تسجيل الدخول「アーコブ様、おかえりなさいませ!」
忠実《ちゅうじつ》なる騎士が、まるで長い遠征《えんせい》から帰還した王に対して第一声をかけるような、信頼と尊敬に満ちた声が二つ響いた。 村の入口──巨大な丸太が並ぶ隙間に、その聖域へと繋がる門があった。 巨大な鎖とそれを巻き上げる滑車《かっしゃ》が備え付けられており、いかにも重厚で「天然の素材で築かれた聖域の門」というイメージを俺に焼き付ける。 そこに鎧をまとった男がふたり。 先ほどの声を発した者たちだ。 フルフェイスの鉄兜の隙間から覗く目線だけで、俺の暗殺者としての勘が反応する。 相当鍛え上げられていると感じさせるが、無防備に鞘《さや》に収めた長剣を、なんの警戒もせずにぶら下げているのは門番としては減点だ。 (緊張感がないな……) そんな思考が俺の頭をよぎる。 もし仮に今、俺が彼らの得物《えもの》を奪い、その鎧の隙間に突き刺すという凶行に及んだなら、こいつらはどうする気だろうか。 だが、目の前にいる老人がそれを数秒で鎮圧する力を持っているのは確かであり、この門番達もその老人の絶対的な力を信頼しているからこその余裕なのかもしれない。 老人にはそれだけ、俺に下手な真似はできないと思わせる『何か』があった。 そして、ふたりは、拳を額に添える動作で敬礼した。 この村の“敬意”の形……らしい。 老人もそのポーズを返したため、俺も真似をして同じポーズを取る。 郷に入っては郷に従え、だ。 「ご苦労。何か変わったことは?」 俺と話す時とは違う――威厳《いげん》に満ちた声。 そう、まさにこの街の主《あるじ》に相応しいと感じさせる声だった……。 (カリスマだな) そう感じると同時に、俺は少し戸惑う。 老人のその態度の変わりように。 俺は、この老人の真の姿が分からなくなっていた。 それはまるで、俺と同じ人種ではあるが、潜伏し、人間を籠絡してから確実に仕留める……俺とは別のタイプの暗殺者のようにも思えた。 『特にありません』 声も、動作も、完全に同時だった。 近づいたことで、鎧の精度が目視でもわかった。そこら辺の武具の鍛造《たんぞう》の質では、到底歯が立たないだろう。 下手したら、俺の技術を以《もっ》てしても、隙間を狙わなければそこら辺のナイフでは根元から折れるかもしれない。 「ところで、アーコブ様……その後ろの青年は?」 右側の門番が、鎧の隙間から俺と目を合わせてきた。 そして、やっと少し警戒の色を瞳に宿す。 ここでも減点だ。 ……初めから警戒すべき案件だろうに。 そう思っていると、老人が俺の心の内など知ってか知らずか……言葉を続ける。 「ガリア湖でビッググリズリーに襲《おそ》われていたところを保護した。食事を与えて、話を聞くつもりだ」 とりあえず、すぐさま尋問はされないみたいだ。 それだけでも良しとしよう。 「了解しました。引き続き、警備を続けます」 「もしロードグリズリーが出たら、連絡班を使って私に知らせなさい。あの牙では、さすがに君たちでも厳しいからね」 (ロードグリズリー? あの熊みたいな生物の事か?) 聞き慣れない単語に、俺は先ほどの熊を思い出す。 言語とその意味自体は、この世界でも全く変わらないらしい。 「命を落とすとしても、1分は持たせてみせます!」 だが、その言葉を聞いて俺は「違う」と思った。 確かにあの熊は異質だったが、この屈強な鎧と剣で完全武装した兵士が、1分も持たないとは到底思えなかったのだ。 「その心意気やよし。交代時に葡萄酒《ぶどうしゅ》を褒美《ほうび》に出そう」 街を守るという使命感もあるだろうが、それ以上にこの老人が、村長としていかに慕《した》われているかがよく分かった。 『ありがたき幸せ!』 やり取りを終えた彼らは再び無言になり、警備体勢に戻った。 「行こう、ソル」 俺は答えず、ただ静かにアーコブの背後を歩く。 村へ踏み入れると、老若男女《ろうにゃくなんにょ》が次々と声をかけてきた。 『アーコブ様、おかえりなさい』 「ああ、ロッチ。ただいま」 『アーコブ様。遊ぼう!』 「ラミ、今日は忙しい。また今度な」 『アーコブ様。野菜を届けます!』 「ハマ、ありがとう。夕食で使わせてもらうよ」 街は決して広くはない。だが、立ち止まるたびに家への距離は相対的に伸びていく。 そしてやっとの思いで、どこがゴールかも分からなかった彼の家に着いた。 「着いたよ。入りなさい」 気品のある木製の扉。そのドアノブに、ゆっくりと手をかけた。 俺は少し躊躇《ちゅうちょ》したが、それでも中へ入るために扉を開く。 「……失礼します」 促されるまま中に入ると……。 家は、木造の巨大な空間にレンガの暖炉《だんろ》が組み込まれた作りだった。 冬の季節に火事は大丈夫なのか? と、少しだけ思う。 中には、3人の女性が横一列に並んでいた。 10代・30代・50代くらいだと思われるが、それぞれ右拳を額に添えて礼をする。 『おかえりなさいませ、アーコブ様』 すると、10代くらいの女性と目が合った。 こちらを、ただ呆《ほう》けたような表情で見つめている。 (……?) 今まで数多くの瞳の奥に宿る感情を見てきた俺だが、何故かその瞳の奥は見通せなくて。 ___初めて見る、不思議な感情が籠《こも》った瞳《ひとみ》だった。 「客人だ。名前はソル。食事を与えてくれ」 『かしこまりました』 その少女が俺のそばに来る。 『こちらへ、ソル様』 俺は好奇心から、少女に問いたくなった。 『どうしたのか?』と。 だが、それが叶う事はなかった。 それを俺自身が『どうでも良い』と切り捨ててしまったのだ。 その少女に案内された部屋には、食卓と椅子。 そして、その上には食事マットだろうか? 白い布が敷かれていた。 『どうぞ、席におつきください』 少し警戒しながらも、座った。 彼女は俺の隣に無言で立つ。 警戒に割かなければならないリソースと脅威度が増えるため、ひどくやりづらいのだが……。 やがて、30代の女性が料理を運んできた。 スープ、パン、そして黄色い三角の──チーズのような塊。 警戒は解かないようにして、毒物の違和感《いわかん》にすぐ反応できるよう舌に神経を集中させる。 毒でもいいから死ぬ前に腹いっぱい食べたいとは思ったが、無抵抗《むていこう》で毒物を摂取《せっしゅ》するつもりはない。 「いただきます……」 その言葉を聞くと、30代の女性はまた拳を額に添えて去っていく。 視線が一瞬逸れたので少女の方を周辺視野で黒目の目線でバレないように見た。 視界の端で見えた少女のその手が、少し震えているのが見えた。 よそ者への疑念か。あるいは、警戒か。 少なくても向こうも緊張しているのが分かったので、さらに舌に意識を集中させる。 そして、俺はスプーンに手を伸ばす。 スープは、塩気のきいた野菜のだし。 昔、高級品である塩を、料理に入れることすら、ためらった俺の生活からすれば、それはとんでもない贅沢だった。 パンはふわふわで、温かくて。 チーズは少し乳臭い。でも、スープとよく馴染む。 「…………っ」 思わず、息が漏れた。 視界が霞み始める。 俺の頬に、一筋の涙が伝った。 初めて、「食べる」という行為が、“罰”ではなく、“赦し”のように感じられた瞬間だ。 「…………っ……」 嗚咽《おえつ》が、こみ上げる。 「口に合いませんでしたか……?」 少女が心配そうに顔を覗き込んでくる。 涙は止まらない。 噛むたびに、自分が“赦《ゆる》されてしまう”ような気がして……怖かった。 でも、美味しくて、止まらない。「……えーと。まず聞きたいんだけど……君は、名前は?」 少女を怖がらせないよう。 俺は暗殺者時代に培った、人を安心させる笑顔を作った。 声はなるべく柔らかく。掴みはこれでいいだろう。 そう思っていた。 だが、返ってきたのは、俺の想像の余地すら破壊する無機質な響きだった。 「えーと? まず? んー? なまえ?」 純粋な目で、言葉の音だけをオウムのように繰り返す。 (……ふざけているわけじゃない) 俺は一瞬、どうしていいのか分からなくなりレクスに視線を移した。 だが、レクスはただ黙って視線で促す。続けろ──と。 「君は……《境》の者かな? 憤怒の民、って呼ばれてるけど」 「きみは? じょう? のもの? ふんぬ、の……みん?」 最後の確証を得るために踏み込んで聞いた。 だが、結果は同じ。 意味を持たない「音」だけが、空洞に響くように返ってくる。 「……言葉が、通じてないわけじゃない。発音はできる。けれど、意味を何一つ知らない──」 まるで赤子に向かって話しているような感覚。 彼女は、記憶も、言語も……なにも持っていなかった。 レクスが低くうなりながら言う。 災いを呼ぶという少女に、記憶がない。事情の聞き出しようがない。 普通なら、村人達の動きをどう抑えるか途方に暮れるレベルだ。 「ともあれ、アーコブじいさんに報告だ」 「……俺が行く」 思わず素の言葉遣いが出てしまったが、レクスは気にすることなく頷いた。 「分かった。判断が出るまで、民衆の動きは止めておく」 そう言うと、レクスは足早に部屋を後にした。 部屋に残るのは、俺と少女だけ。 眠っていたはずの記憶が、喉の奥からせり上がってくる。 俺は暗殺者としての仮面を無理やり顔面に縫い付け、最後の抵抗で笑顔を作ろうとしたが……。 すぐに。 パリン、と。 音を立てて、俺のすべてが砕け散った。 「なんだ、これ……」 「ん……?」 少女は、不思議そうに小首をかしげる。 その瞬間、言葉にならない嗚咽が込み上げた。俺は叫んでいた。 「俺だよ……××××だよ。……覚えてないのか? お前は……俺の……俺の……俺の……っ!!」 (俺が『愛した』人だ!!) 最後の言葉はもはや言葉にならない。
「…………」 少女が眠るベッドの横で、俺はじっと彼女を見つめていた。 その寝顔は、昔話に出てくるお姫様のように静謐《せいひつ》だった。 だが、それとは裏腹に、俺の心の内ではとてつもない荒波が吹き荒れていた。 「なんで……お前が…………」 誰にも聞こえないほどの小さな声。 だが、自分の耳にははっきりと残酷に響く。 綿で生殺しにするかのように首を締め付けるような息苦しさを覚えた。 いくら呼吸をしてもこの息苦しさが終着点が見えない。 ……まるで地獄のような時間だった。 心臓が鼓動を打つ度に『あの惨劇』がフラッシュバックする。 そして誓いの言葉を伝える言葉が頭の中で幻聴《こうかい》のように聞こえた。 だから俺は、この出会いの意味から無理やりにでも意識を逸らそうとした。それでも、どうしてもひとつの思考に囚《とら》われてしまう。 「いや、それより──これは偶然なのか?」 ……いや、偶然なはずがあるものか。 ただ“似てる”じゃ済まされない。 これは、誰かの……意志が、絡んでる。 俺の直感がそう警鐘《けいしょう》を鳴らしていた。 何とか動揺を押し殺しながら、俺は少女の顔を見続けた。 傍から見れば、熱心に看病をしている心優しい青年に見えるかもしれない。 ……実際、扉の隙間《すきま》からそう見つめている者がいた。 ―――――――――――― (なんで──急に、そんなふうに……) 他人を前にした時は、常に心の内を隠し、平静を装うはずの青年が……。 今はひとりの少女に対し、ひどく心を乱《みだ》して見つめている。 その様子が、彼女の胸の奥を冷たい刃のようにえぐった。 “問いかけたい” 彼女は、そう思った。 何故? 何故? 何故……? 私があんな状態になったら彼はあのように心配してくれるのだろうか? そうやって彼の気を引こうと思う自分がいる時点で自分自身に自己嫌悪が覚えた。 (醜《きたな》い……けれど、考えてしまう) なぜ、そこまで彼に執着するのか? その理由は、自分自身がずっと胸の奥に抱えていた『孤独』と向き合っていたからだ。 この村で生まれ育ち、主《あるじ》に仕《つか》えて死んでいく。 外の世界を知らず、ただ役目のためだけに生きる。
「おう、全員──気合い入れろ!これより森の調査に向かうぞ!」 レクスの掛け声と共に皆が一斉に声を出す。 『おー!!』 レクス率いる調査隊は、俺を含めて10名。 近接・中距離・遠距離や索敵のバランスが緻密《ちみつ》に整えられ、魔術の構成に一切の無駄がない。 探知・索敵役には五感強化魔術の使い手が配属されており、魔力を感知できるフェルータの家系の男も参加していた。 アーコブとレクスが直々に選んだ隊。 ──まさに精鋭の名にふさわしい布陣だった。 「散開!!」 レクスの号令で、隊が動く。 声が届くギリギリの十メートル間隔で並び、森を横断して進む。 これしきのペースで遅れをとるほど、俺は柔《やわ》な人生を送ってきてはいない。 見た目は貧弱な少年かもしれないが、体力と、いざという時に逃げるための高速歩法には絶対の自信がある。 俺は常《つね》に息一つ乱さず、隊の速度について行った。 数分後──数十メートル先にビッググリズリーが現れた。 それを視認した隊員から掛け声が飛ぶ。 だが、誰も勝手には動かない。
「今日もおつかれさん」 「ありがとうございます……」 交代の衛兵たちが次々とやってきて、軽く労いの言葉をかけてくれる。 ここ、アーコブの村に来てから──もう一ヶ月。衛兵兼討伐者としての任務も、ずいぶんと板についてきた。 今のところ、アーコブが命じてくるのは魔獣の討伐のみであり、“暗殺者”としての役割はまだ与えられていない。 (ただ、たまに執務室から「やはり、あいつは消したほうがいいか……」という物騒《ぶっそう》な呟きが漏れ聞こえることはあったが) その日が来るのも、そう遠くはないだろう。 だが、その『いつもの日常(ひとごろし)』が近づいていることを感じる度に……なぜか、胸の奥が重くなるように痛んだ。 「あら、ソル君じゃない。いつ見てもかっこいいわね。これ、アーコブ様と一緒に食べなさいな」 「……ありがとうございます。伝えておきます」 屋敷への帰り道、村の女から手渡された真っ赤なリンゴ。 俺は歩きながら、自分の手のひらと、そこに乗る果実を交互に見つめた。 何人もの首を掻っ切り、命を奪ってきた薄汚いこの手が、今はナイフではなく、陽の光を浴びた果実を持っている。誰も俺を疑わず、無防備な背中を見せ、笑いかけてくる。
「それじゃあ、今度はあのビッググリズリーに向かって魔術を使ってみろ」 深い草むらに身を潜めながら、レクスはうろつく巨獣を見据えて顎《あご》をしゃくった。 木々の幹に残された真新しい爪痕《マーキング》と、むせ返るような獣臭。以前アーコブと出会った際にも気配を感じていた個体——この森の生態系の上位に君臨する巨大な魔獣だ。 しきりに鼻を鳴らし、こちらの匂いに気づいている素振りは見せるものの、絶対的な強者であるがゆえの慢心か、自らが『狩られる側』であるなどとは思考の片隅にもないらしい。 のっそりと辺りを見回しているが、俺たちの正確な位置を特定するには至っていなかった。 俺は深く息を吐き、先程レクスの体内を巡っていた『魔術の流れ』を意識の奥底でなぞる。 俺自身の回路で再現しようとしても、あの男の力強い奔流を完璧に模倣することは難しく、威力が落ちることは避けられない。 だが、それでもイメージは結ばれる。 ただ一つ。あの熊の太い首を、正確に刎《は》ね飛ばすことだけを。 淀《よど》みない殺意を『祈り』として具現化し、撃ち放つ。
「よし。じゃあまずは──お前の魔術の質を調べるぞ」 街の外に出て、レクスと俺はひたすらに『獲物』を探した。 しかし、レクスは純粋な戦闘者だからか、俺に比べて気配遮断能力……否、相手をただ殺すための下準備の力が、どう見ても及第点を与えられないほどお粗末なものだった。 そのため、俺がレクスから獲物の特徴を聞き出して探すことになった。 まずは獲物の能力。 嗅覚はそこそこあるが、絶対的な捕食者としての自信ゆえか、接近に警戒を抱くほどの鋭い嗅覚は持ち合わせていないらしい。ただ、目は前に付いているため、距離感を測るのは得意だそうだ。 典型的な肉食獣のものだな。 次に戦闘能力。 レクスの言う通りならば、そこら辺の魔術師の魔術はその剛毛を通らず、普通の武具も効かない。 だから、この生物には『ある感情』が強く表れる。 慢心。 自らが襲われるなんていう想像すらしない。 故にそこに付け入る隙がある。 だが、俺たちがそれを狩るには、魔術が使えることが大前提だ。 「その前に聞いていいですか?俺、魔術なんて無縁の世界にいたんですけど……使えるんですか?」 「ああ、人間である限り使える。条件はひとつ。流れさえつかめばな」 「流れ……?」 (気功みたいなものか?) そう思っているとレクスに腕を突きつけられた。 「ソル。俺の腕を、組ん







