馬車の扉が、無情に閉められる。
御者が鞭を鳴らすと、騎士たちを乗せた馬車は土煙を上げて去っていく。 私をこの場所に置き去りに、さっさと引き返していくのだ。「達者でな、お嬢ちゃん。せいぜい長く生き延びろよ。ま、無理だろうが」
遠ざかる馬車から、投げやりな声が聞こえた。
「おい、早く戻ろうぜ。なんでもイグニス様のご即位を祝して、近々盛大な夜会が開かれるらしい。俺たちも警備で出れば、うまい汁が吸えるかもしれん」
「そりゃいいな!」
下世話な笑い声が、風に乗って私の耳に届いた。
(即位を祝す夜会ですって?)
国王陛下はご病気だが、まだ健在のはず。それなのに、もう次代の話?
イグニスとミリアは何を考えているのだろう。私には前世の記憶がある。そしてある時、気づいたのだ。
この世界は、前世でプレイしたゲーム『ドラゴンズブレイド』にそっくりであると。ドラゴンズブレイド、略称ドラブレは戦略シミュレーションRPGだ。
主人公はある国の王子。戦乱に巻き込まれながらも、自国の繁栄を目指して戦いを勝ち抜く……という内容。ちなみにその王子というのが元婚約者のイグニスだった。ゲーム主人公の王子はプレイヤーの分身になるため、明確な性格が設定されていなかった。名前も自由に決められるが、デフォルトで設定されているのが『イグニス』だ。
ミリアはヒロインで、現実と同じく莫大な魔力を持つ。性格は天真爛漫、ちょっと生意気だが心根は優しい少女だった。私ことロザリアは悪役令嬢。魔力に秀でた妹を妬んで、様々な妨害をするお邪魔キャラなのである。
しかも最終的に憎しみに心を支配されて、自分自身を生贄に、竜王ヴァルフレイドを呼び覚ましてしまうのだ。なんというか、世界観と人物の配置はゲームと同じなのに、性格がみんな違う。
ゲームのイグニスとミリアは、数多くの試練を乗り越えて英雄と呼ぶのにふさわしい人間へと成長する。 しかしこの有り様はどうだろう。彼らはもう大人なのに、これから劇的に変わるのだろうか。 しかもゲーム最大の敵である竜王ヴァルフレイドは、私がこれから対話を試みる。結果次第では敵対が避けられるかもしれないのだ。民は凶作に苦しんでいると聞くのに。
もっとも、民衆の救済と指導は王族の仕事だ。私の出る幕じゃない。ただ少しだけ、哀れだとは思う。やがて馬車の姿は完全に見えなくなり、辺りには静寂だけが残された。
さあ、これで邪魔者はいなくなった。 いよいよ本番よ。◇
私は小さな革袋の中身を改めた。
追放される身に与えられた、最低限の荷物である。硬いパンと、干し肉が少し。なけなしの水が入った水筒。
それから羊皮紙に丁寧に包まれた小さなナイフと、火打ち石。
最後に、書庫の古地図を時間をかけて書き写した、手製の地図。 これらは追放を見越して、こっそりと用意しておいた。「……これだけあれば、数日は問題ないわね」
冷静に呟いて、風で乱れた母譲りの褐色の髪を無造作にかきあげる。
まさか貴族令嬢としての礼儀作法の授業より、前世でかじったサバイバル知識が役に立つ日が来るなんて。本当に皮肉なものね。(この地図はあくまで気休め。竜王の祭壇への道は、これから私の足で確かめるだけよ)
お母様、あなたの娘はこれから、誰も成し遂げたことのない探求の旅に出ます。
どうか見ていてください。私は覚悟を決めて、顔を上げた。
◇
目の前にそびえる、禁断の森。
苔むした巨大な岩が、まるで門のように入り口を形作っている。深呼吸を一つして、毅然とした態度でその門をくぐった。
一歩、足を踏み入れた瞬間。 空気がねっとりと肌にまとわりつくのを感じて、わずかに眉をひそめた。(すごい……! 空気の密度が違う。魔力とは異なる、もっと根源的な何かが満ちている感じ。これが瘴気?)
思わず唇の両端が上がった。
危険なのは承知の上だ。でもそれ以上に「知りたい」という欲求が勝ってしまう。 学者の性(さが)ってやつね。私は探求者としての獰猛な笑みを浮かべ、迷いなく森の奥へと進んでいく。
この時の私はまだ気づいていなかった。 私を見つめる最初の『洗礼』が、一体どのような姿をしていたのかを。そしてその『洗礼』が、私にとって望外の幸運となることを。
元首エイベルの就任式は、再建された王都の中央広場で行われた。広場は、晴れやかな顔をした民衆で埋め尽くされている。 簡素ながらも威厳のある元首の錫杖を授けられたエイベルは、民衆に向かって語りかける。それは権力を誇示する言葉ではなく、共に国を支える仲間たちへの感謝と、未来への責任を語る、誠実な演説だった。 演説の最後にエイベルは深く息を吸って、北――禁断の森がある方角へと向き直る。広場の喧騒が、水を打ったように止んだ。 彼は誰よりも深く、長く頭を垂れた。「我らに二度目の機会を与え、この大地を癒やしてくださった、森の賢明なる守護者たちに、深き感謝を」 元首の言葉と姿に、民衆もまた森の方角へと一斉に頭を下げる。それは傲慢な過去と決別し、謙虚さと感謝の上に新しい国を築いていこうという、国民全体の無言の誓いだった。◇ ヴァルフレイドの宮殿の水鏡には、歓声に沸くアルテア共和国の就任式が映っている。 その活気ある様子を見て、私はそっと微笑んだ。「彼らは、自分たちの物語を見つけたようね。もう、ゲームの英雄はいらないわ」 ヴァルフレイドは水鏡ではなく、私の横顔だけを愛おしそうに見つめている。 彼は私を抱き寄せると、水鏡から離れ、宮殿の奥へと誘った。「彼らの物語は、彼らのものだ。さあ、俺たちの物語に戻ろうか、ロザリア」 世界が新しい希望を見出した一方で、楽園では人だけの、永遠に続く幸福の時間が流れ始めている。◇ アルテア共和国の就任式から、さらに十年ほどの時が流れた。 私が過ごす楽園の日常は、穏やかで満ち足りた喜びに包まれている。 その日も私は宮殿の広大な書庫で、古代竜族の言語で書かれた石板を読み解いていた。その集中を破ったのは小さな足音だった。「おかあさま!」 私のもとへ駆け寄ってきたのは、燃えるような赤髪と私の紫の瞳を持つ、私たちの小さな息子。 幼子は私に飛びついて、膝の上に登ろうとする。この子はいつも元気いっぱいだ。元気すぎて突拍子もない動きをするので、私もヴァルフレイドもしょっちゅう振
時折、イグニスとミリアはヴァッサー王国の夜会や観閲式に引き出された。 もちろん賓客としてではない。「堕落した王国の末路」を体現する、生きた見世物としてだった。 きらびやかに着飾ったヴァッサー王国の貴族たちが、一段低い場所に座らされた二人を見て、憐れむように、あるいは嘲笑するように囁きあっている。ヴァッサー国王が、満座の前に立ち、彼らを指し示しながら演説する。「見よ! 驕れる者は久しからず。民を顧みぬ為政者の末路を! 我々は、彼らを反面教師とし、正義と公正をもって国を治めようではないか!」 その言葉に、会場は大きな拍手に包まれた。イグニスは屈辱に拳を握りしめて俯き、ミリアは必死で無表情を装うが、その肩は小さく震えていた。彼らのプライドはこうして少しずつ、確実に削り取られていった。◇ 季節は巡り、世界は動いていく。 賢人エイベルの下でフラグラーレ王国は復興の道を歩み始め、ヴァッサー王国との間に新たな国交が結ばれた。「見世物」としての価値すら失った二人は、やがて人々の記憶からも忘れ去られ、さりとて処刑するだけの手間をかけるのも惜しまれて、ただ離宮で生き続けるだけの存在となった。 ある日の夕暮れ。 もはや若さを失い、痩せこけたイグニスとミリアが、部屋の中で黙って向かい合っていた。かつての美貌は色褪せ、残ったのは互いへの憎しみと、失われた過去への虚しい執着だけ。 食事を運んできた若い侍女が、同僚に小声で尋ねるのが聞こえた。「あの人たち、一体誰なの?」「さあ? なんでも、ずっと昔に滅んだ国の、王子様とお姫様だったらしいわよ」「それにしては、ずいぶんみすぼらしいわね。まあ、どうでもいいか」 彼らはもはや、名前すら覚えられていない。歴史から消え去り、ただ生きているだけの存在。誰よりも世界の中心にいると信じていた彼らにとって、最も残酷な罰だった。 二人はその会話を聞きながらも、もはや反論する気力もなく、ただ黙って冷めた食事を口に運ぶだけだった。 イグニスとミリアが歴史から忘れ去られた一方で、彼らが捨てた王国では、瓦礫の中から確かな再生の息吹が生まれ
イグニスとミリアの最後の悲鳴が、楽園の庭に吸い込まれて消えていく。ヴァッサー王国の使者たちのために開いた光の門もまた、跡形もなく閉じられた。後には、風が木の葉を揺らす音だけが残されている。 私はバルコニーから、先ほど醜い茶番が繰り広げられていた場所を、ただ見下ろしていた。知らず知らずのうちに握りしめていた拳を、ゆっくりと開く。(終わった……。本当に、すべて……) 私の知っていたゲーム『ドラゴンズブレイド』の物語は、これで完全に終わりを告げたのだ。悲劇でも喜劇でもない。ただ呆気ない幕切れ。それが、彼らの物語の結末だった。 私の脳裏に、原作ゲームのエンディングが蘇る。 憎しみに狂った『ロザリア』が生贄となり、それを乗り越えたイグニスとミリアが英雄として国を治める、光に満ちたハッピーエンド。誰もが彼らを称え、王国の輝かしい未来を祝福する。(本当に、あれは『幸福な結末』だったのかしら?) 私は歴史学者の視点で、その光景を分析する。 一人の少女が『悪役』という役割を与えられ、その魂ごと物語の礎として消費される。彼女の苦しみと絶望が、主人公たちの栄光の糧となる。そんな結末が、本当に幸福だと言えるのだろうか。 自分の手を見つめる。追放され、虐げられた手。だが、その手で私は違う未来を掴み取った。「原作のハッピーエンドは、誰かの犠牲の上に成り立っていた。悪役という役割を押し付けられた、一人の少女の……。けれど、これが私が選び取ったエンディング。罪ある者が、その罪にふさわしい結末を迎えるだけの、真実のエンディングなのよ」 私は憎しみではなく、行動で運命を覆した。そうして手に入れたのは、誰かを踏み台にした偽りの栄光ではない。ヴァルフレイドという、かけがえのない存在だった。◇ 私の思索を、背後からの温もりが包み込む。 ヴァルフレイドが優しく抱きしめてくれていた。彼は私をすべて理解してくれる。私はその腕に、安堵して身を預けた。「エンディング、だと? 違うな、ロザリア。これは、俺たち
(竜王の力を奪い取るのは、不可能だ) イグニスの心に絶望が広がる。(お姉様は、幸せを手に入れたのだわ……) ミリアは悔しさと嫉妬で奥歯を噛んだ。彼女は姉の婚約者を奪ったが、愛し合いされる幸せは手に入らなかったから。 プライドも希望も砕け散り、イグニスは地面に膝をつく。彼は残された最後の力で、大声で助けを乞うた。「ロザリア! 聞いているのだろう。頼む、助けてくれ! お前の故郷が、国が滅びるのだぞ。それでもいいというのか!」 イグニスはロザリアの中に残っているはずの、かつての義務感や同情心に必死で訴えかけた。 ミリアも泣き叫びながら続いた。「お姉様のせいよ! あなたがすべてを奪ったんじゃない! なら責任を取って、国を元に戻しなさいよ!」 彼女の言葉は反省ではなく、どこまでも自己中心的な責任転嫁だった。◇ その醜い叫び声に、私は読んでいた本をぱたりと閉じた。 立ち上がってバルコニーの縁へと歩み寄る。 同情心は起きなかった。あの二人はさんざん好き勝手をやって、破滅しただけ。巻き添えになった民を気の毒に思っても、彼らを憐れむ気持ちにはなれない。 私の隣にヴァルフレイドが立った。彼の神々しく美しい顔には、何の感情も浮かんでいない。自分の庭に湧いた不快な虫でも見るかのような、嫌悪感だけがあった。 ヴァルフレイドは地上の二人に向かって、凍てつくように冷たい声を放つ。「――さて、俺の花嫁に何の用だ? 虫けらども」 問いかけの形をしているが、一切の答えを期待していない、断罪の宣告だった。◇ ヴァルフレイドの凍てつくような声が、宮殿の庭に響き渡る。 その問いかけに、イグニスとミリアは恐怖に体をすくませた。命の危険を感じたのだろう、最後に残った生存本能が彼らを突き動かす。イグニスは泥だらけの額を地面にこすりつけ、必死に叫んだ。「竜王様! どうかご慈悲を! 全てはあの女が……ロザリアが我らを裏切ったせいなのです。我ら
王宮は内外の敵に包囲され、炎に沈みつつあった。 イグニスとミリアは、見捨てられた玉座の間に孤立していた。窓の外では、かつて自分たちのものだった王都が赤く燃え盛り、地を揺るがす鬨の声が絶え間なく響いてくる。「なぜだ……なぜこうなる。我が王都が……! 民も、兵士も、役立たずばかりだ!」 イグニスは爪を噛み、忌々しげに呟く。 床に座り込んだミリアは、虚ろな目で燃える夜景を見つめていた。「ひどいわ……こんなはずじゃなかった。あたしがイグニス様の隣にいれば、国はもっと豊かになるはずだったのに! すべて、あの女のせいよ!」 彼らは、自分たちの悪政がこの事態を招いたという現実を直視できなかった。すべての原因をロザリアという都合の良い存在になすりつけることで、かろうじて砕け散りそうなプライドを保っている。 その時、近くの塔が崩れる轟音と共に、玉座の間の窓ガラスが砕け散った。炎の熱風が、火の粉を伴って室内に吹き込む。「いやぁっ!」 地脈が変質し魔法が使えなくなった以上、ミリアの豊富な魔力もイグニスの強力な魔法も既に意味をなさない。 二人は身を守ることもできずに、崩れ行く玉座の間で右往左往している。「お姉様さえいなければ! あの女が竜王を独り占めしていなければ、あたしの魔力でヴァッサー王国なんて簡単に追い払えたはずよ!」 ミリアの身勝手な叫びが、イグニスの心に火をつけた。彼は敗北を認める代わりに、まだ逆転の目があるという妄想に飛びつく。「そうだ、独り占めなどさせるものか! あの竜王は本来この国の、この俺の力となるべき存在だ! あの出来損ないから、奪い返せばいいだけの話だ!」 それはもはや計画と呼べるものではない。現実から逃避するための幼稚すぎる希望だった。王子である自分と強大な魔力を持つミリアがいれば、魔力を持たないロザリア以上に竜王を意のままに操れるはずだ。彼らは本気で信じ込んでいた。◇ 二人は王族にのみ伝わる秘密の通路を使い、炎上する王宮から脱出した。
ヴァルフレイドとロザリアが玉座の間から去った後、周囲には重い沈黙だけが残された。 イグニスは侮辱と恐怖に震えながら、まだ己の権威が通用すると信じて叫ぶ。「何をしている! 追え! あの者たちを捕らえろ。これは命令だ!」 彼の甲高い声が虚しく響く。玉座の間にいる衛兵も側近も、誰一人として動こうとはしなかった。 彼らはただ、恐怖と軽蔑が入り混じった目で、無様に叫ぶ王子と床で泣きじゃくるミリアを見つめているだけだった。 王家の重臣の一人が、冷ややかに告げる。「殿下。我々には、もはや殿下にお従いする理由はございません」 イグニスの権威が終わったことを示す言葉だった。◇「玉座の間で、赤髪の神人が王子を屈服させた」 その噂は、瞬く間に荒廃した王都を駆け巡った。 それは飢えと重税に喘いでいた民衆にとって、為政者への最後の信頼を打ち砕き、燻っていた不満を燃え上がらせるための燃料となった。 絶望が怒りへと変わっていく中、元宮廷学者であった賢人エイベルが、広場で人々を諭し始める。「我らを飢えさせているのは、天災ではない。王宮の食糧庫を満たしたまま、己の贅沢と欲望とを優先する人災だ」 エイベルの誠実な言葉は、多くの人々の心を捉えていった。 やがて民衆のうねりは一つの流れとなる。 賢人エイベルに導かれた飢えた人々が、王宮の食糧庫へと行進を始めたのだ。最初は数十人だった群衆は、道中で数百、数千人と膨れ上がっていく。 食糧庫を守る兵士たちは、目の前にいるのが自分たちの家族や隣人であると気づき、武器を構えることを躊躇った。 エイベルは兵士たちに語りかける。「君たちの剣は、民を守るためにあるはずだ。腐敗した穀物を守るためにではない」 その言葉に、兵士の一人が槍を捨てた。「ああ、そうだ。俺は国を――いいや、町のみんなを守りたくて兵士になった! 王子の贅沢のためじゃない!」 それをきっかけに兵士たちは次々と道を開けて、民衆は歓声を上げて食糧庫の扉を打ち破った。