※毎朝7時更新※ 没落した令嬢・東条美桜は、夜会で従妹の西条綾音にハメられ、帝都の名門・処女ハンターの桐島京に純潔を奪われてしまう。東条家の没落に関わる京は、口封じのために美桜と結婚。しかし初恋の女性の帰国を聞きつけ、彼の子を身ごもったにも関わらず、結婚もされておらず、捨てられる。 そんな美桜を救ったのは、帝都一の富豪・浅野一成だった。彼は東条家に恩があり、その時の借りを返したいと申し出る。 「僕と結婚しませんか?」 契約から始まる結婚生活。彼の優しさに触れるたび、美桜は少しずつ心を取り戻していく。 そして父の失脚に関わるニセ夫を追い詰める。 これは苦境の中でも美しく生き抜く、美桜の愛と復讐の物語。
View More(もうすぐ春になる…)
東条美桜(とうじょうみおう)は、煤けた竈の縁に膝をつき、灰を集めた後、静かに息をつく。
春の始まりの風はまだ冷たく、荒い木枠の窓から忍び込んでは、台所の灰をさらい上げていく。指先は洗い晒しの麻に擦れて赤く、節々は小さく固くなっている。けれど手つきは不思議に優雅で、灰さえも細雪のように整って見えた。
ここは従妹・西条綾音(さいじょうあやね)の屋敷である。表向きは「身寄りのない親族を引き取ってやった」と人前で言い、内実は、召し使いの数がひとり増えたに等しい扱いだった。
「まだ終わらないの? お客様がいらっしゃるのよ」
背から降る声は冷水のようだ。振り向けば、薄桃の絽の羽織を肩に引っかけた綾音が、扇を細くたたみながら立っている。紅を引いた口元に、うっすらと侮りの笑み。「はい。すぐに」
「はいすぐに、じゃなくて。本当に分かっているのかしら。あの廊下、私の影が歪むの。磨きが甘い証拠よ」
美桜は黙って立ち上がる。廊下板の木目は、磨き続けて飴色に艶が出ている。綾音の靴音は、艶の上で無遠慮に跳ねた。
「その腰のもの、何? 下働きに似つかわしくないわね」
綾音の目はよく見ている。美桜は短く首を振った。「古い飾りでございます。仕事の邪魔にはいたしません」
「邪魔よ。何事も、身の程に合わせるのが美徳だと、教わらなかった?」
扇の先が空を刺す。美桜は視線を落とした。怒りは喉元にまで上るが、吐き出す場所はない。
昼下がりのこと。裏庭に出ると、風が梅の名残り香を運んできた。物干しの白布が空に翻る。布の影に立つと、ひととき陽が和らぐ。
「…生意気」
いつから見ていたのか、綾音が吐き捨てる。白が美しいのではない。美桜が持つ丁寧で令嬢たる気配が綾音の神経を刺すのだ。とにかく美桜が気に入らない。屋敷を追いだそうにも行く当てがない美桜は、自分の虐めにじっと耐え、反抗すらしない。それが愉快でもあり、同時に不愉快でもあった。
夜風がやさしく頬を撫でた。 だがその風の中に、微かな不穏の匂いが混ざっている。 胸の奥がざわめく。何かが迫ってくる。 けれど、それが何かまでは思い出せない。 美桜は椅子に座ったまま、ゆらりと揺れる視界を見つめた。 足元の絨毯が波打ち、壁の装飾がゆがんでいく。「酔ってしまったんだね。少し、休もうか」 京の声が近くで響いた。 その声音は相変わらず穏やかなのに、なぜか恐ろしく感じる 彼が腰を落とし、同じ高さで美桜の顔を覗き込む。 黒曜石のような瞳が、ゆっくりと彼女をとらえる。「やっぱり、綺麗だな」 低く囁く声が耳の奥で溶けた。距離が近い。息がかかる。 その温もりが、まるで毒のように皮膚に沁みていく。
夜風が吹き抜け、遠くの街灯が煌めく。 テラスの欄干越しに見える帝都の夜景は、まるで金粉をまいたように光っていた。「飲み物を取ってくるよ。少し待っていてくれ」「ありがとうございます」 さすがだと思った。女性の扱いに慣れている。 京は少しして戻ってきた。シャンパンのグラスのひとつを美桜の前に差し出した。「美女を前にすると、緊張するな」 優しい声音。 その微笑みに、美桜はほっとしたように笑みを返す。「美女だなんて、そんあことありません」「いや、美桜さんは素敵だ。今日がデビューなんて信じられないよ。ダンスもうまいし度胸がある」「ありがとうございます。こんな華やかな夜会は久しぶりで、緊張しています」「そうか。なら、今日は思いきり楽しんで」
「お断りなんてしないでね。せっかくお声がけいただいたんだから」 綾音が耳元で囁く。 美桜はわずかに息を呑んだ。 京――桐島京(きりしまきょう)は、にこやかに片手を差し出していた。 光沢のある燕尾服に身を包み、黒曜石のような瞳が静かに笑っている。その笑顔には、穏やかさと――何か掴めない危うさがあった。 (この方が、桐島家の御曹司……) 帝都でも指折りの貿易商の息子。美桜の父が経営していた東条工場とも、かつて取引があった。 桐島家は東条の工場に出入りし、作られた日本製品を海外で売っていたからだ。もし、うまく話すことができれば――父の様子や、それがわからなくても、どこかの紡績工場での仕事の口利き相談ができるかもしれない。そんな希望が美桜の頭に浮かぶ。「わたくしでよければ、喜んで」 美桜が小さく頭を下げると京は満足げに微笑み、白い手を軽く取り、そのまま会場の中央へと導いた。 音楽が流れる。 ワルツの旋律が甘く絡み、クリスタルのシャンデリアが光を降らせる。 美桜の裾が風を
馬車の車輪が白い石畳を静かに叩いた。 煌びやかな街灯の列が遠くまで続き、やがて、その先に光り輝く大広間――浅野邸の門が見えた。 帝都一の名門財閥。 噴水の前には、絹と香水の香りを纏った令嬢たちが集まり、宝石が夜の光を跳ね返している。 音楽が聞こえる。バイオリンの旋律、笑い声、シャンパンの泡のはじける音――まるで別世界。 美桜は、喉の奥で息を飲んだ。(懐かしい…けれど、こんなにも遠い場所になってしまった) 父と最後にこういった財閥の夜会を開いてくれる家門をくぐったのは7年前。美桜が13歳の時だった。現在彼女は20歳。 あの日の父の誇らしい背中が脳裏にちらつく。父に借金を押し付け、逃げた友人というのはどこの誰なのだろうか。もし、東条のことを知っている人間なら、なにか手がかりがあるかもしれない。 今さらその犯人を捜しても、父も母も戻ってこない。しかも7年も前の話。誰も覚えていないだろう。「降りなさいよ、美桜」 綾音の冷たい声が降ってきた。
外灯が美桜の輪郭をやわらかく照らしていた。 淡く光沢のある白いドレスが、夜の帳の中で静かに息づいているように輝く。 手入れを施され、縫い直された糸の一本一本が、彼女の生きた証のように光を反射していた。 裾を握る指先、磨き上げた真珠の輝き、結い上げた夜会巻きの髪―― どれを取っても、完璧。だがその完璧さは贅沢でも虚飾でもない。 誇りと努力が、彼女自身を装飾していた。 冷たい風が吹き抜け、背後の街路樹が小さく揺れる。 ひとひらの花弁が舞い、彼女の肩にそっと落ちた。 美しい映画のワンシーンのような光景に、綾音も母も言葉を失った。「あ、あんた……その格好、なに……?」 綾音の声が震える。 足取りは止まり、喉が詰まって息が浅くなる。 その横で母も口を開けたまま、なにも言えなかった。 煤けた下働きの娘――そのはずだった美桜が、今、まるで帝都一の舞踏会に咲く舞姫のように、静かにそこに立って
日が傾き、屋敷の廊下を朱が染めていく。 美桜は手元の針を止めず、ひたすらに縫い続けた。時間の感覚などとうに失われていた。ただ、無心に手を動かした。 綾音とその母の笑い声が、何度も耳の奥で反響していた。 ボロを着て笑われる自分を想像して笑っている声。 彼女たちは知らない。 この指が、かつてどんな高級品を縫っていたのかを。 この糸が、どれほどの名家の夫人を飾ってきたのかを。 東条の娘として、父の背中を見て育った。絹を選ぶ眼、糸の感触、縫い目の美しさ。 どんな高価な宝石よりも、布を愛した父。 ――その父の誇りを、見せる時。 針の音が強く鳴る。 布の上を走る糸は、まるで彼女の決意を描くかのようだった。 ようやくドレスの補修が終わったのは、日が沈み、提灯の灯が並ぶ頃。 美朗は夜会で母が簡単にセットをしていた様子を思い出し、鏡の前でやってみた。 手先が器用な彼女は、すぐに『夜会巻き」を完成させてしまった。 鏡の前に立って、己の姿を映し出した。 美しく輝く白の色布が肌を透かすように光り、縫い直した部分の刺繍が花のように浮かび上がっていた。 袖口には新しいレース。母が残した糸で丁寧に縫い付けた桜の模様が、光を浴びて咲き誇る。 補修のドレスはなめらかな手触りはもちろんのこと、その質の良い上品な光沢のある白、装飾品は美しく磨いた真珠。最高のドレスへと生まれ変わっていた。 美しい美桜によく似合うドレスで、痩せた彼女のみすぼらしさよりも、内面から輝く美しさを助長していた。 (急がないと置いて行かれちゃう) 業者の傍にいたら、外聞を気にする彼女たちはあからさまに自分へ嫌がらせはできない。そうすれば追い出されることもないだろう。美桜は彼女たちが来る前に、急いで外へ向かった。 一方、綾音とその母は、自室で着飾り、鏡の前に立っていた。「まぁ綾音、お人形さんみたいに綺麗よ」 派手に膨らんだドレスは、真っ赤で情熱的な赤色だが、見ようによっては少々下品にも見えた。 「ふふ、ありがとう。美桜があのボロ布姿で並んだら、余計に私が映えるわ」「ほんと」「使えるものは使わなきゃね~」「使用人でも夜会に行ける機会を作ってあげたのだから、感謝してもらわないとね」 そんな風に愉快に話していると、玄関の外で、馬車の車輪が軋む音がし
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