LOGIN私は自然とレオンの袖をつかんでいた。
黒手袋の視線が、私のその手を一瞥する。
微笑みは一切ない。感情のゆらぎも一切ない。私の背筋が、氷の刃でなぞられたように冷たくなる。
レオンが一歩、私の前へ出た。
「本日の監査は正式な手続きを経ています。過度な接触や威圧行為は控えていただきたい」黒手袋が視線をレオンへ向ける。
その目は無機質で、人を“対象”としか見ていない。「……王立監察局員が、私に指示を?」レオンは怯まない。
「指示ではありません。確認です。彼女は僕が守るべき対象でもある」黒手袋は一瞬だけ沈黙し、そのあとゆっくりと笑った。
しかしその笑みには、温度が一つもなかった。「……若いな。感情で任務を曲げるのは二流の証だ」レオンの拳が震える。怒りを押し殺しているのが分かる。
私は袖を引く。
「レオン……やめて……」彼は振り向き、少しだけ表情をゆるめる。「ヒスイ、大丈夫です。あなたのためなら、僕は退きません」レオン……そんなこと言われたら……。
胸が締めつけられる。と、そのとき。
フェルスパーが階段から降りてきた。兄さまの眼差しは鋭く、黒手袋を真っ直ぐ射抜く。
「黒手袋。お前は昨日の“抜き打ち”の件をまだ謝罪していないな」廊下の空気がピリッと張りつめる。
黒手袋は振り返りもせず、低く言う。
「私は必要な監査を行っただけだ。陛下の命でもある」兄さまは鼻で笑う。
「抜き打ちで妹を怯えさせておいて、『必要』で済むと思うなよ」黒手袋は視線だけ動かし、兄さまを見る。
「……では本日の監査で、潔白を証明してもらおう」証明
「ヒスイ、後ろに下がれ!」レオンが即座に彼女の前に立つ。「レオン、危ない……! 私も戦える……!」「分かっている。でも奴は上層部最強格だ。君を狙ってくる。」クロードが乾いた声で笑った。「守る? 無駄だ。レオン、君の魔力は確かに美しいが……ヒスイほどの価値はない。」ズッ──床を砕いて闇色の魔術が襲いかかる。ヒスイが咄嗟に魔力を構えようとした瞬間――レオンの腕が伸び、彼女を抱き寄せた。「レオン!?——」次の刹那、爆ぜる衝撃。レオンの背中に黒い刃が深く突き刺さる代わりに、ヒスイは無傷だった。「っ……は……!」
ヒスイの視界に“黒い影”が見えてから、わずか数分。二人はその魔力痕が示す、局の深層部──禁秘管理室へ向かった。重々しい扉の前に立つと、ヒスイの心臓がドクンと高鳴る。「……この奥だ。」レオンも表情を引き締める。「覚悟はいいか、ヒスイ?」「うん。行こう。」扉が軋みながら開いた。そこで二人を出迎えたのは──局の上層部に君臨する人物のひとり、副局長・クロードだった。「……やはり来たか、ヒスイ。そしてレオン。」ヒスイの喉が僅かに震える。「クロード副局長……どうして、こんな……」クロードは深いため息をつくと、まるで叱るような声音で言った。「私としては、君には“気づかれずに”退職してもらいたかったのだがね。」「なんで……?」レオンが一歩前へ出る。その目は怒りに燃えていた。「ヒスイの魔力体質に目をつけて、“封印破片”で誘導したのか……!」「誘導? いや、もっと単純だよ。」クロードの瞳が薄く笑う。「ヒスイの魔力は――“私が手に入れたかった”。」クロードは淡々と語り始めた。「この国の最高位結界の更新には、膨大で純質な魔力が必要だ。だが、近年は供給源が減り続けている。そこで私は考えたのだよ。」「まさか……」ヒスイは息を呑む。「才能ある若手を、徹底的に“磨り減らす”仕組みを作り、負荷に耐えた者だけを資源として利用する。」レオンが怒声を放つ。「それでヒスイを狙ったのか!!」「ええ。彼女の魔力量は規格外だった。あとは“追い詰めて開花さ
封印庫の奥。局内でも限られた者しか入れない“結界最深部”へ向かう通路は、冷気が漂っていた。レオンさんは私の手を離さないまま、前を歩きながら言った。「ヒスイ。あなたが視た“黒い痕跡”がある層には、誰も触れていないはずなんです。それなのに細工があった……ということは」「黒幕は、権限を使って……密かに侵入した?」「そういうことです。証拠さえ掴めば、もはや言い逃れできません」レオンさんの声は低く、いつもの柔らかさの奥に鋼が宿っていた。「僕は……あなたの力が必要です。あなたの“特異な視え方”がなければ、この調査は進まない」「……私で、いいの……?」「あなたでなければ、だめなんです」その一言で、胸がぎゅっと締め付けられた。(……こんな言い方されたら……)嬉しさと不安が甘く混ざり合う。最深部の扉が重く音を立てて開いた。中は──冷たい光が淡く揺れ、静寂が支配していた。一点。奥の結界壁に、ヒスイだけが“視えるもの”があった。黒い痕跡が、まるで誰かの手形みたいに結界に染みついている。「……いた……」「ヒスイ、視えるのですか?」「うん……レオン。あれ……上書きされた結界術式……しかも、魔力の癖が……強い」私は震える指でその方向を指した。なんとかレオンに魔力の癖の説明をする。「あの癖……この局で扱える魔術師は、一人しかいない」レオンの表情が険しくなる。
視界に揺らめいていた翡翠色の光が、徐々に薄れていく。暴れ狂っていた魔力は嘘のように静まり、私の体の奥に吸い込まれるように収まった。「……はぁ……っ……はぁ……っ」息が荒い。膝が震える。でも、倒れはしなかった。支えてくれる腕があったから。レオンが、私の背に手を添えたまま、真剣に覗き込む。「ヒスイ、大丈夫ですか……? 痛みは……?」「だい……じょうぶ……少し、力を使いすぎただけ……」「嘘はだめですよ。顔色が、いつもよりずっと白い」指先がそっと頬に触れた。くすぐったいのに、胸の奥がじんと熱くなる。「本当に……無茶をするんですから。でも……そのおかげで、大きな手がかりが得られましたね」レオンの言葉に、私は震える息を整えながら頷いた。「さっき……見えたの。結界の奥に、黒い魔力の塊があった。あれ、多分……人為的に隠されてた痕跡よ」「その“痕”を見れるのは……ヒスイだけでしょうね。 あなたの魔力特性は、隠匿術式と相性が良すぎるくらいですから」レオンさんの声は興奮と緊張が混ざっていた。いつもの紳士的な雰囲気の中にも、どこか熱がこもる。「黒幕は、おそらく……上層部の中でも“最上位”。 この結界層に細工できる権限を持っているのは、一名だけです」「じゃあ……名前は……?」「まだ確証はありません。 でも、次の層を調べれば決定的な証拠が得られるはずです」レオンさ
ヒスイの胸の奥に、ずっと微かに疼いていた違和感が確信に変わった。局内の封印庫に漂う、灰色に濁った魔力。それは彼女の“生まれつきの魔力体質”と危険なほど相性が悪いものだった。(……この濁り……ただの封印残滓じゃない。人為的に“歪ませてある”。)レオンがヒスイの顔色を見て、小声で囁く。「ヒスイ……無理をしていないか?」「違うわ、レオン。ここ……私の魔力を刺激する“何か”がある。」レオンの表情が鋭くなる。「……黒幕の仕込みか。」部屋の隅──封印器具の影に、小さな“魔力の粒”が震えていた。それは、黒幕が残した未解除の“封印魔術の破片”。ヒスイが一歩近づいた瞬間、破片がまるで彼女を“狙っていた”かのように震え、急激に魔力を放ち始めた。「っ……!」熱が胸に押し寄せる。視界が揺れ、身体の奥に眠っていた潜在魔力が逆流を始める。(……まずい……抑えられない……!)レオンが咄嗟に彼女の腕を掴んだ。「ヒスイ、下がれ! 君の魔力体質が反応している──!」だがヒスイは動けなかった。“封印破片”が、ヒスイの魔力を引き金にして暴発を始めている。荒れ狂う魔力がヒスイを飲み込もうとしたその瞬間、レオンの魔力が風のように伸び、彼女の魔力へ触れた。「落ち着け。俺が抑える──ヒスイ、聞こえるか?」(……レオン……?)彼の魔力は穏やかで、深く、体内の嵐を吸い込むように安定させていく
重い扉が開くと、厚い魔力結界が張り巡らされた無機質な部屋が現れた。 空気がぴんと張り詰めている。「ここなら、闇魔力の侵入は防げます」レオンは慎重に扉を閉め、複数の鍵をかけた。 ヒスイのためと分かっていても、閉ざされる音は胸に響いた。「……レオン、怖いよ」思わず漏れた声に、レオンはすぐそばに来た。「怖がらなくて大丈夫です、ヒスイ」レオンはヒスイの肩に手を置き、ゆっくりと抱き寄せた。「あなたが震えるなら、私はその理由をすべて断ち切ります。どうか……信じてください」 低い声が耳に直接触れ、体が震える。 彼の胸板は温かく、呼吸は落ち着いていて、まるでその温度だけがこの世界で唯一の安心のように感じられた。「レオン……私は……」「大丈夫。ここでは、あなたを傷つけるものは何ひとつ入れません」「……離れたくない」「離しません。どれほど危険が迫ろうと、決して」 腕の力が少し強まる。 その時──。 部屋の結界が微かに軋んだ。 ヒスイは息を飲み、レオンが即座に反応する。「……来ましたか」 冷たく鋭い声。 彼が完全に“監察局魔術官”としての顔に戻った。「ヒスイ、私の後ろへ」 ヒスイをかばうように前へ出て、魔力を展開するレオン。 結界の外側で、何かが蠢いている。 黒い靄のような、闇の塊のような──。「黒幕が、ヒスイの居場所を特定した可能性があります」 その言葉に、ヒスイの心臓が大きく跳ねた。 しかしレオンは微笑む。 強く、美しく、絶対に折れない意志の微笑み。「大丈夫です。あなたが恐れる必要はひとつもない。全部、私が──」 結







