオーダーを取っていると、ひとりの女性客が入店してきた。地味なベージュのカーディガン、黒縁の眼鏡、深くかぶった帽子、大きなマスク。完全に変装した格好で、顔はほとんど見えない。でも、その立ち振る舞いには、なぜか気品を感じた。「いらっしゃいませ」私が笑顔で迎えると、その女性は私の前に立った。「メニューを見せて」声は低めで、意図的に声質を変えているようにも聞こえた。私がメニューを差し出すと、彼女は異常なほど時間をかけて見始めた。「このブレンドのコーヒー豆の産地は?焙煎日は?」「エスプレッソの濃さは調整できる?」「このケーキの甘さはどの程度?」「アレルギー対応は、どこまでできるの?」質問が延々と続く。他のお客様が後ろに並んでいるのに、彼女は一向に注文を決めない。「少々お待ちください。確認してまいります」私が厨房に確認に行くと、戻ってきた時にはさらに追加の質問が待っていた。「やっぱり、さっきのとは違うものにするわ」ようやく決まったと思った矢先、彼女は注文を変更した。「アイスラテをホットに。いや、アイスカフェオレに変更で。いえ、やっぱり最初のラテで」後ろに並んでいたお客様たちの視線が、だんだん厳しくなってくるのがわかった。注文をお渡しすると、今度は商品に対するクレームが始まった。「このラテアート、崩れてるじゃない」確かに泡が少し崩れていたが、通常なら気にならない程度だった。「申し訳ありません。作り直しいたします」作り直したラテをお持ちすると、今度は別のクレームだった。「注文したケーキと、違うものが来てるんだけど?」私は確認したが、注文通りのケーキだった。でも、彼女は納得しない。「プロ意識が低いわね」「こんなに時間がかかって、
梅雨入りした東京は、どんよりとした雲に覆われていた。6月に入り、律がニューヨークに発ってから既に4か月が過ぎている。私は相変わらず律のマンションで一人暮らしを続けていたが、最近になって妙な違和感を覚えることが多くなっていた。最初は気のせいだと思っていた。でも、大学からの帰り道、コンビニで買い物をしている時、カフェでバイトをしている時──いつも、誰かに見られているような感覚が拭えなかった。そんなある日。スマートフォンでSNSを見ていると、見覚えのあるアカウントが目に止まった。人気モデル・天野沙羅さんの投稿だった。『彼の隣は、私だけの場所。邪魔な存在は、容赦なく排除する。』私の心臓が激しく鼓動した。これって、私への当てつけ……?もしかして、沙羅さんが私のことを……。震える指を動かしながら、さらに遡って沙羅さんの投稿を見た。『本物の愛は、試練を乗り越えてこそ証明される。偽物は、すぐに馬脚を現す。』『運命の人は、必ず私のもとに戻ってくる。雑音に惑わされることはない。』どの投稿も、まるで私に向けられているかのような内容だった。考えすぎかもしれない。でも、律と私の関係を知っているのは、限られた人だけのはず。それなのに、まるで私の存在を知っているかのような投稿内容に寒気がして、スマートフォンを置いた。***ある日の夕方、友達の彩乃から電話がかかってきた。「寧々?ちょっと変な話なんだけど……」彩乃の声は、いつもの明るさとは違っていた。「どうしたの?」「さっき、知らない人から電話があって……寧々と律くんの関係について聞かれたの」私の心臓がどくんと跳ね上がった。「え?」「女の人で、すごく上品な話し方だったんだけど、『一条寧々さんと神崎律さんの関係について、詳しいことを教えていただけませんか?』って。私、気持ち悪くて切っちゃったんだけど……」スマホを持つ手が震えた。「美郷にも、同じような連絡があったって聞いたよ」「うそ、美郷にも!?」
週末、久しぶりに彩乃と美郷に会った。渋谷のカフェで、三人並んでソファに座る。「寧々、痩せた?」美郷が心配そうに私の顔を覗き込む。「ちょっと……食欲なくて」「ダメじゃない。体が資本なのに」彩乃がフレンチトーストを私の前に置いた。「はい、これ食べて」「ありがとう……」久しぶりに甘いものを口にすると、少し気持ちが和らいだ。「それで、就活はどんな感じなの?」美郷が穏やかに聞いてくる。「全然ダメ。面接まではいくんだけど、そこで落ちちゃう。自分の何がいけないのか分からなくて」「寧々の文章、私は好きだけどな」彩乃が真剣な表情で言った。「大学の文芸サークルで書いてた小説も、すごく良かったし。寧々の文章には、人を惹きつける力があるんだから」「そうよ」美郷も頷く。「焦らなくていいから、寧々らしく頑張ればきっと道は開けるよ。寧々なら、きっと素敵な編集者になれる」二人の温かい言葉に、胸が熱くなった。「ありがとう……二人がいてくれて良かった」「当たり前でしょ」彩乃が私の肩を抱く。「友達なんだから」「そういえば、律くんは元気?」美郷が聞いてきた。「うん、ニューヨークで頑張ってる。でも……」私は少し言葉を濁した。「寂しいでしょ?」彩乃が察してくれる。「うん、すごく。でも、律も頑張ってるから、私も頑張らないと」「偉いね、寧々」美郷が微笑む。「でも、たまには甘えてもいいのよ。一人で抱え込まないで」友達の優しさが、心に沁みた。***家に帰ってから、私は律にメッセージを送った。『今日、彩乃と美郷に会ったよ。就活のこと、相談して励まされた。友達っていいなって、改めて思った。律も、体に気をつけて頑張ってね』すると、すぐに