تسجيل الدخول「お父さん、朝食準備できたよ。あと、お弁当も」「あぁ!こりゃ美味そうだな!いつもありがとうな、凛花」仕事を辞めて家にいるようになって、初めはそっとしておいてくれた父だったが、1週間が過ぎてこう言われた。「再就職を急げとは言わない。家事も無理にとは言わない。けどな、朝になったらリビングへ出てきなさい。顔を洗って髪をとかして、服を着替える。それだけでいいから……な?」つらそうな表情を見て、どれほど父に心配をかけていたのかと思う。それからは進んで朝食の準備と父に持たせるお弁当を用意するようになった。「たいしたものじゃないよ。朝食なんて目玉焼きとトーストだし、お弁当もウインナーと野菜を炒めたのと冷凍コロッケだし……」父はそれでも嬉しいと言ってくれた。父に心配をかけないために始めたことではあるものの、料理をするようになれば自然と買い物に出るようになり、そうなればうまい具合に外の空気を吸える。それがやがて自分を少しずつ癒していき、やっと、ぼんやりした時間をもてあますようになった頃、父が意外なことを言った。「……犬?」「あぁ。もう成犬なんだが、海外に引っ越しをする先生が預け先を探していたんだ。凛花は大の犬好きだし、相談もなく名乗りを上げてしまったよ」「それは別にいいけど……」聞けば大型犬の部類に入る精悍な顔立ちのあの犬だと知らされる。ジャーマンシェパード。警察犬として活躍することも多い賢い犬だ。「シェパードくん……はじめまして」我が家にやって来た、まだ名前も知らない犬。ひざまずいて迎える凛花に落ち着いた様子で近づき、そっと前足を膝に乗せてきた。「君は、なんていう名前?」後からついてきた父が答える。「レオ、って名前だそうだ。成犬だし、名前を変えたら戸惑わせるだろうから、そのままレオでいこうか」「レオ……」簡単に頭をよぎる似た名前。……蓮。呼び間違えたりしたら、恥ずかしいな。リビングの端にケージが設置されるのを見て、少し意外に思った。我が家にはそれなりに広い庭がある。レオのようないかにも運動が必要そうな犬なら、いつでも走りまわれる庭で飼うのかと思った。「室内で買われていたそうなんだ。マンション育ちらしい」「なるほど!お坊ちゃん育ちってわけね?」それからは、レオの世話が凛花の生活のほとんどになった。朝と夕方の散歩、食事、水浴びな
驚いて視線を外せない凛花に、めぐみの目が自然に向く。少し唇が開いて、明らかに驚いた様子……まさか、私のことを覚えているの?伊藤課長はベテランの女性社員をめぐみの担当にしたので、席は遠く離れてしまった。このままお昼休みまで待つしかない。凛花は時々離れた席のめぐみに視線をやり、時間が過ぎるのを待った。「鈴原凛花さんよね?」ちょっと集中している間に、お昼休みの時間がやって来たようだ。声に振り向くと、そこにはめぐみが立っている。「めぐみさん……今までどこに?」つい、追求するようなキツい言い方をしてしまった……何も覚えていないかもしれないのに。反省する凛花に、めぐみは笑いかける。「私は覚えてるわよ。とりあえず、個室のそば屋さん知ってるから、そこで」これで、蓮の行方もわかる……久しぶりに、からだ中に血液が巡るのを感じた。「あの日、すべてが終わったのよ」そば屋に落ち着き、注文を終えためぐみが口を開く。「目が覚めたら、隣に寝ていたはずの連さんがいなくなってて、もぬけの殻になってました。慌ててめぐみさんの部屋に行ったけど、めぐみさんも鮫島くんもいなくなってて」課長が変わり、鮫島も何も覚えていなかったことをまとめて話す凛花。「あの日目を覚ましたら、私は冥界にいた。それで……すべてが終わったんだって確信したの」「……蓮さんは、」「それが、わからないのよ。彼の指導係だったわけだから、私が戻っているということは、彼も冥界に戻っているはずなのに」めぐみはそっと眉間にシワを寄せた。「蓮がもどらないことに、最高幹部が躍起になってたわ」ところで……と、めぐみは唐突に話を変える。「あなたは全部覚えているのね?」「はい。でも、蓮さんがどこに行ったのかわからなくて、その話をできる人もいなくなってしまったので、少し心を病みました」凛花の言葉に、めぐみは目を見開いた。そして次の言葉に、凛花は思わず立ち上がりそうになった。「もしかしたら、蓮によく似た人が周りに現れて……いない?」「……伊藤課長!……蓮さんに似てると思いませんでしたか?それから、課長の奥さんの名前が、アミルっていうんですけど」「アミルは冥界にいたわよ?……伊藤課長は、蓮には似ても似つかないと思うけど?」それを聞いて愕然とした。私は、短い間に蓮の顔も忘れてしまったのか……「でもまぁよく聞
唇は、ゆっくり離れていく。それは決して欲望にまかせて、衝動的にキスをしたわけではないと、説明しているようだ。「ごめんね」「いえ、私のほうこそ」どんなに蓮に似ていても、伊藤課長には奥さまがいる。会社のこんな場所で……いや、奥さまがいる人とこんなキス、許されることじゃない。そう思うのに、離れる事ができない。ただ、教えてほしかった。どうして、あなたからもキスが返ってきたのか……「わからない。急に、愛しい気持ちがこみ上げてきて。……下心とかそんなものではないんだ。決して、」不思議なほど、体が勝手に動いた……という伊藤課長の瞳に、見覚えのあるきらめきが見えた気がした。「最後にひとつだけ、教えてください」聞くだけ聞いてみようと決心した。「神西蓮、という人を……ご存じないですか?」「神西、蓮……」視線を彷徨わせ、過去の記憶を辿っているのが見ていてわかる。しばらくして、その視線が止まったことに気づいた。「……記憶はないが、その人がどうかしたのかな?」探るような瞳が近づいてきて、凛花はそれを合図に伊藤課長から距離をとる。「いえ……何でもないんです。すみません、変なことを聞いて」「その人なの?君とここでキスをしたのは……」つま先が、少し動いた気がした。「君の過去の恋人?……もう、退職したのかな?」「いえ……すみません」多くを語れなくて、の謝罪だった。悲しみと悔しさと、自分の浅はかさに嫌気がさす。「もし思い出したら、連絡する……ね?」ありがとうございます、と答えながら、さっき目の奥に見えたきらめきが、蓮のまなざしとはまったく違うものだったと気がついた。この人は……栗田医師と同じだ。自分に気があって、誘われたと思ったのだろう。キスをしたのは自分なので、それは仕方がない。……けれど奥さまがいて、結婚したばかりなのに、そんな誘いにあっさり乗ってしまう人なんだとわかってがっかりした。そして最後に自分で会社に汚点を残したことを、心から後悔した。「……それでは、失礼します。あの、いろいろとすみませんでした。心が不安定になっていたと取っていただけたら、幸いです」凛花はため息を隠して頭を下げ、何か言いたそうな課長を残して会議室を出た。「会社を、辞めるのか」「うん。相談もせず、ごめんなさい」その夜、帰宅した父に伊藤課長に辞表を提出し
アミル、という名前を聞いた瞬間、心臓が早鐘を打ちはじめた。あの出張の日、蒸気になって消えた、と言った蓮の言葉を思い出す。……どうしてここにいるの?名前は違うけれど、姿形は蓮にしか見えない伊藤課長の隣で。アミルはアミルという名前で復活を遂げたのか、それはどういう経緯なのか聞いてみたくなった。「……ちょっと鈴原さん!行くよ?」牟田さんに声をかけられ、ハッと意識を取り戻す。「はい、」あの2人は、私の知る蓮とアミルじゃない……無理やり自分に言い聞かせ、凛花はBBQの準備に戻った。「記念撮影しますよ〜皆さん!集まってください〜」仕切り屋鮫島の声が、続々と準備を終えた社員を集める。肉の担当である凛花たちも、すぐに焼けるよう味付けを終え、手を洗っているところだった。牟田と恵美に続いて皆が集まる場所に行ってみると、中央にアミル、そしてその隣に張り付くように伊藤課長。「3人とも、奥さまの近くに行って!皆伊藤課長の方に並んじゃったから!」小声で言う鮫島の言葉に「えぇ〜……」と不満げにが声を上げるが、仕方なく言われた通りにする。彼女の後ろに回り込みながら、そっとその姿を観察した。やはり、そっくりだ。短い付き合いで、細かいところまで知らなかったとはいえ、今のところ彼女と違うところを見つけられない。性格がまったく違う、というオチだろうか。あんな女豹みたいなタイプではなく、優しくて穏やかで、虫も殺さないような静かな女性。だったら諦めもつくのに。「……ちょっとあなた!うちの人に近づきすぎよ?!離れなさいっ!」ピリっとした声は、聞き覚えのあるアミルの声。刺々しい言い方も並外れた独占欲も彼女を思い出させる。「……僕がもっと君に近づけばいいかな?アミル、愛してるよ」チュッと2人がキスをするところを、間近で見てしまった。……部下がいるのにデレ甘の伊藤課長にやや引くものの、蓮も周辺の人に気遣うことなくキスをすることはあったと思い出した。「撮りますよ〜!はい、スマイル!」大多数の社員は伊藤課長の方に寄り、奥さまの後ろには凛花たち3人という歪な集合写真は、1人立ち尽くした凛花の異様さが際立つものとなった。その後凛花は、伊藤課長に退職願を提出した。「鈴原さん、これ……」「そのままの意向です。短い間でしたが、お世話になりました」退職願を差し出した凛花
「鈴原さん、体調はどうかな?あまり無理をせずに、いつでもリモートに切り替えていいからね」伊藤課長が蓮と大きく違うのは、常にソツなく優しいところ。「はい、ありがとうございます」常識的で部下の様子をまんべんなく見ていて、クールで非常識だった蓮とは大違いだ。栗田のときにやらかしたので、左手薬指はソッコーで確認済み。キラッと輝くリングはまだ新しいようだ。凛花はため息をつきながらも、声をかけられて染まる頬を隠せずにいた。「……バーベキュー歓迎会?」「うん。伊藤課長、あんまりお酒を飲まないらしいんだけど、アウトドアとかキャンプが好きみたいでさ、そういう歓迎会なら喜んでくれると思って」話を持ってきたのは鮫島くん。彼の記憶にはもうないけれど、似たようなシチュエーションを思い出した。「参加……しようかな」「そう?良かった!」日にちの希望を聞かれ、あとで集計して決定すると伝えられた。つい、手伝おうか……なんて言いたくなるけれど、あの時のことを思い出してつらくなりそうなのでやめておいた。それに私は彼をフッたようだし、ここはあまり手を出せないでおこう……やがてアンケート結果が発表され、2週間後の週末、バーベキュー歓迎会が開催された。数人が出してくれた車に分乗し、凛花は乗せてくれた女性の先輩にお礼を言いながら車を降りた。全員が到着するまで女子社員たちと周辺を散策する。……こういう形で部署の人たちに会うのは初めてだ。ここしばらく体調も良く、会場になった河原近くのバーベキュー場は、空気も景色も素晴らしい。「……あれ?」先輩女性社員の牟田さんが、あらぬ方を見て声を上げた。「ん?どうかしましたか?」「いや……この辺って、野良犬とかいるのかしらね?」「野良犬……」実はずっと気になっていた。栗田に迫られて、絶体絶命のピンチの時現れた、白く浮かび上がる狼のこと。野良犬、と聞いてちょっと思い出してしまった。「なんかね、モフモフっとしたのがいたのよ。犬にしてはちょっと大きかったかなぁ……」「え、ちょっとやめてくださいよ!まさか熊?東京でもここまで奥だと、熊の出没ありますよ確か……」後輩社員の恵美ちゃんが、携帯を取り出して何やら調べ始めた。「熊ほど大きくはない。……イノシシかなぁ」「うん、熊はこの辺には出てないみたいです。イノシシの可能性高いです
「え……っ?狼?」夜の暗闇に、ぼうっと浮かび上がる、犬にしては大きい生き物。それはまるで意思を持っているかのように、じっと凛花を見上げた。「なんか……変な感触があった気がするけど……君の髪の毛かな」顔や服をパタパタとはたき、改めて凛花に向かってくる栗田。まさか……この生き物が見えていないの?「じゃあ、どうする?そこに、休憩できるところがあるけど」腕をつかまれ、あっという間に肩を抱かれてしまった。指さす方向には、HOTEL……の文字。「こんな郊外の小さな駅にさぁ……ラブホがあるなんて気が利いてるよね?」「え……っ、ちょっと」行くなんて言っていないのに、HOTELと書かれた看板を目指し、歩き出そうとする。「なに?今さら行かないとか言わないでよ?」「いや、行きませんよ。だって……」どうして食事中に気づかなかったんだろう……ふと髪をかきあげた栗田の指に、光るものを見つけてしまった。「先生、既婚者じゃないですか?!こんな事して、奥さん裏切っちゃいけませんよ!」「またまた……今気づいたフリしちゃって!たまにいるんだよね。既婚者が好きな女の子って。やっぱり人のものに手を出す背徳感?罪の意識?……たまらんでしょ?わかるよ〜」やり取りをじっと見つめていた狼らしき動物が、低く唸り声をあげた。栗田には、その姿も声も聞こえないらしいが……凛花の拒否にひるまない栗田をじっと睨んでいる。「と、とにかく帰りましょう」HOTELとは反対方向に栗田を引っ張っていこうとして、その反動を利用するかのように、栗田は凛花を抱きしめてしまう。「俺、人より弱いんだよねぇ……若い子の誘惑に!」「誘惑じゃないです!拒否してます!不倫はダメです!私はもう帰りたいんですっ!」「夕飯食べさせてやったのに……冗談じゃないよ?」ご飯は自分でお金を払って食べたのだ!そう言いたいが、離れるほうが先だっ!……さっきから股間のあたりに硬い感触を感じて、気持ち悪くて仕方がない……!「……やめっ……てっ!」渾身の力で胸を押したその時だ。幻想的に白く浮かび上がる狼が、背後から栗田に飛びかかった。凛花に胸を押されていたのも相まって、そのまま後ろに倒れてしまう。ガルル……ッと低い唸り声が響かせながら、栗田の胸元に両前足を置いている。そして凛花の方を向いた狼は、ひと声大きく吠えた。それは
「俺のマンションに来ていいのは鈴原だけだ」「…えっと、どうしてわかったんですか」絵里奈に別れを告げ、車に乗り込みながら、神西と携帯で話す。「…軽く、テレパシーだろうな。キスをする間柄だ。お前の考えが伝わってくることがある」考えてることが伝わるって…私が課長に特別な気持ちを抱き始めていることにも気付かれるってこと?けれど携帯の向こうの神西は、それ以上のことは言わない。なのでもう少し食い下がってみることにした。「…でも絵里奈は、子供の頃からの親友なんです。神西課長をただの上司として紹介するならいいじゃないですか」…そもそも、付き合おうといったのはそっちだ。「内緒にするなら、徹
闇夜に浮かぶ、外壁をツタが絡まるマンション…そこが住まいだと神西に言われた時、すべてが繋がった気がした。背中のカマ、情報もなく部屋にやってきたこと、アパートの突然の全焼…忘却と操作のキス…そして打ち明けられた死神の話。全部の辻褄が合う。…凛花はこれまでのことをすべて忘れていなかった。その中でわかったことがある。…やはり自分は、見てはいけないものを見ていたのだ。同時に…死神なんて存在が、こんな身近にいたなんて、普通に驚きだ。だって上司だよ?…やたら厳しくて怖いのはそのせいか…「…それにしてもなんだか薄暗い明かりしかつかない部屋だな」自分に与えられた部屋の窓から、何気なく階下を見
…いったいどういうつもりなのか。本当に部屋にやってきた上司が、部下の部屋で普通にスーツの上着を脱ぐなんて…会議室での話は、役員たちが集まってきて呆気なく終わった。2人で中にいた事をごまかすように、とっさに会議の準備を手伝っているふりをした凛花。…お茶汲みまでさせられたところで、神西に声をかけられた。「ありがとう鈴原さん。もうデスクに戻っていいですよ」ドアを開けてくれる仕草が自然で、意外にジェントルマンだと感心したのに…バシッと強めにファイルを押し付けられた。「…このファイル、あとでよく目を通しておいてください」デスクに戻って確認してみれば…中味は小さなメモ1枚。『寄り道厳禁。帰
「…効かない?自分に惚れさせるためのキスだったってことですか?…だとしたら残念ですね?まったく効きませんし、むしろ…」丸い目を頑張ってつり上げて、神西を睨み上げる凛花。「…嫌いになりましたわ!ふんっ!!」つかまれた腕を振りほどこうとするのを、神西は力でねじ伏せる。…このまま離すわけにいくか…!「…ちょっと待て。もう一度…」忘却のキスが効かないとは、鈴原凛花…突然変異の人間か?逃れようとする凛花を抱きしめ、もう一度唇を合わせた。…今度はもう少し長く。…やがて、彼女の体から…フッと力が抜けるのがわかった。そっと体を離し、さっきと同じように凛花の様子を伺うと…意外な反応に神西は頭を







