Se connecter隼人は無表情のまま、冷ややかに麗華を一瞥した。ゴミを見るような目だ。だが麗華はその視線の意味を理解しない。むしろ自分の美しさに圧倒されて言葉を失っているのだと勘違いして、さらに言葉を重ねた。
「いいこと? 結婚してあげてもいいけれど、条件があるわ。まず、その無礼な態度を改めること。私の前ではひざまずいて挨拶なさい。それから、あなたの資産の管理権は全て私とお母様に――」
「黙れ」
短く鋭利な一言が、麗華の妄言を断ち切った。隼人は書類をテーブルに叩きつけた。
「勘違いするな。私が欲しいのは『白河の戸籍』という看板だけだ。お前個人のわがままに付き合うつもりはない。……商品なら、商品らしく黙っていろ」
その言葉に麗華の顔が屈辱で真っ赤に染まった。
商品。自分を、この世界で最も尊い存在である自分を、モノ扱いした。「な……っ! 無礼なっ!」
麗華はヒステリックに叫んだ。
「お母様、お断りよ! こんな生意気
「あの宿が元気になってくれるなら、安いもんだ。裏の納屋に、今朝採ってきたばかりの原木椎茸と、珍しい山菜が山ほどある。好きなだけ持っていきな」「マジで!? ありがとー!!」 実加は老人の手を両手で握りしめ、何度も上下に振った。「すまんな、源さん。あいつ礼儀知らずでよ」 実加が納屋に走っていった後、番頭は老人に頭を下げた。 老人は笑う。「構わん、構わん。若いやつはあのくらい元気があった方がいい。しかし急にどうしたね? 宿で俺のキノコを使うなんぞ、今までなかったろうが」「実は事情があってな……」 番頭が御子柴の話をすると、老人はため息をついた。「グラン・ヘリックスっちゅーと、あのでかいリゾートホテルだな。あんなでかい箱モノをおっ立てて、この里山に悪影響が出なけりゃいいがと心配していたんだよ。せせらぎ亭は昔からある、この町の宿だ。潰れずにまた客が来るなら、こんなに嬉しいことはない」「ありがとうよ。……それでキノコと山菜の代金は、いくら払えばいい?」「そういう事情なら、タダでも構わんぞ」「そうはいくかよ。里山と町を心配してくれる源さんが、干上がっちゃどうしようもないだろ。しっかり金を受け取って、これからも働いてくれ。何、心配いらん。予算ならうちの親会社が出してくれる」 番頭がニヤリと笑うと、老人も笑みを返した。「そういうことなら、きっちりもらおうかね。納屋にあるだけというと、こんなもんだが」「よし。受け取ってくれ」 番頭が老人に代金を渡したところで、両手いっぱいにキノコと山菜を抱えた実加が戻ってきた。「番頭さん! 見てくれよ、これ。すげー立派な椎茸と、他にも山菜が山ほどだ。香りがいいんだよ、これ!」「そうじゃろう、そうじゃろう。俺の自慢のキノコだからな」 老人が笑う。 番頭と実加は改めて礼を言って、たくさんの食材を軽トラに積み込んだ。「またいつでも来いよー!」「うん、また来るぜ
「それだ!」 実加が両手をポンと叩いた。「そいつらをかき集めりゃ、すっげえ夕食ができるんじゃねえの!」「……お待ちください」 翔吾が片手を上げて、議論を制止した。 彼の頭の中で、新たなビジネスモデルの構築が急速に進んでいる。「それは、経営戦略の観点からも極めて理にかなっています」 翔吾はタブレットを開き、画面を皆に向けた。「現代のリゾート産業において、『地産地消』――ローカル・ガストロノミーという概念は、非常に高い付加価値を生み出します。どこにでもある高級肉を出すよりも、『その土地、その季節でしか味わえない特別な食材』を提供する方が、顧客満足度は飛躍的に向上するんです」 翔吾の論理的な裏付けに、板前の顔が少しずつ上がり始めた。「つまり、ただの寄せ集めの妥協ではないってことか? 俺たち地元民にとってはありふれた食材でも、他の場所から来た客にとっては価値があると?」「ええ。妥協ではありません。これは、せせらぎ亭のブランド価値を高めるための、最強のアップデートです」 翔吾が断言すると、実加が弾かれたように駆け出した。「決まりだな! 番頭さん、軽トラ出すぞ!」「お、おう! 任せとけ!」 番頭が鍵を手に取り、実加の後を追う。 2人の足音が遠ざかるのを見送り、翔吾はタブレットを閉じた。(物理的な供給網が絶たれても、地域との繋がりという『無形のネットワーク』までは断ち切れない。御子柴の計算違いは、そこだ) にわかに活気を取り戻したスタッフたちを、小夜子は静かに見守っていた。◇ 午後になると、せせらぎ亭の軽トラックが、土煙を上げて山道を走っていた。 運転席の番頭がハンドルを握り、助手席では実加が窓を全開にして風を浴びている。「右だ、姉ちゃん! この先の坂を上ったところが、源じいさんの家だ!」 番頭の指示通りに進むと、古い日本家屋が見えてきた。
「チッ。なんてことだよ……」 板前が悔しそうに吐き捨てた。 翔吾は脳内で被害の規模を計算する。 明日の宿泊客は満室。 夕食の提供ができなければ、せせらぎ亭の信用は一瞬にして地に落ちる。 多額の違約金と、最悪の口コミがネット上にあふれ返るだろう。 板前が、フラフラとした足取りで調理台に手をついた。 彼の広い背中が、みるみると小さくなっていくように見える。「終わりだ……」 板前の声が、空っぽの厨房に虚しく響いた。「食材がなけりゃあ、料理人はただのデクノボウだ。明日の客に、出すもんが何一つねえ。……お客様に土下座して、予約をキャンセルしてもらうしか……」 調理台に突っ伏し、板前はがっくりと首を垂れた。 厨房に重苦しい空気が漂う。「おいメガネ、なんとかならねえのか?」「何とかと言われても……」 実加と翔吾も頭を絞るが、良い解決策は浮かばない。 ――と。「キャンセルなど、言語道断です」 凛とした声が、重い空気をまっすぐに貫いた。 入り口に、藤色の着物をまとった小夜子が立っていた。 彼女の歩みには一切の動揺がない。 百合の香りを漂わせながら、小夜子は板前の隣へと歩み寄った。「女将……。でも、肉も魚もねえんです。夕食の献立が作れません」 板前はのろのろと目を上げて、彼女を見る。「高級な和牛や、遠くの海で獲れた鯛が、本当に必要ですか?」 小夜子は厨房の窓を指差した。 そこからは、新緑に彩られた美しい里山の風景が広がっている。「画一的な高級食材がないのなら、この里山にある『宝物』を使えばいいのです」「宝物……?」「ええ。地元の方しか知らない美味しいもの、昔か
「これを見ろ! 明日の夕食に出す予定だった和牛も、鯛も、高級野菜も、何一つ届いてねえんだ! 業者のトラックは、空の箱だけ置いて帰っちまった!」「……届いていない? 発注ミスですか?」「馬鹿野郎、俺がそんなドジを踏むか! 3日前にきっちり発注した。業者の担当も『承知しました』って言ってたんだ! 伝票の控えもある!」 板前の呼吸が荒い。額にはじっとりと嫌な汗が浮かんでいた。(何が起きた?) 翔吾は即座に自分のスマートフォンを取り出し、画面をタップした。馴染みの食材卸業者の番号を呼び出す。 数回のコール音の後、電話は繋がった。「お世話になっております。アーク・リゾーツの黒崎です。せせらぎ亭の明日の納品についてですが――」『あ、ああ……黒崎さん。申し訳ありません!』 電話の向こうの担当者は、ひどく歯切れの悪い声を出した。『うちからは、もうそちらへ食材を回せなくなりました。本当に、申し訳ない!』「回せない? どういうことですか。契約違反ですよ」『上からの絶対の指示なんです。そちらと取引をするなら、今後の大型契約はすべて白紙にするって……。うちみたいな小さな問屋じゃ、逆らえません!』 一方的にまくしたてると、担当者は逃げるように電話を切ってしまった。 ツー、ツー、という電子音が、翔吾の耳元で響く。「相手さん、何だって?」 実加が不審そうな顔をした。「上からの指示で、うちとは取引できないそうです」「はあ? 何だそりゃ? そんなの許されるのか?」「許されませんよ。明らかに契約違反です。……他の業者にも確認しましょう」 翔吾はすぐに別の水産会社、精肉店にも電話をかけた。 けれど答えはすべて同じだった。「急に取引できなくなった」「他を当たってくれ」 と、誰もが怯えたような声で謝絶してくる。
週末の活気から数日が経過した、水曜日の朝。 せせらぎ亭のロビーには、柔らかな春の陽射しが差し込んでいた。 黒崎翔吾はフロントカウンターの定位置に立ち、タブレット端末の画面をスクロールしていた。 視線の先にあるのは、今後の予約状況を示すカレンダーだ。週末だけでなく、平日のマス目にも次々と『予約完了』の文字が埋まり始めている。(SNSのバズ効果は、一過性のものでは終わらなかった。宿泊した顧客の口コミが新たな顧客を呼ぶ、理想的な好循環サイクルに入っている) 翔吾は無意識のうちに眼鏡を押し上げ、小さく息を吐き出した。 胸の奥に確かな達成感が広がっていく。自分たちの提供したサービスが、明確な数字となって表れているのだ。「フンフフーン、フフーン」 軽やかな鼻歌が聞こえてきた。 山内実加が、上機嫌でモップをかけている。金髪のメッシュを揺らし、ステップを踏むように床を磨く姿は、見ているこちらまで明るい気分にさせる。「ずいぶんと楽しそうですね、実加さん」 翔吾が声をかけると、実加はパッと顔を上げて満面の笑みを見せた。「おう、インテリ! 当たり前だろ! 今度の休みの日にな、チビがここへ遊びに来るんだよ!」 実加はモップの柄に体重をかけて、嬉しそうに目尻を下げる。「小夜子師匠が手配してくれたんだ。シッターさんが車で連れてきてくれるって。アタシがピカピカにしたこの宿を見たら、チビのやつ、絶対喜ぶぜ!」 小さな理玖が喜ぶ姿を想像し、翔吾も思わず微笑んだ。「それは良かったですね。ですが、よだれで床を汚されないように注意してくださいよ」「なんだと! ウチのチビのよだれはマイナスイオンが出てるんだよ!」 翔吾の冗談めかした言葉に、実加が口をとがらせて言い返した。 平和なやり取りだ。数日前の、あの重く沈んだ空気が嘘のように、せせらぎ亭には穏やかな時間が流れていた。 だがその平穏は、突如として破られた。「どうなってんだ! ふざけるな!」 厨房の方角から、板前の
(だが、目の前の母親の疲労度を瞬時に察知し、予定になかった貸切風呂のスケジュールを臨機応変に組み上げ、温度を調節することは絶対に不可能だ。そこにいる人間の『思いやり』がなければ、この結果は決して生み出せない) 翔吾の脳内に構築されていた冷たい数式が、温かなものに書き換えられていく。 御子柴が『ゴミ』と切り捨てた感情という変数が、いかに巨大な価値――顧客の生涯価値(LTV)を生み出すか。 翔吾は今、自分自身の体験として、それを完全に理解したのだ。「お疲れ様。見事な采配でしたよ、翔吾さん」 小夜子が音もなく現れた。 温かいお茶の入った湯呑みを、翔吾の前に置く。「総支配人……いえ、女将。ありがとうございます」 翔吾がお茶を一口飲むと、胃の奥まで温かさが広がった。「みんな、スタッフルームに集まっていますよ。あなたも来なさい」 小夜子に促され、翔吾が裏のスタッフルームへ向かうと、そこには実加や番頭、仲居や板前たちが車座になって座っていた。 全員の顔に心地よい疲労感と、大きな仕事をやり遂げた達成感が浮かんでいる。「おう、インテリ! 遅えぞ!」 実加が自分の隣の座布団をバンバンと叩く。 翔吾がそこに座ると、番頭がおもむろに立ち上がった。 番頭の手には、昨日御子柴が置いていった、グラン・ヘリックスの再就職契約書が束になって握られていた。分厚い紙の束だ。 部屋の空気が少しだけ引き締まる。 番頭は契約書を見つめて、ふっと息を吐いた。「あの赤ちゃん連れのお客さん……風呂上がりに、俺の顔を見て『ありがとう』って、泣きそうな顔で笑ってくれたんだ」 番頭の声は、深い感慨に満ちていた。「俺はあの笑顔が見たくて、何十年もこの宿で働いてきた。それを……すっかり忘れてた」 番頭は契約書の束を両手で掴むと、迷うことなく部屋の隅にあるゴミ箱へと投げ捨てた。 バサッ、と重い音が響く。
車内は深海の底のような静寂に包まれていた。 唯一の光源は、隼人の手元にあるタブレット端末が放つ蒼白い電子の光だけ。その冷たい青い光が、彫刻のように整った、しかし険しい彼の横顔を闇の中に浮かび上がらせていた。 小夜子はシートの端、ドアに張り付くようにして身を縮めていた。 高級な本革の香りが鼻孔をくすぐる。自分の纏う埃っぽい匂いがそれに混ざるのではないかと心配になって、呼吸さえ浅く保つ。 隣に座る夫――小夜子の所有者は、苛立っていた。指先が画面を叩く音が、鋭いリズムとなって車内に響く。 彼は明らかに殺気立っていた。それは、
(ここは人が暮らす場所ではないわ。まるで氷の城ね) そんな小夜子の迷いなど意に介さず、隼人はさっさとリビングへと進んでいく。 彼は上着を脱ぎ捨て、ソファの背もたれに無造作に掛けた。 広大なリビングの中央に鎮座する、黒い革張りのソファ。 隼人はそこに深く腰掛けて、ガラステーブルの上の瓶とグラスを手に取った。中にはウィスキーだろう、琥珀色の液体が満ちている。 カラン、と氷がグラスに当たる硬質な音が、広い空間に反響する。酒が注がれる音だけが、この部屋の沈黙を埋めていた。 隼人はグラスを傾け、氷越しに小夜子を見据えた
(それなら、私にもできる) 今までこの家で、感情のない「機能」として扱われてきたのと同じだ。期待されないということは、失望されることもないということ。愛されないということは、憎まれることもないということ。 それは今の小夜子にとって、これ以上ないほど気楽で救いのある条件だった。 隼人は懐から小切手帳を取り出した。万年筆が走る音だけが、静まり返った部屋に響く。「3」と、「0」が8つ。ビリリ、と紙を切り離す音がした。それは、小夜子と白河家の縁を断ち切る音のように聞こえた。 隼人が小切手をテーブルに置く。父と義母が、浅ましくそれに飛びつ
そんな時に古臭い屋敷で「お見合いごっこ」に時間を奪われ、さらには3億円という身代金までふんだくられたのだから、不機嫌になるのも無理はない。 ブブブブッ。 シートの上に放り出されていたスマートフォンが、低い振動音を立てた。隼人は画面を一瞥して舌打ちし、通話ボタンを押した。「It's me. Explain the situation.(私だ。状況を説明しろ)」 流暢な、だが氷のように冷たい英語だった。 電話の向こうの相手が何かを弁解しているのだろう。隼人の眉間の皺が深くなる。「Stop making