式の控え室で、上野千夏(うえの ちなつ)は膨らんだお腹にそっと手を当て、寂しげに目を伏せた。 「春菜、お願い。あなたの病院で、中絶手術の予約をとってくれない? 日にちは……三日後でいい」 ブライズメイドのドレスを着た親友の中島春菜(なかじま はるな)は、一瞬ぽかんとした顔をした。 「千夏、正気なの? 龍生は精子が弱いから、あなたがこの子を授かるまでにどれだけ苦労したか……漢方を飲んだり、体外受精までして……今日はやっとの結婚式なのに、どうしてそんなこと……」 春菜は千夏の虚ろな黒い瞳を見つめ、結局それ以上の言葉を飲み込んだ。 たった三十分前、千夏が七年も待ち望んできた結婚式は、橋本龍生(はしもと りゅうせい)のアシスタント、松井愛莉(まつい あいり)によってめちゃくちゃにされたのだ。 式場の巨大LEDスクリーンに映るはずだったのは、自分が厳選したウェディングドレス姿の写真だった。 だがそこに現れたのは、愛莉の妊娠検査のカルテだった。 そして、父親の欄には、はっきりと龍生の名前が記されていた。
View More千夏はついに、長い間夢見ていた結婚式の日を迎えた。 純白のウェディングドレスを身にまとい、その長く引きずる裾には野ばらの花が一面に飾られていた。 その花々は、哲也の手入れのおかげで再び鮮やかに咲き誇っていた。 向かいに立つのは、タキシード姿の哲也。視線には、惜しみない愛が込められていた。 神父は柔らかく微笑み、新郎新婦を祝福する。 「それでは、指輪の交換を」 哲也は片膝をつき、錦の箱から2億円を超える価値のサファイアの指輪を取り出す。 「千夏、どんなことが起きても、俺はずっと君のそばに立ち、揺るがない支えになる。 この指輪をつけてくれ。俺の瞳を、永遠に君のそばに置いておきたい」 思いがけない贈り物に、千夏は目を潤ませながら驚きの表情を浮かべた。哲也はずっと、この指輪のことを秘密にしていたのだ。 涙をこらえ、千夏は左手を差し出す。哲也がその薬指にそっと指輪をはめると、彼女ははらはらと涙をこぼした。 そして、もう一つの指輪は千夏の手で哲也の指にはめられた。 その光景を、龍生は会場の隅から黙って見つめていた。胸が焼けるように痛む。それが病のせいなのか、心の痛みなのか、もう分からなかった。 袖口は赤い血に染まっていた。祝いの日に血の跡を見せたくなくて、彼は袖を高く折り上げていた。 ここに来る前に、愛莉を殺めたのだ。 龍生には、自分の命が長くないことが分かっていた。それでも愛莉は、自分の罪を何一つ償うことなく終わろうとしていた。 彼から得た慰謝料で整形を繰り返し、か弱く哀れを誘う顔に作り変え、また別の社長を誘惑した。手口は以前と同じだった。 あの日、路地の角で、龍生の手にした刃は何度も愛莉の体に突き立てられた。 彼女は叫ぶ間もなく崩れ落ち、血だまりの中で目を見開いたまま、手にしかけていた贅沢な未来を奪われたことを悔やむように絶命した。 警察が死体を発見する前には、龍生はもうA国行きの飛行機に乗っていた。 彼が向かうのは、千夏の結婚式。自分が見逃してしまった、あるいは大切にできなかった「純白の花嫁姿」をどうしてもこの目に焼きつけたかったのだ。 回想は神父の声で途切れた。 「それでは、新郎は新婦に口づけを」 歓声と紙吹雪が舞う中、哲也はゆっくりと千夏の唇に口づけた。 二人は多くの人々
龍生のかすれた声が震えながら響いた。 彼は一人で言葉を紡ぎ、一人で謝罪を繰り返していた。 「ごめん、千夏。愛莉に崇拝されているような感覚が気持ちよくて……つい彼女と一緒にいる時間が増えちまった。でも俺の心の中で、誰かが君の代わりになるなんて、そんなことは一度も考えたこともなかったんだ。君がずっと俺に注いでくれた愛情に甘えて、君の気持ちをないがしろにしてしまった……結婚式が欲しいっていう望みさえ、無視してしまって…… 俺は最低な人間だ。本当に君にも申し訳ない……」 だが、彼の前から、その言葉に答えてくれる人はもういなかった。 千夏はとっくに静かに去っていた。 別れの言葉は、彼女の口からすでに告げられていたのだ。 龍生の願いなど関係なく、千夏は二度と立ち止まることはない。 彼女はすべての過去を振り返ることなく切り捨て、希望を抱いて新しい未来へと歩み出した。 二人の思い出は、本物で、真剣で、情熱と勇気に溢れていた。 その大切な記憶は、6歳の千夏、18歳の千夏、22歳の千夏の心に深く刻まれている。 そして25歳になった千夏は、新しい人生を切り開こうとしていた。 彼女はスマートフォンを取り出し、大切なあの人にメッセージを送った。 「付き合おう」 しかし、哲也からの返信はすぐにはなかった。 千夏は道路脇でタクシーを待ちながら立ち尽くしていたが、そこに見知らぬ車が目の前に停まった。 「俺の大切な彼女、どうぞ乗ってください」 窓を下げ、笑顔の哲也が彼女を招いた。 「迎えに来たよ」 千夏は彼の差し出した手を握り返す。 「これからよろしくね、私の彼氏さん」 気づかれない陰から、龍生はすべてを目撃していた。 かつて自分だけを見つめていた彼女の瞳には、いまや別の男しか映っていない。 千夏が助手席に座った瞬間、哲也は彼女を抱き寄せた。 次の瞬間、彼の唇が彼女を優しく捕らえ、その甘やかな口づけは彼女を空へと舞い上がらせた。 龍生の心臓が、誰かに掴まれたように締めつけられる。 胸を押さえたまま、視界が真っ暗に沈んでいった。 目を覚ましたとき、そこは病院だった。 主治医はカルテを手に、顔をしかめて告げる。 「ご存じですか?いま、あなたはがんの末期状態なんですよ」 龍生はただぼ
千夏は一瞬言葉の意味をつかめずに固まった。 彼女は小さな声で言った。 「あなたも見たでしょう、私には厄介な元彼がいるの……それに……」 龍生が言っていた言葉を思い出し、千夏は気まずさに目を閉じた。 次の瞬間、温かな腕に包み込まれる。 頭上から響いたのは哲也のくぐもった声だった。 「大丈夫だよ。俺は千夏が好きだ。そんなこと気にしない。これからの人生を一緒に過ごしたい。お願い、俺と付き合ってくれないか」 千夏の頬が濡れていた。彼女は慌てて拭った。 しばらくして、千夏はかすれた声で口を開いた。 「ごめんなさい。今はまだ一緒にはなれない。前のことをきちんと終わらせないと。 それを片付けたら……あなたの告白に答えるわ」 哲也は彼女の髪を優しくくしゃりと撫で、それ以上は聞かずに家まで送ってくれた。 家に戻った千夏は、一人で長く考え込む。 新しい恋を始めるなら、過去との繋がりを完全に断ち切らなくてはならない。 そうしなければ、自分もかつての龍生と何も変わらないではないか。 千夏はブラックリストからあの番号を探し出し、メッセージを送った。 【龍生、明日の午後、角のカフェで会いましょう。ちゃんと話さなきゃいけないことがあるの】 翌日午後、龍生は約束通りに現れた。 彼は鮮やかな赤いユリの花束を抱え、千夏が好きだったスーツに着替えていた。 メッセージを見たときの龍生の胸をよぎったのは高揚だった。 まるで恋を始めたばかりの少年のように、髪を整え、服も選び直す。 「もしかして、これはチャンスかもしれない」 そんな淡い期待まで抱いていた。 カフェへ向かう道すがら、彼の心には千夏に伝えたい言葉があふれていた。 だが、いざ目の前にすると全て消え去り、視線を交わすだけになってしまった。 千夏はその花束をひと目見て、落胆を隠さずに言った。 「龍生……どうしてユリなの?」 龍生は緊張でネクタイを引き緩め、息を吐く。 ぎこちなく説明した。 「赤いユリの花言葉は、情熱的な愛なんだ…… 千夏、考え直したんだ。君はまだあの男とは付き合ってないんだろ?だったらもう一度チャンスをくれ。大学の頃みたいに……君が近づいてくれないなら、俺が努力して歩み寄るから」 かつて千夏は、その甘い言葉に
千夏は首を横に振り、きっぱりと衣の裾を彼の手から引き抜いた。 龍生は黙って彼女の手を見下ろし、赤く充血した目をした。 千夏には理解できなかった。 彼女は最初から最後まで、一度も龍生の本当の姿を見たことがない気がした。 裏切ったのは彼であり、自分を散々傷つけたのも彼だ。 けれど、この瞬間だけは龍生の目がひどく悲しげで、まるで世界全部を失おうとしているようだった。 「千夏……」 かすかな嗚咽が聞こえたが、千夏は何も答えなかった。 もう大人なのだから、時には答えがないことこそが最良の答えなのだ。 千夏の衣の裾が彼の手をかすめて過ぎていった。 その感触で、龍生は千夏を失ったことを悟った。 口論でも、冷戦でもない。 二度と交わることのない平行線になってしまい、永遠に自分の人生から失われたのだ。 千夏が振り返らずに去ろうとするのを見て、龍生は慌てて二歩踏み出し、彼女を引き止めようとした。 だがその腕を、突然伸びてきた手が押さえ込んだ。 千夏が振り返ると、そこに哲也が立ちはだかっていた。 「女性をしつこく追い回すのは礼を欠く行為ですよ」 いつもは穏やかな蒼い瞳に、今は千夏が見たことのない底知れぬ光が潜んでいた。 龍生は二人を疑わしげに見比べた。 「千夏……お前がどうしても別れたいって言い張ってたのはさ……新しい男をもう見つけてたからなんだろ?」 声が次第に危うく、恐ろしい響きを帯びていく。 「まさか俺の子を妊娠してた時から、こいつと関係を持ってたんじゃないだろうな?」 千夏は唇を強く噛みしめた。 妊娠のことを隠すつもりはなかった。けれど、こんなふうに恥をかかされて口にされることになるなんて――! 「パァン!」 鋭い平手打ちの音が響いた。千夏は驚いて顔を上げる。 哲也が龍生に強烈なビンタを叩きつけ、その後ポケットから白いハンカチを取り出し、まるで汚れでも拭うかのように丁寧に手を拭った。 「この一発は、このお嬢さんの代わりです。 男なら、自分の行いを恥じるべきだ」 龍生の目が怒りでさらに赤く染まる。 「お前は誰だ、何様のつもりで千夏のことに口を出す!」 哲也は口元に柔らかな笑みを浮かべ、さりげなく千夏を抱き寄せた。 「お前が言ったじゃないか。俺は千夏の今の恋
隣人の名前は宮崎哲也(みやざき てつや)だった。 千夏はどうして彼が母国の名前を持っているのか、不思議に思った。 「俺はハーフだからさ」 哲也は口元に穏やかな笑みを浮かべ、紳士的に招き入れた。 「上野さん、除草剤は倉庫にあるんだけど、ちょっと見つけにくくてね。もしよければ、先に中に入って待っていてくれない?」 薔薇を救いたい一心で、千夏の警戒心はすっかり薄れていた。 彼女は頷き、ウィンディが作ったパンをテーブルに並べた。 哲也はお茶を淹れてくれた。その所作は滑らかで、美しくて見惚れてしまうほどだった。 千夏は彼の節ばった指を目で追い、思わず耳まで赤くなる。 「上野さん、これはの抹茶だよ。飲んでみて」 千夏は焦って小さく返事をし、赤くなった顔を隠すように急いで茶碗を抱えた。 美形に惑わされるなんて、と心の中で自分を咎める。 かなりの時間を待った後、哲也は申し訳なさそうに眉を寄せて謝った。 「もしかして勘違いしたかも……見つからなかったんだ。もしよければ、上野さんの連絡先を教えてくれない?見つけたら送るから」 彼の笑みに千夏の頭はぼんやりとしてしまった。 気づけば、帰り際にたくさんのお礼の品を抱えて庭の門へ立っていた。 その瞬間ようやく、除草剤を受け取っていないことに気がついた。 代わりに、自分の連絡先を渡してしまっていたのだ。 スマホには哲也から可愛いラグドールのスタンプが届いた。 「ラグドール:ごめんね」 そのラグドールの目は、哲也の優しい水色の瞳を思い出させる。 千夏はそっと、子猫の頭を撫でるスタンプを返した。 日々は穏やかに流れていった。 千夏は勉強と庭の世話に忙しく、時々、礼儀正しく見えて実は甘えん坊な「大きな猫」を相手にしなければならなかった。 過去の辛い記憶は次第に薄れ、まるで最初から無かったかのように思えた。 だが、忘れかけていたその時――千夏は龍生と再会してしまう。 学校の門前、人混みの中で龍生は立ち尽くし、やつれた目で千夏を見つめていた。 次の瞬間、彼は周囲に構わず駆け寄り、千夏を強く抱きしめた。 捨てられた犬のように哀れな姿で、声を低くして必死に許しを乞う。 「千夏……やっと見つけた……」 千夏は眉をひそめて彼を見つめた。その変わ
警察が駆けつけた時、愛莉の顔はすでに腫れ上がり、元の顔が分からないほどだった。 彼女のお腹の子も結局助からなかった。 龍生も警察に連れて行かれ、事情を聞かれることになった。友人が駆けつけ、助け船を出そうとする。 柵の向こうで、龍生は椅子に崩れるように座り込んでいた。 警察に手錠を掛けられても抵抗せず、すべての質問にただ機械的に答えるだけ。 幸いなことに、愛莉は金銭で示談に応じる意思を示していた。 「俺は同意しない」 龍生は冷たく言い放った。机に繋がれているのがまるで自分ではないかのように。 彼が金に困っていないことを知っている友人は、こんなに即座に拒絶されるとは思わず、慌てて柵を掴んだ。 「龍生、お前にはまだ未来がある!なんでわざわざ牢に入ろうとするんだ……」 「もうない……」 龍生の視線がようやく彼に向き、絶望をにじませて口を開いた。 「すべてもうなくなった。千夏がいなくなって……俺が生きてても意味なんてない」 その言葉に、友人はようやく彼の本心を悟り、信じられないものを見るような目をした。 「どうせ俺はもう終わりだ。それなら放り出してもいいじゃないか。あの女にもふさわしい代償を払わせるべきだ」 龍生が完全に腹をくくったのを悟り、友人は深いため息を漏らした。 「……龍生、正直言うとお前が立ち直れると思って黙ってたんだ。千夏の居場所を見つけたんだ」 灰色に沈んでいた龍生の目に、一瞬で光が宿った。震える指先で、それが幻ではないと確かめようとする。 友人がスマホを差し出す。 画面に映っていたのは、昼も夜も想い続けてきた女――千夏だった。 千夏は庭で花枝を静かに剪定しており、その優しい横顔にピンクの薔薇が映えて、唇が鮮やかに紅を帯びていた。 龍生は興奮して立ち上がり、今すぐにでも画面の中へ飛び込んで抱きしめたい衝動に駆られた。 警官に怒鳴られて、ようやく冷静さを取り戻す。 その後の手続きは驚くほど順調に進んだ。龍生は愛莉が出した条件をすべて受け入れ、夜になる頃には警察署を後にすることができた。 「ありがとな」 肩をポンと叩いた友人が言う。 「なに言ってんだ、ダチの間で感謝なんていらねぇよ。大事なのは、もう自分の過ちに気づいたなら、まずは千夏さんに謝ることだ。調べてみ
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