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第39話 月下の誓い
Last Updated:
2025-09-09 20:11:07グリューンヴァルト辺境伯の使者が、ほうほうの体で城を辞してから数日が過ぎた。
あの一件は、城の空気を確実に変えた。鉄狼団の武骨な男たちは、今やセレスティナに対し、あからさまな敬意を払うようになっていた。彼らは、自分たちの主君が隣に置く「軍師殿」が、ただ美しいだけの飾り物ではないことを骨身に染みて理解したのだ。彼女の振るう知識という武器が、時として自分たちの振るう剣よりも遥かに鋭い切れ味を持つことを、目の当たりにしたからだった。その日の夜、セレスティナは自室で、辺境の交易史に関する書物を読み解いていた。薬草園の計画は順調に進み、彼女の興味は今や、この土地の経済的な自立へと向かっていた。ヴァインベルクの支配から完全に脱却するためには、武力や食料だけでなく、豊かな財源が必要不可欠だと考えたからだ。
夢中で羊皮紙にペンを走らせていると、控えめなノックの音と共に、侍女のマルタが部屋に入ってきた。その手には、いつも彼女が愛飲している、カモミールのハーブティーが湯気を立てている。「セレスティナ様、少しお休みになられては。閣下が、貴女様の働きぶりに感心なさると同時に、その身を案じておられました」「ありがとう、マルタ。でも、もう少しだけ」 セレスティナが微笑むと、マルタは小さくため息をついた。その表情は相変わらず厳格だったが、その奥に潜む気遣いを、セレスティナは感じ取ることができるようになっていた。 マルタが下がってからしばらくして、今度はノックもなく、部屋の扉が静かに開いた。その無遠慮な入り方ができる人物を、セレスティナは一人しか知らない。「閣下」 彼女が顔を上げると、そこに立っていたのはやはりライナスだった。彼は夜の見回りの途中なのか、簡素なシャツの上に革のベストを羽織っただけのラフな格好だった。「まだ起きていたのか。マルタが、お前が根を詰めすぎていると、うるさくてな」 その口調はぶっきらぼうだったが、彼が自分のことを気にかけてくれているのは明らかだった。セレスティナの胸の奥が、温かくなるのを感じる。「申し訳ありません。ですが、興味深いことが分かりまして」「ほう」 ライナスは、彼女が机に広げた地図と交
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辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ～没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲～ 第39話 月下の誓い
グリューンヴァルト辺境伯の使者が、ほうほうの体で城を辞してから数日が過ぎた。 あの一件は、城の空気を確実に変えた。鉄狼団の武骨な男たちは、今やセレスティナに対し、あからさまな敬意を払うようになっていた。彼らは、自分たちの主君が隣に置く「軍師殿」が、ただ美しいだけの飾り物ではないことを骨身に染みて理解したのだ。彼女の振るう知識という武器が、時として自分たちの振るう剣よりも遥かに鋭い切れ味を持つことを、目の当たりにしたからだった。 その日の夜、セレスティナは自室で、辺境の交易史に関する書物を読み解いていた。薬草園の計画は順調に進み、彼女の興味は今や、この土地の経済的な自立へと向かっていた。ヴァインベルクの支配から完全に脱却するためには、武力や食料だけでなく、豊かな財源が必要不可欠だと考えたからだ。 夢中で羊皮紙にペンを走らせていると、控えめなノックの音と共に、侍女のマルタが部屋に入ってきた。その手には、いつも彼女が愛飲している、カモミールのハーブティーが湯気を立てている。「セレスティナ様、少しお休みになられては。閣下が、貴女様の働きぶりに感心なさると同時に、その身を案じておられました」「ありがとう、マルタ。でも、もう少しだけ」 セレスティナが微笑むと、マルタは小さくため息をついた。その表情は相変わらず厳格だったが、その奥に潜む気遣いを、セレスティナは感じ取ることができるようになっていた。 マルタが下がってからしばらくして、今度はノックもなく、部屋の扉が静かに開いた。その無遠慮な入り方ができる人物を、セレスティナは一人しか知らない。「閣下」 彼女が顔を上げると、そこに立っていたのはやはりライナスだった。彼は夜の見回りの途中なのか、簡素なシャツの上に革のベストを羽織っただけのラフな格好だった。「まだ起きていたのか。マルタが、お前が根を詰めすぎていると、うるさくてな」 その口調はぶっきらぼうだったが、彼が自分のことを気にかけてくれているのは明らかだった。セレスティナの胸の奥が、温かくなるのを感じる。「申し訳ありません。ですが、興味深いことが分かりまして」「ほう」 ライナスは、彼女が机に広げた地図と交
辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ～没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲～ 第38話 隣国の使者 -3
返答の日は、凍てつくような晴天の朝に訪れた。 空は高く澄み渡り、冬の陽光が城壁に積もった雪をきらきらと反射させている。だが、その美しい光景とは裏腹に、城の大会議室の空気は氷のように冷たく、張り詰めていた。 グリューンヴァルトの使者、ダミアン・フォン・クラウゼとその一行は、すでに席に着いていた。彼らの顔には、勝利を確信した者の、隠しきれない傲慢な笑みが浮かんでいる。この数日間の手厚い歓待と、ライナスの単純な武人然とした態度を見て、彼らは自分たちの計画が完全に成功したと信じきっていた。 対するライナスは、上座の玉座にどっかりと腰を下ろし、ただ黙って腕を組んでいる。その表情からは何も読み取れない。彼の隣には、昨日までと同じすみれ色のドレスをまとったセレスティナが、人形のように静かに座っていた。彼女の伏せられた長い睫毛が、白い頬に影を落としている。その姿は、クラウゼたちの目には、ただの美しい飾り物にしか映らなかっただろう。 ギデオンをはじめとする鉄狼団の幹部たちは、主君の後方に壁のように控え、苦虫を噛み潰したような顔で、この茶番劇の終わりを待っていた。「さて、ライナス閣下。数日間、心ゆくまで考えられたことと存じます。我らが主君の、心温まるご提案。よきお返事を、お聞かせ願えますかな」 クラウゼは、もはや丁寧さを装うことさえ忘れ、勝ち誇った口調で切り出した。 ライナスは、ゆっくりと顔を上げた。その金色の瞳は、値踏みするようにクラウゼを見据えている。「うむ。貴殿の提案、まことに魅力的であった。この疲弊した辺境にとって、グリューンヴァルトとの交易は、大きな助けとなるだろう」 その言葉に、クラウゼの顔がぱっと輝いた。やはり、この蛮族は食いついてきた。「おお、お分かりいただけますか！ では、早速、正式な契約の準備を…」「待て」 ライナスの、低く、重い声が、クラウゼの言葉を遮った。 会議室の空気が、一瞬にして変わる。それまで彼の全身から発せられていた、鷹揚で、どこか気の抜けたような雰囲気が、完全に消え失せていた。代わりに現れたのは、戦場で敵の首を狙う、獰猛な狼の気配そのものだった。「契約の前に、一
辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ～没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲～ 第37話 隣国の使者 -2
グリューンヴァルトの使者、ダミアン・フォン・クラウゼ一行が城に滞在して、二日が過ぎた。 辺境伯ライナスは宣言通り、彼らを「賓客」として扱った。城の最も良い部屋が与えられ、毎食、猪や鹿を丸焼きにした豪勢な料理が並べられた。それは、鉄狼団の無骨な流儀に則った、最大限のもてなしだった。 クラウゼたちは、この歓待にすっかり気をよくしていた。彼らの目に、ライナスは「噂通りの、単純で御しやすい蛮族」と映っていたに違いない。自分たちの甘言に満ちた提案を鵜呑みにし、喜んで尻尾を振る、成り上がりの犬。その侮りは、彼らの立ち居振る舞いの端々に、隠しきれない傲慢さとして滲み出ていた。 彼らは、自分たちが狼の巣の真ん中で、その主の掌の上で踊らされていることなど、知る由もなかった。 三日目の夜、ライナスは使者たちのために、ささやかな宴を催した。 食堂に集まったのは、鉄狼団の主だった幹部たちと、クラウゼ一行。そして、その異質な空間に、セレスティナもまた、ライナスの隣に座っていた。彼女は美しいすみれ色のドレスをまとい、ただ静かに微笑んでいるだけだったが、その存在は、この武骨な男たちの集まりの中で、ひときわ目を引いていた。「さあ、クラウゼ殿。遠慮はいらん、存分に飲み、食ってくれ。辺境には、これくらいしかおもてなしできるものがないのでな」 ライナスは、大杯に注がれた葡萄酒を豪快に呷ると、わざとらしくそう言った。その演技がかった言葉と態度に、クラウゼは満悦の表情を浮かべる。「いえいえ、とんでもない。これほどの歓待、望外の幸せにございます。閣下の懐の深さ、我が主オズヴァルト様も、さぞお喜びになりましょう」 宴が進むにつれて、クラウゼたちの口は、酒精の力を借りて次第に滑らかになっていった。彼らは、ライナスをおだて上げ、辺境の内部情報を巧みに聞き出そうとする。「それにしても、閣下がこの地に来られてから、町の雰囲気も随分と変わったと聞き及んでおります。これも全て、閣下の武威の賜物ですな」「ふん。当たり前のことをしたまでだ。俺の縄張りで、ハイエナどもがうろつくのは気に食わんからな」 ライナスは、クラウゼが差し出す酒を断りもせず、次々と飲み干していく。その姿は
辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ～没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲～ 第36話 隣国の使者 -1
辺境の地に、束の間の静寂が訪れていた。 中央から派遣された役人たちを一掃し、ライナスはその絶対的な力をもって町の新たな秩序を構築しつつあった。腐敗の根は断ち切られ、民衆の顔には諦観の色に混じって、わずかな安堵が浮かび始めていた。鉄狼団の厳格な統治は、恐怖ではあったが、少なくとも理不尽な搾取よりは遥かにましだったからだ。 その日、城の執務室には、珍しく穏やかな空気が流れていた。 セレスティナは、ライナスの向かいの席に座り、自らが立案した薬草園の進捗について報告していた。彼女の声は、かつての虚ろな響きを失い、知的で、張りのあるものに変わっている。「リンドウの栽培は順調です。ですが、この土地の寒さを考えると、冬を越すためには藁を厚く敷き、霜よけを徹底する必要があります。また、将来的にはガラスを使った温室を建設できれば、年間を通して安定した供給が可能になるかと」「温室か。金がかかるな」 ライナスは、腕を組んで彼女の報告を聞いていた。その金色の瞳は、いつもの鋭さを少しだけ和らげ、彼女の言葉に真摯に耳を傾けている。「ですが、長期的に見れば、民の医療費を大幅に削減できます。健康な労働力は、この辺境にとって何よりの財産ですわ」「…理にかなっている。検討しよう」 二人の間には、もはや主君と保護される者という壁はなかった。同じ未来を見据え、この辺境をどう治めていくかを語り合う、対等なパートナー。その空気が、セレスティナの心を温かく満たしていた。 その穏やかな時間を破ったのは、慌ただしい足音と共に部屋に飛び込んできた、側近ギデオンの切迫した声だった。「閣下！ ご報告いたします！ 南の隣領、グリューンヴァルト辺境伯より、使者が参りました！」「グリューンヴァルトだと？」 ライナスの眉が、ぴくりと動いた。その名に、セレスティナも顔を上げる。グリューンヴァルト辺境伯領は、この地と国境を接する、王国でも有数の力を持つ領地だ。「使者の目的は何だ」「先の戦争での、閣下のご武功を称え、新たな辺境伯となられたことへの祝辞を述べたい、と。そして、両領地の友好を深めるための、親善の使者であると名乗ってお
辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ～没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲～ 第35話 薬草園の聖女
ライナスから不器用な贈り物をされた夜を境に、セレスティナの心境には、新たな変化の兆しが生まれていた。ヴァインベルクへの復讐の炎は、依然として彼女の魂の中心で静かに燃え続けている。だが、それだけが全てではなくなっていた。 この辺境の地。灰色の空と、痩せた大地。そして、そこで必死に生きる人々。彼らのために、自分の力を使いたい。復讐という終着点だけでなく、そこへ至る道のりで、一つでも多くの命を救い、笑顔を取り戻したい。そんな、かつての父が抱いていた理想に似た、温かい感情が、彼女の中で確かに芽生え始めていた。 それは、ライナスという男に出会ったからこその変化だった。彼の存在が、彼女に、奪われた過去を取り戻すだけでなく、新しい未来を築くことの可能性を示してくれていた。 その決意を、具体的な行動に移す時が来た。 翌朝、セレスティナは自ら作成した詳細な計画書を手に、ライナスの執務室を訪れた。「閣下。本日は、辺境の未来のための、新たな戦についてご提案したく、参りました」 その凛とした声と、瞳に宿る迷いのない光に、ライナスは読んでいた報告書から顔を上げた。「戦、だと？」「はい。病という、見えざる敵との戦いです」 セレスティナは、机の上に一枚の羊皮紙を広げた。そこには、城の中庭を描いた見取り図と、そこに配置されるべき薬草の種類、そして栽培から収穫、配布までの年間スケジュールが、彼女の美しい文字で緻密に記されていた。「この辺境では、季節の変わり目になると、多くの民、特に子供や老人が、呼吸器系の風土病に苦しめられています。ですが、先日調査隊が発見したリンドウに加え、いくつかの薬草を計画的に栽培し、乾燥させて各村に常備薬として備蓄することができれば、多くの命を救うことができるはずです」 それは、彼女が書庫で見つけた知識と、かつて父と共に庭で薬草を育てた経験、そしてこの辺境の現状を分析した結果、導き出した最善の策だった。「つきましては、城の中庭の一角をお借りし、この計画の拠点となる薬草園の設立許可をいただきたく存じます」 ライナスは、その完璧な計画書にしばらく目を通していた。彼の金色の瞳には、驚きと、そして深い感嘆の色が浮かんで
辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ～没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲～ 第34話 不器用な贈り物
鉄狼団の幹部たちへの作法講義を終えてから、セレスティナの城での立場は、微妙ながらも確かな変化を遂げていた。 兵士たちは、彼女とすれ違う際、ぎこちないながらも会釈をするようになった。書庫で調査に没頭している彼女の元へ、差し入れだとぶっきらぼうに干し肉や果実を置いていく者まで現れる。彼らはもう、セレスティナをただの「か弱い令嬢」や「閣下のお気に入り」として見てはいなかった。異なる戦場を知る、尊敬すべき「軍師殿」として、その存在を認めていたのだ。 その変化は、セレスティナの心を少しずつ、しかし確実に解きほぐしていった。ここは、自分の居場所なのだ。自分の知識と力が、確かに必要とされている。その実感は、彼女に失いかけていた自尊心を、ゆっくりと取り戻させてくれた。 そんなある日の午後だった。 いつものように薬草園の計画図を清書していた彼女の元へ、侍女のマルタがやってきた。「セレスティナ様。閣下がお呼びです。執務室へお越しください」 またか、とセレスティナの心臓が小さく跳ねる。最近、ライナスに呼び出されるのは、ほとんどが辺境の統治に関する相談事だった。彼女は、彼が自分の知識と洞察力を頼りにしていることを、素直に嬉しく感じ始めていた。 彼女は書きかけの羊皮紙を置くと、ライナスの執務室へと向かった。扉をノックすると、中から「入れ」という、いつもと変わらぬ低い声が聞こえる。 部屋に入ると、ライナスは机に向かっていた。だが、彼が格闘しているのは、書類の山ではなかった。彼の目の前には、セレスティナがこれまで見たこともないほど巨大な、黒塗りの木箱が鎮座していた。その存在は、殺風景な執務室の中で、異様なほどの威圧感を放っている。「来たか」 ライナスは、彼女の姿を認めると、立ち上がった。その顔はいつも通り無表情だったが、どこか落ち着かないような、居心地の悪そうな雰囲気が漂っている。「閣下、これは…？」 セレスティナは、戸惑いながら木箱を見つめた。「…褒美だ」 ライナスは、ぶっきらぼうに、それだけ言った。「先日のお前の働き、見事だった。鉄狼団の連中に、新しい戦い方を示してくれた
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