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結婚式の誓いの言葉の最中、瀬谷蓮(せや れん)の会社に所属する駆け出しのインフルエンサーから、泣きじゃくる電話がかかってきた。 「社長、うちの扇風機壊れちゃって、回るだけで風が来ないんですぅ。直しに来てくれませんか?」 電話を切るなり、ためらうことなく外へ駆け出そうとする蓮を、私は呼び止めた。 「今日、このドアから一歩でも外に出たら、私たち完全に終わりだからね!」 彼は怒ったように振り返った。 「莉愛は一回の配信で二千万円以上の投げ銭を稼ぐんだぞ。この盛大な結婚式だって、彼女が稼いだ金でやってるんだ。普段から彼女を毛嫌いしてるのは百歩譲って、会社の金の生る木を潰す気か?」 しかし、結城莉愛(ゆうき りあ)が私たちの結婚式を台無しにしたのは、これが初めてではない。 一度目は、結婚式の会場で倒れたふりをした。 蓮は慌てふためいて彼女を病院へ運び、結婚式は中止になった。 二度目は、結婚式へ向かう途中で交通事故に遭った。 ただの擦り傷だったのに大げさにICUに入った。蓮は私を放り出してすぐに病院へ見舞いに行った。 つい昨日、蓮は私に約束したばかりだった。 今日は莉愛に仕事の配信を入れさせたから、私たちの結婚式には指一本触れさせない、と。 それでも、彼は行ってしまった。
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婚姻届を出すその日、私は朝から夕暮れまで民政局で待ち続けていた。 藤原蒼真(ふじわら そうま)は初恋の女と一緒に登山へ出かけていた。 私は十数回電話をかけたが、すべて秒で拒否された。 二十回目の呼び出しで、ようやく彼が出た。 「一日会えないだけで、何十回も電話してきて……まるで命を削るようだな。お前、どれほど男に飢えているんだ!」 「結菜の心臓がまた悪くなったんだ。俺は病院で付き添わないといけない。婚姻届の件は、また今度にしよう。」 ――恋愛十年。これで百回目だった。 蒼真が一方的に私を民政局の前に置き去りにし、結菜を優先するのは。 百一回目、彼はメッセージを残してきた。 【妻へ、十時に民政局で会おう】 私は鼻で笑い、その通知を無視して国外行きの飛行機に乗った。 藤原蒼真――今度こそ、私はもうあなたを要らない。 いつも冷静だった男は、私が去ったと知ると狂ったようになった。
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「橘先生、たった今離婚協議書を送信しました。これは私と夫が結婚した初日に交わしたものですが、何か問題はありますか?」 浅羽結衣(あさば ゆい)は大きな掃き出し窓の前に立ち、無意識にスマホの縁を指でなぞっていた。 「浅羽さん、協議書は確認しました。問題ありません」 電話の向こうから弁護士の事務的な声が聞こえてくる。 「あと1ヶ月で3年の期限を迎えます。期限が来れば協議書が自動的に有効になりますので、そのまま役所に離婚届を提出すれば手続きは完了です」 「分かりました。ありがとうございます」 電話を切り、結衣は壁に飾られたウェディングフォトを見上げた。 写真の中の結衣は純白のウェディングドレスに身を包み、満面の笑みを浮かべている。 しかし、その隣に立つ蒼介は、パリッとしたスーツを着こなしてはいるが、微塵も笑みを浮かべていない。 愛しているかいないかは、一目瞭然だ。 「ようやくこの日が来る。あなたもきっと喜んでいるわよね」 結衣は小さく呟き、写真の中の男の冷ややかな横顔を指先でそっとなぞった。
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「真実か挑戦か」のゲームの最中、彼氏・衣斐久志(いび ひさし)は、幼なじみ・小笠原香里(おがさわら かおり)が罰を受けないようにと、彼女と三分間も熱いキスを交わした。 そのことを知った私は激怒し、大騒ぎしながら泣いて久志に電話をかけ、彼が香里と親しすぎることを訴えた。 彼は黙ったまま、しばらくしてようやく冷ややかな口調で言った。 「泣き終わったか?」 その後、彼は香里を家まで送った。 私は雨の中でしゃがみ込み、周囲の傘の下に隠れるカップルたちを見つめている。その日以来、久志に連絡を取ることは二度となかった。 それから三か月後、私はオークションで男性用の腕時計を一つ落札した。 久志はそれを知って、軽く笑った。 「まあいい。あと三日待てば、俺が直接彼女をなだめて連れ戻してやるさ。 彼女に逃げ場を作ってやらなきゃな」 彼の友人たちも次々とメッセージを送ってきて、私が久志を手玉に取ったことを祝った。 私は一切返信せず、ただインスタに投稿して、結婚したことを発表した。
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東都市にその名を轟かせる浅井家と松永家は、代々続く宿敵同士だ。 浅井家には、決して松永家の人間と縁組をしてはならない、という家訓まである。 それなのに、浅井家の跡継ぎである浅井龍一は、あろうことか松永家に残された一人娘、松永清良に恋をしてしまった。 彼女と結ばれるため、彼は相続権を放棄し、家法として三十発もの杖刑を受け、血を吐きながらも三日三晩、祠堂で跪き続けた。それでも龍一は、清良に向かって微笑んだのだ。 「心配すんな。誰にも俺たちが一緒になるのを止められないさ」 その後、浅井家はついに折れ、二人が駆け落ちすることを認めた。ただし、一つだけ条件を付けた。 それは、龍一が、彼らの選んだ嫁候補・水野美佐子との間に跡継ぎをもうけること。 松永家の人間には、浅井家の子供を産む資格などない、というわけだ。 その日から、龍一が清良に最も多くかけた言葉は、「待ってろ」だった。
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夫の高城智哉(たかぎ ともや)は浮気相手と喧嘩するたび、決まって私のもとへ戻ってきては愚痴をこぼした。 「お前が彼女に土下座して謝れば済む話だろ。お前が娘を連れてあいつの前をうろついたせいで、機嫌を損ねたんだから」 彼は笑みを浮かべ、冗談めかした口調でそう言った。 けれど、それが本気だと知っているのは私だけだった。 以前、私が謝るのを拒んだとき、彼は私の猫を捨て、母の治療費も打ち切った。 私は何度も耐えた。娘に欠けることのない家庭を与えたいと、ただそれだけを願っていたから。 けれど昨日、彼はわざと娘にアレルゲンを口にさせ、娘は私の腕の中で意識を失った。その瞬間、私は完全に心が冷えきった。 智哉は、黙り込む私を見て、私が嫌がっているのだと思った。 叱りつけようと口を開きかけた彼に、私はそのまま離婚協議書を差し出し、静かに言った。 「土下座なら、彼女ももう見飽きているでしょう。私たちが離婚したほうが、きっともっと喜ぶわ」 智哉は意外そうに眉を上げたが、その目には得意げな色が浮かんでいた。 「ずいぶん聞き分けがよくなったな。自分から俺を喜ばせる方法まで考えるなんて」 私は言い返さなかった。 ただ、いっそう思いやりのある笑みを浮かべただけだった。 私だけが知っている。自分は彼を喜ばせたいのではない。 本当に、もう彼をいらないと思っているのだ。
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篠原雅人(しのはら まさと)に抱かれる、最後の夜。 吉沢美空(よしざわ みく)は、いつになく激しい彼の衝動を全身で受け止めていた。 ふと、雅人の薬指にはめられた指輪が目に留まる。その瞬間、数日前に耳にした噂が脳裏をよぎった。 ――篠原グループの社長である雅人が、白川家の令嬢・白川玲奈(しらかわ れな)と結婚するらしい。 そのことが頭から離れず、ぼんやりと意識をさまよわせていた美空。そんな彼女の様子に気づいたのか、雅人は指先で顎を持ち上げ、有無を言わせぬほど深く長いキスをした。 息もできないほどの口づけに、美空の思考は次第に溶けていった。何も考えられなくなった彼女を見下ろしながら、雅人はそっと一枚のキャッシュカードを取り出し、彼女のブラジャーの中へと滑り込ませた。 「来月、俺が結婚するんだ。もう終わりにしよう」 美空は素直に頷いた。 「分かりました」 泣きもせず、騒ぎもせず、あっさりと受け入れる彼女を見て、雅人は不思議そうに眉をひそめた。 「本当に……いいんだな?」 美空は小さく笑い、首を縦に振った。 「はい」 心の準備なら、とっくにできていた。 2人のことを知っている人なら、みんな分かっていた。美空は、誰より雅人を愛していることを。 18歳の頃から彼の仕事を手伝い、大学を卒業すると同時に篠原グループに入社し、彼の秘書になった。 昼間は仕事で彼を支え、夜は彼の遊び相手になった。 危険が迫れば真っ先に飛び出して彼をかばい、酒の席では彼の代わりに酒を飲んだ。 それだけではない。美空は、彼の好き嫌いを記録した手帳を3冊も作り、いつも持ち歩いていた。彼が視線を送ってくるだけで、その意図を汲んで動くことができた。 そんなふうに、美空は7年間も雅人に尽くしてきた。 最初こそ、周囲から「身の程知らずの片思い」と笑われたが、次第に彼女の覚悟と努力が認められ、いつしか、からかうように笑っていた人たちまで、「まだ結婚しないの?」と尋ねるようになっていたのだ。 だからこそ、誰もが驚いた。 美空が、雅人がほかの女性と結婚することを、あっさり受け入れたなんて。 当の雅人でさえ、彼女の反応は予想外だった。 けれど、誰一人として知らなかった。 1週間前、美空は両親と約束を交わし、故郷に帰ってお見合いをすることを決めていたのだ。
明月が一度も来なかった
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不倫
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飛べないライスヌードル
小林芽依(こばやし めい)が浅間深志(あさま しんじ)と結婚して五年。二人の間には息子も生まれ、芽依はこの穏やかな家族の形がずっと続くのだと信じていた。だがある日、白坂夏寧(しらさか なつね)が帰国したことで、芽依は自分がこの家にとって不要な存在であると思い知らされることになる。深志は事あるごとに芽依を放り出しては夏寧の元へと駆けつけ、あろうことか、お腹を痛めて産んだ息子の浅間風初(あさま ふうい)でさえ夏寧ばかりに懐くようになってしまったのだ。どう足掻いても、もう自分の居場所なんてどこにもない。――でも、それならそれで構わない。なぜなら、この関係の始まりはただの契約に過ぎなかったのだから。あと七日。残された一週間が過ぎれば、芽依はこのかりそめの結婚から、完全に解放される。
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マンゴー
飛行機がトラブルで急降下した、暗闇の8秒間。最初に頭に浮かんだのは、私が帰らなかったら、空港で待つ北条亮太(ほうじょう りょうた)はどんなに悲しむだろうか、ということだった。 ところが、九死に一生を得て、なんとか着陸した私が目にしたのは、亮太のインスタにアップされた写真だった。幼馴染の内田結衣(うちだ ゆい)と、楽しそうに山登りをするツーショット。そして、短い一言が添えられていた。 【60歳になっても、こうして君とはしゃいでいたいな】 今までの私だったら、たぶんすぐに電話をかけて亮太を問い詰めて、大げんかになっていたと思う。 でも、死を身近に感じた今、なんだかもう疲れちゃった。 私はメッセージを送った。【離婚しよう】と。
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会社の飲み会で、彼氏の木下千明(きのした ちあき)はわざわざ隣の商店街にあるタピオカ店まで遠回りして、フルーツタピオカミルクティーを二つ買ってきた。 一つは向かいに座る私の親友・佐倉双葉(さくら ふたば)へ、もう一つは、私・上野真琴(うえの まこと)の前に置かれた。 双葉は嬉しそうに笑った。 「ありがとう。千明、やっぱり優しいね。 私、胃が弱いから、氷なしじゃないと飲めないの。 ちゃんと覚えててくれたんだね」 私は目の前に置かれたドリンクを見つめ、何も言わずにそっと千明のほうへ押し返した。 「どうした?」 千明が何気なく尋ねる。 「私、マンゴーアレルギーなの。忘れたの?」 千明は一瞬言葉を失った。だが、次の瞬間、大したことではないように笑った。 「そうだな。じゃ、マンゴーの果肉だけ避けて飲めばいいじゃなん」 なんでこうなったのだろう。双葉はパクチーとネギを食べないこと、タピオカミルクティーはいつも甘さ25%で、氷が入っていないものしか飲まないことは、彼はちゃんと覚えている。 私はマンゴーを少し口にしたら呼吸が苦しくなることは、彼にとっては、「避ければいい」程度のことだ。 大切にされる人でなくなったら、命に関わることさえ、軽く扱われてしまうものなのだ。 帰り道、車の後部座席に座っていた私は、二人のよく似合った後ろ姿を眺めながら、心が軽くなった感じを覚えた。 アレルギーのことすら覚えてもらえない恋なら、もう、いらない。
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婚約パーティーまで、あと1週間。突然の交通事故が、私・森川美由希(もりかわ みゆき)の幸せな未来への夢を打ち砕いた。 藤崎遼平(ふじさき りょうへい)は頭にけがを負い、婚約者である私のことだけを忘れてしまった。 よろめきながら病室へ駆けつけると、彼はかつての想い人を抱き寄せたまま、ボディーガードに私を追い出すよう命じた。 「どこの目の見えない女だ?俺の婚約者をかたるなんて、いい度胸だな!」 目の見えない女? 彼が忘れたのは、愛していた相手が私だということだけじゃない。 その左目の角膜が……私のものだということまで、忘れてしまったのだ。
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私と夫は、どっちも嘘つきだ。 彼は「初恋なんて忘れた」なんて言いながら、スマホの中はあの人の写真ばかり。 私は「絶対に離れない」って言いながら、彼のいない未来を用意してた。 一か月前、私は夫に離婚協議書へサインさせた。 今日は、そのカウントダウンの最終日。 カウントダウン、残り三時間。荷物は全部まとめ終わった。出国のチケットも、もう手元にある。 カウントダウン、残り二時間。二人で撮った写真は全部切り抜いて、アルバムには私だけ。 カウントダウン、残り一時間。彼に残す、最後の動画を撮った。 「亮。今日で、あなたを愛して十年。そして、あなたから離れる一日目」
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マリモ
瀬崎湊人(せざき みなと)と結婚してからの五年間、私――瀬崎結月(せざき ゆづき)は自分の誕生日を祝ったことがない。 なぜなら私の誕生日は、彼の幼馴染である雨宮莉愛(あめみや りあ)の母親の命日だから。毎年この日になると、湊人は必ず彼女に付き添って墓参りへと向かう。 それどころか、湊人は私が誕生日を祝うことを許さず、笑顔を見せることすら禁じていた。 「少しは莉愛の気持ちを察してやってくれ。母親の命日で、あいつは今とても傷つきやすい状態なんだ。落ち着いたら、その時にお祝いしよう」 友人たちが気遣わしげに「お祝いしようか?」と聞いてくれるたび、私は無理に笑って「また今度にしよう」とやり過ごすしかなかった。 来年こそは、今度こそは――そんな彼の口約束が果たされることは、一度もなかった。 そして迎えた今年も、湊人は喪服に身を包み、慰霊式へ向かう準備をしていた。 その矢先、私の家族がわざわざ注文してくれたバースデーケーキを目にするなり、彼はそれを床へ無惨に叩きつけたのだ。 「ケーキなんていつでも食えるだろうが。なんでわざわざ今日なんだよ、そんなに食いたいのか?」 ぐちゃぐちゃに散らばったケーキを残して、家を出ていく湊人。 私は何かに突き動かされるように、ふらふらと彼の後を追った。 辿り着いた墓地で目にしたのは、自らを「莉愛の夫」であり「亡き義母の娘婿」だと周囲に名乗る、私の夫の姿。 非の打ち所のない献身的な男を演じる彼を見た瞬間、私の中で張り詰めていた糸がプツリと切れ、どっと深い疲労感が押し寄せた。 私は静かに歩み寄り、左手の薬指から結婚指輪を外した。 「湊人。私たち、もう離婚しましょう」
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狼天薄雲
「神田さん、当施設にてご予約いただいていた偽装死サービスにつきまして、すべて手配が完了しております。 こちらが契約書になりますので、ご署名をお願いいたします」 神田星奈(かんだ せな)は、自分の目の前に差し出された契約書に目を通した。 【委託者:神田星奈 死亡方法:山頂からの転落、野獣による食害、遺体は完全に消失 死亡予定日:一週間後】 一週間後――それは、彼女と神田雅臣(かんだ まさおみ)の結婚五周年の記念日。 そして、彼女が綿密に計画した、偽装死で彼のもとを去る日でもあった。 始まりがこの日なら、終わりもこの日でいい。
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花散る樹
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静かなる水の舟
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逆転
桐谷
妻の津守春加(つもり はるか)は、もともと夜の営みには淡白なほうだった。時間にも、几帳面すぎるほど厳しい。 今日も、そうだった。 行為の最中、彼女のスマホが震えた。画面には、彼女が特別な愛称で登録している相手からの着信が表示されていた。見なくても、誰からなのかは分かっていた。 耳に押し当てた電話口から、彼女の秘書、永沢光司(ながさわ こうじ)のすねたような声が漏れてきた。 「社長……夢に社長が出てきたんだ。胸が、苦しくて」 その一言で、春加は迷いなく俺から体を離すと、服を身につけて起き上がった。 俺、津守慎吾(つもり しんご)は唇を噛み、とっさに彼女の腕を掴んだ。 「もうこんな時間だぞ。まだ、途中……っ」 「光司はひとりであそこにいるの。頼れる人もいないわ。私は彼の上司なんだから、放っておけないでしょう」 こちらを見もせず、春加は静かに腕を振りほどいた。そのまま鏡へ向き直り、口紅を引き直す。 「今日のノルマは、これで終わり。 足りない時間は、また今度埋め合わせるから」 俺は息を呑んだ。 そうか。俺たちの間にあったものは、彼女にとって最初から「ノルマ」でしかなかったのか。 春加が出て行ってから間もなく、光司からメッセージが届いた。 添えられた写真には、春加の肩にもたれかかる彼の姿が写っている。 【慎吾さん、本当にごめん。ただ、失うのが怖くて仕方なかったんだ。今度こそ、社長にちゃんと埋め合わせしてもらうから。 今日のところは、疲れてるだろうから、おもちゃで我慢しといて】 最後まで読んでも、俺は一言も発さなかった。 起き上がり、無言のままシャワーを浴びる。シーツを剥ぎ取り、ゴミ箱へ放り込んだ。 新しいパジャマに袖を通しながら、俺は心の奥底で静かに決めた。 春加はもう、いらない。
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