LOGIN「俺のものを、あんな出来損ないの男に横取りされてやる趣味などない」 智哉さんの薄い唇から放たれた「もの」という、たった二文字の冷酷な単語。それが私の胸の奥深くに深々と突き刺さり、決して解けない呪いのように脳内で何度も反響を繰り返した。 私は彼にとって、血の通ったひとりの感情を持つ人間ですらなかったのだ。莫大な借金という鎖と引き換えに買い取られた、ただの都合のいい便利な道具であり、彼の見栄を張るための所有物。 「もの……」 悲痛な声で、掠れるように震える唇から無意識に零れ落ちた呟き。 頭の片隅では、契約を交わしたあの日からとっくに理解していたはずの現実だったのに、彼の口から突きつけられたその残酷な事実は、私の心に辛うじて残っていた最後の自尊心を無残なまでに打ち砕いていった。 傷ついた私の顔を至近距離で見下ろしながらも、智哉さんの表情には一切の同情も、言葉が過ぎたという後悔の念も微塵も浮かばなかった。 「そうだ。俺が婚約者としてお前を選び、この隣に置いたその日から、お前の時間も、人間関係も、立ち振る舞いも、そのすべてが俺の徹底した管理下にある」 断言する彼の口から、私をこの場に縛り付けている最大の要因であるはずの借金やお金という言葉はただの一度も出てこなかった。彼にとって、私を都合の良い所有物として扱うために、わざわざそんな無粋で現実的な事情を持ち出して脅す必要すら初めからない。 「お前のちっぽけな意志や、誰かを信じたい甘い感情など、俺の前では塵ほどの意味も持たない。俺が手放さないと言っている以上、お前はただ黙って従えばいい。二度と、あんな出来損ないの男に目を向けるような安い真似はするな。分かったな」 「……確かに、彼と二人きりになったこと自体は私の落ち度です。契約上、あなたとの関係性に疑いを持たれるような軽率な行為だったというのも、おっしゃる通りだと思います」 私の脳裏には、『甲乙は常に甲との関係を最優先し、関係の信憑性を損なうおそれのあ
「え、でも…」彼が私という人間に何の未練も愛情も抱いていないことは、これまでの日常の中で痛いほど思い知らされている。それなのに、契約破棄をしない理由が分からない。苛立ちを一切隠そうともせずに、完璧に結ばれていたブランド物のネクタイの結び目を少しだけ乱暴に緩めた。「さっき、あいつとはカフェで偶然ぶつかったと言っていたな」智哉さんの鋭く刺すような指摘に対し、私は肯定の意を示すために小さく頷いた。「はい、そうですが」智哉さんは、私が信じ切っている平和な前提を根本から無惨に覆すような事実を、冷酷に突きつけてきた。「篠原の婚約者となった以上、周りに起きる出来事に偶然など存在しないと思え」彼の言う言葉をそのまま受け取るならば、あのカフェでの出来事はすべて、朝倉さんという正体不明の人物によって緻密に計算さた罠だったということになる。「それは……朝倉さんが、わざと私にぶつかってきたとでも言うんですか?」彼がわざと私の近くを通りかかり、絶妙なタイミングを見計らってぶつかり、私の服を故意に汚した。そして、それを口実にしてお店へと連れ出し、過剰な恩を着せることで私をコントロールしようとした。そんな、ドラマのような悪意に満ちたシナリオが、現実の私の身に起きていたというのだろうか。「あぁ、間違いなく意図的だろうな」あの一見人懐っこく、気さくに笑いかけてくれた彼が、そんな冷徹な計算に基づいて私に近づいてきたなんて、どうしてもすぐに信じ込むことができなかった。「でも、そんな風には見えませんでした。彼は……」私は無意識のうちに、朝倉さんという人物を庇うような言葉を口にしていた。確かに強引なところは多々あったけれど、そこには私を陥れようとするような陰湿な悪意や、下心のようなものは微塵も感じられなかったから。智哉さんはひどく疲れたように深くため息をいた。彼にとって、私の頼りない直感や甘い感情など、何の価値もない戯
引っ張られるようにして乗り込んだ後部座席は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。隣に座る智哉さんからは、先ほど朝倉さんに向けられていたような攻撃的な殺気こそ消えていたものの、代わりに冷たく張り詰めた緊迫感が漂っていた。「……智哉さんは、どうしてここに」私の微かな問いかけが車内に落ちても、智哉さんはすぐには答えなかった。ただ、冷ややかな視線を横目で私へと滑らせただけ。その瞳の奥には、私の安直な質問を鼻で笑うような酷薄な色が浮かんでいた。問題なのは、どうやってではなくなぜ彼がわざわざ足を運んできたのかなのだが、彼は私の疑問に答える義務などないとばかりに、長い足を優雅に組み替えた。「俺の質問が先だ。どうしてあいつと一緒にいた」彼に嘘をついたところで、調べられればすぐにバレてしまうのは目に見えている。「カフェで偶然ぶつかってしまって、服にコーヒーをこぼされたんです。それで、お詫びにと半ば強引に……」私の必死の弁明を聞いても、智哉さんの表情には微塵の変化も起きなかった。彼の鋭い聴覚は、私が並べ立てた言い訳の中から、最も不自然で、最も核心に触れるひとつの単語だけを正確に拾い上げていた。「そもそも、なぜお前がカフェにいたのか、そこから聞こうか」本当の理由を言えば、また彼を苛立たせてしまうことになるのは明白だった。「それは……その……」彼がシートからわずかに身を乗り出し、私との距離を詰めてくる。「答えろ」契約が打ち切られれば、篠原家からの後ろ盾は消滅し、借金が再び重くのしかかってくる。「先日のお話の通り、この契約結婚が白紙に戻るのなら、母の借金は私が返済していかなければならないので……」彼の思考回路が私の言葉をどう変換したのか、次の瞬間に彼の口から放たれた言葉は、私の耳を疑うほど残酷なものだった。彼「それで俺の次は、手っ取り早くあいつと新たな契約でも結ぶつもりだったというわけか」智
「おっと、これは失礼」そう言って、智哉さんに締め上げられた手首をスッと引き抜き、私からゆっくりと距離を取った。緊迫した空気などまるで感じていないかのように、彼は軽く肩を竦め余裕の笑みを浮かべる。「どういうつもりだ」私と彼の間に割り込むようにして前に立ち、私の視界から彼を完全に遮った。この重苦しい空気をなんとかしなければと、焦燥感が募る。「と、智哉さん。何か勘違いをなさっているみたいですが…」私は、震える指先で智哉さんのスーツの袖口をきつく握りしめた。どうにかして彼らの間に割って入り、この張り詰めた空気を解かなければならないと必死に頭を回転させたけれど、私のその懇願は智哉さんの怒りの前にあっさりと弾き返されてしまうことになる。「俺は今、こいつと話をしている」私が必死に紡ぎ出した弁解の言葉は、無惨にも中途半端に切り捨てられてしまった。智哉さんは私の方を一切振り向くことはなく、その視線は依然として目の前に立つ彼だけを鋭く睨みつけている。袖口を握りしめていた私の手は、彼の冷酷な拒絶にビクッと震え、力が抜けて力なく垂れ下がってしまった。「まぁまぁ、そんなに怖い顔をして怒るなって。たまたまカフェでぶつかっちゃって、お詫びに似合う服を見立ててただけだって」彼は両手をひらひらと振って降参のポーズを大袈裟に作ってみせたが、その口元に浮かぶ笑みはどう見ても反省している人間のそれではない。「二度とひよりに近づくな」それは単なる警告などという生易しいものではなく、有無を言わせぬ絶対的な命令だった。これ以上踏み込めば本気で社会的に抹殺しかねないという、権力者である彼だからこそ持ち得る本物の恐ろしい脅威。「へえ……?残念だけど、それは同意できないなぁ。俺、彼女のこと結構気に入っちゃったし」篠原家の次期当主である智哉さんからの最終通告に対し、怯むどころか正面から真っ向勝負を挑むようなその態度は、彼もまた只者ではない圧倒的な強者であることを雄弁に物語っていた。
「……似合ってるよ」 社交辞令としての気休めなのだろうけど、どう答えるのが正解なのかも分からず、ただ戸惑いと恥ずかしさで顔を熱くさせながら、ドレスの裾を強く握りしめた。 「ほ、本当、ですか……?」 彼は革靴の音を響かせながら、私のもとへとゆっくり距離を詰めてくる。一歩、また一歩と彼が近づくたびに、圧倒的なオーラに飲み込まれそうになる。 威圧感とは違う、けれど逆らうことを許さない特有の空気。 至近距離まで歩み寄ってきた彼は、私を見下ろすようにして立ち止まった。 「うん。なるほどね、智哉が君を傍に置きたがる理由が、少し分かった気がするよ」 智哉さんが私を選んだ理由。そんなものは、決して朝倉さんが思い描いているようなロマンチックで愛情に満ちたものではないのに。 「……理由、ですか?」 私の戸惑いを含んだ問いかけに対し、彼ははっきりと答えることはせず、ただ楽しげに肩を竦めただけだった。 「いやぁ、でも、智哉より先に俺が見てしまうなんて申し訳ない気もするな」 私がどんな服を着ていようが、どんな髪型をしていようが、彼にとっては篠原の婚約者として体裁が保てるか否かという評価基準でしかない。私という人間そのものに関心など向けてはくれないし、このドレス姿を見たところで心から喜んでくれるはずなど絶対にない。 「智哉さんは、私が何を着ていても別に…」 彼は私の目の前で大袈裟に手を振ると、自信たっぷりに断言した。 「まさか。これを見たら服に興味がないあいつだって絶対に喜ぶって」 喜ぶはずがない。それでも、これ以上不自然な態度をとって彼に怪しまれるわけにもいかず、私は曖昧に微笑むふりをして言葉を濁すしかなかった。 「そう……でしょうか」 なんとか取り繕って笑顔を作ったつもりだったけれど、先程まで楽しげにしていた彼の表情からからかうような色が消えた。彼は少し首を傾げると、鋭い瞳で私の顔をじっと覗き込んできた。 「せっかく綺麗になったのに、どうしてそんな浮かない顔してるの?」 図星を突かれた私は、息を呑んで硬直した。 何か誤魔化す言葉を探さなければならないと頭では焦っているのに、口の中はカラカラに乾ききり声帯が ピクリとも動かない。 「……っ」 私が一言も発することができず、ただ俯いて震えている姿を見て、彼
彼に腕を引かれるまま通りを歩くことおよそ五分。 大通りから一本路地に入った閑静なエリアに、その店はひっそりと佇んでいた。 全面ガラス張りの洗練された外観には、ロゴすら控えめにしか印字されておらず、一見すると何のお店なのか分からない。けれど、ショーウィンドウに飾られたたった一体のマネキンが纏うドレスの質感と、重厚感のあるエントランスから漂う只者ではない雰囲気から、私のような庶民が決して足を踏み入れてはいけない超高級ブティックであることは明らかだった。 彼が扉を開けると、ほのかに甘く上品な香りが鼻腔をくすぐる。 奥から現れた黒いスーツ姿の女性店員が、完璧な所作で深く一礼し、にこやかに口を開いた。 「慶翔《けいと》様、本日はご来店いただき誠にありがとうございます」 高級店のスタッフが、彼を一目見ただけで名前を呼び、敬意を払う。それだけで、彼が華やかな業界に身を置き、こんな場所で日常的に買い物をするような雲の上の存在なのだということが分かる。 「この子に似合う服を全身見繕ってあげてくれる?」 ただでさえ一着数万円、いや数十万円は下らないであろうこの空間の服を、全身コーディネートで買う気なのだろうか。ただのコーヒーのシミ一つに対する詫びとしては、あまりにも釣り合わない異常なスケールだ。 「かしこまりました。お連れ様にぴったりのお品を、ご提案させていただきます」 そう言うと、私の顔立ちや体型を鑑定するようなプロの目で瞬時に観察する。 「あ、あのっ、やっぱり私、お気持ちだけで十分です」 私が踵を返して出口へ逃げ出そうとした瞬間、長い腕をスッと伸ばし、私の目の前に立ち塞がった。 「ここまで来たのに、そのまま帰るなんて駄目だよ」 これ以上私が拒絶を続ければ、逆に彼を意固地にさせ、この空間の空気を悪くするだけだということが嫌でも理解できた。 私が肩を落とし、完全に抵抗する気力を失って立ち尽くしていると、先ほどの女性店員が私に微笑みを向けてきた。 「さあ、どうぞこちらへ」 私は観念して小さく頷くと、引きずられるような重い足取りで、店員さんが示すふかふかの絨毯が敷かれた試着室への道を歩き始めた。 足を踏み出すたびに、足裏が沈み込むような極上の絨毯の感触が伝わってくる。底の薄い私の安物の靴が、この空間ではひどく惨めで不釣







