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縁が終わっても、これからの人生はきっと花咲く

縁が終わっても、これからの人生はきっと花咲く

By:  麦穂Completed
Language: Japanese
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Synopsis

切ない恋

愛人

ひいき/自己中

クズ男

不倫

式の控え室で、上野千夏(うえの ちなつ)は膨らんだお腹にそっと手を当て、寂しげに目を伏せた。 「春菜、お願い。あなたの病院で、中絶手術の予約をとってくれない? 日にちは……三日後でいい」 ブライズメイドのドレスを着た親友の中島春菜(なかじま はるな)は、一瞬ぽかんとした顔をした。 「千夏、正気なの? 龍生は精子が弱いから、あなたがこの子を授かるまでにどれだけ苦労したか……漢方を飲んだり、体外受精までして……今日はやっとの結婚式なのに、どうしてそんなこと……」 春菜は千夏の虚ろな黒い瞳を見つめ、結局それ以上の言葉を飲み込んだ。 たった三十分前、千夏が七年も待ち望んできた結婚式は、橋本龍生(はしもと りゅうせい)のアシスタント、松井愛莉(まつい あいり)によってめちゃくちゃにされたのだ。 式場の巨大LEDスクリーンに映るはずだったのは、自分が厳選したウェディングドレス姿の写真だった。 だがそこに現れたのは、愛莉の妊娠検査のカルテだった。 そして、父親の欄には、はっきりと龍生の名前が記されていた。

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松坂 美枝
クズのいつもの末路に安堵する
2025-09-03 10:49:16
1
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蘇枋美郷
クズ男がどんなに言い訳しようが、何故こんなにも頭が悪いのか理解できない… 本当に、妊娠してても籍をまだ入れていなかったことはラッキーだったね。
2025-09-03 16:48:33
3
22 Chapters
第1話
式の控え室で、上野千夏(うえの ちなつ)は膨らんだお腹にそっと手を当て、寂しげに目を伏せた。 「春菜、お願い。あなたの病院で、中絶手術の予約をとってくれない?日にちは……三日後でいい」 ブライズメイドのドレスを着た親友の中島春菜(なかじま はるな)は、一瞬ぽかんとした顔をした。 「千夏、正気なの?龍生は精子が弱いから、あなたがこの子を授かるまでにどれだけ苦労したか……漢方を飲んだり、体外受精までして……今日はやっとの結婚式なのに、どうしてそんなこと……」 春菜は千夏の虚ろな黒い瞳を見つめ、結局それ以上の言葉を飲み込んだ。 たった三十分前、千夏が七年も待ち望んできた結婚式は、橋本龍生(はしもと りゅうせい)のアシスタント、松井愛莉(まつい あいり)によってめちゃくちゃにされたのだ。 式場の巨大LEDスクリーンに映るはずだったのは、自分が厳選したウェディングドレス姿の写真だった。 だがそこに現れたのは、愛莉の妊娠検査のカルテだった。 そして、父親の欄には、はっきりと龍生の名前が記されていた。愛莉は泣きそうな顔をして龍生の背中に隠れ、そのか弱い姿はまるで自分こそが被害者かのようだった。龍生は何事もないように言い放つ。「愛莉が一人で出産するのは可哀想だと思って、検診に付き添っただけだ。父親の欄は形だけ。俺はせいぜいその子の名付け親ってとこだな」千夏は、二人の重なり合う手を見つめ、爪が食い込むほど強く自分の掌を握り締めた。「未婚で子どもを宿した彼女が可哀想なら、結婚式も、旦那も、全部あげるわ」千夏は唇に冷笑を浮かべ、グラスを掲げて大声で祝福する。「ご結婚おめでとう。授かり婚だね」式場は一瞬で凍りついた。「やめろ!」龍生は険しい顔で、彼女のグラスを乱暴に奪い取った。「千夏、これは俺たちがずっと待ち望んだ結婚式だろ?こんなくだらないことのせいでぶち壊す気か!」不機嫌さと苛立ちが滲む声。千夏は涙がこぼれそうになるのを必死に堪え、かすれ声で叫んだ。「壊したのは私じゃない!あなたと愛莉よ!」「あなたは『愛莉は優秀だから』って言って、七年も傍に置いてきた。なのに、こんな大事な場をめちゃくちゃにして、それでもただの事故だと本気で思ってるの?」あらゆる挑発も悪意も、千夏は公衆の面前で暴き出した
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第2話
千夏は一人で、思い出の詰まったあの家に戻った。 春菜の付き添いを断り、どうしても独りになりたかった。最後のひとときを、お腹の中のまだ産まれていない子と静かに過ごし、きちんと別れを告げたかったのだ。 思いは自然と、彼女の人生を変えてしまったあの日へと遡っていった。 ある日、龍生が定期健診で不妊を告げられた。 その瞬間、彼は悪事を働いた子供のようにどうしていいか分からず、千夏の胸に顔を埋めた。 「千夏、どうしたらいいんだ……俺は何度も夢見てたんだ。もし子供ができたら、女の子がいいなって。君みたいに目がまん丸で……でも、もう全部無理なんだ……」 普段は仕事で雷のように迅速で、誰にも怯むことのない龍生が、その時ばかりは珍しく声を震わせていた。 あの瞬間、千夏は決めた。どんな代償を払ってでも、二人だけの結晶をこの世に迎えようと。 苦いものが嫌いな彼女が、数えきれないほどの漢方を飲み、怪しげな民間療法にまで手を出した。ムカデを生で飲み込んだり、正体も分からない黒く臭う液体まで口にしたこともあった。 その度に生死の境を彷徨うような苦しみが襲ったが、決して諦めることはなかった。 最後に選んだのは、もっとも過酷な体外受精という道だった。 鋭い針が何度も彼女の腹を突き刺し、耐え難い痛みに意識が遠のきそうになった。 それでも龍生に心配をかけまいと、歯を食いしばり、一度も声を漏らさなかった。 幾度となく繰り返される拷問のような日々――それなのに千夏の心は蜜に浸かるように甘やかだった。二人の愛の希望を抱いていたからだ。 しかし、そのすべては愛莉の登場によって打ち砕かれる。 龍生が愛莉を妊婦検診に連れていったあの日、それは奇しくも千夏が初めて産婦人科を訪れる日でもあった。 すべては、すでに伏線としてそこにあったのだ。 空虚な部屋に、千夏の抑えきれないすすり泣きが響いた。積み重なった屈辱と痛みを吐き出すかのように泣き続け、ついに力尽きて眠りに落ちた。 夢の中で、誰かがそっと彼女の足首をつまみ、慣れた手つきでやさしく揉んでいる感覚があった。 ぼんやり目を開けると、酒に酔った龍生が片膝立ちでベッドの端に座り、手にはマッサージオイルを持ち、妊娠でむくんだ彼女の脚を丁寧にほぐしていた。 だが、この子は結局、この世に生まれ
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第3話
携帯のロック画面には、愛莉からのメッセージと検診予定のカレンダー通知が並んで表示されていた。まるで二本の鋭い針のように、千夏の心臓に突き刺さる。 「龍生、明日一緒に来てくれるよね?」 千夏は初めて無力な視線を夫に向けた。その瞳にはかすかな祈りさえ宿っていた。 龍生はこの得難い子どもをずっと大切にしてきた。しかし、最初の検診の時、愛莉のせいで彼は姿を見せなかった。 今回こそ――千夏は唇を噛み、もう一度だけチャンスを与えることにした。愛情を修復できる、最後の機会を。 数秒の沈黙が、まるで永遠のように重かった。 龍生は苦しげに、ため息を含んだ声で口を開いた。 「千夏、今日の披露宴は愛莉が全面的に助けてくれたんだ。彼女のおかげで無事に終えられた。でもさ、その彼女のお腹の調子が急に悪くなっちゃって……俺たちにも責任があるだろ」 千夏の表情は急速に冷え、胸の奥でかすかに芽生えた感動は瞬時にかき消えた。 「……うん」 彼女が頷くと、龍生は勢い込んで数歩近づき、手を握りしめて持ち上げるように言った。 「ありがとうな、やっぱり君は一番わかってくれる」 千夏は深呼吸して、心の底に隠し続けてきた言葉を一気に吐き出した。 「それで……別れる件、考えてくれた?」 その一言で、龍生の表情が一瞬にして曇った。 「別れるってどういう意味だ?」 声を張り上げると、続けざまに怒鳴りつける。 「俺は橋本社長だぞ。プレゼント買って謝って、ひざまずいて揉んでやるほど下手に出てるんだ。これ以上何を望むってんだ。図に乗るなよ!」 彼の口元には冷笑が浮かんでいた。その眼差しには軽蔑の色が満ちていた。まるで、言うことを聞かない飼い犬でも見ているかのようだ。千夏はただ冷ややかに頷くだけで、余計な言葉は吐かなかった。 その顔を見つめながら、彼女の脳裏には昔の龍生が蘇る。笑顔が眩しかった少年時代の彼――その記憶が、愛という免罪符になっていたのかもしれない。長年の変化や二人の間に走った亀裂を、見ないふりさせてきた。 「千夏、よく考えとけよ。君は俺と七年も付き合って、しかも今は俺の子まで孕んでる。そんな重荷背負った女、誰が好き好んで拾うんだ」 その言葉は刃物のように千夏の耳を刺し、震えが止まらなかった。 「一晩やるから、家でちゃんと考
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第4話
千夏が再び目を覚ましたのは、もう翌日の午前だった。 医師が回診に来たとき、腹部の激しい痛みはもう収まっていたものの、身体はまだひどく虚弱なままだった。 「先生、私……どうしたんですか?」 千夏の問いかけに、医師はカルテをめくりながら徐々に眉間を寄せていった。 「これは試験管ベビーだよね?やっと授かった命なのに、なぜ明後日の中絶手術を予約してるんだ?」 返事をする間もなく、医師は切なそうに言葉を続けた。 「赤ちゃんはまだ小さいけれど、立派に一つの命だ。母親の感情だってちゃんと伝わるんだよ。もしあなたが望まないって思えば、赤ちゃんも傷つくんだ」 千夏は一瞬呆然として、その言葉に胸の奥底を鋭く突かれた。無意識に、自分の下腹部へ手を添える。 そこには、自分が数え切れないほど待ち望んできた小さな命が宿っている。 妊活を始めて以来、龍生は大切な宝を守るかのように、千夏のすべてを背負ってくれていた。 薬を飲む時間からリハビリのスケジュール、そして医師選びに至るまで、細かいことから大事なことまで、彼は必ず自ら関わってきた。 胚検査の日、龍生は数百万円規模の商談までキャンセルし、結果を一刻も早く知るために病院の廊下を行ったり来たりしていた。 精子が弱い彼にとって、いくつもの胚は失敗に終わり、今回のが最後のチャンスだった。 あの日の彼は、あの堂々とした橋本社長とは思えないほど落ち着きを失っていた。 「千夏、赤ちゃんのことが心配で仕方ないんだ」 彼は千夏の手をぎゅっと握りしめ、その手のひらはじんわりと汗で濡れていた。 神仏を信じたことのない龍生が、その時ばかりは本気で祈った。 「この子が無事に生まれるなら、俺の寿命を削ってもいい」 「何を馬鹿なこと言ってるの」 千夏はそう言って彼の肩を軽く叩いたが、その手はかすかに震えていた。 医師から成功を告げられたあの瞬間、千夏は喜びで涙が止まらなくなり、長い時間泣き崩れた。 この子は自分の血肉であり、数え切れない努力と痛みの結晶でもある。 「少し考えてみます……」 その言葉を待っていたかのように、医師はすぐに安胎薬を処方し、細かく注意を与えてきた。 「この薬は一日三回。感情の起伏に気をつけてね。強いストレスがあれば赤ちゃんは持たない可能性がある」 千
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第5話
「龍生、急に雨が降ってきて、帰りの車が捕まらないの……」愛莉は雨の帳の中に立ち、声には頼りなさと甘えが滲んでいた。 濡れたワンピースが体にぴたりと張り付き、しなやかな曲線を浮かび上がらせる。乱れた髪が頬に貼り付き、その姿は一層儚げだった。 龍生は緊張したように振り返り、千夏に視線を送った。 「千夏、誤解するなよ。愛莉は大事な書類を届けに来ただけなんだ。赤ちゃんのためにも、感情を抑えないと」 必死に弁解する龍生の瞳に、一瞬走った迷いを、千夏ははっきりと見逃さなかった。 千夏は冷たく笑い、ゆっくりとうつむく。長いまつ毛が、心の奥から溢れる感情を隠すように影を落とした。 子どもを守るというのは、彼女に堪え忍ばせることなのか。愛莉に出しゃばらせないよう釘を刺すことではなく。 その「守る」という名目は、ただの残酷な束縛にしか思えなかった。 愛莉が苦しげなうめき声をあげる。次の瞬間、龍生は慌てて駆け寄り、迷わずジャケットを脱いでその肩に掛けた。 二人の身体はぴたりと寄せ合い、愛莉の胸元が龍生の腕にすり寄る。その光景は千夏の目を突き刺すほど痛々しかった。 龍生の動きが一瞬ぎこちなくなり、喉が上下し、かすれた声が漏れる。「大丈夫だ。俺が送っていく」 その言葉に、千夏はすぐに気づいた。彼の体が反応している、と。 唇の端に嘲るような笑みを浮かべ、二人を一瞥もせず、背を向けて雨の中へと歩き出した。 雨は、止む気配を見せなかった。 千夏は粥の香りに目を覚ました。 目を開けると、龍生が湯気の立つお粥を持ち、ベッドのそばで優しく見つめていた。 「千夏の寝顔、すごく可愛いな。俺たちが出会ったころを思い出すよ。あの時も思ったんだ……君は本当に綺麗だって」 昨日おとなしかった千夏に満足しているのか、甘い言葉を惜しみなく口にする。 「君を一生家に閉じ込めておきたいよ。そしたら絶対離れていかないだろ」 付き合っていた頃、そんな言葉を何度も聞いた。 その度に千夏は頬を赤らめ、彼の胸を軽く叩き、恥ずかしいと言いつつも心は甘い幸福感で満ちていた。 だけど今は違う。かつて家に閉じ込められた記憶が鮮明に蘇り、背筋がぞくりと震えた。指先まで止まらない震えが走る。 袖口に手を隠しながら、龍生の目から何かを読み取ろうとしたが
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第6話
千夏は、この茶番がただただくだらなくて仕方がなかった。 龍生は、まるで忘れ去ったかのように知らん顔をしている。けれど千夏のお腹にいるのは、彼が神に祈り、九百九十九段もの階段をひたすら一歩ずつ頭を下げながら登り、ようやく授かった子どもだった。 一方で、愛莉のお腹の子どもには、本来の父親がいるはずで、彼らとは何の関係もない。 もともと千夏はこのベビーシッターセンターに来ること自体、心の底から嫌でたまらなかった。だからこの混乱に紛れて、そっと家に帰った。 家に戻るなり、慌ただしく荷物をまとめ始める。 今日はしっかり眠って体を休め、明日の中絶手術を終えたら、春菜と一緒に遠くへ行く。そして、この傷だらけの場所から離れるのだ。 携帯が「ピロン」と鳴り、メッセージが飛び込んできた。 【龍生と結婚してるからって何?愛されない方こそが愛人なのよ。今は私が上、お腹の赤ちゃんが生まれたら、あなたの子なんて踏みつけにしてやる!】続けて、もう一通。 【龍生は私にこんなにも優しいの。ねえ、もしかしたら本当に私のお腹の子の父親になってくれるかもよ。どっちの子を可愛がるのかしらね】 千夏は画面を凝視し、震える手で番号をブラックリストに入れると、そのままスクリーンショットを撮って龍生へ送った。 それからやっと身体を横たえ、そっとお腹に手を当て、小さな命に別れを告げた。 「ごめんね、赤ちゃん……パパは多分、私たちのことをそこまで愛していないの。だからママは、あなたをこの世界に連れて来られない。また縁があったら……ママのところに来てくれる?」 手術は翌日の午前中に予約されていた。 朝食を食べ終えても、龍生はまだ戻って来なかった。 その方がいい、邪魔されずに済むから。 荷物を持ち、家を一歩ずつ出ていく。 病院で手術を待つ列に並んでいると、足元がじわっと濡れていく感覚がした。 ゆっくり下を見ると、白いズボンに真っ赤な血が広がっていた。 大慌てで駆け寄ってきた看護師に支えられ、千夏はそのままベッドへ運ばれる。 ぼんやりとした目で天井を見つめながら、ふと医者の言葉が頭をよぎった。 「子どもは、自分が望まれていないと感じたら、自ら旅立つことがあるよ」と 。まさか……赤ちゃんは、母親に中絶の重荷を背負わせないために、自分から去
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第7話
手術はあっという間に終わった。 千夏がゆっくりと目を開けると、病室は相変わらず静まり返っていて、龍生の姿はどこにもなかった。 彼女は手を下腹部に当てた。そこは、あまりにも静かだった。 涙が糸の切れた真珠のように、次々と頬を流れ落ちた。 妊娠を知った日のあの溢れるような喜びから、たった二ヶ月あまりで子供を失うこの結末へ――それは終わりなき残酷な悪夢のようだった。 母と子、本来ならこの世で最も近しい存在。命が芽生えたその瞬間から、片時も離れることなく結ばれているはずだった。 だが今、その絆は無情に断ち切られてしまった。その痛みは骨の髄まで染み渡り、愛莉が龍生にべったり寄り添う姿を見る時よりも、二人が抱き合っているのを目の当たりにする時よりも、何千倍何万倍も辛かった。 「ごめんね、赤ちゃん」 千夏は声を詰まらせながら、もうこの世にいない我が子に再び謝った。 短く休んだあと、彼女は極限まで衰弱した身体を無理に支え、退院の手続きをしに立ち上がった。 春菜が待っている。 会計窓口で、千夏はよく知る人影と鉢合わせした。 龍生が愛莉を気遣うように支えながら、産婦人科からゆっくり出て来るところだった。 最初に千夏に気づいたのは愛莉だった。その目に一瞬だけ誇らしげな光が差し、すぐに取り繕うように慌てたふりをして龍生の腕を放した。 そして少し顔を上げ、か弱い声で千夏に呼びかける。 「上野さん、どうしてここに……」 すぐさま言い訳をするように続けた。 「誤解しないでください。私、感情が高ぶって赤ちゃんに影響しそうだったので、龍生にお願いして病院まで送ってもらっただけなんです」 千夏の名を聞いた瞬間、龍生の身体が一瞬だけ強張り、慌てて愛莉の手を離した。 しかし、すぐに眉間を緩め落ち着いたふうを装いながら言う。 「大丈夫、そんなに気を張らなくていい。千夏は君を責めたりしない。 元々は彼女の方に非があるんだ。彼女がわざときついこと言わなければ、君だって入院することはなかった」 千夏は冷ややかに愛莉を見やった。頬は血色よく艶やかで、ベビーシッターセンターで訴えていた腹痛で耐えられない姿なんてどこにもなかった。 視線を龍生に移すと、彼はただただ心配そうに愛莉を見つめており、千夏の蒼白な顔も、今にも倒れそうな身
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第8話
「彼女は自分で転んだフリをした」 千夏は眉間に深い皺を寄せ、歯の隙間から声を絞り出すように言った。 「私に、彼女を押す力なんてないわ。全部、彼女の自作自演なのよ。どうして、私が謝らなきゃいけないの?」今の千夏は、傍らの机にすがりついてやっと地面に倒れ込まずに済んでいた。 龍生の視線は刃のように鋭く、全てを貫くように千夏に突き刺さる。 「お前が言いたいのは、愛莉が腹の子の命を使ってまで、わざとお前を陥れたってことか。 自分の子供をそんなふうに利用する母親がどこにいる。彼女に何の得があるんだ?」 千夏は他の女を必死で庇う龍生をじっと見つめ、その瞳は水底のように静まり返っていた。 沈黙の後、口元に皮肉な笑みを浮かべて言う。 「もちろん、橋本夫人の座のためよ。私はもう別れを切り出したわ。あなた達の望み通りに」 結婚式の前に婚姻届を出していなかったことを、この時ほどありがたく思ったことはなかった。離婚の話し合いにまで進まずに済んだからだ。 龍生の顔に一瞬で陰りが走り、呼吸は荒くなる。 「千夏!俺は一度も別れるなんて言ってない! 最初から最後まで勝手に暴れてるのはお前だ。分かれたいだと?ふざけるな!今日、病院で起こったこと全部、愛莉に対する謝罪としてお前が処理してこい!」 千夏は視界がますますぼやけ、頭もくらくらしていた。春菜との約束の時間は刻一刻と迫ってきている。焦燥が胸を締めつけ、ただこの息苦しい場所から離れたいと願うばかりだった。 だが踵を返そうとした瞬間、龍生に乱暴に腕をつかまれた。 「お前の友達の春菜、最近大金を入れて会社を立ち上げたばかりだろ?その資金を丸ごと水の泡にしたくはないよな」 龍生の声は氷のように冷たく、蛇の舌のようにぞっとするほど陰湿で、千夏の背を悪寒が駆け抜けた。 「……私を脅してるの?」 「千夏」 龍生の口元に冷酷な笑みが浮かぶ。その瞳には露骨な威圧が宿っていた。 「先に脅してきたのはお前だろ。俺はお前を何年も養ってきた。ようやく俺達の子供も授かったんだ。逃げられると思うな」 その言葉に、千夏の胸は無数の針で刺されたように痛み、一度鼓動する度に胸の奥に激痛が走る。 子供が欲しいと言ったのは龍生だった。だから彼女は苦しさに耐えた。 けれど結果は、自分の子供が
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第9話
医者と看護師たちが慌ただしく駆け寄り、千夏をベッドに乗せると、七転八倒の勢いで急救室へと押し込んでいった。 龍生の顔は真っ青で、虚ろな目は床に広がる鮮血をただ茫然と見つめていた。 しばらくしてようやく我に返り、慌てて動いていくベッドを追いかけたが、足元はおぼつかず、何度も転びそうになる。 すれ違った若い看護師の腕を掴み、震える声で問い詰めた。 「俺は彼女の親族だ。こ、子どもは……子どもはどう?」 看護師は怪訝そうに彼を見つめた。 「あなた、上野さんとはどういうご関係ですか?」 龍生は質問の意味がわからず、濃い眉をひそめた。 「俺は彼女の夫だと。お腹の赤ん坊の父親なんだよ! 子どもは……助かるのか?」 その目には必死な期待が宿っていた。ただ「助かる」と言ってもらえさえすれば、子どもは無事でいられると信じ込んでいるように。 しかし看護師はすべてを見ていたのだ。軽蔑するような視線で龍生を睨みつける。 「私はてっきり松井さんのご主人かと思いました。どうして自分の妻を放ったらかして、別の女の周りばかりうろついていたんですか」 その言葉に龍生は愕然と立ち尽くし、しばらく動けなかった。 そうだ、自分はどうして千夏と子どもを放ったままにしていたんだ…… あれは自分の妻であり、自分の血を分けた子どもだったのに。 さっきの血が、今もなお脳裏に広がり続け、愚かさと冷酷さを嘲笑っているかのようだった。 駆けつけた医者が、手術同意書を突きつけながら怒鳴った。 「お前、本当に男か?上野さんが流産の手術をしたときは来もしなかったくせに、今は患者をまともに看ることすらできないのか!流産後は激しい運動なんか絶対禁止だ。そんな基本的なことも知らないのか?妻をこんなに苦しめて、やっと授かった試験管ベビーまで失わせて!」 「流産」という二文字が、龍生の頭をハンマーのように打ち抜いた。 衝撃に打ちのめされ、唇だけが震え、言葉を発することすらできない。 「そんなはずはない……! 昨夜まで、うちの子は元気だった……そんなはずない!彼女がどうして……どうして自分の意思で流すなんて……」 医者は冷ややかな目で彼を一瞥する。 「上野さんは確かに流産手術を予約していたが、自然流産だったんだ。ベッドで救命を待っていたとき、
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第10話
「千夏!言っておくぞ、こんなことをするのは俺の生育権を踏みにじってるんだ、あれは俺の子供なんだ!」 龍生の感情は徐々に崩れ、声もヒステリックさを帯びていった。 千夏はますます理解できずに首を振った。 「でも、私たちはもう別れたでしょ。あなたも新しい家庭を作る準備をしているじゃない。この子が生まれたとして、どんな立場で存在すればいいの?」 彼女の声はとても弱々しく、触れただけで壊れてしまいそうだった。 「私生児?」 龍生は図星を突かれたかのように、その場で硬直した。長い沈黙のあと、震える声でようやく口を開く。 「俺は……愛莉と結婚するつもりなんてない……」 二人の視線が交わり、病室は水を打ったように静まり返った。 千夏の瞳に宿る不信感が針のように龍生の胸を刺した。 ちょうどその時、回診が始まり、医師が足早にやって来ると、苛立ち気味にベッド脇の男を押しのけた。 「あなた、前にも言いましたよね。流産した妊婦は情緒を激しく乱してはいけないんです。ここで大声を張り上げるなんてどういうつもりですか!」 そして皮肉気に言葉を添える。 「それに、男に生育権利なんてものはありませんよ」 龍生の視線は千夏の腹部に落ち、瞳の奥に隠しきれない怒気が浮かんでいた。それでも医者の前では、何一つ言い返せなかった。 医者が去ったあと、龍生は堪えたように口を開いた。 「まだ結婚式のこと怒ってるのか?体がよくなったら、もっと盛大な結婚式をやってやる……な?」 彼は千夏の腹に手を当てる。 「もう一度、俺たちの赤ちゃんを作ろう」 千夏はその手を振り払った。表情は真剣そのもので、きっぱりと彼を拒絶した。 「龍生、私たちにはもう未来なんてないの」 龍生の目はますます赤く潤んだが、その言葉が耳に入らなかったかのように逃げるように病室を飛び出していった。 その日以降、龍生は二度と姿を見せなかった。 ただ、秘書に指示して、毎日自分の手作りの料理を運ばせていた。 千夏は湯気の立ちこめる食事を前にしながら、静かに春菜に電話をかけた。 「春菜、海外行きのチケット、もう手配できた?」 春菜は空港で長いこと待ち続けたが、千夏は現れなかった。代わりに届いたのは、千夏が緊急搬送された知らせだった。 春菜は怒り心頭に発して今
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