「お前の工房は古臭いガラクタだ」 婚約者に裏切られ、伝統工芸の家業も土地も全てを奪われた桜。 けれど桜は諦めなかった。絶望の底で彼女が創りだしたアクセサリーは、やがて世界を魅了していく。 「君こそが、誰にも奪えない宝だ」 そう言って手を差し伸べたのは、氷の皇帝と恐れられるラグジュアリーブランドの若きCEOだった。 パリの舞台で大成功を収めた桜の元に、破産寸前の元婚約者が「僕が間違っていた!」と泣きついてくるが――。 これは全てを失った女性の、痛快逆転シンデレラストーリー。
ดูเพิ่มเติม夕暮れの光が、大きな窓から斜めに差し込んでいた。金沢、ひがし茶屋街の路地裏にひっそりと佇む『西園寺工房』。その広い仕事場は、ひとけがなくがらんとして静まり返っていた。
西園寺桜は、作業台に向かい、息を詰めて一本の古い蒔絵筆を手入れしている。祖父の指の形に馴染んだ黒漆の軸を、柔らかな鹿の皮で丁寧に磨き上げる。かつて人間国宝にまで上り詰めた祖父が、生涯手放さなかった筆だ。
部屋には、漆の甘く深い匂いだけが満ちている。(おじいちゃん、この筆の感覚、まだ指が覚えているよ)
祖父から受け継いだ技術と、この工房に宿る魂。それだけが桜の誇りだった。
しかし、誇りだけでは人の腹は満たされない。最盛期には十人以上いた職人たちも、今では三人だけ。その彼らに、来月の給金を払えるあてさえないのだ。伝統工芸の分野は、年を追うごとに厳しさを増している。
人々は便利な大量生産の工業製品に目を奪われて、古臭い技術に見向きもしない。(私のせいで、みんなの生活が駄目になってしまう)
桜の胸に、ずしりと重い責任がのしかかった。
仕事場の静寂を破ったのは、不釣り合いなほど軽快な着信メロディ。作業台の隅に置かれたスマートフォンが、ぶるぶると震えている。画面には【東山 健斗】という名前と、白い歯を見せて笑う彼の写真が映し出されていた。
桜は一瞬ためらい、それからおそるおそる通話ボタンに触れた。声が、自分でも驚くほど弱々しかった。
「もしもし……健斗さん」
『もしもし、桜さん? やっぱり声が暗いよ。心配しなくていいって言ってるだろ? 僕がついているんだから』
電話の向こうから婚約者の声が聞こえてくる。いつも通り明るく力強い自身に満ちた声だった。
その声を聞くと、不安で張り詰めていた心が少しだけ和らぐ。『工房のこと、もう悩まなくていい。僕が君と、君の大切な工房の未来を、必ず守るから。信じて』
彼の言葉は、桜には救いのように感じられた。ITベンチャーを一代で築き上げた彼の手腕は、メディアでも度々取り上げられている。時代の寵児と言われていた。
そんな彼が言うのだから、きっと大丈夫。桜は、自分に言い聞かせるように、その光を手繰り寄せた。「はい。信じています」
(この人しかいない。この人がいれば、きっと工房を立て直せる)
もう他に手はない。すがりつくような思いが、桜の冷静な判断を少しずつ曇らせていた。
電話を切ると、桜の視線は自然と壁に掛けられた額へと向かった。祖父が残した、力強い筆跡。
『本物の仕事は、時代を超える』
(おじいちゃん……。今の私には、この言葉を守る力がありません)
時代の流れは残酷だ。どれほど魂を込めても、売れなければ伝統は続かない。お金がなければ立ち行かないのだ。
そんな重い事実に打ちひしがれそうになった時、再びスマートフォンの画面が光った。健斗からのメッセージだ。『そうだ、明日のパーティのことだけど』
桜がメッセージを開くと、胸が高鳴るような言葉が目に飛び込んできた。
『僕の会社の創業記念パーティで、僕たちの未来について、重大な発表をするつもりなんだ。だから、桜さんには世界で一番綺麗な姿で、僕の隣にいてほしい。とびきりお洒落してくるんだよ』
(私たちの、未来……)
その言葉が、桜の心に温かい希望の火を灯した。
結婚の発表だろうか。それとも、工房の革新的な再建計画の発表だろうか。 どちらにせよ、それは暗闇の先に見えた確かな光だった。桜はスマートフォンをそっと胸に抱きしめて、もう一度、祖父の額を見上げた。不安と期待が入り混じった瞳が、潤んでいる。
「おじいちゃん、見ていてね」
桜は立ち上がると、工房の奥にある私室へ向かった。桐箪笥の引き出しをゆっくりと開ける。中から現れたのは、白地に繊細な四季の花々が描かれた、加賀友禅の訪問着だった。祖母が桜の成人を祝うためにと、大切にしまってくれていたものだ。職人一家の娘である彼女にとって、それは数えるほどしかない、とっておきの晴れ着だった。
明日の夜、自分は人生で最も輝くのだ。桜はそう信じて疑わなかった。
その輝かしい一夜が、奈落への入り口だとは知る由もなく。ショーの成功から半年後の、春。 金沢のひがし茶屋街には、うららかな陽光が降り注いでいた。 桜と玲遠は、改修を終えた『西園寺工房』の前に立っている。かつて無情にも貼られいた『立入禁止』のテープは既になく、藍色の真新しいのれんが春風に揺れていた。 桜はきれいにクリーニングされた加賀友禅を身にまとっている。健斗に裏切られた絶望の夜に、雨と泥とに汚してしまった祖母の形見だ。 ショーでの成功で得たお金で、桜はまずこの着物のクリーニングを行った。 時間が経ってしまったせいで落ちない汚れもあったが、桜は大切に着物を使い続けている。 工房の中からは、職人たちの楽しそうな話し声と、道具が木を打つ小気味良い音が聞こえてくる。 春の草花の香りにまじって、馴染んだ漆の匂いがした。 桜は、磨き上げられた古い木の門柱にそっと手を触れる。昔と変わらない温かな感触に、万感の思いが込み上げた。(ただいま、おじいちゃん。私、帰ってきたよ) 心の中で語りかければ、祖父が笑ってくれている気がした。「行こうか、桜」「ええ、玲遠」 二人が工房に足を踏み入れると、そこは以前とは比べ物にならないほどの活気に満ちていた。 源さんたちベテラン職人の隣で、地元の高校を卒業したばかりの若い弟子たちが、緊張した面持ちで筆を動かしている。源さんが、若い弟子の一人の手を取り、筆の持ち方を根気よく教えていた。 その光景は、かつて祖父が幼い桜にしてくれたことと、全く同じだった。 壁には桜がパリで制作したモダンな作品と、源さんたちが作る伝統的な意匠の作品が、互いを引き立て合うように美しく飾られている。 どちらも甲乙つけ難く、若い弟子たちは憧れの目で作品を眺めていた。「お嬢、旦那様。おかえりなさいまし」 二人に気づいた源さんが、顔をほころばせた。自然な「旦那様」という呼び方に、桜の頬が熱くなる。「源さん、邪魔するよ。弟子たちの筋は、どうかな」 玲遠はもはや来客ではなく、家族のような穏やかな口調で応えた。「悪くねえ
ショーの後のアフターパーティは、熱狂の渦の中にあった。会場はファッション業界の頂点に立つ人々で埋め尽くされて、桜は賞賛の言葉を次々と投げかけられていた。「マドモアゼル・サイオンジ、あなたの仕事は伝統への最高の敬意であり、同時に最も美しい裏切りだ。伝統と最先端との融合を、ここまで見事にやってのけるとは。素晴らしい……!」「ありがとうございます」 著名な評論家が興奮した様子で彼女の手を取った。焚かれるフラッシュが眩しく目を焼く。 夢のような光景に、桜は気圧されそうになる。そのたびに隣に立つ玲遠が、彼女の腰を支える手に力を込めた。 彼は桜に殺到する人々を、時に「氷の皇帝」の鋭い視線で、時にスマートな会話術で巧みに捌いていく。彼女が疲弊しないよう、静かな盾となっていた。桜は彼の大きな背中に、大きな安心感を覚えていた。「桜、疲れただろう。そろそろ行こう」 喧騒の合間に、玲遠が桜の耳元で囁いた。 二人は退出の挨拶をして、華やかなパーティの場を離れていった。 これからは二人だけの時間。 ショーの成功の余韻を抱えて、桜は玲遠の存在だけを感じていた。 ◇ 数日後、パリのホテルの静かなカフェで、桜と玲遠は穏やかな朝食を取っていた。「まだ夢のようだわ。私たちの蒔絵が、あれほど華やかな舞台で輝いたなんて」「これは始まりに過ぎない。これからもっと多くのチャンスが待っている」 二人は視線を見交わして、微笑み合った。「おはようございます、ムッシュー、マドモアゼル」 声を掛けてきたのは、秘書のイザベルだ。彼女はタブレット端末を玲遠に差し出した。 焼きたてのクロワッサンの香ばしい匂いと、カチャリと響く銀食器の音。 穏やかな朝の空気を破るように、タブレットの画面に表示された見出しが、桜の目に飛び込んできた。『東山ホールディングス、破産申請へ。旧西園寺工房の土地は債権者の手に渡り、近日中に競売予定』「ムッシュー。東山ホールディングスの件、最終報告です。
バックステージのモニターに、フィナーレを歩くトップモデルの姿が映し出されている。桜、玲遠、源さんたち職人は、その画面を食い入るように見つめていた。 会場に響くのは、心臓の鼓動を思わせるような重いビートの音楽だけ。ランウェイを照らす一本のスポットライトが、漆黒のドレスを纏ったモデルを追う。桜は呼吸さえも忘れてしまっていた。冷たくなった両手を、胸の前で強く握りしめる。(お願い、届いて! おじいちゃんの、私たちの魂。世界中の人たちに、届いてほしい!) モデルがランウェイの最先端で静止し、ポーズを取る。全ての照明が彼女一人に集中し、ドレスとアクセサリーの全貌が明らかになった。 深い闇を思わせるドレスのシルクが、光を吸い込む。その漆黒をキャンバスとして、ドレスの裾やカフス、そしてモデルの髪に挿された鼈甲の櫛に施された蒔絵が、まるで夜空にまたたく星々のように、眩い光を放った。 特に、櫛に描かれた曙光の意匠は、暗闇から生まれる希望そのものだった。 漆黒の星空と、生まれ出る朝日。 最新のデザインで編まれた完璧なドレスと、日本の古い伝統の美。 その対比。 カメラのフラッシュが嵐のように焚かれる。 一瞬、時間が止まったかのような、完全な静寂が会場を支配した。誰もが言葉を失い、その荘厳な美しさに圧倒されていた。 やがて客席の一人から始まった拍手が、瞬く間に熱狂的なスタンディングオベーションへと変わり、会場全体を揺るがす轟音となった。◇ その光景を、東京の薄暗いビジネスホテルの一室で、健斗は見ていた。部屋には安い酒の匂いが立ち込めている。画面のひび割れたスマートフォンで、ショーのライブ配信を見ていたのだ。 小さなスピーカーから、割れた音質の喝采が響き渡る。画面には喝采の中心に立つドレスと、その作者として『SAKURA SAIONJI』の名が大きく映し出されていた。 健斗は、かつて自分が「古臭いガラクタ」と嘲笑した蒔絵のクローズアップを見て、絶句する。 ――美しかった。薄汚い彼の心でさえ、一条の光を感じられるほどに。
健斗が連行された後、玲遠は桜をアトリエまで送り届けた。「お嬢、大丈夫だったか? あの男に何もされんかったか?」「大丈夫ですよ。玲遠さんが守ってくれましたから」 源さんたちが心配そうに駆け寄るが、桜は安心させるように微笑んでみせた。 玲遠はアトリエの隅にあるキッチンに立つと、心を落ち着かせる効果のあるカモミールのハーブティーを淹れて、桜の手にそっと握らせた。 源さんたちは気をきかせて、いつの間にか部屋からいなくなっている。 温かいマグカップの感触が、強張っていた桜の指を優しくほぐしていく。柔らかな香りが、ロビーでの醜い記憶を綺麗に洗い流してくれるようだった。 桜と玲遠は向かいった椅子に座って、互いに見つめ合う。「……本当に、もういいのか?」 桜を見守るようにしている玲遠に、彼女は数日ぶりに心からの笑みを浮かべた。「はい。もう大丈夫です。私の過去は、清算できました。玲遠さんのおかげです」 玲遠の唇の端にごくわずかな、偽りのない笑みが浮かんだ。「私は手助けをしただけだ。過去を振り切ったのは、君の力だよ。……パリ・コレクションまであと三日だ。ここからは君の時間になる」「はい。力を尽くします」◇ そしてパリ・コレクション当日。 会場のバックステージは、美の創造のための戦場と化していた。国籍も言語も様々なプロフェッショナルたちが、ぴりぴりとした緊張感をまとって飛び交っている。ヘアスプレーと香水の匂い、シルクが擦れる音、ショーディレクターがフランス語と英語で飛ばす鋭い指示。 その喧騒の中心から少し離れた一角に、桜と職人たちだけの静かな空間があった。 彼らはこれからランウェイに登場するモデルが纏うドレスやアクセサリーに、最後の調整を施している。源さんは、外科医もかくやという精密な手つきで、ドレスにあしらわれた蒔絵のブローチの角度をミリ単位で調整していた。 一人のトップモデルが、自分のカフスに施された蒔絵をうっとり
コレクションの発表を数日後に控えて、パリのアトリエは緊張の中にも充実感を感じる空気で満たされていた。 桜はショーで使うための小物類に、最後の仕上げを施している。 極限まで集中した筆が、正確な線を引いていく。 原さんたちもそれぞれの仕事に取り掛かっていた。 静かな創作の時間を破ったのは、秘書のイザベルの来訪だった。 彼女はいつもの冷静さを失っていないが、どこか苛立ちを感じさせる口調で言う。「桜様。大変申し上げにくいのですが……東山健斗と名乗る男が、『VALENTIS』本社のセキュリティを突破し、ロビーで面会を強要しております」 東山健斗。その名前に、アトリエの空気が固まった。「あの男! お嬢にまだ何の用があるっていうんだ」 源さんが苦々しく呟いた。(来たか……) 桜は口元を引き結んだ。けれどもう、恐怖はない。 櫛をそっと台に置くと、作業で汚れてしまった手を布で拭って立ち上がった。「大丈夫です、源さん、みんな。これは私自身が片付けなければいけない、最後の仕事ですから。……行ってきますね」◇ 桜はイザベルが運転する車に乗って、『VALENTIS』本社まで赴いた。「イザベルさん、玲遠さんに伝えてください。私が自分で決着をつけるので、見守っていてほしいと」「分かりました。伝えます」 裏手の駐車場からVIP用のエレベーターに乗り、ロビーへと出る。 美しい大理石造りのロビーにふさわしくない姿で、健斗はそこにいた。高級スーツは皺だらけ。両目は落ち窪んで覇気を失っている。 両側を体格のいい警備員に押さえられていて、それがみすぼらしさを増していた。 ロビーを行き交う社員たちが、何事かと遠巻きに見ていた。 桜が近づくと、健斗は目を上げた。手を伸ばして彼女に取りすがろうとする。「桜さん……来てくれたんだね。僕が
健斗と『Higashiyama Holdings』の崩壊は、間近に迫っている。 社長室のデスクに置かれたノートパソコンのモニタが、小さな電子音を上げた。常に表示されている会社の株価が、断崖絶壁のような急落を示していた。 情報に敏感な投資家たちが、会社の未来をないものとして、次々と株を投げ売りしているのだ。「社長……こんなニュースが」 秘書が怯えた様子で、再度タブレットを差し出す。今度は日本のニュースサイトだった。『金沢の伝統文化連盟、不当な圧力をかけたとして『Higashiyama Holdings』を告発。提訴の準備も』 桜の工房に材料を売らないよう、指示した件だった。 健斗が圧力をかけたのは有力な数店だが、いつの間にかこんな話になっている。「まさか、また『VALENTIS』か」 金沢の大規模開発を手掛ける健斗は、地元に強い影響力を持つ。彼の圧力を振り切って告発するなど、協力者がいなければ不可能だ。 彼はしばし呆然と天井を見て、それから我に返った。「いい加減にしろよ、カビ臭いだけが取り柄の老舗のくせに! 俺にはまだ再開発事業がある。あれさえ成功させれば、VALENTISの影響など吹き飛ばせる! そうに決まっているッ」 恐怖に震える心を、無理矢理に強がってみせる。 けれどその強がりを、一本の電話が完全に崩壊させた。 ◇ 電話の主は、健斗の再開発事業に融資していたメインバンクの支店長だった。「今後の融資計画について、一度ご相談したく思います。なるべく早くお時間を取ってください」 支店長の声は冷たい。健斗は猛烈に嫌な予感がして、取りすがった。「ニュースになっている件ですか? あの話でしたら問題ありません。すぐに収まります。ですので……」「とにかく、一度ご来店を。今から来てくださって構いませんよ」 電話が切れる。 健斗は重い体を引きずりながら、銀行へ向かわざるを得なかった。 ◇
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