大学四年生の朝比奈瑞希(あさひな みずき)には、誰にも言えない想いがある。 義理の兄であり、外科医として働く朝比奈漣(あさひな れん)。彼にずっと片想いをしていた。 諦めきれず恋心を伝え続けるが、漣は「家族だから」と距離を置く。 そんなとき、同級生から告白され、瑞希は初めて別の誰かとデートをしようとするが……。 「行くな。このまま瑞希が遠ざかっていってしまうと思うと……触れずにはいられない」 義兄の独占欲が、禁断の想いをあらわにする――
View Moreこの世にこんな幸せがあることを、初めて知った。
見慣れた自分の部屋の、見慣れたベッド。
シーツから這い出て上体を起こした私のとなりで、横たわったまま静かに寝息を立てているのは、私がずっと想い焦がれていた人。 清潔感のある短い黒髪も、シャープな輪郭も。 形のいい直線的な眉も、その下の閉じた長いまつげも、思わず指先でなぞりたくなるような高い鼻も、どちらかといえば薄い唇も。 モデルのように整った顔立ちだけど、私はすっかり親しみをもってしまっている。見慣れた場所に、見慣れた『彼』の姿。
日常的に目にしているにもかかわらず、蕩けるような情事の名残りで、私同様、なにも身に着けずに眠るその人を見つめていると、「信じられない」と内心でつぶやかずにはいられなかった。
私はまだ、夢のなかにいるのだろうか? これが現実であるのを確かめたくて、彼の前髪にそっと手を伸ばす。 真ん中に分け目のある、さらさらした髪の感触がくすぐったくて懐かしい。 思えば、この人の髪に最後に触れたのは、ずっと昔のことだったかもしれない。 毛先を遊ぶように撫でたあと、そっと手を離す。 指先からこぼれた髪がぱらぱらと額に触れたけれど、彼はまったく起きる気配がない。 いつだったか、仕事に追われているがゆえに、暇さえ見つければどんなときでも熟睡できるようになったと話していたことが頭を過ぎった。いつもお疲れさま。労いの思いで、額に触れるだけのキスを落とす。
こんなことができるのは、私とこの人の距離感が、かつてなく縮まったおかげ。 ――私……本当に、好きな人と結ばれたんだ。 湧き上がるのはもちろんよろこびだけれど、戸惑いや心細さがゼロだと言ったらうそになる。 本当なら、この恋は少しも報われることのないまま、手放さなければいけなかった。 苦しいけど、つらいけど、忘れる努力をしていたはずなのに……いたずら好きの神様が、最初で最後のチャンスを与えるとばかりに、奇跡を起こしてくれたのだ。 誰よりもそばで感じる彼の温もりは、ドキドキするのに心地いい。 このまま、私たちふたりだけの世界になったらどんなにいいか――なんて、バカげた想像をしてしまう。 私は窓際に視線を投げ、薄く開いたカーテンから覗く外の景色に意識を向けた。 漆黒の夜を抜け、朝を迎える準備をしている時間帯。 私たちの関係は、この夜が明けるまでと約束した。 だからこんな風に髪に触れたり、キスしたりできるのも、あともうわずかだ。 ずっとずっと、大好きだった人。やっと触れ合えた直後に忘れなければならないなんて、あまりにも残酷じゃないだろうか。 でも仕方がない。それでもいいと懇願したのは私だ。 その約束がなければ、ほんのわずかでも彼と満ち足りた時間を過ごすことは叶わなかった。「そう言われても……」 返事に困っている兄の様子が伝わってきたところで、私はふたりの会話をシャットアウトして冷蔵庫を開けた。 なかから、当初の目的通り冷水筒に入ったお茶を手に取ると、食器棚から取り出したタンブラーに注いで、逃げるように自分の部屋に戻る。「はぁ……」 扉を閉めると、私は手にしたグラスの中身をひと口飲んだあと、それデスクに置いて、ベッドに横たわった。 ――またお兄ちゃんの縁談か……。 白い天井の中心で煌々と光るシーリングライトを眺めながら、気持ちがずーんと落ち込んでいく。 年齢的にも、環境的にも、そういう話が舞い込んでくるのは仕方がない。 わかっていても、堪えるものは堪えるのだ。 兄がいずれ、誰かと結婚してしまうことも、その相手が私ではないことも……。 どうにもならないとわかっているからこそ、聞きたくなかったな。 いつの日か耳にするだろう、失恋確定の報せ。 私が知るのは、可能な限り先延ばしにしたいところだ。 でなければ、心が保ちそうにない。 空になったグラスを置きに、再び階下に降りる。 キッチンに入ると、母が食事の準備をしてくれている最中だった。「あら、瑞希。レポートは捗った?」 私に気が付くと、母はにこっと微笑み、そう問いかけてくる。 朝比奈 晶恵(あさひな あきえ)。今年で五十四歳になる、私の里親。 彼女は私と暮らし始めてすぐ「本当のお母さんだと思ってほしい」と言ってくれたので、遠慮なく「お母さん」と呼ばせてもらっている。 看護系の専門学校を卒業後、聖南大学附属病院の看護師として働いていた母は、父と出会い結婚。 以降は系列の別病院に籍を移し、二度の妊娠・出産における休業期間以外はバリバリと働いているそう。 とにかく仕事が好き
三限目が終わると私はまっすぐ自宅に帰り、自室にこもった。 直前の講義で課題に出されたレポートに着手するためだ。 テーマは『感染症マーカーとしてのCRPの有用性と限界』。 三千字程度という字数指定に沿って、まずは内容を自分なりに理解してから構成を決め、それに合わせて論文の検索サイト等で参考資料を用意する。 レポート作成のように集中しながらコツコツとこなす課題は好きだ。 けれど、私は資料の準備に時間がかかってしまいがちなので、来週の提出に先駆けて、それだけでも済ませてしまおうと思ったのだ。 そうすれば、あとは執筆して見直しをするだけなのでだいぶ楽になる。「ふう……」 構成の作成と使えそうな資料探しが一段落ついたので、私はデスクの椅子に座ったままぐっと伸びをする。 手元のスマホを見ると、もう十七時半。 あっという間に、三時間ほども経っていたようだ。 ……喉が渇いちゃったな。 デスクに広げていたノートPCを閉じ、階下に向かうために自室を出た。 すると、階段の下から話し声が聞こえてくる。母と……兄の声だ。 母が今日、非番だったのは知っていたけれど、兄はいつの間に帰ってきていたのだろう。 こんなに早い時間に家にいるということは、当直明けだろうか。 階段を下り、キッチン側の扉から一続きになっているリビングへと抜けて行こうとしたとき――「あの病院長の娘さん、本当に素敵な方らしいのよ。写真を見せてもらったんだけど、かわいらしくて、お育ちもよさそうで」 と言う母の声が聞こえたので、静かに足を止め、息を潜めた。「またその話? 何回目だと思ってるんだよ、母さん」「だって、いいお話じゃないの。先方が漣に興味を持ってくださってるんですもの。あなたももうすぐ三十になるし、そろそろ結婚を考える頃合いでしょう?」
「そうだけど」 学生食堂は安いし便利なので利用したいと思いつつ、高校のころから自分でお弁当を作っているため、今でも可能な限り継続している。「料理、上手いんだな」「えっ? あ……あり、がと」 不意に褒められたものだから、私はもごもごしてしまう。 料理は好きだけど、あまり誰かに自分の作った食事を振る舞うことはないため、純粋にうれしい。 亮介から正面切って褒められたことって、ほとんどなかったから。 「いや、本当に。少なくともこの玉子焼きに関しては、毎日でも食べたいくらい」「毎日って。さすがに大げさすぎない?」 彼にしてはやたら熱心に褒めてくれるのが妙にくすぐったい。 私は「あはは」と声を立てて笑う。「――でも、そうだね。彼氏ができたらそのぶんも作ってあげるとか、ちょっと憧れるかも」 同じ大学や職場でないと実現は厳しそうだけれど、自分が作ったお弁当を食べてもらえて、おいしいと思ってもらえたならうれしいし、作りがいがありそうだ。 もしくは、一緒に住んでいて出がけに渡すとか―― そこまで考えを巡らせたところで、兄の顔が思い浮かんだ。 兄は忙しすぎて、昼食の時間もろくにとれないことがざらにあると聞いている。 お弁当を持って行ってもらって、空き時間に食べてもらえたら、私も少しは兄の役に立てるんだろうか? ……いやいや。奥さんでもないのにそれはやりすぎか。 それに、食事の時間もとれないほど忙しいなら、食べきれなかったときに気を使わせてしまうし。 だいたい、今のこのギクシャクした状態で、兄が私のお弁当を素直に受け取ってくれるとは到底思えない。「なら、瑞希の彼氏に立候補しようかな」「っ?」 私のささやかな夢
「ごめん、席取りありがとう」 数日後、二限目の終わりに食堂へいくと、入り口付近のカウンターに亮介の姿を見つけた。 私はお礼を言いながら、彼の座るとなりの席に、通学用のトートバッグを下ろした。「いや、大丈夫」 それまで手元のスマホに意識を注いでいた亮介がパッと顔を上げ、短く答えて続ける。「――でも、カウンターしか空いてなかった」 しくじったという風に、彼が苦笑する。「全然。今日はふたりだから、テーブル使うのも忍びないしね」 今日はお互い別々の授業だった上に、食堂の棟とは離れた場所での講義だったから、席の獲得に出遅れてしまったのだ。 本来ならば毎週、この時間は三限のみの授業だという翠が早めに到着し、席を押さえてくれることになっているから、慣れていないのもある。「にしても翠、珍しいよな」「いつも元気なイメージだよね。早く熱が下がるといいけど」 今朝届いた翠からのメッセージには、昨夜から発熱して熱が下がらないので今日の講義は休む旨が書かれていた。 私が軽く首を傾げると、亮介は「そうだな」とうなずいた。 亮介とふたりでランチって、初めてかもしれない。 翠はノリがよくて奔放そうに見えて意外と真面目なので、多少の体調不良ならノートのために無理して授業に出るタイプだ。 そんな彼女が休むというのだから、よほど調子が悪いに違いない。早く元気になってほしいものだ。「亮介は今日、なににしたの?」「Bランチのアジフライ。久しぶりに、魚が食べたいと思って」「いいね」 亮介のトレイからは香ばしい、いい香りが漂っていた。 視線を落とすと、大ぶりのアジフライ。この食堂は安価でおいしいものを提供すると評判で、学生のファンが多いのも納得だ。「瑞希はいつも通り弁当?」
「――いい、瑞希。反省なんてする必要ないよ。人を好きになると、誰しも多少なりとは暴走するものなんだから。それがたまたま、お兄さんだっただけ」「いや問題だろ。相手が自分の兄貴だなんて」 またしても冷静に突っ込みを入れる亮介。 翠は、今度は亮介を軽く睨むようにして彼へ視線を飛ばした。「血は繋がってないし、戸籍上も他人なんでしょ? それなら法律的になにも問題ないじゃない」「そうだね、一応……」 私は曖昧にうなずいた。 正確に言うと、私の戸籍上の名前は『朝比奈瑞希』ではない。 これは、私が朝比奈家で快適に生活をするための通称だ。 大学を卒業し、委託里親制度における委託関係が解消されたあとは、戸籍に登録されている『砂原瑞希』として生きていくことになる。だから兄は戸籍上では他人で間違いない。 ただ、法律的に問題ないからOKというわけじゃないのは、私も重々承知していて――「法律的には問題ないかもしれないけど、実質的にはきょうだいなんだから、普通に引くじゃん。……俺は三歳下の妹がいるけど、そういう目では絶対に見られない」「亮介のところは実のきょうだいなんだから、全然話が違うでしょ」 私の懸念点をズバリと言語化してみせる亮介に、翠がムッとした顔になる。 「あ、ごめんごめん。ふたりとも、私のことで揉めないで」 ふたりの言葉の応酬がヒートアップしてきたのを感じて、慌ててストップをかける。 この話題になると、ふたりが口論になるのはよくあることだ。 法律的には障害がないからと私を応援してくれる翠に対して、障害がなければいいという話ではないというスタンスの亮介。 私にとって心地いい言葉ををくれる翠の言い分も、おそらく一般的な回答だと思われる亮介の言い分も、ありがたく受け止めている。 ふ
「……そうだよね。亮介の言う通りだよ」 目の前で少しずつ減っていく中華丼を見つめながら、私はぽつりとつぶやいた。「――自分でもどうしていいかわからなくて、突っ走っちゃったって反省してる。ただでさえ、その気ないってわかってるのに……二度も告白したりして。相手の気持ちを全然考えてなかったなぁって」 兄のことが好き。意識してしまったら、自分のなかに留めておくことが苦しくなった。 だから私は、衝動的に想いを伝えてしまったのだ。 一度目は高校二年の冬。 例によって両親の不在のタイミングで、家にふたりきりだった夜。 当時、研修医になりたての兄には彼女がいて、薄く開いた兄の部屋の扉から、その彼女との会話を偶然耳にしてしまった。 彼女とのやりとりを間近で聞くのはこれが初めて。 私に対する話し声とのトーンの違いに少なからずショックを受けた。 兄は、大切な人にはこんなに甘く柔らかい声で語り掛けるのか、と。 電話が終わったであろうタイミングで、兄の部屋を訪ねた。 私はどちらかというと引っ込み思案なほうで、それまで男性とお付き合いはおろか、告白さえもしたことがなかった。 そのせいか、私が真剣に「好き」だなんて言い出したのを、兄はひどく驚いていたようだった。「瑞希のことは大切だけど、でもそれは家族だからだ」「もう少し周りに目を向けるべきだ。今はただ、恋だと錯覚してるだけじゃないかな」 兄はもっともな理由で私を振った。 それだけじゃなく、高校までを女の園で過ごしていた私の環境を指摘して、恋愛感情そのものが錯覚だと指摘した。 ……そんなんじゃない。私は、お兄ちゃんのことが本当に好きなのに。 けれど、その場では強く言い返すことができず、しばらくそのモヤモヤ
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